マクロの労働とミクロの人生設計での齟齬・乖離について。
一般論ではなく、私個人の意見。
私の父は75歳で他界し、その数年前から認知症の症状が出始めていた。
先日のギズモードの記事では、人間の自然寿命は元々38歳である、としていた。
A New Study Shows An Animal’s Lifespan Is Written In DNA — For Humans, It’s 38 Years
https://www.gizmodo.com.au/2019/12/a-new-study-shows-an-animals-lifespan-is-written-in-dna-for-humans-its-38-years/
また、日本の年金については、最初55歳で受給開始で社会制度がスタートしたが、それが60歳となり、今では65歳受給開始、そして現時点で議論されるのは、将来的に70歳受給開始を目処に制度を組み替え直すことである。
一方、米陸軍では38歳から年金が受給開始となる(そして宝くじが当たった時のように、名前も知らない遠くの親戚から電話がかかってくるという)。
様々な観点から導かれるのは、今ある議論でも不十全だということだ。社会はまだ課題を抱えている。
人が一生を平穏に送れるだけの収入の保証(社会水準維持のための運用)と補償(実態的な損失を埋める運用)と保障(セーフティの整備と実装と実際的適用)がなければいけない。
私の知り合いの在日韓国人の人が「私は一人っ子で、兄弟が欲しいなあとは思ったのですが、今なら親の気持ちがわかります。沢山子供を作ろうにも経済的な限界があるのです」と言っていた。
「40で引退できるように社会を設計した方がいい説」と言う突拍子も無いタイトルになったが、現在の人間のDNA設計と社会運用と割り当てられる年金の比率には乖離がある。社会運用に齟齬が生じており、それを埋めなければならない。