とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

乙武氏「「また次のターゲットが見つかった!」と言わんばかりに喜々として怒る、不思議な社会。」

2017-01-21 23:53:08 | 報道

乙武 洋匡 認証済みアカウント
‏@h_ototake
https://twitter.com/h_ototake/status/822441733023596544

「また次のターゲットが見つかった!」と言わんばかりに喜々として怒る、不思議な社会。


1.おまいう(お前が言うな)という。
  食事を取ろうとして、建物二階にあるお店に行こうとしたら、階段を車椅子で運ぶサービスをやっておらず、断られた! という話を話題にしていましたが、お店の側にも提供できるサービスに限度があるのですよ。
  公共サービスでそういうことがなっていなかったら、それはどんどん声を挙げていくべきですけれども、個別の店に対してはそれは言うべきではなかったように思う。そういうターゲットを見つけて攻撃していたのは乙武さんご本人ではなかったかな。

2.あと乙武さんに同意する部分もあって、こうしたスキャンダラスな話題づくりで世間の話題をかっさらうようになったのはここ数年でそれ以前は無かった。
所謂、「キセキの世代2014~2017」と呼ばれるやつで、2013年以前はそれが無かったから、週刊誌の活躍(暗躍)というムーブメントが興隆しているのは、以前からあったものではなかった(芸能スキャンダルの形式は今までにあったけれども、どうにも月イチでターゲットを絞っているように見える)。以前までは、世間の好奇の目と言うのは政治スキャンダルに目を向けられいたが、それが回避されているような気がしてね・・・

3.あと五人以上も不倫していた乙武さんはこの件について怒る権利ありません。

4.障碍者を正面きって反論したり、健全に批判できるようになったというのは良いことであると思う。
  単に社会から擁護されるだけの存在から、批判をいっぱしに浴びる、普通の人として捉えられるようになったのだから、障害者という面での認識において、日本という国は良い方向に向かっている。
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二つの言葉の語用と語彙

2017-01-21 23:06:04 | 文章・日本語・言葉
使用語彙の適用範囲がおおよそ同じくらいの複数の言葉の中で、意味が部分的に重複していたり、あるいは完全に内包するケースがある。

具体例として「ご飯」と「米」を挙げてみよう。
「顔色悪いよ? ご飯食べてる? 」と言うと、大抵、三食での日常的な食事を取っていることを示す。

この「ご飯」を食べるに当たって、それではいただきますと言ってからさあ食べるか、となった時、
「ご飯がおいしい」と言う場合には、食事と米食の両方を指すが、
「おかずと一緒に食べるご飯が美味しい」というケースでは、完全に食卓に出て、茶碗に盛られている、炊けた米のことを指している。
同じ言葉であるが、その意味と適用範囲が、その使用ケースやシーンによって、指す意味と範囲が異なってくるのである。

同様に、「お天気の日には外を出て」と「雨の日は家にいて」という具合に、厳密には、晴れ、雨、曇り、雪、カミナリなどの天候事情全般を「天気」とは言うが、それ単体で使用された場合、晴れていることのみを指したりもする。

こんな具合で、複数の言葉が、現実の事象の各範囲に、重複したゾーンを持ちながら使用されているのである。
青と言えば、青緑や群青、青紫、シアン、水色と、青にまつわる色のその群を指すが、「青」単体でも明確な色を指定できてしまうのと一緒なのかもしれない。
つまり青という資格認識のジャンルが決まって、それにまつわる色、あるいはそれ周辺に附随する色というものが便宜的に「広い意味での」青と呼ばれる。
日本で通義的に使用されうる範囲としては、「青々として」という言葉にあるように、その言葉は緑色の範囲まで含んでいた。緑は代表の色の各ではなかったのだろう。
「青い」「赤い」「黄色い」「黒い」「白い」があるが、「緑い」「桃色い」「ピンクい」が無いのと同様なのではないか。
語義と使用範囲と色の既定の語用的決定は、その社会での自然発生的に使用される語義の規定と定義に依存する。
過去の日本においては、「春は萌え夏は緑に紅のまだらに見ゆる秋の山かも(万葉集)」という話で、緑の概念は青と区別はされていたが、語用としては、「何となく青の親戚さん」くらいの立ち位置であったのだろう。

同様に、英語でもそれらを疑われるものがあるが、「freedom」と「liberty」である。
両方とも、日本語では自由と訳され、自分の意のままにできる、勝手きまま、わがまま、拘束を受けない、という意味が混濁して使われる。
英語ではこれらが区別されるようだ。

私は、私自身の中での仮の定義として、freedomを、社会における行動の無限方向性の保証、libertyを、社会からの抑圧からの解放としている。
例えば、旧ソの経済学者が「資本主義はシステムとして素晴らしい一側面もある」と言い出して、投獄、乃至はシベリアへ流刑されたとしよう。
彼は、裁判の末に無実を勝ち取り、牢獄から戻ってきた。その後、自由に研究が出来た、となると、社会的な無実を勝ち取って、牢獄から出られたのがliberty、その後、社会の中でも堂々と自由に研究が出来るのがfreedomではないかと見ている。

ただ、英語圏でも、「ご飯」と「米」のように、明確にこの両者は使用範囲の区分け区別がついていないようである。
よって、私はlibertyとfreedomの詳しい語用と説明が欲しいのだが、どうにもいつも上記のご飯の用例のような、具体的な使用シーンについてはぐらされているような気がするのだ。それはケースバイケースで、特にどちらをどこで使うか定義されていません--というように。
あるいは言語化ができないのか、定義ができないのか、はたまた、こういう話が面倒なのか--。
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テセウスの船

2017-01-21 02:57:31 | 哲学・社会

テセウスの船 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%BB%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%AE%E8%88%B9

テセウスの船(テセウスのふね、英: Ship of Theseus)はパラドックスの1つであり、テセウスのパラドックスとも呼ばれる。ある物体(オブジェクト)の全ての構成要素(部品)が置き換えられたとき、基本的に同じである(同一性=アイデンティティ)と言えるのか、という問題である。

プルタルコスは以下のようなギリシャの伝説を挙げている。

テセウスがアテネの若者と共に(クレタ島から)帰還した船には30本の櫂があり、アテネの人々はこれをファレロンのデメトリウスの時代にも保存していた。このため、朽ちた木材は徐々に新たな木材に置き換えられていき、論理的な問題から哲学者らにとって恰好の議論の的となった。すなわち、ある者はその船はもはや同じものとは言えないとし、別の者はまだ同じものだと主張したのである。

プルタルコスは全部の部品が置き換えられたとき、その船が同じものと言えるのかという疑問を投げかけている。また、ここから派生する問題として置き換えられた古い部品を集めて何とか別の船を組み立てた場合、どちらがテセウスの船なのかという疑問が生じる。
ヘラクレイトスの川

ギリシャの哲学者ヘラクレイトスはアイデンティティーに関して独自の視点を持っていた。Arius Didymus は次のような彼の言葉を引用している[1]。

人々が同じ川に入ったとしても、常に違う水が流れている。

プルタルコスもヘラクレイトスの言葉として同じ川に2度入ることはできないという主張を引用している[2]。
おじいさんの古い斧
「おじいさんの古い斧(Grandfather's old axe)」とは、本来の部分がほとんど残っていないことを意味する英語での口語表現である。すなわち、「刃の部分は3回交換され、柄は4回交換されているが、同じ古い斧である。」この成句は冗談として、明らかに新しい斧を掲げて「これはジョージ・ワシントンの使った斧で…」などと使われる。

方丈記の冒頭「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」は、河の流れはずっとそこにあるが、その水は同じものではない、という描写であり、この議論に通じるところがある。

テリー・プラチェットのディスクワールドシリーズの小説 "The Fifth Elephant" では、テセウスの船のパラドックスが扱われている。持ち手と刃が定期的に交換される斧が登場し、登場人物たちはこの斧が物理的には同じではないが、感情的には同じであると考える。ディスクワールドシリーズにはヘラクレイトスへのオマージュとして Ank-Morpork という街にある River Ankh は唯一の2度渡ることのできる川とされている。

アイザック・アシモフのロボットシリーズとファウンデーションシリーズをつなぐ鍵であるR・ダニール・オリヴォーについて、1986年の『ファウンデーションと地球』では、脳も含めた全ての部品が何回か交換されており、脳については6回設計が変更され、新たな記憶領域が追加された、という設定で登場する。

ダグラス・アダムズの『宇宙の果てのレストラン』では、ロボットのマーヴィンも同様のことを言っているが、左半身のダイオードは元のまま残っている。

フランシス・フォード・コッポラの『地獄の黙示録』で後に追加されたシーンでヘラクレイトスの川についての言及がある。

Roxanne: "Do you know why you can never step into the same river twice?"(何故、同じ川に2度入れないか知っているか?)
Willard: "Yeah, 'cause it's always moving."(ああ、常に流れているからだ。)



下記は私からの回答である。

答えはノー。物質が存在すると、それがあたかも変化しないように見え、人の社会はそこに固定した固着の定義を見出そうとするが、そうではない。
物事は必ず変化する。木や、木の加工品は必ず朽ちていくし、生命は生死を繰り返し、そこにある石でさえも、転がって欠けるなどして変化をしていく。
そうであろうとする様態、つまり、ヒトたるホモ・サピエンスが20万年前より、生死を繰り返しながら同じ二足歩行で手が使え、言葉を発して道具を使うという生物がいるのは、誕生、成長、繁殖、死亡という短期的な変化のサイクルを繰り返しながら、長期的には同じ様相を為している。

この短期的変化と長期的無変化を同一視し、混同している感覚こそが、このパラドックスの元なのだ。
パラドックスとは言いつつも、結果としては、単に人間の誤認、混同が元になっており、パラドックスでも何でもない、といのが私の答えである。
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トイレの水漏れを修理

2017-01-21 02:48:34 | 最近の出来事
トイレの水漏れを修理した。

止水栓のパッキンが老朽化したらしく、そこから水がポタポタと漏れるようになってきた。もれるのは便座に座った時のみである。
さて、ここで業者を呼ぶのもお金がかかるし、さりとて至急の用ではないし、修理も面倒だ・・・

とは思ったものの、「トイレの水漏れの修理の一つができない人間がこの先の荒波を越えていけるか」とも思ったので、意を決してウォーターポンププライヤーという工具を買って家に戻ってきたのである。
ちなみに「意を決して」そういうのを買うという時点で、私という人間はダメだと思う。こういうのは、息を吸って吐くようにするするとそういうのができないと。
新しいことをやるということは、経験値を高めることである。それがトイレの水漏れ修理でも。

本来であれば、水の元栓を締めてから、バケツを持ってきて栓を外してパッキンを替え・・・という面倒な作業になるのだが、締めるだけで水漏れが直るならそれに越したことはない。
ということで、パッキンも新しいのを買ってきたが、チョイときつく締めればもしかして水漏れが直るか? とも思ったので、0.5mmほど締める方向に回す。

結果、完全に直った模様。いままで12月の末からこころを煩わせていたトイレの水漏れは、わずか1500円のプライヤーと、0.5mm程度の作業で完全回復したのであった。

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ワイ、終わった・・・

2017-01-21 02:32:51 | 雑感
色々と終わった・・・

いや、これが新しい始まりなのかもしれん。
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