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とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

私の子供の頃の年賀状

2021-12-19 10:35:34 | 思い出
年賀状デザインを見ると、その人がどういう映像センスがあるのかというのが分かる。

思い出話になるが、私の子供の頃の年賀状は自分の手書きだったのだが、これがもう自分の好きなものをフルコースでところせましと書き込んでいくスタイルで、全体構図とか人の読みやすさとか全然考えていなかった。

バイキングであの中くらいの皿にパスタとからあげとケーキを盛り盛りに盛ってしまうあれで、ミニマリズムの対極とも言えるものであった。

人を殴れないと言う運命的授かり

2021-12-11 00:42:26 | 思い出
私は人に3回ほど暴力を奮ったことがある。

一方で、人を殴ろうとする時に何か後ろに磁石がついているかのように、体の動きが無意識に止まる。
なぜ私は人を殴れないのか。なぜ緊急事態の時に体が止まるのか。
小学生の時分、私自身は自分で自分のことを疑問に思った。私は根性なしなのだろうか、と。

私は大人になった後、おおよその答えを知る機会があり、私自身の理解を整理した。
あれは生物的本能であったのだ、と。

ヤマネやその他の被捕食動物は、上空に猛禽類を認めるとその動きを止める。
動かないとエサとして認識されないからである。
ヤマネはそのようにDNAに対して行動がプログラミングされている。

また、オオカミは腹を見せた同類を決して攻撃しない。
これもまた、DNAに対して行動がプログラミングされている。

恐らく私はそのプログラムが発動していたのだ。
私はこの意味で正常であった。
一方で、そうでない行動をする人間はどうであったのだろう。
そうした抑制のプログラミングが働かない異常者であったのではないだろうか。

無意味なサディズムが本当嫌

2021-12-11 00:36:49 | 思い出
私自身暴力を奮ったことがない、とは言わない。
3回ほど暴力を奮ったことがある。その上で書く。

幼少期のことを振り返るに、無意味なサディズムが本当嫌だった。
尚、家族に暴力を振るわれたことはない。

ただ、小学校時代にはそういうことを好む人間で学校が覆われていた部分があったのは確かだ。
なぜ人は人にダメージを負わせることを好んで行うのだろう? 
なぜプロレスが流行るのだろう? 
なぜ人に屈辱を与えることを娯楽として認識するのだろう? 
私には全てが謎だった。
もう少し、一般的に理解されないことを書けば、ドッヂボールも謎だった。
なぜあの過度に痛みを伴う球技が推奨されてもてはやされるのか? 
子供のエネルギーはああいうところで発散させねばならないのか。

ただ、恐らくに、世界のどこでも人間というものは、そういうものに快楽を覚えるものらしく、日本とてその例外ではない、と言うことである。

しかしなんだね・・・私個人の意見として言うが、あれは異常だよ・・・
そしてサディズムを肯定する社会、集団意識と言うものを持っていて問題意識すらもない彼らこそが、大衆的なマジョリティではなく、本来で言う異常者なのではないか。

その異常集団に囲まれた私は、それこそ異常になって、自分の身を守らなければならなかった。

昔のテレビ番組の思い出

2021-12-07 00:13:49 | 思い出
・昔のテレビ番組は良くも悪くも洗練されてはいなかった。
・あと日本国民に共通する意識と言うものがあったように思う。
・オチがなく、テーマ性・乗り越えるべき精神的課題の克服なんかも、構成や脚本上になかった。
・しかし妙に生演奏は凄いピカイチだったな。あのバンド演奏の人達はあの後どうなったんだろう? 

・ちなみに嘘みたいな本当の話で、とある番組の1コーナーで早口言葉を言っているだけで日本国民が超大盛り上がりになった番組があってな。
・しかもそれが視聴率50%とか取ってな。

・あの盛り上がり方はもう半端じゃなかった。