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とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

高校1年の時の化学の先生

2022-06-05 00:52:17 | 思い出
・めっちゃいい人
・某一流私大の大学院生だった(バイトで先生やってた)。
・大正製薬に就職が決まった。
・ちなみに大学院は評価がAか*(評価なし)かの状態なので、しくじりさえしなければオールAであるとのことで、その状態で面接をしたら、実態はそうではないのにすごく評価されたとのこと。
・ちなみに面接の時の失敗談:
 大正製薬に面接に行ってホールに通されたら、正面にワシの剥製が飾ってあって、まちがって「うわぁ〜立派なタカですね〜」と言ってしまった(しかし合格した)。
・なお、大学院に進学する時、某一流私大か琉球大学かで迷ったが、琉球大学はテレビが2つのチャンネルしか映らない(当時はネットなし)と言う状況だったので、琉球大学はやめにしたとのこと。
・と言うか継続して欲しかったが、就職とともに別の先生に交代。
 後続の先生の時に有機の部分で説明がすっぽ抜けていて、そこから化学が分からなくなったんだよね。
 あの先生であれば・・・
・プロ野球の選手に絶対なるんだ、と言っていたが、その後どうなったんかな。

炭酸水の思い出

2022-06-04 15:07:49 | 思い出
私は幼少期の頃はジュースと言うものを飲んでいなかった。
これは個人的にジュースが嫌いだったからとかそういう理由ではない。
むしろジュースは大好きな方だったのだが、家の経済事情として貧乏だったからジュースが買えなかった、と言うものがある。

祖母がいたころは、ねだってねだってねだってねだってねだってねだって、じゃあジュースを買いに行こうかと一緒に数百メートル先の自動販売機に行く。
そこで、6種類くらいのジュースがあるのだが、決まっていつも右端のものである。
と言うのは、基本的にラインナップは100円のジュースなのだが、右端のものだけ90円と10円安いので、これしか買って貰えなかった。おつりの10円は祖母に返した。

この自販機以外にも瓶コーラを売っている自販機もあったが、こちらは100円以上して高級感があった(110円だったか130円だったか憶えていない)。手の出ない高級品であったことを憶えている。

親戚の家に行くとジュースが出るので、お金持ちだなあと言う印象はあった。
が、実際はそうではなく、自分の家が相対的に貧乏であるのであって、普通の家はジュースを飲むものらしかった。
私が母方の親戚の家に行ってコーラが出されて飲むと「ジュースを飲むのは6年ぶりだ」と言ったことがある。
母が笑ってごまかし「そんなことないでしょ! 」と言ったが、これは事実である。
普段飲んでいるのはお茶か水だった。

あるいは父方の親戚の家の集まりで三ツ矢サイダーが出た時に、あの炭酸がコップに注がれるシュワシュワと言った様態の風情に高級感を見出していたのを憶えている。

中学の時の担任

2022-05-29 21:56:19 | 思い出
中学の時の私のクラスの担任はS先生と言った(女性)。
マラソンは好きでよく朝は走っていた。

S先生はクラス生徒の男女からお世辞にも好かれているとは言いがたかった。
統率力はない一方で、授業の内容(受け答え)や提出物にあれこれちゃちゃを入れる。

で、この件で思い出したのカキコ。
ひどいのは、「一日の家での学習時間を書きなさい」と言う提出のプリントがあり、それを皆めいめいに書いた時のことだ。

皆、当然のようにこの提出物の内容は正直に書かない。
正直に書いた結果、「これじゃあ勉強時間が少ないからもっと勉強しなさい」と言われるのがオチだからだ。
なので十分に勉強している人はともかく、そうでないと思う人はそれぞれに水増ししたんじゃないかと思う。
この先生側の指導とその生徒側のアウトプットというのは、実質的に「先生側がどのくらいの時間を欲しているのか」と言う、相手の心中を読む忖度テストであった。
ここで本来あるべきであったのは生徒の勉強実態とその生活指導的補足であったはずだが、そのような運用は生徒側心理によってなされなかった。

それが提出されて集計された。
その数日後に、先生は何を思ったか、別の方向からちゃちゃを入れた。

「みんなねぇ、◯時まで勉強しているって書いているけど、こんなに勉強しているはずないんです! 」

うへぁ〜
皆うんざりしていたように思う。
上記の批判によって、再度プリントが配られ、実際の値を書くように強く言われた。

◯時がダメならそのマイナス◯時間までやっていることにすればいいのか? と皆思っただろう。

で、その辺の値を書いてまたプリントを提出した。

それからしばらく経った後のこと。
S先生は奇妙なことを言い出した。
「◯時(最初に批判した時間)まで勉強しているなんて皆えらいよね! 」と。

??? これって最初の批判と整合していないじゃないか。どういうことなんだ? 

で、誰からも聞いてはいないが、私がこの当時の状況を類推するに、生徒の保護者が「生徒が正直に実態を書いたのに、それを確認せずに全体的な批判をなさるのですか」と糾弾の声が先生側に上がったのだろう。
それを機に先生は変節した、と言うのが私の見立てだ。

何にせよ情けない先生で、生徒側は尊敬していなかったように思う。

コンビニのおでんを買おうとすると買えなかった話

2022-02-04 22:05:23 | 思い出
2005〜2009年の話である。

寒い夜に退社すると、コンビニで買ったおでんを食べたくなる時がままある。
そうした時、コンビニには行くものの、大抵そういう時は退社23:00とかでコンビニにつくのが夜中の0:00なので、丁度その時おでんが入っていたあのステンレスの容器を洗ってメンテしていておでんが買えなかったんだよね。

そういうことがしばしばあったのを思い出した。
なので、私がおでんを一番欲しい時は一番客足が遠のいている時だったらしく、そういう齟齬があっておでんを買えなかったと言う思い出が蘇ったのでここに記載。


搾取の倦厭

2022-01-31 22:58:50 | 思い出
私は昔から搾取されることを忌避し、あるいはそれを予感できた場合、できるだけ回避していた。

自分が何かやった成果が、他の人間の成果になる、それは耐え難い屈辱だ。
そこに事前の信条としての同意、つまり自分がやった成果が、助けたい人間のためになるならそれを差し出しても良いが、往々にしてそうでない運用でなされるのが搾取である(事前同意があっても悪質であるが)。

あろうことか、どこで自分の性格がこじれたのかは分からないが、私は小学校の時分においてから搾取が嫌いだったと言えよう。
これはクラスメートに対してではない。親に対してである。

小学生の頃には、賞やらテストでの良い点数やらがあった時に過分に褒められた。
が、私はそれに不自然なものを感じていた。
「お! やったじゃん! 」と言うような、私の立場を尊重しながらもその評価を共に噛みしめるような感じの褒め方であれば健全だが、「え〜すっご〜い! 」と言うような、まず上からの評価ありきで、褒めている私がいるからこそあなたは成り立っているのよと言うような感覚を受けるような褒め方だった。
いやこの字面だけでは分からないとは思うし、上記の言葉であっても、対等な関係を築く人もいる。ただ、私の親はそうではなかった。
私は違和感を感じながら成人し、そしてあの違和感に罪悪感さえも感じていた。
しかし、それはそうでないことが長い年月を経て、それは間違いであると分かった。
それは彼女が、彼女の孫に対して「〇〇をしたら靴を買ってあげる」と言う発言に対して、孫がそれを「〇〇が欲しいからそうするんじゃない」と拒絶するような、自己の心理を理解せぬままコントロールをしようとした所作があったためである。このやり取りによって、あの違和感が自己の中で罪として否定されるべきものではなく、自己の中で違和感として肯定されるべきものとして確定した。
褒めながらも従属を強要し、そこに入らないとモラルから外れるというような形式を日常の生活営為の中に組み込むのである。これは異常だ。

こうした褒められ方をした場合、それを受けた子供は従属感の自己肯定と共に、自立心の内的否定によって、人格が歪んで形成される。
私は次第に親からの搾取に対して病的に忌避するようになった。
小学校のテストで良い点を取った、絵を描いたら賞を貰った。
これは本当に親にとって取るに足らないものだろう。
そしてこれは褒めずに叱るよりも褒めた方が断然に良い。
が、その褒め方も良いものと、回避すべきまずいものがある。
子を対等の人間として見て、それに一緒に喜んだり悩んだり悲しんだりするものが良い。
逆に愛玩動物のように可愛らしい仕草をする子を見ては、べた褒めに褒めるのは、人間形成として良くなく、自分の成果なのに、親がそれを包含しコントロールする形で喜んでいるのは、親が自分の成果を横取りして、こちらの努力や人格、あるいは人間としての立ち位置を奪おうとしているのではないか? と私は危惧した。
無論、そうした焦燥や悩みを抱えながらも、当時小学校低学年であった私はそうした語彙もなく、従って悩みを整理する力もなく、悶々として当時を過ごしていた。
人にとって、小学校と言うのはタイムスリップで戻りたいと言う良い思い出の土地かもしれないが、私にとっては戻りたくない時間軸の地点である。あそこは地獄だった。

従って、外的な押し付けの教育ではおおよそ成績は高い位置で推移していた。
が、自発性はそこに芽生えることはなかった。

私は自己の成果を社会人になって様々に搾取されていたと思う。
特にひどいのは2006年から2009年の職場である。
今になって当時をふりかえれば、本当に当時の私は大バカ野郎であったと言える。
私は組織のためと思い、自分の身がぼろぼろになるまで仕事をしたが、何もリターンがなかった。
ありがとうという感謝も無ければ、評価してやれんですまないだという謝罪もない、あまつさえは給料まで安く、評価も構造として無かった。

そうした中で、私は私自身と思われる精神構造を内的に構築し、それを獲得した。
そうした搾取は社会に生きていれば当然じゃないか、と言う人もいるだろうが、私から見れば、そういう人は、そうでない構造の中にいる人間であるからこそ安全圏からそう言えるのであって、実際にその場所に放り込まれて構造上抜け出せないというようなことになると、私のように恨み節を吐く人間が構築されるのである。