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とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

案内窓口の店員の緊張

2023-05-05 18:26:26 | 思い出
高級百貨店に出かけていった時のことである。

その時、「ホワイトデーのお返しをしたいんですが、売り場ってどこにありますか? 」と入り口の案内の人に聞いた。

そこにいたのは受付嬢での女性3人だった。
本来であれば、笑顔でちょっと事情を聞いてから「はい、その売り場は○Fとなります、中央エレベーターから行ってらっしゃいませ」と言うような案内をするのだが、どうも何かがおかしい。

3人ともこわばった面持ちで、「ホワイトデーですか、はいっ」「○Fになります」と、かなり緊張しているのが分かった。

ん? なんでそうなっているんだ? 自分がヤクザに見えたのか? と思ったのだが、しかしどうも他のお客さんに対してもそれをやっている。

で、暫くしてから合点が行った。
が、これは私の中だけでの作業仮説なので、一般的な結論ではないが、私自身の中で腑に落ちた感じだ。

それと言うのも答えは中国人である。恐らく来る客について私を中国人だと思ったのだ。
折しも、その時はコロナ前での中国人爆買いが華やかりし時であった。
中国人は金を持っているので百貨店のいいお客さんであるが、一方において、態度が荒々しく、行儀が悪く、何でもかんでも自分の利得ができるように主張すると言う負の側面がある。
(しかしおかしい。こうした世間が言っている評判とは裏腹に、私が個人的に知っている中国人は皆品がある人ばかりだ。しかし香港の物売りの老齢女性のバイタリティーの凄さったらマジで半端なかったのことを思い返し、香港人は大陸人を粗野で野卑だと嫌っているので、あの香港の老齢女性のノリ以上のノリで日本に来ていると思うとまあそういうことになる)。

で、この中国人ばかりを相手にしていた高級百貨店の受付嬢では中国語ができる女性を受付に配置していたとのことだが、これが総じて、あれこれ凄い主張を言われるや、剣幕を出して追い返さなければならない状況を繰り返すに、あの険しい顔での対応になったのだろうと想像する。
最初は笑顔だったんでしょうけれどもね、と思ったことは個人的な思い込みかもしれんが、まあ当たっているだろうという私の認識でこの話は終わりになる。

彼女らが凄い可哀想だった&客の自分としては何とも思ってないので、これを百貨店のおえらいさんが見たのであれば、彼女らを決して責めないであげて下さい。

繊維的に真っ黒のズボンがなかった1990年代

2023-05-03 12:50:03 | 思い出
1990年代は繊維的に真っ黒のズボンがなかった記憶がある。

いや当時は真っ黒のズボンはあったよ? と思う人がいるかもしれないので、詳細を補足しておく。

対象のズボンはスーツの下のトラウザーではなく、私服のジーパンや綿パンのことである。

で、今でこそ真っ黒の繊維のジーパンや綿パンがあるが、1990年代は、白い綿の繊維に対して染料が十分に浸透しきれていない繊維がジーパンや綿パンに使用されており、完全なる黒ではなく、ちょっと白いアラが目立つようなズボンの生地だったのだ(現在のジーンズがこれかも)。
なおケミカルウォッシュのあのジーンズの生地とは異なる。



水筒のコップを振っていた思い出

2023-04-14 01:03:08 | 思い出
大昔の私が小学生の時の話である。

遠出の時にはだいたい皆、黒とステンレス色で構成された水筒を持っていった。
これ言うとまあ年代が分かるかな。
これの登場以前と言うのは、水筒と言うのは落とすと内部のガラスが「割れるもの」であって、あの赤と白のチェック柄で女性が持つようなデザインだった。
それがステンレスになって内部が「割れない」水筒が登場し、それを売りにして水筒が売られていた。その当時の水筒である。

それで皆麦茶やらを飲むのだが、誰かが水筒を忘れたり、あるいは自分のを飲みきったら、他の子供にせがんでくる。
で、いいよ、と自分とこの水筒の中身を飲ませる時、その水筒に付属しているコップを使用するのだが、飲んだ後に、誰からも言われていないであろうが、皆一様に「ビャッ」と水銀式の体温計を振る要領で、飲みきった後に僅かに残った水滴をそうして払うのが慣例になっていた。

まあ自分の飲み残しっぽいのをそこに残すのが悪いと思って皆やっていたのだろうけれども、あれって誰がどうして始めたんだろう? 

最近、液体式の洗剤で同じこと(計量カップに残った洗剤を「ビャッ」と振る)をやっていて思い出したのでメモ。

ガラス屋さん手震えすぎ問題

2023-04-09 17:59:29 | 思い出
家の窓ガラスが割れてしまってしばらくして、修理を頼むことになってガラス屋さんに
来てもらったことがある(2016-08-28 00:34:15/2020-11-05 23:18:18記事)。
交換自体は・・・日付を書こうと思ったが、特定が怖いのでやめた。

で、このおいちゃんの手が震えているのを思い出すことがあるのだが、ん? この部屋になんかいたんか? マジで。

米を研いだ思い出

2023-04-02 03:28:28 | 思い出
私が小学校にあがって1年か2年したくらいの時のことだ。

私は母に米を研ぐことを命じられた。
仕事を任されたとかお願いされたと言う感じではなく「命じられた」と言うのがしっくりくる。

それでどうやればいいのか分からぬまま、母の後ろ姿で米を研いでいたことを思い出し、やってみる。

小学1〜2年の頃の私は、今思えば重度の鬱だった。
なので米とぎもままならない。

何がどう重度の鬱なのか。
まず体が朝起きた時点からへとへとなのである。
で、そんな状態だから誰かの言うこともスマートにできない。
なので叱られる。
なのでそこからまた更に精神的体力がごりごりと削られていき、ヘトヘトになって、夜寝ても、自宅が主要交通路の交差点十字路になっているので、夜もトラック・ダンプの騒音・振動に悩まされて十分に寝られない。
また、排ガス規制も緩い時代だったので、質の悪い排気ガスが家の中に入ることを防ぐため、窓も開けられなかった。
そうした悪循環の日々を送っていた。

そう、当時の私は「どうして他の子達は、笑って遊んで普通に話せるんだろうか。どうして自分はそれができないんだろうか。どうしてどうして」と思った。
男としてあるまじきその様態の情けなさに涙が出てきてしまい、更に泣いていること自体が情けないのでまた泣くと言う悪循環で、押入れの中でよく泣いていた。
泣くのがストップするのは自分の体力が尽きた時か、あるいは自分が泣いている意味を忘れた時かだった。

泣き止んだ時に、更に他の兄弟から泣き止んだことをまたからかわれ、それがまた情けなくて、自分自身が情けない状況にある様態に対してまた泣いた。

今になって総ざらいして当時の状況を点検すれば、この兄弟は、そもそも私が何に対して心理的にストレスを感じ、それのスイッチが具体的に言って私のどこにあるのかをよく把握していたのだと思う。
そしてそれを自身の保身のためか、あるいは自身を相対的に良く見せるためか、あるいは数少ない娯楽としてのためか、恣意的にそのスイッチを押してはその状況をコントロールしていたようだ。

そうした精神的なグロテスク性が、その兄弟内には存在し、そしてそれはある種のサイコパス的な心理が宿っていたのだと思う。
今でこそ善良の人間として生活しているが、幼少期のあなたはそうではないでしょう。

とまあ話は脱線したが、そんなこんなで私は子供らしい幼少期を送ったわけではない。
私の原体験は恨みつらみと疲労にまみれている。

そうしたことを何とかいやだと訴えようものなら、「じゃあその時きちんと言葉にして言えばいいじゃないの、ねえ? 」と言うような無理難題を言う。
小学校低学年にそうした言語能力はない。それが分かっていて封じているサディストだ。


疲労にまみれていた私は何もかものやる気がおきなかった。
これは対外的に見れば怠惰の産物として注意叱咤の類を受けるものだが、当時の私の内実を私自身から見れば、生活環境を変えるべき重度の鬱だった(靴下を履くのに20分かかってしばしば怒られ、密告され、それで更に怒られ、翌朝の靴下を履くのにまた時間がかかって・・・と言う悪循環のループ)。

そもそも何か健全に生活を送ろうと言うような状態ではない。思考もままならない。
耐えきれぬ鬱積したストレスが自分を圧殺するほどに肥大した時、人間が何も考えられなくなり、行動がストップするのは人間の自然な反応なのだ。

それを無理やり生活できるように自分をロボットのように無思考で働かせていたのが、父と母を見てきた限りにおいての私個人の感想であり、それがこれまでの日本人であったとは個人的に思う。
労働は美徳でそこに疑問を感ずる必要はない、など・・・。

米とぎの話に戻る。
私は米とぎを命じられたが、水は冷たいし、力もそもそもないし、上述のような精神状態なので、何かをすることもできない。「研ぐ」と言う塩梅も分からない。
まぜればいいのか? それとも・・・? 
それで2・3回かき混ぜたのを「終わった」と言って母に見せた。

本当に研ぎ終わったならば、米を水にひたした状態でかきまぜれば、白い糠は出ないはずだが、母がチェックしたところ、それが出た。

その時の母のセリフが次のものである。
「見ろぉ! 研げてないじゃないか」

私は母が好きな方ではあったが、ヒステリックに怒る母をどうして良いのか分からなかった。期待に応えられない自分を責め、私は再度居場所を失い、自責の念にかられてその日を過ごした。