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とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

コードギアスとドラマトゥルギー

2018-08-05 13:59:17 | 脚本
コードギアスは実は途中までしか見ていない。

先日あった、MBS動画イズムでの一挙放送が一部までしか放送していなかっただとか、私に視聴する時間がなかったとかその辺りが理由なのだが、その他の理由として、映像作品を見るための体力が無いのである。

若い時には映像作品を食い入るようにして、自分の脳裏に焼き付けていたが、それをする体力がなくなった、と言うことだ。
流し見をする適当な作品であればいいのだが、この作品に関してはそうもいかない。

さて、その途中まで視聴した結果であるが、やはり面白い。
と言うのと同時に次のことも書いておかなければならない。

このコードギアスには、よくも悪くもドラマトゥルギーでのみ構成されており、背後に書かれる精神的テーマが無い。
少し整理する。
ドラマトゥルギーとは、具体的な劇作法・劇作術のことであり、どのように構成し、どのようにセリフを立て、どのようにストーリー展開していくか、と言う手法そのもののこととして上記は使用している。
つまりは、人が見ていてどのように心を揺さぶられるか、と言う揺さぶりの技法であるが、本当に純粋にそれだけしか使われていないのである。

そして精神的なテーマ性が無いと言うのは、通常のドラマや映像作品では、その作品に感銘を受けた後、「こういう風に生きていこう」だとか「このように考えよう」と言う精神的なフィードバックと、それに伴う若干の精神的成長が見込まれるものだが、コードギアスに関しては、物語に通底するそのようなフィードバックが一切ない(ミクロ的視点では名言がよくあるので、それが視聴者にインプレッションを与えるだろうが、大幅な線表においてはそれがない)。

よって、コードギアスは、大衆エンターテイメントとしての極地にありながら、人生哲学に影響を与えるテーマというのは基本的にないという構図になる。逆に言えば、テーマ性は無いが、しかし視聴者が楽しめるものとして、映像作品の中では群を抜いた仕上がりとなっている。

この意味において、どちらかというと、ゲーテよりもシェイクスピア寄りになっている作品とも言える。
シェイクスピアでは読後に「ああ、私はこの主人公に感銘したから、このように生きよう」などという感想は発生しない。しかし、個々のセリフにはインスピレーションを引き起こすものが多々存在し、色々な文献に引用される。
マルクスもシェイクスピアを引用したし、その他にも好例が見つかるだろう。

もしかしたら、もしかすると、コードギアスもそうした形で今後引用されていくのかもしれない。

「変化無き日常を、生きているとは言わない。それは、ただの経験だ。」
「行動の果てには、結果という答えが待っている。例外は無い。」
「男は床で寝ろ」
「勝つにしろ負けるにしろ、全てを出し切らなければ何も獲得出来はしない それは国でも個人でも同じこと」
「哲学を語っている余裕はない」
「全ては過去、終わったことだ」
「では聞こう! お前たちは、誰かがブリタニアを倒してくれるのを待つつもりか!? 『誰かが自分の代わりにやってくれる。』『待っていればいつかはチャンスがくる。』甘えるな! 自らが動かない限り、そんないつかは絶対にこない! 」
「君には借りもある、情もある、引け目もある、しかしこの場は、忠義が勝る!」

「勝てよルルーシュ。自らの過去に。そして、行動の結果に」

東京五輪の開閉会式演出、野村萬斎が総合統括に就任

2018-07-31 00:10:08 | 脚本
おめでとうございます。

一方でワイの開会式脚本案が採用される道は閉ざされたンゴ・・・
めっちゃおもろいのに

露と落ち露と消えにし我がアイディア 五輪のことも 夢のまた夢


東京五輪の開閉会式演出、野村萬斎が総合統括に就任
2018年7月30日15時43分
https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/201807300000023.html

 2020年東京オリンピック(五輪)・パラリンピック開閉会式を演出する総合統括に、狂言師の野村萬斎(52)が就任することが30日、決まった。福島県のJヴィレッジ(広野・楢葉町)で開かれた大会組織委員会の理事会で承認された。

 五輪統括には映画監督の山崎貴氏(54)、パラリンピック統括には広告クリエーティブディレクターの佐々木宏氏(64)が就任した。五輪は野村と山崎氏、パラリンピックは野村と佐々木氏が中心となって具体的な演出企画を制作する。

 野村がリーダーとなった理由を組織委の中井元チーフセレモニーオフィサーは「狂言、映画、舞台と伝統から現代まで幅広い見識がある。日本の文化は多様なのでそこの間口が広く、いろいろなことをやっていた方が良いと判断された」と語った。

 山崎氏は映画「ALWAYS三丁目の夕日」「永遠の0」で日本アカデミー賞最優秀監督賞を2度受賞し、「日本を代表する映画監督」として選ばれた。

 佐々木氏は、16年リオデジャネイロ五輪・パラリンピックのハンドオーバーセレモニー(東京大会への引き継ぎ式)の演出チームとして活躍。安倍首相がスーパーマリオに扮(ふん)した五輪版、「ポジティブスイッチ」というスローガンで、障害を負った後もそれに屈せず、さまざまな分野で活躍する人々に焦点を当てたパラリンピック版の制作経験を、20年東京パラリンピックにも継続して生かしてほしいとの理由から選ばれた。

 その他にも「東京五輪・パラリンピック総合チーム」を設置。歌手椎名林檎(39)、演出振付家MIKIKO(40)、大手広告会社電通の菅野薫クリエーティブテクノロジスト(40)、映画「君の名は。」などを手がけた川村元気プロデューサー(39)、右下肢に障害がある栗栖良依クリエーティブプロデューサー(40)が就いた。椎名、MIKIKO、菅野氏は佐々木氏と同じく、リオ大会の引き継ぎ式制作チームだった。

 例えば、野村、山崎氏が五輪の式典の音楽分野については椎名に助言を求めたり、振り付け分野ではMIKIKOに相談したりし、相互に協力できる体制だという。さらに専門家を演出チームに招くことも可能。映像や音楽などを制作する実務スタッフを含めると、全体のスタッフは数百人規模になる予定。

 この8人は昨年12月、五輪・パラの開閉会式4式典の「総合プランニングチーム」に選ばれていたメンバーと全く同じ。各式典の具体演出を決める前に、起承転結で4式典を貫く基本計画を練ってきた。組織委は8人を発表した時点では、各式典の演出、監督はこの8人以外から選ぶ可能性があるとし、他の演出家への調査も行ってきた。

 しかし結局、演出の責任者はこの8人から選ばれた。中井氏は「平昌大会の視察にも行ってもらった。(演出の)具体案も考えながら、基本プランを考えていた。それらが非常に結びついていた。この6カ月でずっと、本当に2020の式典について考えてくれた。現実的にここまで考えてくれている人はいない」と、外部から登用しなかった理由を語った。

【脚本案】不老不死キャラの人生観

2018-01-21 10:07:16 | 脚本
(声は若本規夫さん(シャルル・ジ・ブリタニア)の声で)

少おし面倒くさいことを言おおう。

私がいろんなフィクションの創作物を読むに、「不老不死」のキャラクターが登場人物として物語の要所要所に配置されるのだが、その作品中での彼らや彼女らが言うに、「普通に死にたい」などと彼ら彼女らの心情の吐露として抜かしよるのよ。

いや確かに不老不死の人間でもそういう変わり者はいるだろうし、そういう人間性の方がドラマチックな物語を作りやすいのだと思うのよ。
だがしかあし、あんまりにも脚本にそれが使われすぎてきて、ある種のパターンになっちゃっていたりなんかしちゃったりしているわけよお。

これはあれだ、フィクション作品に不老不死キャラが登場したとき、「あっ、不老不死のキャラだ、この人もよく分からないけれども、死にたがるんだね」などと思われたりしないのかと思うわけ~よぉ。

実際には違あう。

例えば私が葬儀とかに出たりすると、もう本当パターン化して、「安らかに眠ってね」と思って自分が死にたいとか思わないわけ~よぉ。
いや、そりゃ確かにちょっとは悲しい。でも普通に寿命がある人とはちょっと感じ方が違うんだということを分かって欲しいのぉよお。
不老不死もお~、100年くらいは悲しいのだけれども、200年を過ぎる頃に煩悶し、400年くらいで「そういうものなのだ」と諦観するのよ~。
不老不死とは言えど、元は人間よお~。悲しみに明け暮れるけれども、その内、牧師や神父、坊さんなどと同じく絶対的倫理基準と思われた死生観にでさえ変化が訪れ、そして慣れ、定着しちゃうのよ~。
葬儀も手慣れたもんで、カトリック、プロテスタント、仏教などでテキパキと動くようになって、「葬儀に慣れるのもなんだかな」と一種の贖罪感を感じたりもするけれども、月一で繁華街の某所赤ちょうちんに集まる「不老不死になっちゃった会」で集まる面々の話を聞くとぉ~、そこでは色んな話を聞いていく内に、手慣れるのは仕方がない、それよりも他の人の人生もその過程で大事にしようね、そして我々の人生も同様に大事にしようね、と言う形で収まるわけ~よ~。

例えば、どこかで赤ちゃんが生まれたと~す~る~。
我々も、勿論、それを祝福することには変わりない。ただ違うのはここから、だ。
この赤ちゃんも「いずれ120年後には必ず死ぬのだ」と言う感覚が我々不老不死者にはあって、勿論それは親御さんや他の人には言わないが、その過程を歩く間、無病息災を祈って、安全安心にし、120歳までの死ぬまでの間に、あなたが神に与えられた天命を全うしなさいよ、と言うのが我々の願いであり、自然とそう思うものなの~だ~。

だからと言って~、この考え方は~ドラマにはならない~、フィクションにもならない~。だ~か~ら~脚本に採用されない~。
そこには安静と安寧があって、人が持つ矛盾や葛藤が無いがために、作品化されない~。
作品化されるのは、常に死にたがりの不老不死者と言う矛盾だ~。
ゆえに、誤解が生まれる~。

ダニエル・アクストは言~う~。
「いまの世の中では、あたりさわりのない穏やかなことを書いたのでは嫌がられる。もちろんまっとうな市民生活はそれなりに尊重すべきだが、必死にがんばって老後の資金を貯めた話しとか、早朝に車を相乗りして通勤する際のもめごとや、何十年にも及ぶ妥協の結果として添い遂げた夫婦の物語など、誰も聞きたいとは思っていない。物書きならそんなことは百も承知だ。
 「幸せな家庭の静かな時の流れは、物語の材料にはならない」『セルフ・コントロール』という教訓的な小説を書いたメアリ・ブラントンは二世紀も前にそう喝破した。「慎み深い愛情、穏やかな欲求、働きがいのある仕事、敬虔な黙想などは感じるもので、書くべき対象ではない」。これは誰もが認める事実だろう。だからメアリ・バートンの小説のヒロインは、悪人のボーイフレンドから逃れるために樺の樹皮で作ったカヌーに身体を縛りつけてカナダの滝に飛び込む。このエンディングは揶揄されたが、しかし小説はよく売れた。」

私がここで言いたいのは次の通りだ~。
・不老不死者が悠久の時を生きてきたがために死にたがると言うパターンは真実ではな~い~。
・文学作品や大衆フィクションは、そうした我々の心情的内面の吐露を作品化すべきであ~る~。

【脚本案】折り紙と絵

2017-12-29 11:04:01 | 脚本
ルルーシュ「ナナリー、これは知っているか? 」
ナナリー「折り鶴でしょう? 」
ル「そうだ。今日はこれを絵に書いてみる。」
ナ「絵? 」
ル「そうだ。訓練の一つだよ。」

しかし盲目のナナリーは鶴の形状は頭の中で把握はしていても、一向に描けない。いくらやってもちんぷんかんぷんの絵だ。
しかしこれは・・・

ナ「ねえお兄様」
ル「なんだ」
ナ「私はうまく描けてる? 」
ル「うん、描けてるよ。立派な絵だ。」
ナ「でも私はいまだ何がいいのか、どういう方式で描けばいいのか分かりません。」

!!! そうだ・・・目が見えなければ、二次元的投射の概念がそもそも存在しない。
つまりナナリーは我々の現実的視覚認識が二次元投射としてできないのではなく、
三次元をどうやって二次元に落とし込んで表現するのかが分からない・・・! 

古代エジプト人達は、顔を横向きのレリーフを掘ってそれを表現した。
エジプト人が美術・芸術的に劣っているわけではない。
それはレリーフではなく、レリーフとは比較にすらできないほどのリアリティを持つ彫像・彫刻の技術からも明らかだ。

単に絵が描けないのではない。三次元から二次元への投射をすることが数千年も技術を累積・開発しなければならないほどの困難な技術なのだ・・・それを今のナナリーにできるはずもないっ・・・


【脚本案 アナザー・ストーリー】ハンター✕ハンター キメラアント編 詰将棋の極意

2017-12-23 01:17:30 | 脚本
※以下は、少年漫画雑誌・週刊少年ジャンプに連載された、「ハンター×ハンター」のキメラアント編のパラレルワールドを書いています。ちなみに今回はネテロが勝つシナリオで、それに至るまでのプロットを、様々な小話を入れて構成し直しました。


王「数々の手を繰り出すも、そこに穴が見えるはず! 通してみせよう! その極小の針の穴に、我が意の糸を・・・! 」
ネテロ「それはどうじゃろな? 」

王「ん? 」

王が攻撃を止めた。

王「どういうことだ。」
ネテロ「そのままのことよ。その願いはかなわん。」

王「それを実力で潰してみせようと言うのだ。この期に及んで、会話による錯乱か? つまらぬぞ。」
ネテロ「まあワシとしては次の戦闘に入る前に聞いておきたい。お前の考えでは、私を倒せると思うのか。」
王「倒せる。」
ネテロ「なぜそう思う? 」
王「圧倒的実力もそうだが、簡単だが、論理的な類型がある。」
ネテロ「聞かせてくれるか。」
王「いいだろう。」
王「以前、いくつかの知識を得る機会があってな。言語、社会、歴史、哲学・・・その中に数学と言うものがあった。」
ネテロ「ふむ」
王「数学の中では四色定理と言うのものがある。一つの真理を得るために、物量をして証明せしめたと言う道筋だ。今回のもそれに当たるだろう。物量をもってすれば、一つの真理に到達することができる。今回のそれも同じだ。お前のパターンには限りがある。余のパターンは無限だ。よって勝機がある。」
ネテロ「その考えで、今までの戦闘は勝利してきたと言うことか」
王「おおよそそうだ。」
ネテロ「おおよそ? 」
王「例外もある。余が未だ勝利できないものも存在する。」
王の脳裏に蘇るコムギの顔。

ネテロ「未だということは今後は勝てるということか」
王「その途上ということだ」
ネテロ「永遠に到達できないと言うことでは? 」
王「そのようなことはない。余の意志と天賦があるかぎり」
ネテロ「しかしそれは数学的な説明ではないぞ」

再度戦闘に突入するネテロと王。
ゼノ=ゾルディックが回答した通り、戦闘中の刹那での会話が交わされた。

ネテロ「なあ、戦いながらでいいや、聞いてくれるか」
王「聞いたところでお前の敗北は変わらぬぞ。しかし面白い余興だ。聞いてやる。」
ネテロ「ワシの敗北が数学的に証明できると言ったな。その逆もありうると言うことだ。」
王「どういうことだ。」
ネテロ「ワシの勝利が数学的に証明できるということだ。」
王「それはありえぬ。」
ネテロ「まあ聞け。微分の概念は学習したか。」
王「したぞ。それがどうした。」
ネテロ「永遠無限に続くまっさらな平面を想定し、そこに直線の道路を一本通す。それが永遠に続く。」
王「ふむ」
ネテロ「お主やわしの視覚は二次元的な認識をするから、空間は眼前の平面のスクリーンへの写像と同じ形で認識される」
ネテロ「そうすると、先程の道はどうなるか。」
ネテロ「その道は永遠無限に終点へ到達できることはないが、眼前のスクリーンに投影され、その道の終点がどこに集約されるのかは、測定することができる」
ネテロ「お前が見ているものはそれだ。測定はできるが到達することはできない。」
王「だからどうした。それの解法が我が戦法に適用できると言うものではないではないか。失望したぞ・・・少しは余を痛めつけるものとばかり思っていたが、あまり残念がらせるな。」
ネテロ「わしはその微分の公式を、ワシの戦法に組み込んだ。『軍議』と言う将棋のパターンに数学を組み込み・・・」
王「・・・」
ネテロ「相手が永遠に届かぬ、永遠に到達できぬ形での掌型を生み出した。」
王「・・・」
ネテロ「その名前を言っても良いか? 」
王「言っても良いが、あと数分で終わる命かもしれんぞ。時間の引き伸ばしはそれでいいのか? 」

ネテロ「その型の名前を『個無議』と言う」
王「・・・!!!!・・・????・・・・!!!! 」

全てを理解する王。到達できない点、コムギと言う真理の体現、それに数量で到達しようとする愚かさ、数式の適用で負けとなる法則。出すカードの相性の悪さ。