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とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

今の日本に必要な現実的施策  仏教とキリスト教の否定しかし倫理観の保持をする

2024-02-11 02:10:52 | 哲学・社会
タイトルの通りだが、概要含め結論を先に書いておく。
今の日本に必要な現実的施策とは、ランダムに割り振られる初期値のマイナスのパラメーターを是正することだ。

例えば、現在の幸せになるための個人的な努力や環境や運命というのは、その対象の人間の幼少期に与えられる教育の厚みによってその後の人生の幸せが不幸せかが左右されるというのはよく知られるところであるが、ではその厚みのある教育を与えられる環境に生まれるにはどうすれば良いのだろうか。

あるいは公害がない地域に生まれたりするにはどうすればいいのだろうか。
公害がある地域に生まれてしまった場合にはどうすればいいのだろうか。

他には都内で生まれ育てばその後の人生の有利不利に圧倒的な影響を与えるが、都会に生まれず田舎に生まれてしまった場合はどのように対処すべきなのだろうか。

ここでは宗教における説明を登場させるが、仏教とキリスト教の両方に、ざっくり感でのこの運命論の解決の仕方、あるいは納得の仕方、溜飲の落としを説明してもらうとなると、双方ともに「それはまあ仕方がないから、それはそれで現在の人間の愛をもとにして皆で救っていきましょう」ということになる。

ただそれが今現在における社会全体に行き渡ってるとは言い難い。
地方生まれは圧倒的に不利だし、元々生まれが貧乏であれば厚みのある教育は受けられないし、あるいは公害のある地域や、中途半端に公害のある地域、例えば道路際の家に生まれてしまった場合は、トラックやダンプなどでの騒音振動排気ガスなどに悩まされ、勉強どころではなくなる。

なぜそこに生まれたのかということを宗教的に説明するとなると「仕方がない」の一言で済ませられてしまうのだが、ことを仏教においては三世を貫くといい、自分がそこの不幸な運命に生まれてしまったのは、前世での行いが悪いと説明がなされる。
ただこれは人々の納得感を生み出すための方便なのであって、実態としてそこを基準にして考えるべきではないと私自身は考える。

ではどのようにして考えるべきなのかと言うと、基本的に生まれ、あるいは環境に沿った育ちというものは社会的にランダムに初期値のパラメーターが割り振られるものなので、生まれてくる場所を赤ちゃんは選ぶことができない。
よって、その後の人生においてそのパラメーターのマイナス部分を少なくともプラスマイナスゼロにするような努力を社会で用意しなければいけないのではないかと私自身は考える。


簡単に例えて言えば次のような形だ。
神様がもみの木の種を空の上から不倫をかけて落としていく。
その時に山の斜面にそれが落ちたり、あるいは山のてっぺんに落ちたり、箱に落ちたりと様々にそれらの種が振りまかれることになる。
ある種は水分をよく吸収できて土壌の栄養もあり日の当たりもいいところのような場所に落ちる。
しかしまた別のある種は水分がなく土壌の栄養もなく日の渡りも悪いところに落ちてしまう。
私が思うにこうした種は救うべきなので、土壌が改良された場所に移し替え、水も存分に与え、日光もよく当たるような場所に移し替えるようなことをすべきなのである。
我々は木と違って人間であるので、育ったりする場所ありを変更することができるし、あるいは育てる土壌に栄養を与えることもできるし、あるいは暖かい日光を降り注がせるような場所に誘導することも全くもって可能なのである。

なので人間に対してはそのような状況を社会的に用意すべきなのであると私自身は強く考える。

この時今までの仏教的な考えや、あるいはキリスト教的な考え、すなわち、「その生まれというのはもともとそうなのだからもう仕方がない」というようなところでストップさせるのはやめておくべきで、ランダムに割り振られた種にはもともとの罪がないのだから、日の当たる場所、栄養のある土壌、十分な水分の補給を与えられるような場所を社会的に用意すべきなのである。

農作業のオートメーション化

2024-02-01 23:15:51 | 哲学・社会


現在の農作業は石油から離れられないとされる。
と言うのもトラクターを動かすのに必要で、今までの手作業よりも効率が良く、かつ広範囲で言えば、収穫した農作物を輸送するのにも、これもまたトラックなどを使用するためである。
仮に電車で運ぶ場合にも、原子力や火力、水力などの比率によって電気が生産されているので、火力の分だけ輸送に石油が使用されていることを考えれば、これもまた農業は石油が必須事項の一部になっている。

今後の農業は恐らく人口減、労働力不足からAIと機械、コンピューターによるオートメーションに代替されるだろう。

キング牧師とアメリカの法律、そして社会思想における雑感メモ

2024-01-25 00:42:31 | 哲学・社会
スノーボール改訂新版 中 アリスシュローダーP54

 キング牧師は、”革命のさなかには目覚めていよう”という演題で、公民権運動賛歌になっているジェイムズ・ラッセル・ローウェルの詩「現在の危機」の一節を朗々たる声で唱えた。

 真実は永遠に絞首台にあり
 邪悪はとわに王座にある
 だが絞首台は未来を揺らし
 その暗がりで人知れず
 陰に立ちし神ありて
 愛するものを見守りぬ

 キング牧師は、受難の意味を説いた。ガンジーの非暴力抵抗運動の影響を受けているキングは、山上の垂訓の教えを引き合いに出した。幸いなるかな、義のために責められたるもの。天国はその人のものなり。幸いになるかな、柔和なるもの。その人は地を継がん。
(中略)
その信念故に打擲され、投獄され、鎖につながれて懲役に服し、刺され、棍棒で殴られた。敵の激しい怒りを買い、暴力がひろまり、ごく限られた成果しか上がっていないが、一〇年近く自分の理想を原動力として運動を続けてきた人物がここにいる。
(中略)
「このために死んでもいいと思うものを見つけられなかったら、生きるにふさわしくありません」とキングはいった。様々な演説でくりかえされている言葉のなかでも、つぎの一文はバフェットの心を射抜き魂を揺さぶった。
「法律は心を変えるものではない」キング牧師は述べている。「しかし、心無い人々を抑えるものだ」
「雄大な声でキング牧師はそう唱えた。そのあともずっとテーマとして使い続けた」

ここではアメリカの法律に関する考え方が日本と如実に違うことを示している。
日本における法律というのは、ある種の道徳的な空間と一致しているところもあり、それによって人々の行動をプラスの方にまず合意事項として制定し、それによって集団の心を律することに帰結している。
一方アメリカの法律においては、私個人が考えるに、単なる社会的な合意事項の集合体として存在している形になりマイナス面の抑制を企図しているように思われる。
正義というテーマは、合衆国における憲法に依拠しているが、その下位の法律においては、人の悪なる行動の抑制を実態として意図しているように思われる。

痴呆とは何か

2024-01-20 19:56:36 | 哲学・社会
痴呆とは何かの私の個人的考察メモ。
痴呆における構造解析とその問題、そしてその対処と補助についてである。

私が考えるに、痴呆とは認識の断絶である。
認識の断絶には二種類あって、それは継続的認識の断絶と、関係性認識の断絶の二種であると考える。
これを見ていこう。

継続的認識とはいわゆる記憶のことである。
認識を頭の中で固着化させ、それを継続して保持していると、それは記憶と呼ばれる。
この保持が断絶し、何かを忘れるてそれが総体系的に客観性を以て観測されると、それは痴呆と呼ばれる。
忘却と言うものは誰にしもあるが、痴呆ではその量が目に見えて多くなり、かつ単独での生活に支障が出るようになる。

関係性認識とは周囲の社会要素の関係性の認識を失うことである。
例えば、糞便に塗れた下着をタンスの中に隠すのは、自分自身の過失を隠蔽する短期的行為が、長期的にそれが発見された後に「この人は問題行動を起こす人なのだ」と周囲から思われてしまうという社会的な計算ができなくなるという、この関連性を見いだせなくなるものだ。

ではその問題が分かったところでなんなのだという話になるのだが、問題の構造が分かれば対策ができる。
薬の飲み忘れをしていないかが気になる時には、毎日飲む薬を補充する専用のケースがあり、これが有効だ。
いわゆる、視力が悪い人がメガネによって補助を受けているのと同様、認識の継続性に困難をもたらすならば、そうした補助をすればいい。

私が分からないのは、上記の2つ目、すなわち関係性認識の断絶についてどのように補助をすればいいかだ。これについては考えあぐねている。
どうすれば、そうした問題行動を起こす痴呆高齢者に補助を与えることができるのか。

(後記):
「問題行動を起こす痴呆高齢者に補助を与えることができるのか。」
と書いたが、これのやや丁寧な書き方としては、
「問題行動を起こしてしまう痴呆の罹患者に補助をすることができるのか。」
になる。ただ、本文は上記に記載した通り、「問題行動を起こす痴呆高齢者に補助を与えることができるのか。」とした。
これは、「問題行動を起こしてしまう痴呆の罹患者に補助をすることができるのか。」とすると、介護者が年配高齢者に配慮した結果かなりの負担を強いてしまうことから、それを避けるために、上から目線での差配する立場での文章を記載した。