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とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

罪と罰

2023-04-15 16:49:03 | 哲学・社会

私の個人的雑観と整理メモ。

 
罪はこの世界全般において存在するか? 答えはノー。
例えば遠い銀河のさらに向こうの別の銀河で、一夫多妻性の生物がいて、そこに地球の倫理観を持ち出して「本妻以外に女性がいるだなんて罪である」と糾弾できるだろうか? 答えはノー。
アメリカ人は火星旅行に行った後に、マクドナルドがなくて英語が通じないから不便だと不満を漏らして、現地の火星人から不評を買うかもしれないが、基本的に自分たちの考えるルールは他の地域では通じないのである。
あるいは時代や場所によって、人間がどう言った行為を集団の中で悪いと思うか、あるいは良いと思うかには、半分程度は同じかもしれないが、厳密にはもう半分は異なるのである。
非対称の労働を行う女王蜂と働き蜂の平等格差解消はすべきか? カッコウが別の鳥のヒナになる卵を巣から落とすことの犯罪行為はどう裁くのか? 
 
そうではない。我々が守るべき倫理観や道徳感、あるいはそれに伴って形成されるものは時代性、地域性があるのだ。
 
これによって、人類が考える通底の罪と言うのは存在せず、しかも今後も時代の潮流によって守るべき倫理の意識やそれにともなった法そのものが変化することが見込まれる。
 
つまり何が「罪」であるのかは、現在の我々が思う一定のそれではない。
倫理観や法は変化し、それに伴い、罪も変化するのだ。
 
そして何が罪であって何が罪でないかが変化するのと同時に、何に対してどういった罰則が適用するのが適切であるのかも時代によって変化する。
 
 

規律と放埒の二律背反 ジレンマはどちらを選択すべきか

2023-04-03 02:00:18 | 哲学・社会
今回の記事は一般的な人たちには訳の分からない文章になっているだろう。
しかし私にとっては重要なことなので、私のメモとしてここに記載しておく。

我々は常に時間を意識して動いている。
明日の朝には何時に起きて、始業に間に合うようにし、それで仕事は何時までに終わらせて・・・

こうした動きをすると、どうにも時間の奴隷のようになったような気がして、本来あるべき自由行動が取れる人間の人間性や尊厳を失っているようにも感じられる。

これらは突き詰めて考えると、自分の意志で放埒にふるまえることにおける人間味の伴った自由性と、他者からあれやこれや言われて自己の行動が束縛・制限される組織内の規律になる。

だが、我々の多くは組織に入ることのメリットが、自己の人間性の発現よりも、人生における多くのメリットをもたらすため、ほとんどの人間は組織に入る。
そしてそこで得られた金銭と余暇において、自己の人間性を発露せしめんがための限られた自由の時間を謳歌するのだ。
これらは一見トレードオフのように見える。

では、我々は、自分の人間性を犠牲にして、現代社会における高度サービスを享受すべきなのだろうか? 
これは一般的な答えはイエスであるが、更にアップデートすべき、そこ答えの更に奥にある本当の答えがあるように思われる。

それは何か、と言うと、自己の鷹揚な内発的発露をして自分らしく生きる中にも、自己の中で保つ規律が必要である、ということである。

どういうことかというと、完全に自由放埒に、自己の中の衝動に従って放縦に生きても、本当の自己は発現できない。
言い換えれば、猿にタイプライターを打たせてシェイクスピアの小説を作り上げるのと同義で、そこには意味などはないし、もし仮にシェイクスピアの小説が結果的にできたとしても、それは猿の創作などではなく、かつ、膨大な時間と試行回数を必要とすることになる。

よって、自己の表現をする際に、例えば文章を書くのであれば、原稿用紙にはみ出さないように文字を書き、構成のメモを揃え、人に分かりやすく読めるように構成のしなおしをし、出来上がったら、それを研磨する形で自己推敲をする。

そうした理念と思考に基づく計画性と履行こそが、自己の自由なる発現をたらしめる。

よって、自己の内発性を大事にしながら、他者からの強制や命令を上手く調整し、あるいはそういう場に行かないようにし、自己の実現のために理論と理念を駆使すべきなのだ。
そこには自己の内部での絶対的な規律性が存在する。あるいは自己を発言するには規律を自己の内部に持たなければならない。

自己の奴隷にもならない、他者の奴隷にもならない。
自分自身を時に勇敢な獅子に変化させ、時に相談できる智者に変化させ、理論と理念で行動を起こし、よりよく活動できるように健康と資金には十分な留意と配慮をする。
そして自己の達成したいことを、自己の規律によって達成するのである。
自分と言う列車を走らせるには、自分専用のレールを自分で敷いた方が早くて強力である。
人間とはそうすべき存在なのである。

心の形 具象化

2023-01-21 18:35:57 | 哲学・社会
人の心の形が見える時がある。
これはスピリチュアルとかそういう方面の話ではない。
また、私に特別な超能力があるということでもない。
社会観察をしていると、「こうした時に人の役に立つだろう」と言う親切が実態の物理的な形で構築されるのが見えたり、あるいは「こうした時に、人に悪い作用を及ぼすだろう」とわざわざ考えて作った形跡が見えたりするのだ。

前者はバス停での待合場所の雨よけの屋根だったり、後者は落とし穴だったり有刺鉄線の鉄条網だったりと様々だ。

これが別の観点でも見えることがある。
それは株価のチャートの動きだ。人間の集合心理が線として見える。
低空飛行の時は群集心理はその情報をキャッチしていないためか無関心である。
上昇に転ずると、群集心理はその情報をキャッチし始め、熱狂に溺れる。
一方、その群衆が持っている軍資金と買い見合いのバランスが取れ始めると乱高下し始め、下降トレンドとなって、損切りを始める。
損切りでふんばって上昇に転ずる時もあるが、生活資金などの短期的に必要となった現金の調達のためや、あるいは人生の資金と言う長期的に必要となった現金や資産管理の棚卸し・見直し・整理によって売りが進み、そして更に下降トレンドとなる。
この群集心理と実態の生活、そしてそれをベースとした判断と心の動きが、株の線として現れるのではないだろうか。

社会は乗るかそるかの一本道ではない 90度曲がった脇道に逸れよ

2023-01-03 23:09:46 | 哲学・社会


と言うことで、私はこの動画を見ても、今ひとつ資本主義と言うものが分からない。
いや、比較はできる。
例えば資本主義が全盛の今、その登場以前は資本主義が無かったのだから、そこと比較すれば良い。
であるが、その比較であると、工業的生産手段がそれまで国有であったものが、資本家・事業家の個人所有となり、そこから雇用が生まれ、上下関係が生まれる、と言うものが資本主義である。
ではなぜそこから格差の問題が発生すると思われるのか? 資本主義形態より前の封建社会ではバッチバチの伝統的上下関係があって、そこには今の格差以上の格差があった訳だ。
私が思うに、これは資本主義が原因であるが、一方において資本主義は原因ではない。

どういうことか整理する。
資本家側(資本家・事業オーナー・社長・株主・雇用者)側と被雇用者(労働者・従業員・パート)は砂山の砂の取り分がそもそも違う。
純粋な資本主義(日本はここからちょっと違った方向に走っているが)では、必要経費として事業側から見て雇用を維持できるぎりぎりの最低限となる賃金の支払いをし、その残りの巨額な利益を事業側・オーナーが取っていくと言う形になる。

これは東インド会社が設立された経緯から見れば正しい。事業として胡椒をインドから持ってくると言う海運会社を結成し、事業資金を株式によって集め、そしてそれの事業が達成できたら(一回の航海を終えて、胡椒を全部売りさばいたら)、船乗りに文句が出ないギリギリ最低限の賃金を渡し(それでも結構な数で船乗りは死亡)、残りは最初の資金を供出した株主に利益配分して、その会社は解散する(初期の株式会社は航海ごとに会社を結成し、利益配分後に解散していた)。

細かい数字はちょっと出せないが、私なりに乱暴にざっくり整理すると、
・今までの資本主義登場前の支配側・被支配側の取り分が10000:1くらいだった。
・資本主義登場後の事業側・被雇用側の取り分が1000:1くらいになった。
と言うので、格差が深刻である、と言う感じである。

ちなみに飛行機パイロットの年収が1000万円くらいだとすると、アメリカの航空機社長は年収100億円くらいなのでこの比率とした。
日本の中小の社長であればもっと格差は小さいだろう。
(ちなみにJAL社長を務める赤坂祐二氏の年収が1000万円を切っていることがたまにアメリカ側で話題になる)。

それまでガチガチに身分が固定されていた時代から変遷し、仕事が自由に選べるようになって、以前よりはマシになり、取り分の差もまあまあマシになった。

で、これを前提にして言う。
この動画では「資本主義は格差が広がると言うデメリットがあるが、仕事が自由に選べると言うメリットがある」と言うような、あたかもトレードオフのような言い方をしている。

私からの補足として、この表現だと資本主義を正確に表現できていないように思う。
よく言われる資本主義の説明ではあるが、格差と職業選択の自由はトレードオフではない。
飽くまで、資本主義登場によって「そうなった」だけであって、「職業選択の自由」を維持しながら、格差を縮めることは可能であると私は考える。
仮にこの論理に従って「職業選択の自由」を放棄すれば、格差は縮まるのだろうか? 
そうではない。資本主義が社会的形態として選択された経緯について、社会と言う料理を資本主義と言うものにしようとしたら、「職業選択の自由」と言う砂糖が入ったのと同時に、調味料が雑に管理されていたので、格差と言う塩も大量に入ったと言うのがおおよその正解であると考える。

社会形態とは乗るかそるかの一本道ではない。
脇道にそれることも十分に可能だ。

マルサスの罠(野菜などの農業生産は等差級数的にしか増えないが、人間は等比級数的に増える。なので、どこかで人口を養えるほどの穀物生産量は限界を迎えるので、人口は穀物生産量以上に増加することはないと言う社会理論)は既に、ハーバー・ボッシュ法による穀物生産の土壌への窒素固定(化学による窒素肥料供給)と、それに伴う穀物増産により、この論は突破された。

ハーバー・ボッシュ法登場以前は、「人口を養える穀物生産量以上に人口は増えることはない」と言うロジックにおける「人口は増えても穀物はそれほど増えない」と言う諦めは、他方向への人類社会の進展をあきらめていたように感じる。
一方において、その未来にいる我々は、その規定や限界を突破してきたわけだ。

これと同様、資本主義における「職業選択の自由と言うメリット」「格差と言うデメリット」は、料理における砂糖と塩のように独立しているパラメータであると認識した方がよく、かつ、それらは一本道におけるトレードオフではなく、脇道にそれた解決策がどこかにあるかもしれない、と言う、思考の出口や、結果として訪れる未来の出口が別にある可能性を、我々は頭の空き容量の部分に常に持っておかねばならない。

宮台真司さん切りつけ後コメント

2022-12-10 11:41:32 | 哲学・社会


と言うことで、
・その9割は実測値ではなく、ネットで得た個人的な体感値ですよね? 
 社会学者には個人的経験則を元に数字を言うのは珍しいと言うか・・・
・宮台さんは別に世論の9割がどう言おうが、その9割はバカなんで俺が言うことが正しいと言う人だったように思います。世論を味方につけるようになったんか・・・
・正直宮台さんは今後過激な言論はやめた方がいいんじゃないかと思います。