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とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

呪いとは何か

2022-11-29 01:29:47 | 哲学・社会
私自身、呪いと言うものはおおよそ信じていない。
おおよそとアバウトに書いたのは、概ね信じてはいないものの、あまり罰当たりなこともしたくない、と言う心理は持っているからだ(ちょっとは信じている)。

が、なぜここで「呪いとは何か」と言うお題で記事を書くかというと、それを信ずる人間はどのように呪いと言うものを考えているのか、と言う整理・分類をするためである。
(井上円了の妖怪学(妖怪について井上自身はそれを信じていなかったが、社会学的にどのように体系化されていったかの研究をした)に近い)。

さて、改めて考えると呪いと言うのは、呪詛と言う言葉で置き換えれば分かるように、人の念動力やその他の現象によって、物理的・化学的・医学的な効力を発揮すると言う分類になる。

あるいは、その呪詛の元が現在において生きている人間でないケースもある。
既にかなり遠くの過去の人の呪詛が生きているか、もしくはその土地や状態が呪詛の元と考えられているケースだ。
近年アフリカが「資源の呪い(Resource Curse)」と呼ばれる状態になっているのもこれに当たり(20世紀後半においてはオランダ病と呼ばれた)、一つの社会現象であるのにも関わらず、そこには何か人間が触れ得ざる媒体が存在し、その大いなる主の意図によって禍(わざわい)が発生するのだ、と言うような論調で使用される。



宗教のごく一部のみを言うが、これを利用したのがキリスト教(「トマスによるイエスの幼時物語」)であり、中期の仏教である。
ある奇跡を起こしたのはその大いなる存在がためであるという教えである。

反して、初期仏教においては、これをことごとく排除した。
通常の多くの宗教が「不思議なことが起きた」→「それはおおいなる存在がためだ」と、ものごとが起こった道理の起点を概念的に説明するのに対し、原初の仏教においては、「不思議なことなど何もない。何かものごとが起きたならば、それの作用を起こす前段の現実的出来事が存在するのだ」と説明した。

まとめると、
・人間は、説明できない不思議な現象が発生した、不思議な起因によった、と言う説明を是認し、あるいは納得する。
・それは今生きている人であったり、大昔の人(既に故人)であったり、自然現象や潮流であったりする。
・それを理論的に整理しきれない時、良いものを奇跡、悪いものを呪いと言ったりする。


今週の似ている曲

2022-09-28 01:32:05 | 哲学・社会
1.5秒くらい似ている

Billy Joel - The Stranger(米 1977年9月)


西城秀樹 ギャランドゥ(日本 1983年2月)


と言うか、このスラッピングっぽい曲は本当死ぬほど作られたと思うのですが、似ているので。

2.5秒位似ている。
待つわ あみん(1982年7月)



乙女 パスタに感動 タンポポ(2000年7月)


「一刻も早く謝罪したい」は何か違うのではないか

2022-08-31 07:20:01 | 哲学・社会

「一刻も早く謝罪したい」“強豪”中学校剣道部で体罰 逮捕された教師を送検 他の部員も被害か
8/26(金) 11:21
https://news.yahoo.co.jp/articles/f132f43eec0ad2839dc409d9b2679d642248793d


と言うことで、それはちょっと違うんじゃないのか的な。
早ければ早いほどいい、と言う事務手続き的な速度が重要なのではなく、いかに自分が反省して、そして詫びるかと言う深度的なものが必要なのでは。

天才の意味

2022-08-23 05:08:19 | 哲学・社会
本屋にぶらりと立ち寄ると、売れ筋の書籍が平積みにされている。そこには「天才」の名前を冠した書籍があった。
その前書きをパラパラと読んでみる。天才と言う意味は昔から現代における個人に付与された天賦の才能、と言う意味で使用されていた訳ではないと書いてある。ジーニアス(天才)の語源であるラテン語はジーニーに通じている。あのアラジンと魔法のランプに出てくるあのジーニーだ。つまりはもともと、ジーニーや古代のその頃のジーニアスとは、どうも守護霊的な何かであって、「この天啓を授けて下さいまし」とお祈りをする対象であり、個人の中に付与される才能ではなく、同伴外注型のものであったらしい。それが近代になるにつれ、その意味が希薄化し、個人の中に属する才能、と言う意味になった。
この意味の変遷について、私はこれを別の形で考えることがあったのでこれを書いておきたい。
昨日、私はユーチューブのとある解説動画に使用されている音楽のタイトル名を知りたかったがどうにもこうにも情報が得られなかった。その動画を作った人に直接聞ければいいが、アクセスは当然のようにできない。が、私はちょっと思うことがあり、Googleの検索ボックスのキーワードに「動画 使用 曲 調べる」と言うキーワードで見てみると、ユーチューブでの動画使用曲を調べるアドインがあると言うところに行き着いた。これがビンゴで、その曲を調べることができた。
さて、一晩経って、これを改めて、距離を置いて考えることができるようになった。これを改めて考えると、どう言うことなんだろう? 
昭和の頃の大昔であれば、本当に天啓が降りてこなければ、本当に本当の偶然と奇跡が起きなければこの曲名には永久に辿り着かなかった筈だ。あるいは、音楽についての知識を途方もなく知っている人間が知己にいなければ(それそのものもものすごく低い確率だが)、知り得なかった情報だ。
あるいは、自分がありとあらゆる音楽を聴いて勉強し、そこにヒットしたから偶然見つけることが出来た、と言う道筋もあり得ただろう。
しかし今、Googleの検索によって、そしてその音楽を一瞬で解析すると言う技術とその提供により、ズブの素人である音楽知識皆無の私がそなや曲を調べ当てることができた。
これは天才と言う意味の変遷ではないのか。無論私に「個人に付与された才能がある」と言いたい訳ではない。冒頭に記載した、天才の定義が更に変遷したのではないか。
つまり、ジーニーにお願いしていたのが、個人の才能に寄与することになり、そして更にそれが、近くに自分が使用できるネット環境があるか、Googleがあるか、そしてその問題を解決するプログラムツールや、あるいは機会イベントとしての構造が用意されているかである。これが、ネット時代の2022年度最新版における天才の定義ではないか。

死とは何かの別観点

2022-06-25 15:34:11 | 哲学・社会
死とは何かと言うと、キリスト教神学の観点においては、「関係の喪失」と呼ばれる。

誰かが死んで悲しい、と言うのは、その人との関係が恒久的に失われたことに起因する喪失を不可避の受動として受けるマイナスの感情である。

あるいは自身が死にたくない、と言うのは、自分が苦痛を受けるのみならず、自己を規定する自己たる意識を消失することを忌避する運動と感情だ。

さて、私がここに補足を別観点で書き出しておきたい。
それは生命哲理の観点である。
この世にいる我々は、皆、なんとなくこの世界を好きでいるようになる。
春の日に小さく生え始める草花を見たり、流れる小川に魚を見たり、うさぎを見たり、あるいは近所の人に優しくされたり、自分が作ったものを誰かにあげた時喜ばれたり、歌を口ずさんだり、誰かに褒められたり、認められたりなどする時だ。
一方で、その逆も存在する。
いじめ、虐待、搾取、長時間労働、ブラック労働、パワハラ、病気、落第、解雇、低迷、諦観、批難など・・・。

こうした時、死が近づくにつれ、我々は上記の良い方の世界とは離れたくなく、それを維持する方向に動く。
だが死は不可避であり、死を認識した人間は、「なんとなくこの世界が好きで、この世界に存在していたい」と言う欲求は、根源的に潰える瞬間が到来する。
この存在欲求の不可避的否定が死であり、死の恐怖とは、自己と言う人間を成り立たせるレゾンデートルとアイデンティティーを滅されることに起因する。

尚、上記のレゾンデートルとアイデンティティーとは次の意味で使用した。

レゾンデートル:
人間集合社会の内部において、自己がどのような立場を確保し、他者から必要とされているのかという、周囲観点から見た、社会における自己必要性の回帰的自己認識。
自分が理由付けした「外部から必要・規定とされる自分とその理由」のこと。

アイデンティティー:
自分自身の内発的特性から見て自己が規定する自分とその要素。
自己内部で規定した自分と、それを元に外部に主張できる自己規定と自己のこと。