私自身、呪いと言うものはおおよそ信じていない。
おおよそとアバウトに書いたのは、概ね信じてはいないものの、あまり罰当たりなこともしたくない、と言う心理は持っているからだ(ちょっとは信じている)。
が、なぜここで「呪いとは何か」と言うお題で記事を書くかというと、それを信ずる人間はどのように呪いと言うものを考えているのか、と言う整理・分類をするためである。
(井上円了の妖怪学(妖怪について井上自身はそれを信じていなかったが、社会学的にどのように体系化されていったかの研究をした)に近い)。
さて、改めて考えると呪いと言うのは、呪詛と言う言葉で置き換えれば分かるように、人の念動力やその他の現象によって、物理的・化学的・医学的な効力を発揮すると言う分類になる。
あるいは、その呪詛の元が現在において生きている人間でないケースもある。
既にかなり遠くの過去の人の呪詛が生きているか、もしくはその土地や状態が呪詛の元と考えられているケースだ。
近年アフリカが「資源の呪い(Resource Curse)」と呼ばれる状態になっているのもこれに当たり(20世紀後半においてはオランダ病と呼ばれた)、一つの社会現象であるのにも関わらず、そこには何か人間が触れ得ざる媒体が存在し、その大いなる主の意図によって禍(わざわい)が発生するのだ、と言うような論調で使用される。
宗教のごく一部のみを言うが、これを利用したのがキリスト教(「トマスによるイエスの幼時物語」)であり、中期の仏教である。
ある奇跡を起こしたのはその大いなる存在がためであるという教えである。
反して、初期仏教においては、これをことごとく排除した。
通常の多くの宗教が「不思議なことが起きた」→「それはおおいなる存在がためだ」と、ものごとが起こった道理の起点を概念的に説明するのに対し、原初の仏教においては、「不思議なことなど何もない。何かものごとが起きたならば、それの作用を起こす前段の現実的出来事が存在するのだ」と説明した。
まとめると、
・人間は、説明できない不思議な現象が発生した、不思議な起因によった、と言う説明を是認し、あるいは納得する。
・それは今生きている人であったり、大昔の人(既に故人)であったり、自然現象や潮流であったりする。
・それを理論的に整理しきれない時、良いものを奇跡、悪いものを呪いと言ったりする。
おおよそとアバウトに書いたのは、概ね信じてはいないものの、あまり罰当たりなこともしたくない、と言う心理は持っているからだ(ちょっとは信じている)。
が、なぜここで「呪いとは何か」と言うお題で記事を書くかというと、それを信ずる人間はどのように呪いと言うものを考えているのか、と言う整理・分類をするためである。
(井上円了の妖怪学(妖怪について井上自身はそれを信じていなかったが、社会学的にどのように体系化されていったかの研究をした)に近い)。
さて、改めて考えると呪いと言うのは、呪詛と言う言葉で置き換えれば分かるように、人の念動力やその他の現象によって、物理的・化学的・医学的な効力を発揮すると言う分類になる。
あるいは、その呪詛の元が現在において生きている人間でないケースもある。
既にかなり遠くの過去の人の呪詛が生きているか、もしくはその土地や状態が呪詛の元と考えられているケースだ。
近年アフリカが「資源の呪い(Resource Curse)」と呼ばれる状態になっているのもこれに当たり(20世紀後半においてはオランダ病と呼ばれた)、一つの社会現象であるのにも関わらず、そこには何か人間が触れ得ざる媒体が存在し、その大いなる主の意図によって禍(わざわい)が発生するのだ、と言うような論調で使用される。
宗教のごく一部のみを言うが、これを利用したのがキリスト教(「トマスによるイエスの幼時物語」)であり、中期の仏教である。
ある奇跡を起こしたのはその大いなる存在がためであるという教えである。
反して、初期仏教においては、これをことごとく排除した。
通常の多くの宗教が「不思議なことが起きた」→「それはおおいなる存在がためだ」と、ものごとが起こった道理の起点を概念的に説明するのに対し、原初の仏教においては、「不思議なことなど何もない。何かものごとが起きたならば、それの作用を起こす前段の現実的出来事が存在するのだ」と説明した。
まとめると、
・人間は、説明できない不思議な現象が発生した、不思議な起因によった、と言う説明を是認し、あるいは納得する。
・それは今生きている人であったり、大昔の人(既に故人)であったり、自然現象や潮流であったりする。
・それを理論的に整理しきれない時、良いものを奇跡、悪いものを呪いと言ったりする。