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とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

人の行動における創発と制御

2023-05-21 00:04:13 | 哲学・社会
社会はどのように構築すべきか? 
そう、社会という自動車を制御するには、方向性と言う政治のハンドル操作、原動力となるエンジンや車体の設計と言う教育、ガソリンと言うエネルギーや電気などがある。

ではアクセルとブレーキは? 
そう、承認、金儲けがプラス、逮捕と刑罰がマイナスになれば良い。


何かをしたい欲求と言うのは、それを野放図に野放しにしておくと、社会共同体に不利益になる。
よってそれを統制し、制御する必要が出てきた。

過去を振り返ってみれば、それが神や教会、王の権威、あるいは許可や金銭剥奪の不利益、あるいは法に基づく刑の執行、あるいは公知による社会地位の失墜やその認識の大衆的付与などだった。
マイナスなことをすると、更なるマイナスが付与されるよ、と言う認識をもたせ、それで制御する。

逆にその統制が効きすぎると、社会が能動的に発展しなくなる。独裁国家が良い例である。
人がより良い共同体への進化をしなくなる。現状維持に甘んずる。

よって、神や教会、王の承認や、あるいはこれをすればより愛が求められると言う形の他、よりお金が儲けられる、より生活が豊かになり、安定すると言う社会様態を保持することがひつようである。

無論、それから取り溢れるものは、きちんと救済をすべきことが寛容である。
経済支援、生活保護など。

中世においては、この変化系と言うべきであろうか、「魂の」救済としての免罪符を発行したことがあった。
これは宗教における高額な聖本だとか高額な壺の押し売りと同じだろう。
これはあってはいけない。

価値とは何か(作業メモ)

2023-05-21 00:03:49 | 哲学・社会
人間が獲得したいものがある。
それらを整理すると物品や能力、属性、地位、金銭や、人間関係のコネクション、男女関係、承認、家族、信頼、長期的安定な生活、勝利欲求、成功欲求などがある。

そうした目標に対し、それらに内在する獲得する際の指標の概念として価値がある。

何を言っているのか分からないと思うが続ける。

インカ帝国では金には価値がなかった。
装飾のための加工しやすい金属、程度の認識しかなく、布などの方が市場に価値あるものとして流通していた。

わずか百年前ほどには、素数と二進数には純粋数学での哲理以上の価値はなかった。
しかし今は暗号通貨として莫大な価値が付与されている。

大昔にはカロリーと言うものには価値があった。しかし今になってはダイエットのためとして、それらを極力摂取しないような労力が払われ、時としてマイナスの価値を生むことになっている。

世の中には人々が欲しいと思うものが時代や土地によって変遷し、そしてそこに欲求の目標を見出す時、それらの総合的な指標の概念の総体系として、「価値」を呼称するんどえある。

言い換えれば、人間の欲望や理想や理念として対象を獲得する際の対象物に内在する属性とも言える。
数値に換算できることもあればできないこともある。

人は何によって幸福になったり、不幸になったりするか(メモ)

2023-05-16 22:43:39 | 哲学・社会
自身が認識するその時々の「何を持ってすれば幸福か」とする社会基準との相対的比較である。
「何をすれば幸福か」と言う絶対的な指標と言うのは、あったりなかったりするのでそれを整理する。

要は社会の中央より上か下かを認識してしまうことによって、人間はある程度の部分的幸福・不幸を自分で決める傾向がある。


平均年収より上か下か

貯金はいくらか

洞窟に住めているか否か

持ち家はあるか

結婚は適齢期にできたか

友人は何人いるか

家族仲は良好か

性交渉の経験人数は何人か

実家が太いか

学歴はあるか

職歴は十分か

地位は周囲に比べどれくらいあるか

繋がれている鎖の長さは、隣の奴隷よりも長いか

身長はあるか

結婚した旦那の収入は他よりも高いか

魚を与えるか、魚の釣り方を教えるか、それとも

2023-05-16 01:35:25 | 哲学・社会
スノーボール 改訂版 上 P348

「ウォール街には古い諺をもじった言い伝えがある」と、後年バフェットは述べている。いわく、「人に一匹の魚をあたえればその人は一日食べ物にありつける。人に裁定取引を教えればその意図は一生食べ物にありつける」。


これは中国の格言が元であるという話もあるが、真実は定かではない。
一方において、古くから使用されていると言うのは間違いないようだ。
元ネタは次のものである。

授人以魚 不如授人以漁
「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えよ」


と言うことで、これをゾマホンが「ベナンに「魚を欲しがる友達に毎日魚をあげるよりも、魚の取り方を教えた方がいい」ということわざがあります」とか言っとったが、これは世界のどこでもあるねん、と。日本人はこれを読んで「ゾマホン頭いい〜」とか言っとった。
ゾマホンが頭いいのと努力家なのは間違いないが、これ知らなかった日本の自分らはもうちょっと反省なさいよと。

まあそれはともかくと、「魚を与えるか、魚の釣り方を教えるか」についてである。

私はこの先のもう一段先、二段先があるのではないのかと考える。

そもそもなんで魚を取らなきゃあかんのかというと、食料を確保するためである。
食料は人間がタンパク質として摂取しなければならないエネルギー源のことである。
なので、魚の釣り方よりももっと抽象度を増せば、タンパク質の確保の仕方、あるいは食料の確保の仕方を考える、と言うことになる。

あるいは人間の生存がこの前提になっていることを考えると、人間とは何か、何によって生存するのか、もしくは超長期で繁栄せしめるのか、を考える。
すると脳のクラウドアップロードもその一つではないか、と言う解が出た時、必要とするエネルギーは電気となり、健康面はコンピュータの故障を考えることになる。

逆側から整理する。
人間と言う自我の集合体を維持したい。
→そのためにエネルギーを確保したい。
→そのために具体的手段として魚を釣りたい。
→その釣った魚を食べたい。

と言うことになる。
ここでのポイントは、上記の上位を見て考えるほど、長期的問題が解決すると言う哲理的な構造の観点である。

また、一方において、エネルギーを確保するならば魚の代わりにじゃがいもでも鳥でもよい。
また、人間という定義をもっと広範に広げるならば、脳のアップロードと言う範囲において、必要なものは電気とコンピューターマシンのメンテナンスである。

第二のポイントとしては、ここでの物語構造の最上位を決定してから後、派生しうるパターンは何かを見出し、そこで必要なものはなにか、と言うものを各段階である程度の特定作業をする考えである。

生まれと育ちの問題 nature or nurture 我々は人生をどう生きるべきかの私からの回答

2023-05-15 00:29:33 | 哲学・社会
思えば、スタジオジブリから、2023年の7月14日に「君たちはどう生きるか」が公開される。今回このタイトルの記事を書いたのは、このジブリ映画の公開を意識した訳ではない。
ただ単に気がつけばタイミングがあっていただけである。
ただ、一方においてそれと対比できるかもしれない私の意見の方をフライングして、事前に書いておこうと思った次第である。それでは書いていく。

結論の一言を言えば、「座したり、移動したりせよ」と言うことになる。この詳細を見ていこう。

我々はどう生きるべきだろうか? 
これは運命だと受け入れて、悲運も幸運も、平々凡々の人生も、それを自己内に受領、消化し、その動かしがたい運命に諦めを持ち、挑戦の意欲を無くし、そのまま世界の潮流と言う潮の流れに自分の人生を埋もらせていくべきなのだろうか。
我々自身、悲運や不運から逃れたいと思ってはおり、そしてそうすべきであるが、しかし一方において、それから離脱を許さぬ世界や社会の構造と言うものがある。

上述の問いに対して、この答えにイエスを言う人間がいる。つまりは運命を受け入れろと言うことである。「置かれた場所で咲きなさい」と言うものだ。しかし中国のレンガ向上の中で奴隷労働の労働搾取を受けている少年は、そこの場所で一生懸命仕事をすべきなのだろうか? 私は違うと考える。

上述の問いに対して、この答えにノーを言う人間もいるが、しかしその具体的な方法や考え方を提示することはない。
そこにあるのは精神論だとか根性だとか、あるいは最初からそう定められているのだと言う脳科学からの決定論を言う人間もいる。

私が思うにこれでは我々の持っている悩みを解決することができない。
そこで私が、様々な宗教の考え方を混交したり、あるいは独自に延伸をしたりして、それの解決策の一つを書いてみることにした。それでは始める。

初期仏教の考え方に、「因縁果(いんねんが)」と言うものがある。
世の中の構造は、ひたすらこの「因縁果(いんねんが)」で構築されており、そしてそれで説明できる、と言うのである。

因縁果と言うのは、世の中の出来事は、初動となるはじめの「因」(原因)があり、それが「縁」(周辺状況や環境:御縁)によって成長・成熟し、「果」(得られる果実・結果)となって現れる、と言うことである。

速く走れるようになりたいと思う子供がおり(因)+それなりに練習することによって(縁)=足がそれなりに速くなるようになる(果)と言った具合である。

細菌などで言えば、落下細菌はそこらに存在するが、培地となるような自分自身が成長できるようなところに降り立ち、そこで自分を繁殖する、と言う具合である。

仏教的観点では、今の自分に対しての実態が悪いことに関して、悪い状況になっているのであれば、それは自分がやった種まきが原因でそうなっているのだ、自分と言う起因(因)と、将来までに帰結するであろう予測とそこへの改善努力(縁)が合わさり、過去にそうしたことをやったことの帰結として実態が現在に訪れているのだ(果)と言う具合だ。
この説諭ではその自己を諌める形になっている。

その結果が次のフェーズの起因となり、その時の状況の縁と合さって結果となる。
更にその結果がその次のフェーズの起因となり、その時の状況の縁と合さって結果となる。
更に更に・・・
と言う形で延々とこの「因縁果」が紡がれていく。
この意味において、自分に悪いことが起きるならば、それは自分が問題なのだ、と。

しかし私はそうは考えない。例えば、年収が低くで労苦にあえいでいる人間は、その親の教育にかける費用や、収入に相関があることが分かっており、それは本人の努力不足のせいではない。
(仏教での解説では、更にここにも因縁果を適用し、そのお父さんとお母さんの間に生まれるようになったのは、前世での因と縁が結びついて、現世に生まれる(果)になったんだよ(「三世を貫く」と言う)、と説明するが、私はこれに与しない。)

ではどう考えればいいのか。
基本的にこの世に生まれる人間は父母を選べない。
ランダムに得意なパラメータ、不得意なパラメータが割り振られて、それでランダムな場所に生まれ落ちてくる。

そこには道理がなく、理由もない。スヌーピーではないが、「配られたカードで勝負するしかないのさ、それがどうゆう意味であれ」と言うことになる。
が、それで納得できるだろうか? 我々はここから更に考える必要がある。

世の中の出来事は全て因縁果だ。これに私は納得する。
が、最初のスタート地点だけはどうにも選べない。ではどうするか。

それは自分と言う花が上手く育てるような場所に自ら移動することだ。
つまり、最初の最初の結果が出ていることはもう仕方はないことなので、その次のフェーズの結果を得るために、それを育てるための良い状況や環境(縁)を逆算して、そこに移動せよ、と言うことになる。

普通の花は、自分が咲く場所を選べないが、人間と言うものは、人生の各フェーズにおいて咲く場所を、自ら計算して選べるのだ。

よく「置かれた場所で咲きなさい」と言う言葉があり、苦難や困難が生ずる場所でも、それに耐え忍んで生きなさいと言う説諭がされることがある。
が、それでは北朝鮮にいる人間はそこで耐え忍ぶべきなのだろうか? 
あるいは中国のレンガ工場にいる少年は一生懸命仕事をして労働搾取があってもそれに一生を捧げるべきだろうか? 

無論これは自身の内部の美徳に照らし合わせて、そうせねばならない時がある。
だがそれは、他者から命令されるものではなく、自己で判断すべきものであって、そこには、搾取や他者からの恣意的なコントロールがあるべきではない。

よって、自分や自分の周辺の人間を助けるためには、今の人生における不利な状況や環境を変更し、そこから移動することによって、将来のより良い結果を得るための周辺環境の獲得を目指さなければならないのである。

その状況が良くなったらそこに定住し、悪くなったら移動すれば良い。
無論逃げ出すことが悪い、と言うこともある。
ただその論理は、内発による理念や理論、あるいは愛や正義、勇気によって型作られるべきものであって、強制であってはならない。

中国の古典『周易』には「行き詰まったら変える。変えれば通る。通ったら続ける」と言うものがあるという。これは「行き当たりばったりじゃないか」と言う批判の文脈で使用されるが、しかし私はいい言葉だと思う。世の中、大計画を立てられず、その時々のアクシデントや果報における渦巻く潮流の中で、それぞれに対応をせねばならないからだ。

ボクシング王者として君臨したマイク・タイソンは、「誰もがプランを持っている、口元ぶん殴られるまでは」と言った。
誰でもアクシデントは経験する。それが中期的になると見越されるのであれば、そのアクシデントが発生する場所を物理的に移動すべきである。