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とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

認識の指示と検査 ビットコイン

2023-06-20 23:10:12 | 哲学・社会
ビットコインと人間の認識(主に哲理)の共通点を発見した。

ゲーデルが不完全性定理を発表したように、人間の知識と言うものはそれ自身によって担保することができない。
かなり乱暴に言えば、「クレタ人「クレタ人は嘘つきだ」」と言うパラドックスが成立してしまうというのが論理の文法であるということだ。
(好意的に部分的な解釈をすれば、基本殆どのクレタ人は嘘をついているが、唯一例外の正直者のクレタ人が他のクレタ人を指してそう言っているのかもしれない、と言う理解の方法はある。だがこの件で言いたいことはそうではない)。

要は数学でも哲学でも最大多数が支持しているからその理論が正しいと言うものだ。


世界の辺境で、ただ一人真実を知っていても、多数派に支持されない限り、それは真実ではないと言う皮肉。本当は支持の人数がいかに少なかろうが、それは真実であるべきはずなのに。

【漫画】センゴク権兵衛 妙算の息子

2023-06-20 22:29:31 | 哲学・社会
漫画「センゴク権兵衛」において、妙算の息子が出るシーンがある。
最初は幼少期で、秀吉の影武者を鉄砲で狙ったが、逆に妙算に狙撃され、利き手の人差し指を失う。

これが最終回になって、老人となったその妙算の息子が出る。
妙算の羽織を背負って(いやでもやけに新しく見えるな)、「風貌が似ている」との本人談だが、本人は妙算の息子だとは思ってないようだ(気づいていたかもしれないが)。

冒頭のシーンでは、母が父親を守るために火の中に飛び込み、父はその子の人差し指を飛ばし、逃し、そしてその死んだ母との約定を定もうとした。

愛すべきこの作品は、できるだけ多くの人に読んで欲しい。

コンピューター・プログラムとは何か(哲理編)

2023-06-18 17:32:33 | 哲学・社会
私個人の意見。
コンピューター・プログラムとは一体何であるか。これを哲理的に掘り下げていく。

結論から言えば情報処理をコンピューターに実施させることである。
ではこの情報処理とは何かというと、与えられた煩雑で膨大な情報を一定の法則で加工・整理・出力することである。
ではこの情報とは何かと言うと、情報とは認識の固着のことである。

例えば、誰それさんが英語ができる、誰それさんはピアノが弾ける、誰それさんは足が早い、誰それさんはリーダーシップがあると言うような情報と言うのは、人間のグループ内における再利用できる認識のことであって、これが効率性をもった体系に変化すると、これが知(エピステーメー)と呼ばれる。

これが例えば上記のような子供がそれぞれにいたとして、それが教師の頭の中にあったり、あるいはプリントの中に印刷されていたり、あるいは電子ファイルの中にあったりする場合、それはそうした認識がそこに存在することになり、それがそれぞれの媒体に固着しているとみなせる。その固着した総合的な体系のことを情報と呼ぶ。

こうした情報を元に、1クラス40人の振り分けで、学年に120年いた場合、3クラスできる訳だが、それぞれにそれぞれのパラメータを割り振った児童を振り分けることになる。
例えば、クラスに一人ピアノが弾ける子を配置し、リーダーシップを取れる子を配置する・・・などである。あるいは前年度におけるテストの平均のばらつきを各児童の情報に付与するかもしれない。そうしてクラスの振り分けを行っていく。

この固着した認識、即ち情報を加工・整理・出力するのが情報処理である。
そしてこれを手動でやっていたものを、一定のロジックによってコンピュータを使用して出力するようにしたのがコンピューター・プログラムである。

元々プログラムと言えば、50年ほど前の社会一般において、「運動会のプログラム」「音楽会での演奏プログラム」のように、事前に計画された組織内での進行・運動と言う形でしか使用されていなかった。
(現在のようにコンピューター・プログラムを指すような一部例外はあったとも思うが、しかしそれは一般的ではなかったことは間違いない)。

決まった方式によって処理を行う、それをコンピュータに任せることに何のメリットがあるのか? と思うかもしれない。但しこれは大変な労力の節減になる。

例えば、上記の120人の児童を3クラスに分ける作業は、まだ手作業でいけるかもしれない。
ところが仮に400万人程度のテストをさばくとなるとそれを行うのにそれなりに手数が必要だ。
だが、コンピュータはそれを一台において数十分程度でこなしてしまう。

要は上記に挙げた情報処理の捌きの人員コスト、速度コストを劇的に向上する効果があるのだ。

抽象とは何か

2023-06-01 01:36:17 | 哲学・社会
抽象とはなにか。


ちゅうしょう
【抽象】
Oxford Languagesの定義 ·

《名・ス他》
多くの物や事柄や具体的な概念から、それらの範囲の全部に共通な属性を抜き出し、これを一般的な概念としてとらえること。
 「事物の差異や共通点を―する能力」



抽象
ちゅうしょう
abstract
https://kotobank.jp/word/%E6%8A%BD%E8%B1%A1-97265

与えられた対象全体から、特定の性質や共通の徴表を分離し、抜き出す精神作用をいう。たとえば、人間全体から顔だけを表象として分離することは対象と同次元上の切断で、本来の抽象とはいえない。赤いネクタイから「赤さ」か「形」だけを抽出すること、また、ポスト、熟したトマトなどから共通の赤さを選び、赤、青、黄から「色」を抜き出すことは抽象である。抽象は不要な契機を捨てる捨象を反面に伴っている。抽象には普遍性、一般性の度合いがあり、高度の抽象は言語作用と密接に関係して、普遍名辞や命題の形成、類型化、理論構成に前提され、日常的、学問的活動に不可欠な作用である。形容詞の「抽象的」は「具体的」の対概念として使われる。ただし、たとえば自然数の「1」は1本の鉛筆、一匹の犬などよりは抽象的だが、「自然数」や「数」全体の概念などに比べれば具体的であるように、抽象性、具体性は基準のとり方で異なる。


とのことだが、私が考える抽象の説明はこれではない。
それを述べていく。

上記での具体的説明はほぼ合っていると私も考えるが、その前段「多くの物や事柄や具体的な概念から、それらの範囲の全部に共通な属性を抜き出し、これを一般的な概念としてとらえる」「与えられた対象全体から、特定の性質や共通の徴表を分離し、抜き出す精神作用」は正しくない。これはどういうことか。

端的に言えば、我々人間は特殊な認識の仕方をしているのだ。

例えばりんごで言えば、

もの
┗たべもの
 ┗くだもの
  ┗りんご
   ┗ふじ
    ┗山梨県産
     ┗山田さんのりんご畑でとれたもの
      ┗の内、1991年に出荷されたもの
      ┗の内、1992年に出荷されたもの
          ・・・
     ┗田中さんのりんご畑でとれたもの
    ┗長野県産
    ┗山梨県産
     ┗佐藤さんのりんご畑でとれたもの
      ┗の内、1991年に出荷されたもの
     ┗金井さんのりんご畑でとれたもの
   ┗ジョナゴールド
  ┗みかん
 ┗穀物

と言う感じで、我々人間は「グループの中にグループを作る」と言う形で包含的な認識を行う。
小さいところを特定すればするほど(下位の具象的な要素を指定すればするほど)、それが個として特定されていく。
その特定を外せば外すほど(下位の具象的な要素の指定を外せば外すほど)、大きい認識のグループの単位となっていく。

この特定要素(具象的要素)を外す「上位に向けての概念認識を指定する作業」を抽象化と呼び、その総体系が抽象と呼ばれる。
逆に「下位に向けての概念認識(具体的要素)を指定する作業」のことを具象化と呼び、その総体系を具象と呼ぶ。

よって、これは辞書の説明とは異なる。辞書の説明では、用意された複数の要素の共通要素を見出して具体的概念として捉える、と言うことだったが、そうではなく、「用意された複数の要素を『入れられる袋』って一体なんだろうな」と考えるのが正しい。

例えば、りんごとみかんがあったとして、両者には「果物」と言う属性がくっつういているのでそれを抽出して一つの概念にする、と言うのが辞書としての説明であるが、そうではない。
りんごとみかんを入れられるものはなにか? と言うとそれらを全体として包含するのは「くだもの」なのである。
そして人間とはそういう認識をする。くだものの袋の中を見ればりんごとみかんがあった、と言う具合である。

共通する部品を探すのは人間の認識として不自然である。
私個人の意見としては、抽象化するには、共通する部品を探すべきなのではない。
それらを入れられる概念や認識としての袋を探すべきなのだ。

その各要素を包含できる概念や認識こそが、抽象化した概念や認識として呼ぶにふさわしいだろう。
また思考のプロセスはそうあるべきである。

人間社会構築の自己矛盾

2023-05-31 22:53:12 | 哲学・社会
人間社会と言うのは、人間それ自身が望んで構築したものである。
しかしそれにも関わらず、そこにいる人間自身が傷ついたり疲弊したりする。
そのような自己矛盾をいつの時代も内包して来た。

例えば王政だ。
人間は社会学的に150人単位で集合する性質を持つ。
一方、それを神話や噂話と言う想像におけるニカワを用いれば、それ以上の国家と言う単位を持つことが可能になる。
集合をした場合事業の運用を行うが、そこでは構造を発生させることになる。
その事業運用の構造には、大きく分けて支持職制と現場職制の二種に分かれる。
この二種がそれぞれ社会構造の上層部と下層部に分かれることになり、それが地域や時代ごとに細かくなったり大雑把になったりする。
その階層が固着化し、社会地位となり、ヒエラルキーとなる(そのトップが王)。

人の集合と言うものは、大集合的には、望んで王政を選択し、構築したはずだ。
一方、それであるにも関わらず、そこには問題が積算し、自重に耐えきれなくなった人間社会のピラミッドは自壊を起こし、別の集合体制へと移行する。

これは王政から移行した資本主義体制下の社会でもこれが言える。
資本主義社会は無論のこと人間集合が作ったものだ。
しかし資本主義社会と言うものは、人間自身が自ら作ったにも関わらず、次第に発生するであろう問題を構造的必然として内包し、そこにいる人間は疲弊し、不満を鬱積させた。
人間の作った構造が人間自身を苦しめると言うのは、王政であっても資本主義社会であっても変わらない。
人は自己実現のためという名目に踊らされ、社会的地位の上昇を余儀なくされ、競争を強いられ(しかし不思議なことに社会的規範として確立しているがゆえに他人から押し付けられていると言う意識はない)、労働を強いられ、疲弊をし、人間らしい生活を送れなくなっている。