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とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

経済の人口進展理論(仮説) 第二のマルサスの罠を突破せよ

2023-08-14 02:12:05 | 哲学・社会
私の個人的な作業仮説。現代社会は第二のマルサスの罠を突破すべきである。
以前も書いたかもしれないが、改めてこれを書いていく。

まずマルサスの罠は何かと言うと、18世紀末にイギリスの経済学者トマス・ロバート・マルサスが著書「人口論」で主張した論で、人口はその社会構造から言って、どこかで人口増加がストップせざるをえない、としたものであった。
ごく簡単に言えば、穀物は畑を耕した分だけちょっとずつ収穫が増えるのに対し、人口は倍々ゲームで増えていくので、穀物の生産量よりもそれを食べる人口の方がどこかで追い越し、歴史上のどこかの時点で食わせられなくなる人間が出てくるのでそれ以上は増えない、と言うことであった。

だが、今見ての通り、19世紀から20世紀にかけて世界人口は尋常ではないくらいに増えた。これはマルサスの言っていることが誤りであった、と言うことではなく、そのマルサスが唱えた社会法則を突破する発明が登場したからである。
その名をハーバー・ボッシュ法と言う。これは化学的発明であり、元々植物の育成には窒素(植物における窒素固定)が必要で、それの確保を従来までは土壌内での根粒菌に頼っていたが、このハーバー・ボッシュ法により窒素入りの肥料を生成できるようになったため、単純な穀物収穫量が人口増大を担えるくらいにアップしたのである。

こうして世界はめでたく、マルサスの罠を超え、人口も順調に増えて繁栄していったのであった、めでたしめでたし・・・

と言う訳には行かなかった。
どういう訳であるか、世界人口は増えつつあるが、先進国人口は減少に転じている。
これを社会構造から来る「第二のマルサスの罠」と捉え、別途の発明や改革によって変革をせねばならない。

ここからは私個人の私見であるが、様々な要因が絡み合ってこうなっていると言うのは間違いないが、主に先進的権利の認識獲得による晩婚化、養育費よりも親世代年収が低下したことによる計画上の出産数の低減などがあり、これを突破せねばならない。

系とは何か? 変異とそれにおける測定概念

2023-08-11 12:01:55 | 哲学・社会
系とは何か? それは変異とそれにおける測定概念である。
これだけだと何のことだか分からないのでこれを書いていく。

我々は様々な尺度を要素ごとに分解し、その量や長さなどでその塩梅がどうなっているのかを知るし、そういう風に系統立てている。

例えばこの料理を作るには、砂糖と塩はどれくらい必要になるのか、〇〇地方では降水確率がいくらくらいなのか、海に出ればどこ向きの風が風速何mなのか、ウクライナで使用された砲弾はいくつで、これからどの地域にどれくらい必要なのか・・・

これは一体なんだろう? とある地域の週間天気予報で考えてみる。

とある地域は緯度と経度がいくつで、その降水確率は今日は80%明日は50%、明後日は40%だったとする。
この場合、この要素は緯度、経度、日ごとの降水確率の3つである。

これらは一体なんであろうか? 度量衡? 違う。
これらの要素は「系」と読んで差し支えないだろう。
あのエクセルでグラフを作る時の変数要素である「系」である。

緯度と経度は変わらないじゃないか、と言う指摘もあるだろうが、天気予報を作る側からの観点で見れば、それは一箇所の天気予報だけを作るわけじゃなく、複数箇所の天気予報を作るものだから、変動するものと捉えてよいと私は考える。

ではこの系とは何か? 位置的変化だろうか? xとyの関係であればそう考えても良いかもしれない。
しかしその時降水確率は位置ではないだろう、と言う話になる。

では系とは何か? この時、変異とそれにおける方向の決定とそれに基づく測定概念であろう、と言うことになる。

これはあらゆる数学的な扱いを行うことができるだろう。
この料理だったら塩1:砂糖3、この料理だったら塩2:砂糖3・・・
この犬種だったら散歩は毎日で○kmが適切
この猫でこういう病気であれば、この水分多めのフードで毎日ooogが適切
TOEIC800でプログラミングができる、このレベルの人材を獲得するために必要な年収はXXX万

「めんどくさい」の同調圧力

2023-08-08 01:26:43 | 哲学・社会
今回は、哲学的一般論ではなく、極めて個人の持論に近いものになるので、本来は雑感カテゴリーが妥当な話題だが、個人的な内部の感覚としては何をどう考えるかと言う道筋へとつながる兆候があったので、カテゴリーはこことした。

なぜ我々は面倒臭がるようになったのだろうか。

私の個人的な経験で言えば、学校卒業までは、何かに精神的疲労を感してスタミナが減ること感ずることはあっても、それが忌避感(=面倒さ)を感ずることはなかった。
そう教育されていたからだと思う。

ただ、他の学生を見るに、明らかに精神的疲労と忌避感が一致して到来していたように思う。この差異は一体何だったのだろうか。

こうした特異な経験をしてきた私個人が私個人の視座の内に思うに、これは恐らく「徒労と言うのは面倒くさいと思う教」と言う宗教の洗脳ではないのか、と考える。
逆に周囲が私を見れば、「あらゆる徒労を面倒だとは思わない教」の洗脳にかかっていたように見えただろう。
ところが私は周辺の人間の同調圧力や文化的慣習の力に負け、「徒労と言うのは面倒くさいと思う教」にいつの間にか鞍替えしていた。

私が先日、とある集団の会合に出たところ、会話してみるに、その一部は完全に「あらゆる徒労を面倒だとは思わない教」の信者であった。過去の私と同じである。

そもそもなぜ徒労を徒労と思うのか? なぜそれは無駄だと思うのだろうか。
世の中生きているだけで意味があることなど少ない。
その「意味の無いロード」を大地をこの上なくグリップし、それを最大の力で蹴り上げながら他人の視線を数キロ後ろに置いてけぼりにして走り続けるのが人生と言うものではないのか。追いついてこれない人間が悪いのだ。

面倒とは「やることが意味をなさずに徒労として終わる」と言うことへの未来への忌避感や心理的負担であるが、何かを残せばそれは意味が残るのか? 称賛を受ければ意味が出るのか? 報酬が出ればそれは意味が残るのか? そうではなく、自身の活動そのものが意味そのものなのだ。我々が普段感ずる成果とは、その闊達なる活動の二次派生的に生成された副産物にすぎない(いやそれでも金は欲しいな)。

さて、そしてそういう考え方を熱のあるものだとして、冷笑するのが一般のトレンドであるが、その冷たさに意味は存在するのか。
できない人間であるならばできない人間なりにコースのスタート地点に陣取って、這いつくばって1cmの進展を見せればいいのだ。それを誰も絶対に笑いはしない。

私はその冷笑を受けたこともあるし、逆にその冷笑をしてしまったこともある(後悔している)。
あるいは冷笑をした人間を置いてけぼりにしたこともあれば、冷笑した矢先に置いてけぼりにされたこともあった。

そして問題なのが、最終的に冷笑した人間に勝てば良かったのだが、結果として私は負けた。
これは良くない。
私はできない人間として十数年下を向き続けてきたが、再度スタート地点に這いつくばり、十分に動かせない手足を使って1cmのスタートを切る。それが生涯で1cmしか動かせなかったとしても。

狂気の規律か、真なる自由か

2023-07-29 19:22:08 | 哲学・社会
私は先日ちょっとしたとある会合に出た。
全員がほぼ初対面で、あの場に出て本当良かったと思っている(尚、正直申告すると一番頭が悪いのが私)。
出席された方々ありがとうございました。

半分以上が大学院卒もしくは大学院生で、細かい内訳を見ると、一人は卓越大学院で教鞭を取っている人、一人は東大の人だった。

で、話がぶっとんでいるというか何というか・・・

映画のセッションの話をされた。
セッションと言う映画は、音楽におけるドラマーの最高峰を目指す話であるが、その中で、自分の私生活を何もかも捨て、狂気なまでにその純粋な高みを目指す、と言う映画であるらしい。今の理系大学院がこれである、と。
(それに反発して辞めていく院生も多いとのこと)。
ちなみにこれを話した本人がそこの集会場所に来た時、「いや〜30連勤で」と言ったのが第一声だった(ひぇ〜)。タフすぎる。

こういう話を聞くだに、児童成長時に既成概念として形成される「体力がない人間が学問に行く」と言うのは甚だにおいて間違いであって、「学問には体力が(問う必要のないくらいに)必要とされる」と言う現実をしみじみと認識させられる。

さて、私は悩んでいる。
純粋に何かを求める。そこのトップに行くには、何かを捨てなければいけないのか? いや捨てるも何も、自分は最初から何も持っていないじゃないか、と言うことではあるのだが、それ以上に捨てることになったら私はこの人生やっていけるのかということである。

ミシェル・フーコー「人間は自らを律する能力が備わっている。だがそれは同時に自らの自由を手放し、今ある秩序に服従するということでもある。」

自分が求めるところを求めるために、狂気に満ちた海に潜り込まなければいけないか? それとも冒険を求めずに、安静に生きた方がいいのだろうか? 
規律による牢獄にいるが、そこでの修練の結果を得られる不自由と、
義務が完全にはないが、何も得ないと言う自由の獲得とをどちらを選択すべきなのか? 

そのいいとこどりはできるだろうか? あるいは中庸は? 
深い海に素潜りで潜ってクジラと対峙するのではなく、トロール船を出して底引き網漁をすべきなのか? 

戦略とは何か

2023-07-01 21:34:57 | 哲学・社会

戦略(せんりゃく)の意味・使い方をわかりやすく解説 - goo国語辞書
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%88%A6%E7%95%A5/

1 戦争に勝つための総合的・長期的な計略。スポーツの試合においても用いる。→戦術

2 組織などを運営していくについて、将来を見通しての方策。「経営―の欠陥」「―的人生論」「販売―を立てる」



戦略を私なりに咀嚼して言い換えると次のようになる。

戦略とは知的営為の内の一つ。対戦相手がいる場合の勝利の拮抗点、あるいは事業に対する成功の到達点への獲得において、知略を用いて遠謀深慮をし、通常の平押しでは叶わぬ効果的かつ効率的な全体運用を行う知的営為のことである。

具体的には、カードを組み替えて出すことによって、優勢の確保、もしくは勝利の獲得をすることである。
あるいはn次のカオス系の読み合いによって、それを制することである。

カードの組み換えの場合は次のようになる。
相手のカードが5枚、自分のカードが5枚あり、それを1枚ずつぶつけあって、カードに書かれている数字が高い場合に+1点を獲得するルールでのゲームがあったとする。
相手の持ち札が、それぞれ10,8,6,4,2の点数を持つカードだったとする。
自分の持ち札が、それぞれ9,7,5,3,1の点数を持つカードだったとする。

相手が上記のカードの順番で出すと分かっている時、自分はどう出すべきか。
平押しで数字の高い順に出していては、0:5で点数を全部相手に取られてしまう。
なので、出すカードは1,9,7,5,3の順で出せば、4:1でこちらの勝利だ(初手のみ1⇔10で負けるが、それ以外はこちらの持ち札の点数が高い)。
これを複雑にしたのが戦略だ。
カードの組み換え、順番、タイミング、出す位置を、頭を使って、勝利の獲得もしくは優勢の確保をすることが戦略なのである。

n次のカオス系とは、次のようなものだ。
天気予報など、細かい粒子の大集合が、その次の局に影響を与えると言うものを1次のカオス系と呼ぶ。
そして、その渦中のプレイヤーが二人以上いて、それぞれがカオス(細かい粒子の大集合が形成する潮流)を作り出す時、そのプレイヤーの予測が、最大効果や効率を見込んだ動きとなり、相手を牽制し、その牽制を避けるために、更にその相手のプレイヤーがそれを避け、最大効果や効率を見込んだ動きをしようとし・・・と言う延々と連なる予測の読み合いをしたり、あるいは発散する予測が予想しない結果を生むなどの効果をもたらす場合、n次のカオス系と呼ぶ。
その中であっても、更にそれを踏まえた上で最大効果や効率を見込もうとする動きが戦略である。

いずれの場合も全体的な情報の獲得、あるいは考え方の修得が攻略や優勢確保に必要になってくる。