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とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

反事実と言う言葉について

2023-09-15 02:12:14 | 哲学・社会
まずは基礎解説。私は先日知りました。


反事実的思考 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E4%BA%8B%E5%AE%9F%E7%9A%84%E6%80%9D%E8%80%83

反事実的思考(はんじじつてきしこう、英:Counterfactual_thinking)とは心理学における概念で、すでに起こった人生の出来事に対して実際に起こったこととは反対のことについて起こりうる出来事を考え出す人間の傾向に関するものである。

反事実とは、文字通り「事実に反すること」を意味する[1]。この思考に中には物事が違う方向に進んだかもしれないと考えるときに起こる「もし...だったとしたら?」や「もし私が...さえしなければ」という考えから始まり、その場合に結果がどう変わるかについて考えることが含まれる。反事実的思考には今現在のことで、現実には起こりえないことも含まれる。それが過去に起こった出来事だけに依存しているためである。



と言うことなのだが、これがもう誤訳と言うか、直感に反した適切でない訳になっていることが分かる。

一見、直感的には、「反事実的思考と言うのは事実じゃないこと(事実に反すること)を考えるのかな〜」などと思うのだが、そうであってそうではない。

まず発生した事実が思考の主軸として存在する(Factual)。
これを一つのマス目に入れるが、その対になる隣(カウンター)に「事実じゃないけれども、もし仮にあの時ああしたなら結果は違ったんじゃない? 」と言うような仮定のifを想定し、考察することが反事実的思考である(Counterfactual)。

事実じゃないと言うのは、想定や想像をあたかも事実であるかのように論ずる、と言うことではなく、あえて事実じゃないことを反例として登場させ、それが事実でないとしても思考の補助線を反例の提示とそこから導かれる想定された結果によって引き、我々の複数方向からの重層的観点を得るための思考のツールである。

例)
普通にクリスマス商戦で広告打ったらそこそこ売り上げられた。(事実)
もし広告打たなかったら売上が無かったのでは? (反事実)
→2つを考えて、それを複合的に想定することで、今後の我々の判断力に厚みが増す。

で、なんでこんなことを書いているのかというと、先日東大の大学院の院生2人、東大大学院卒の人一人、で、私の4人でああだこうだ議論してたら「反事実が」「反事実が」と言っていた。で、私が反事実と言うものが分からないので、「すみません、反事実って何ですか? 」と聞いたらまあこんな感じだったと。

ここから分かること
・平均年収において、一般の中央値からそれるのは、一人の富豪がいると平均を大きく押し上げることからそうなる。
・ここでは私一人があの場で一人大きく偏差値が低い人間だったので、あの場はそれなりに低くなった。
・すんません。
・で分からなかったら丁寧に教えてくれるんよね・・・ありがとうございます。
・議論している時本当に楽しかった。

「甘え」の構造について

2023-09-09 00:59:55 | 哲学・社会


土井建郎 「甘えの構造」

本書で出てくるのが「甘え」って言うのは、英語に存在しない概念だと。
訳せん。
これ方法でじゃあ甘えとは何なのかと定義してみましたと、大体こういうことですっていうのが出てきまして。
その定義が自分にとっては都合が良く相手にとっては都合が悪いことを主張するにも関わらず相手には不快だと思われたくないという感情みたいな定義をされていて。
(中略)
確かに。例えば何か寝坊して遅刻するみたいなのとかをしてたんですよ僕。常習犯だったんですよ遅刻の。今もちょっと遅刻しちゃうことあるんですけども。
この定義を読むとさ俺すごいことを相手にしてるなと思って。
自分は相手に迷惑をかけてるのに、いやでも嫌わないでいていくれって言ってるわけじゃん。
すごい傲慢だなと思って。


と言うことだが私の意見はここからちょっと違う。

基本路線はこれで良いと思うが更にブラッシュアップできる。

日本人はものごとの営為にとある標準線を引く。これに到達しなければダメだ、と。
で、おおよその社会の規範標準として、誰もがそれを行うようになる。

が、「そこに到達するにも努力がいるし、それはしんどいし、めんどいから、それはやらなくてもいいじゃん」と言うような、その到達点に到達しない、自己の営為の到達ラインのマイナスを怠惰によって許容する。
それが戒めと共に「甘え」と呼称されるようになった。

上記の例で言えば、
「その定義が自分にとっては都合が良く相手にとっては都合が悪いことを主張するにも関わらず相手には不快だと思われたくないという感情」
と言うのは、社会の標準線が相手への礼儀であり、それに到達する義務を日本社会の場において全員が負っているが、しかし怠惰な気持ちにより「そこに到達しなくてもいいじゃん」と言う怠惰とそれを戒める言葉が渾然一体になったものが「甘え」である、と個人的には考えておきたい。

情報の秘匿の本義

2023-09-03 11:33:31 | 哲学・社会
読まれている方がいらっしゃれば、今回の記事は私自身のメモとして書く。
なので、普段にも増してかなり訳の分からない内容になっているが、ご容赦頂きたい。
(私だけが分かればいい)。

では始める。

情報と言うものは、公開されるものと秘匿されるものの二種があるが、これはなぜそうなるのか。
秘匿の本義とは何か。公開の本義とも併せて記載する。

そもそも情報とは何かと言うと、人の認識が固着したものの総体型と言うことになる。
何もコンピューターネットワークの上にあるものだけが情報ではない。
大学の図書館の中にある小さい文字に記載された小さい発見も情報である。
あの人の頭の中にだけある人脈と電話番号も情報である。
これらは全て、どこかの認識がどこかに固着して体系化され、蓄積された後に伝播されるものとなる。
これはコンピュータ界隈で言えば、プログラムやバッチによる情報処理、データベース、ネットワークに対応する。
そしてこの再利用可能なものになった体系化された認識が知(エピステーメー)と呼ばれる。

さて、これらはなぜ秘匿されたり公開されたりするのだろうか。
それは目的が異なるためだ。

秘匿をするというのは、その情報が他者は知らずして関係者に伝搬されて最大効果を発揮することを見込んでそうするためである。

ここに10兆個のドアがあり、正解はその内の一つだけ、と言う問題があった場合、正解の情報を知っているのと知らないのでは成功の可否に雲泥の差がある。
これがよくある技術情報だったり設計図だったりする。

これを公開して世界の技術的進展に貢献をしながら、その権利を守ると言うのが特許である。

ただ、技術的秘匿のみならず、自分の主権を守らんがためにその情報の伝播を秘匿する必要もある。
これは内外における情報の有無を確保する、つまりは内側は情報を共有するが、外側には出さないという差異の状況を保持することによってなされる優位性が、人間社会では守られるべき権利として認識されており、かつ現実にそう運用されている、と言うことになる。

一方公開においては、それらの情報を知っている人数が増えれば社会の力になると判断された時に、その効果と力を生む。

これは1:1で伝えられる情報が1:nになった時、そのnが広く、そして速く伝われば伝わるほどその力を発揮する。

古代ギリシャで、師匠から弟子に1:1でリアルタイムでしか伝わらない秘密の技法は、テクネー(τέχνη:techne)と呼ばれた。
百科事典ができた時、それは誰もが、そして時代を超えて多くの人が情報を摂取できるようになった。
そのテクネー(techne)が論理的整理と技法(logic)に出会った時、その総合された体系はテクノロジー(technology)になった。
活版印刷が発明され、1:nの情報展開は更に加速した。
これがルターの宗教改革へとつながる。
コピー機が登場し、1:nの情報展開は更に加速した。

ソロスのコピー機事件 - kidooom's Scrapbox
https://scrapbox.io/kidaaam-92022284/%E3%82%BD%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%83%94%E3%83%BC%E6%A9%9F%E4%BA%8B%E4%BB%B6

>有名な「コピー機事件」がある.当時,[社会主義]政権下の[ハンガリー]では情報の伝達を制限するために,コピー機には文字どおり鍵がかけられており,使用者が限定されていた.そこでソロスは,文化機関や科学機関にコピー機を寄付するプロジェクトを申し出る.ハンガリー共産党は協議の末,結局このプロジェクトを受け入れることにしたが,しかしコピー機の大量導入によって情報の利用可能性が高まると,共産党はしだいに情報統制力を失い,1989年には崩壊するに至る.ソロスの慈善事業のなかで,これほど成果をあげたものはないだろう.


コピー機の時代にインターネットの到来など考えもしなかった訳で、コピー機の時代は「1:nは現代において最高度に達した」と思っていただろう。

そして今、インターネットがあり、1:nは現代において最高度に達した。

この後に来る進化があっても、それは公開という方向性、そしてそれによる効用が拡大するのは間違いはない。

ただ、そこにはやはりまだ秘匿による情報格差によった個の利益の最大化が認められており、かつ、公開による量の進展によった集団の利益の最大化もまたそこに有り続けるだろう。

小さい余談だが、ITによる秘匿の技術はセキュリティーなどがあり、これは楕円曲線による暗号化や、ゼロ知識証明などが、自分らには秘匿をするが、他人には見せない、だが、それでありながら公共のサービスや、他者への証明を為す、と言う需要があり、それを実装する必要がある、特に昨今は数学的に、と言う社会が生まれていることを示している。

ブロックチェーンの応用範囲について

2023-08-31 07:53:17 | 哲学・社会
昨日寝る前に出した結論を書いておく。

ブロックチェーンは過去に記録した内容は変更不可の追記型データベースである。
これが仮想通貨やスマートコントラクトに応用されると言う技術の進捗が引かれているのが今だ。

さて、これは社会のどこに応用すべきか、と言うことを一歩引いた状態で改めて考えてみる。
今ある仮想通貨以外の利用方法については「この特性は何に使用すべきなのか」と言うのが整理しきれていない感が否めず、迷走しているように見える。
これを端的に整理する。

簡単に言えば、公的(パブリック)なところで応用すべきである。
逆に私的(プライベート)なところでは使用すべきではない。
これが両方あるパターンもあるし、むしろその要素の方が多いが(後述)、一旦これを整理する。
これはある意味、何をどうすべきかと言う思想問題であり、どの主義を採用するかという戦争でもある。


まずパブリックな面だが、公的資金がどのように使用されたか、その追跡ができるようにするパターンである。
政府の歳入と支出はどこからどこへ流れたかなどである。
あるいは企業や民間組織の会計情報である。
これはまとめると、個々人が集合して形成した公的組織の透明性を確保するために行う。
株式の出資者が、利益配当での透明性を高めるために利用し、鉛筆を舐める余地を残さない。

本質的にはこれは一体何であろうか、と言うことを考えた場合、次のようなものになる。
「個々人が集合したものについては、その個々人にコントロールされるべきで、一部の人間にコントロールされるような秘密主義に傾倒すべきではない。」
これが要請される場合、ブロックチェーンを使うべきだろう。

一方、逆にやってはいけないのは中国アリババグループが提供する芝麻信用などのプライベートな信用情報である。
確かにこれは信用情報が蓄積されてシステム化できる。
だが、これは上記のものとは逆に、一部の人間にコントロールされるような秘密主義となり、その一部の人間に個々人全体が支配されることになり、その個々人に与えられた権利を奪いあげ、一部が全体を、組織が個々人をコントロールすることになるのでやるべきではない。

本質的にはこれは一体何であろうか、と言うことを考えた場合、次のようなものになる。
「組織の一部の人間が秘密裏に全体を管理・コントロールせしめうるような、個々人の権利を侵害する時などには使用されるべきではない」
こうした近代以降の自由主義国家において醸成された権利の侵害が懸念される場合、ブロックチェーンを使用すべきではない。

これらを基礎に、次のことを考える。
要は、世の中の社会と言うのは上記のハイブリッド構成のものが多く、それらはやや純粋なパブリックなのかプライベートなのかが判断できないので、判定しづらいということだ。
ただそれは、個人情報のハッシュ化(要は個人情報となる実名に対し、数値などで綽名をつけるようなもの。システム側は綽名のみを登録しておくような形にする。綽名から実名は追えないが、実名から綽名は特定できる。よってシステムから個人は見えないが、個人からは自分のデータがどのようになっているのかが見える)で防げるように考える。
要は政府・機構・組織の上部における差配部でのコントロールを受けなければいい。
それでいて、個人からはシステムの透明性を確保する。

例:
1.献血
 献血された血液はどこの健康体の人間から出たもので、それが誰に輸血されたか。
 それが有効活用されたものは何%で廃棄は何%か。

2.投票
 誰が誰に投票したか。その投票活動は公明正大か。 

3.株式投資
 誰が誰に売買したか。そこに反社は関わっていないか。外国勢力の保有株式比率を超えていないか。

4.婚前性行為での自身の健康体証明
 以前まではいつ誰と性行為をしたかの証明。よって自身や相手が性病でないことを検査なしに証明する。
 これにより性病蔓延を防ぐ。
 (と言うか性病に関わりそうな人間はこういうことやらないか・・・)

5.自身の戸籍証明
 どこからどこへ引っ越ししたか

6.職歴証明

7.学歴証明(大学が発行する卒業証明は既にあるが、組織側が発行する証明ではなく、個人の来歴として持つ証明)

8.電力出自証明
 自分が使用している電気は、どの地方のどの発電(原子力、石炭、風力、水力、潮汐力)でできた発電なのかトレースできるようにする。



問題は、個人の情報が上位につつぬけになることが問題である。

これは「中国共産党にシステムを奪取された時に安全性が確保できるか」と言う思考実験で防げるだろう。
いやむしろ何らかの理由をつけてこのテストを絶対にしなければいけない。

2022年10月14日に中華人民共和国江西省上饒市鉛山県での致远中学高中部で発生した男子中学生失踪事件で、IT大国かつ独裁かつ臓器移植大国の中国において言われている噂がある。それは、中国共産党幹部の臓器移植のために連れ去られた、と言うことだ。
当然ながら、当該の男子中学生は行方不明・生死不明の状態である。
これは他国、自由主義陣営の国ではそれがあってはならないことであり、かつ日本は情けないながらもITにおける被侵入大国でもあるので(自戒含む)、「侵入を絶対に防がなければいけない」の他、「侵入されても大丈夫なようにダメージ軽減をする」と言う思想も持たなければいけない。
(ただこれは言いにくいので、工夫して世論を固める必要がある。例えば外部の有識者を連れてきて、「侵入も許されないが、仮に侵入された後も被害を最小限にする努力を怠ってはいけない」などのコメントを批判的に受領することによってその実装思想を実現する。官僚が自ら言うことはできないと思いますので・・・)

ちなみにグーグルマップで見たところ、コメントに「一所失踪人口的私人学校。 大家别去这个学校。(行方不明者が出た私立学校。皆さん、この学校には行かないでください。
)」とコメントされておりました。



ちなみに上記で敢えて外したが問題になりそうな部分、議論になりそうな部分はまだある。
例えば犯罪歴などである。
公的に永続記録すべきか? それとも「忘れられる権利」の行使を実装すべきか? 
私が個人的に考えるには、公的に永続記録した後に、それを見る権利を制限すれば良いように思う。


ビッグモーター極限除去問題

2023-08-31 01:41:43 | 哲学・社会
と言うことで、2023年の夏に話題が賑わっているビッグモーター関係ですが、これは哲学にも通じる。

どこまで異物を排除するか、どこまで異物を許容するのか、その段階と方式についてである。

世の中、異物をどこまで除去するか、除去しきれない場合にはどこまで許容するかの問題が様々にあった。
1.水俣病などの汚染物質垂れ流し問題(それをクリーンにすることによって解決)
2.原発処理水海洋放出問題
3.コロナでどこまで手洗いうがいをするか(6回ほど洗わないと完全に近い形で除菌できないので(そもそも完全な除菌というのがありえない)、そこを基準にすると、皆どこかで妥協していたとも言える)
4.半導体クリーンルームで埃を入れない。
5.家にGが発生したらどうするか(可能な限りは除去するが・・・)。
6.がん細胞摘出後の再発防止とその時除去はどこまで行うか。
7.治安悪化分子の増殖と、それに対応する警察力人員の限界

と言うことで、ビッグモーター形式を採用すると問題はありありだが、一方において、極限まで除去するとかそういう根気的な努力が日本人は得意で、それで半導体材料は質の良いものを作っているので、極限まで進むことに関して(極限まで何かを除去することについて)、一概に良い悪いが言えない。

これに対し、クラス別に段階分けをし、どこでどうするかと言う対応方針の抽象的思考の枠組みを作っておくことが、今後の社会運用に役立つだろう(例:医療現場のトリアージなど)。