と言うことで昔のことなんですが、南大東島のことです。
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(3ページ目)強権企業が島を支配、日本円すら流通せず…ナゾの離島「南大東島」のディープすぎる世界 | 文春オンライン
https://bunshun.jp/articles/-/49662?page=3
やがて1900年(明治33年)、八丈島の豪商だった玉置半右衛門が組織した八丈島民23人の開拓団が60日あまりの難航海の末に南大東島の西側海岸に上陸し、断崖をしがみついて登り島内に侵入。淡水の池を発見し、翌々年から黒砂糖の製造を開始した。
島内の森が切り開かれてサトウキビ畑が作られ、もとは無人島だった南大東島は、玉置商会の所有物「社有島」になった。
学校も病院も警察も会社が握る
南大東島の主は、半右衛門が死んだ後に業績が傾いた玉置商会が東洋精糖と合併(1916年)、さらにこちらも経営難で大日本製糖と合併(1927年)──と変遷したが、島全体が一私企業の所有物なのは変わらなかった。
いっぽう、開拓地での一攫千金を夢見る移住者は増えていった。島内では日本円が事実上通用せず、玉置商会~大日本製糖の歴代支配者が発行した物品交換券が実質的には紙幣として流通。学校・病院・交通・通信・郵便などの事業は社営であり、さらに警察機構すらも会社からの嘱託で運営されていた。島の最高指導者は製糖工場の所長だ。
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と言うことで、まーた私の「お金の種類」コレクションに一つのものが加わったのであった。
今回は会社が発行した物品交換券である。
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(3ページ目)強権企業が島を支配、日本円すら流通せず…ナゾの離島「南大東島」のディープすぎる世界 | 文春オンライン
https://bunshun.jp/articles/-/49662?page=3
やがて1900年(明治33年)、八丈島の豪商だった玉置半右衛門が組織した八丈島民23人の開拓団が60日あまりの難航海の末に南大東島の西側海岸に上陸し、断崖をしがみついて登り島内に侵入。淡水の池を発見し、翌々年から黒砂糖の製造を開始した。
島内の森が切り開かれてサトウキビ畑が作られ、もとは無人島だった南大東島は、玉置商会の所有物「社有島」になった。
学校も病院も警察も会社が握る
南大東島の主は、半右衛門が死んだ後に業績が傾いた玉置商会が東洋精糖と合併(1916年)、さらにこちらも経営難で大日本製糖と合併(1927年)──と変遷したが、島全体が一私企業の所有物なのは変わらなかった。
いっぽう、開拓地での一攫千金を夢見る移住者は増えていった。島内では日本円が事実上通用せず、玉置商会~大日本製糖の歴代支配者が発行した物品交換券が実質的には紙幣として流通。学校・病院・交通・通信・郵便などの事業は社営であり、さらに警察機構すらも会社からの嘱託で運営されていた。島の最高指導者は製糖工場の所長だ。
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と言うことで、まーた私の「お金の種類」コレクションに一つのものが加わったのであった。
今回は会社が発行した物品交換券である。