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とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

時をかける少女 振り返り反省会

2024-08-04 22:52:10 | 映像作品視聴感想
と言うことで、ときかけを見ましたが、まあ良かったと(上から目線)。

で、この反省会

・前の実写バージョンよりは良かった印象。
・実写のやつぁね、どことなく悲壮感があって悲しいんだよ! 
・それが爽やかな感じに終わって本当良かった。
・で、突然出てくる未来人設定。いやこれ前振り必要だったんと違うか? 冒頭に「未来人? なんだそりゃ」「いたらねー、未来を教えて貰うわ」とかの雑談を挟みつつ、と。
 これは実写でも確かそうだった記憶。これは脚本のプロット漏れのミスかなあ、と。時間なくてはしょったのかもしれないけれども。
 実写の当時からここが突然すぎて消化不良だったんだよね。子供ながらに映像作品はそう言うもんかと思っていたが、もやもやもまた確実に残っていた。やっと言語化できた。
・そう、当時80年代のテレビ番組はもてはやされるけれども、作り自体は結構荒かったんだよ! 今の判定基準が厳しくなっただけかもせれないけれども、70〜80年代のドラマとか誰も見ないでしょ! これはそう言うことなんだよ! 

 え? 大映作品? トラック野郎? これらが一生見れなくなってもいいのか? ・・・すみません、おもろいものは見たいです・・・

<追記>
細田さんはSUPERFLAT MONOGRAMでもサマーウォーズでもそうだったけれども、あのでかい仮想空間に帯状のリングがぐるぐる回っているのから逃れられないっぽい。
竜とそばかすの姫もそうなりそうな気配が・・・
あとは登場人物の絵柄が健二/夏希の感じで完成されていて、あそこからは動かなさそう。
(安定していることはいいこと)。
何がどういいかって言うと、ほら、ジブリ作品の女性は全部ナウシカっぽいやん。でもみんな文句言わない。これよこの現象。


時をかける少女(細田守版) 視聴

2024-08-04 18:07:17 | 映像作品視聴感想
と言うことで視聴。
アマプラ400円。

・視聴開始前から不安要素が・・・
 と言うのも、よく言われることを私も後追いで体験するのだが、細田作品は「絵はいいが面白くない」と言うものだった。

・なので、良質のPV辺りだと思って見よう・・・と思っていたのだが、開始15分でこれがもう視聴がきつい(プリン食べるところあたりまで)。
 なんででしょうね? はちゃめちゃに動く奔放な女子高生に共感性羞恥を覚えるから? 
 うーん。

・で30分くらいで物語が進行し始め、真琴が能力を使い始めるギャグシーンで心掴まれた。そうそう! アニメはこれでいいんだよ! 一回見たら視聴が止まらなくなる感じの! 

・あっこれはマズい! あっこれはマズい! 胸が苦しい! 切ない! マズい! 

・魔女おばさん首なっが! 魔女おばさん首なっが! (2回言った)

・はぁ〜いい映画だった。
 多分細田さんは相性がいい脚本家をどこかからか連れてこなければいけない気がする。
 今回のこれは成功例。

・細田さんの映画は食べ物に例えるに質のいいクラッカーなんだよ。
 ええ? 2時間もクラッカー食わなきゃいかんの? と言うところから人間模様を織り交ぜていく。
 今回のは開始15分でクラッカーを食い飽きてきたところに、クリームチーズが来て、ヨーグルトが来て、いちごが来て、ブルーベリージャムが来て、白桃と黄桃が来てうおおおお! みたいな。

遠い昔に実写のときかけは見たと思うんですよね。確か初作とリメイク一回だったような。
調べる。
1983年。原田知世主演。あれ? 薬師丸ひろ子じゃなかった? あの志村けんがものまねでパロっていたCMのあれ。
1997年 。中本奈奈。あれ? 内田 有紀では? 白黒になっとる・・・
あれーこれあれだ、あの最終盤で合成が凄い雑で視聴者側が頭痛くなったやつか? 
1994年。内田有紀主演。そうそうこれよ! 

でいい具合に記憶が消えていた頃に再視聴してぐっと来たわ。
あーそうそう、確かそうこんな設定だったわ。

ん? 記憶と実態が若干違う・・・これはひょっとしてタイムリープしとんのか? 

以上です。

すずめの戸締まり 視聴

2024-07-22 08:30:00 | 映像作品視聴感想
こんな新海監督作品ばかり見てリア充だとか勘違いされないだべかさ・・・
などと田舎者が心配するも、私の非リア充感は絶対不動であるので心配の必要は一切ごさらぬ。ご安心召されい。

アマプラ400円。
ちなみに無料でちんたら見られなかったので、一気に見た。あろうことか倍速でである。

まず思ったのが、作り方が上手くなっている(上から目線)。

基本的に映画とは、下敷きとなる背景の序盤から課題の提示、その苦難困難に関わる乗り越えと、終盤におけるその課題の消化、妥結がある。

今までの新海作品と言えば、課題の提示をするも、我々の心に共感を呼び起こす課題感は比較的薄かったのではないかと個人的に考える。

しかし今回は東日本大地震による被災が下敷きになっていることもあり、この時代の日本人には深く刺さっただろう。
これは裏返すと100年後の日本人には刺さらない、と言うことと、外国人には分からない(共感できない)課題感であったとも言える。

私としての消化不良点と言えば、君の名は、天気の子に続き、今回のすずめの戸締まりは天災が克服すべきテーマになっていて、人間の悪意や、悪意のない人間社会の構造が歪であるが故にすりつぶされる人々が描かれなかったことである。

また、青臭い少年の失敗もなく、共感性羞恥が無かったことも良かった。

と言うか、地方と言えどもあそこまで親切な人とか絶対おらんやろ! みたいな。
以上です。

天気の子 視聴

2024-07-20 13:17:41 | 映像作品視聴感想
やっと見終わりましたンゴよねえ。
見ては止め、見ては止めで、三週間かかった。

とにかく新海作品は疲れるし時間がかかる。
自分でもなぜだろう? と不思議だったのだが、これについてまず書いていく。
言わば現在における日本アニメ映画の最高峰である場所を築いた新海作品にマイナス評をつける訳だが、日本アニメ映画の最高峰と言う部分については私は異論がないものの、今ある問題点を浮き彫りにし、更にこれを解決してブラッシュアップすれば更なる高みに行けるのではないか、と思うもので、そうした経緯によってここに書き出しを行う。

まず挙げられるのが登場人物の失敗(しくじり・しくり)によって、物語が転調を迎えるパターンがある。
また登場人物が若年層なので、人物像が青臭い。
社会認識も甘く、これから収奪されてしまいそうな若年層の不安も予兆され、見ているこちらが不安になる。
そうした失敗に、自分の過去の失敗を重ね合わせると、過去の自分のそうした姿がフラッシュバックされ、共感性羞恥と煩悶に悩まされることになる。

次に登場人物の人間的な動きがアニメ的で、これもまたついていけない。
高校生男子の動きはいいもの、高校生女子の心理としてはこれではないと思う。
快活に生活を送ろうとするものの、どこか自分に不安があって、それを埋めてくれる男はないかと探していたりして、それで失恋して・・・みたいな。
そのリアリティーがない。

あるいは、天気の子作中において帆高が銃を出して陽菜が少し問い詰めた後に仲直りして合流するところは人間の挙動として不自然である。
自然な動きをするならば、銃を持っている帆高を陽菜は疑っているが、そんなに悪い人間じゃないと分かり、こっちもごめんなさい、助けてくれたのにと言うべきシーンだっただろう。あそこまで機嫌よく「よっ」みたいな感じで合流するのは自然ではない。これはアニメ的だ。

少し違う話をする。
皆さんはプラスチックを食べたことがあるだろうか? あるいは木は? 
幼少の頃、何もやることがなくて一人ぼっちで残された部屋において、一人ブルドーザーのおもちゃで坂道を転がすことを延々と2〜3時間ほどやって、この世はどういう意味があるのだろう? と5〜6歳の頃にそうやった思い出は誰しもがあると思うが、更にやることがなくなると何かを口に咥えることになり、それが鉛筆の端っこについた消しゴムだったり、あるいはおもちゃのプラスチックだったりするわけである。
そこでおかしが食べたいなあだとか、ジュースが飲みたいなあなどと思ってもあるのはプラスチックのあの妙な噛みごたえと味のあるおもちゃだったり、あるいは消しゴムだったりする訳である(尚ジュースに至っては、我が家では6年ほど飲まなかった時期がある)。

そこでもし仮にそこで食べられたものがカレーとか寿司とかであったのだとしたらそれは極上の美味さであっただろうし、それが本当の食事の味だとも思ったであろうが、新海監督の、いや、昨今のアニメ映画の味と言うのは基本的にこのプラスチックを口に咥えている感覚ににている。口に何かある。これは間違いない。見た目も立派だ。でもその一方においてそれは間違いなく食糧ではないし、かつまずいものなのだ。

昨今のアニメ映画においては、「ああ見てよかった」と言うような、ローマの休日を見た後に得られる感想のようなものが存在しない。
(でもまあ帆高が「俺が一生食わしてやったったる! 」的な男気を見せた時にはぐっと来たけれども)
この手の映画であれば、しばらく時間が経った後に、「ああ、あの良かった映画か、人生の素養にもなるし、感動もできるし、自分が改めて力強く生きることができる、もう一度見よう」と言う感じになるのだが、それぞれの作品で再鑑賞した人はどれくらいいるだろうか? 

それとは別に地味な感動ポイントも細かくあって、これも視聴を阻害する。
例えば、「天気を晴れにしたい」と言う人々の願いがそれぞれにあって本当に心がつらいのだ。
天候操作と言えば、それはそういう風に自然ができているので、稲作やら生態系の維持やらでそうそうに動かしてはいけないものではあるのだが、かなりの廉価と局所の個人的な願いによってそれが達成されてしまう。
しかもそれが純粋な人の願いであるが故にこちらも共感しやすく、反論もしづらい。
特にヤバかったのは、結婚式で晴れにしたいと希望している女性(あれウェディングドレスを着ていたけれども、本当に相談する時は普段着だと思う。分かりやすく表現するためにああいう感じにした)と、50円で願いを依頼したと思われる子供がこちらに刺さってしまった。
その気持ちが分かる一方で、天候と言うだいそれたものを早々にかつ軽薄に動かしちゃダメだろ、と。
その煩悶がうっすく長く続いていく。これがきつい。
旧勾配のジェットコースターに乗っているのではなくて、長くなだらかに続いている上り坂を登っているような感じがしてしんどい。

あと、物語中で乗り越えるべき課題が自然現象や上位構造からやってくる問題であるのも私にとって消化不良である。
いやもっと人間の内面性での葛藤だとか消耗だとかに焦点当てろよ! といつもやきもきする。

部分部分で分けて言えば、映像のレベルは間違いなくトップクラスである。
一方において脚本はかなりレベルが低い。
と言うより新海さんの力が無いのではなく、変にレベルを上げると興行として人が入って来ないのだ。だから敢えてかなり意図的に落としている感じはする。

一言で言えば、「素晴らしい絵の幼稚園児向け絵本」。
でも私個人の立場から言うと、ちょっとなあ・・・と。


ウルトラパワハラ映画「セッション」の構造

2024-07-15 12:16:25 | 映像作品視聴感想
ウルトラパワハラ映画「セッション」であるが、これの構造が若干ややこしいので整理する。

王道的展開ではパワハラクソジジイの音楽性を超越してねじ伏せた、と言うものだが、この映画「セッション」内では、この構造が僅かな部分で二転三転している。

単純に音楽性の追求の為にパワハラをしていたなら究極の至高の位置に行ったことで「(才能を伸ばすための)俺のパワハラをあいつの才能が超えやがった」ああ良かったねで終わるのだが、実際にはパワハラジジイのフレッチャーが「才能を伸ばすためのパワハラ」だけではなく、純粋に人としての人格が最低の人間であったと言う部分が最後の最後に明らかにされ、一方において更に主人公ニーマンの才能がそうした扱う次元の違う対処が不可能と思われるような問題でさえも、自分の求める道に対して人間として至高のゾーンに入り、それらすらもねじ伏せていくと言う様が見られる。