薩摩永野駅はスイッチバックがあることで有名な駅ですが、わざわざスイッチバックを設置する必要はなかったとも言われています。なるほど、現在の駅の配置を中心してみると、スイッチバックの必要性は全くありません。
そこらの事情は、インターネット辞書のWikipediaでも、宮之城線の説明としてわざわざとりあげてあります。
引用します。
「途中の薩摩永野駅はスイッチバックになっていた。同駅がスイッチバックの線形になったのは2つの説がある。一つは地元住民の要望により市街地に鉄道路線を敷くため、もう一つは薩摩永野駅から肥薩線に接続する計画があったため、という説である。そもそも薩摩永野駅周辺はスイッチバックが必要なほど急峻な地形ではなかった。」と。
諸説あるところですが、私はやはり肥薩線との連絡が意図されていたのではないかと考えるのです。
以前も触れましたが、1909(明治42)年に「鹿児島本線」が全線開通しました。もちろん、ここでいう「鹿児島本線」とは現在の肥薩線のことです。八代から鹿児島への最短ルートであるこの路線は他のルートが存在しないこともあり、物流の中心であったことは言うまでもありません。
しかし、完成当時から小畑越えと言われる熊本県側にあるループ、スイッチバック。そして、鹿児島県側にある真幸のスイッチバックは当時の鉄道技術としては最先端のものであったにも関わらず、それ自体が物流の障害にもなるという矛盾を持っていたのです。
それは時代の要請でもあると同時に、時代の制約でありました。
1910年3月、鉄道敷設法の改正で、鉄道建設技術の範囲内でより効率的な物流の確保が可能な海沿いルート(八代~水俣~出水~川内~鹿児島)が新たな物流の路線として認可・浮上してきました。
「鹿児島本線」全線開通直後半年も経たない時期のことだけに、「鹿児島本線」関係者に激震が走ったことは言うまでもないことだったと思います。
そこらの事情は、インターネット辞書のWikipediaでも、宮之城線の説明としてわざわざとりあげてあります。
引用します。
「途中の薩摩永野駅はスイッチバックになっていた。同駅がスイッチバックの線形になったのは2つの説がある。一つは地元住民の要望により市街地に鉄道路線を敷くため、もう一つは薩摩永野駅から肥薩線に接続する計画があったため、という説である。そもそも薩摩永野駅周辺はスイッチバックが必要なほど急峻な地形ではなかった。」と。
諸説あるところですが、私はやはり肥薩線との連絡が意図されていたのではないかと考えるのです。
以前も触れましたが、1909(明治42)年に「鹿児島本線」が全線開通しました。もちろん、ここでいう「鹿児島本線」とは現在の肥薩線のことです。八代から鹿児島への最短ルートであるこの路線は他のルートが存在しないこともあり、物流の中心であったことは言うまでもありません。
しかし、完成当時から小畑越えと言われる熊本県側にあるループ、スイッチバック。そして、鹿児島県側にある真幸のスイッチバックは当時の鉄道技術としては最先端のものであったにも関わらず、それ自体が物流の障害にもなるという矛盾を持っていたのです。
それは時代の要請でもあると同時に、時代の制約でありました。
1910年3月、鉄道敷設法の改正で、鉄道建設技術の範囲内でより効率的な物流の確保が可能な海沿いルート(八代~水俣~出水~川内~鹿児島)が新たな物流の路線として認可・浮上してきました。
「鹿児島本線」全線開通直後半年も経たない時期のことだけに、「鹿児島本線」関係者に激震が走ったことは言うまでもないことだったと思います。