芥川龍之介が槍ヶ岳に登頂してからまもなく百周年らしいです。これほどの文豪になると、こんなことまで話題になるのですね。さすがです。教科書に掲載された顔写真にイタズラ書きして、すいませんでした。
17歳芥川登頂の記録 100周年控え、記念誌で発表
読売新聞 2008年11月13日
芥川が槍ヶ岳を登ったのは今から百年前の出来事ですが、最近になって研究者による発見が続き、それらの研究成果が記念誌としてまとめられるとのこと。
さて、こんなニュースを読みますと、芥川がどのような行程で槍に登ったのか槍ヶ岳マニアの私としては興味が湧いてきます。当然ながら、スバル・レガシィに乗って中央自動車道をかっ飛び、沢渡からシャトルバスで上高地に向かったわけではありません。というわけで、ちょろっと調べた程度でいろいろ書いてみましょう。
芥川が槍に登った1909年(明治42年)といえば、松本駅は開業しています。しかし開業してからまだ10年ぐらいでしょうか。
現代の登山者なら松本駅で松本電鉄に乗り換えるわけですが、この当時はまだ開業していません。大正時代に入ってからとなります。てことは、島々まで歩いたんですかねえ?ちなみに松本から野麦街道を約20キロです。
ニュースでは芥川が泊まった島々地区の宿が特定された、とあります。最近ではバイパスができてしまったために島々の集落を通過せずに通過してしまいますね。寂しい限りです。で、芥川はここで金中旅館という宿に泊まったわけです。
さて、明治42年の段階では釜トンネルはありません。釜トンは昭和8年に開通します。というわけで、上高地へ行くには徳本峠越えをしなければなりません。途中1泊か、あるいは頑張れば上高地まで行けるか、といったところでしょうか。長いですねえ。
で、この時代の上高地ですが、当然ながら帝国ホテルもビジターセンターもバスターミナルもありません。明治45年に五千尺ホテルの元となった養老館が開業していますが、芥川がやってきた頃ですと上高地温泉の宿と嘉門次の小屋以外に数件の小屋がある程度です。初代の河童橋は、芥川が来た翌年のようです。
ここからは梓川を遡るわけですが、この時代には槍沢ロッヂも横尾山荘もありません。芥川の文章を見ますと、赤沢で泊まった、となっています。これは赤沢の岩小屋と現在でも呼ばれているのですが、槍沢ロッヂから10分程度登った地点にあります。が、登山道から樹林帯の河原に下りますので、気づかない人も多いでしょう。一応、小さな看板があります。
この赤沢の岩小屋は、河原に残された巨大な岩です。ちょうど半分程度がひさし状になっているため、その下は快適?な寝床になります。ここは播上人やウエストンらも泊まっているはずです。
ここから槍の山頂までは、1日で往復したのでしょうかね。大曲りまでは踏み跡があるでしょうけど、その先はガレ場が延々と続くはずです。現在のように石を積んだり動かしたりして作った、歩きやすい道があったのかどうか、ちょっとわかりません。あのあたりで道が整備されたのは大正5年、東久邇宮が上高地から槍に登る際に地元の営林署がバリバリに整備したのが始まりらしいので、まともな道があったとは思えないですね。ていうか、地元が急に必死になって登山道を整備するあたり、現在の皇太子殿下の登山と変わらないですなあ。
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17歳芥川登頂の記録 100周年控え、記念誌で発表
読売新聞 2008年11月13日
芥川が槍ヶ岳を登ったのは今から百年前の出来事ですが、最近になって研究者による発見が続き、それらの研究成果が記念誌としてまとめられるとのこと。
さて、こんなニュースを読みますと、芥川がどのような行程で槍に登ったのか槍ヶ岳マニアの私としては興味が湧いてきます。当然ながら、スバル・レガシィに乗って中央自動車道をかっ飛び、沢渡からシャトルバスで上高地に向かったわけではありません。というわけで、ちょろっと調べた程度でいろいろ書いてみましょう。
芥川が槍に登った1909年(明治42年)といえば、松本駅は開業しています。しかし開業してからまだ10年ぐらいでしょうか。
現代の登山者なら松本駅で松本電鉄に乗り換えるわけですが、この当時はまだ開業していません。大正時代に入ってからとなります。てことは、島々まで歩いたんですかねえ?ちなみに松本から野麦街道を約20キロです。
ニュースでは芥川が泊まった島々地区の宿が特定された、とあります。最近ではバイパスができてしまったために島々の集落を通過せずに通過してしまいますね。寂しい限りです。で、芥川はここで金中旅館という宿に泊まったわけです。
さて、明治42年の段階では釜トンネルはありません。釜トンは昭和8年に開通します。というわけで、上高地へ行くには徳本峠越えをしなければなりません。途中1泊か、あるいは頑張れば上高地まで行けるか、といったところでしょうか。長いですねえ。
で、この時代の上高地ですが、当然ながら帝国ホテルもビジターセンターもバスターミナルもありません。明治45年に五千尺ホテルの元となった養老館が開業していますが、芥川がやってきた頃ですと上高地温泉の宿と嘉門次の小屋以外に数件の小屋がある程度です。初代の河童橋は、芥川が来た翌年のようです。
ここからは梓川を遡るわけですが、この時代には槍沢ロッヂも横尾山荘もありません。芥川の文章を見ますと、赤沢で泊まった、となっています。これは赤沢の岩小屋と現在でも呼ばれているのですが、槍沢ロッヂから10分程度登った地点にあります。が、登山道から樹林帯の河原に下りますので、気づかない人も多いでしょう。一応、小さな看板があります。
この赤沢の岩小屋は、河原に残された巨大な岩です。ちょうど半分程度がひさし状になっているため、その下は快適?な寝床になります。ここは播上人やウエストンらも泊まっているはずです。
ここから槍の山頂までは、1日で往復したのでしょうかね。大曲りまでは踏み跡があるでしょうけど、その先はガレ場が延々と続くはずです。現在のように石を積んだり動かしたりして作った、歩きやすい道があったのかどうか、ちょっとわかりません。あのあたりで道が整備されたのは大正5年、東久邇宮が上高地から槍に登る際に地元の営林署がバリバリに整備したのが始まりらしいので、まともな道があったとは思えないですね。ていうか、地元が急に必死になって登山道を整備するあたり、現在の皇太子殿下の登山と変わらないですなあ。
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