金曜日の夜は、残り物のワインとありあわせで夕食を済ませたら
たちまち睡魔が襲ってきました。
お風呂の前にひと眠り...だったはずなのに
気がつけばすでに土曜日の朝です。
つけっぱなしのFMラジオでは、すでにピーター・バラカンの番組が始まっていたのでした。
そのままうとうとしているうちに、やがてラジオからゴンチチの声が聞こえ
それでようやく布団からはい出したのです。
そう言えば、朝方夢を見ていたような気がします。
老母と二人で飛行機やバスに乗る夢です。
私の母は、昨年の10月28日に旅立っていきました。
享年88歳...その最期のときまで自分の意志を貫きました。
というよりも、最期のときだけは自分の意志を貫こうとしたのかもしれない
戦中派の生涯でした。
なぜ、あんな夢を見たのか。。。
最後に母に会ったのは9月末のことでしたが
そのとき母が、“一度も飛行機に乗らないままに終わるんだねぇ” と
少し冗談めかして呟いたのです。
確かにそうでした。
父との旅行は片手で数えられるほど。
私の自由がある程度利くようになり、ならば一緒に沖縄に行こうと思いついた矢先に
父が入院し、5か月後に亡くなりました。
それから12年...母と一緒の旅行は
近場への日帰り旅行の他に
奈良に1回、歌舞伎見物を兼ねて京都・大阪で過ごす旅が3回と実にわずか。
京都駅のホームで待つ私を見つけてうれしそうに肩をすくめ
まるでお茶目な女学生に戻ってしまったかのようだった母の表情。。。
母と私の最後の旅は2011年初夏のことでした。
この12年の間、母にとって私との旅行だけが楽しみだったわけではありません。
昨年7月に入院する1週間前には女学校時代の友だちと、
2週間前には義妹たちとで温泉に出かけています。
晩年は、こうした年に数回の温泉行きをとても楽しみに過ごしていた母でした。
鳥取から倉吉、あるいは米子に向かう50~90分の短いひとり旅で、
中国から来たという若者と話がはずんで楽しかったと報告してくれたこともありました。
また、毎月のように食事やお茶に誘ってくださる(母より)若いグループがいくつかあり、
私が電話をするたびに、その集まりのことを楽しそうに話してくれたものでした。
そういうふうに母を誘い出してくださる方々の存在が何よりありがたく、
また、高齢になっても自分のコミュニティをもつおばあさんに
私もなりたいと思っていました。
飛行機に乗る機会をつくれなかったことを悔いているのではありません。
十分なことをしてあげられなかったという思いが
あんな夢として表れたのだという気がするのです。
まさに “親孝行したいときに親はなし”、“いつまであると思うな親と××” です。
長い間介護に当たり、手厚い見守りをするなど
周りから見て十分な親孝行をした人でさえ
親を失った後に様々な悔いが残るといいます。
私の場合は “親不孝” そのもののような人生を歩んできましたから
大きな悔いが残るのは当然なのです。
親の人生の終わりの日々に何をしてあげられたか...ということだけでなく
自分自身の人生を通し、親とどう過ごしたか...
どういう関係を築いたか、どういう関係性をもち得たか...
老いた親を失ったときに自ら問うのはそういうことではないかと思います。
その悔いを背負って生きていくのだという覚悟はすでにできていました。
そして母もまた、私の思いを呑み込んでいたのだという気がしています。
しかし、その一方で、自分は母の思いに寄り添うことができていなかったのだとも
思うのです。
今も時折、ふと母に電話しよう...という思いがよぎります。
そして次の瞬間、電話をしても母は出てこないのだったと現実に戻る私がいます。
当たり前のことですが、生の感情の部分で引きずるものがあるというのも事実のようです。
寂しさ、悲しさも含め、あらゆる感情を自分のものとして認め
母を見送った後の日々歳月を過ごしたいと思う昨今です。
::::::::::::::::::::
卯年生まれで大柄だった母を
Kaiapua と私は “おおうさぎ” と呼んでいます。
その母が愛用していたウサギの文鎮です。
ところどころに残る朱筆を置いた跡…
これもまた母が生きた証…痕跡です。
まだ小学生だった Kaiapua が欲しくてたまらなかった思い出の品は
わが家に居場所を移しました。
::::::::::::::::::::::::
母の意志を尊重し、本人のみならず私たち家族をも、実に濃やかに支えてくださった
徳永進先生はじめ野の花診療所の皆さまお一人お一人に対し
ここに改めて深く感謝申し上げます。
入院中毎日のように電話で励ましてくださった、母の生涯最良の友、
加藤昌子さんにも心から感謝いたします。
どうぞいつまでもお元気でお過ごしくださいますように…。
たちまち睡魔が襲ってきました。
お風呂の前にひと眠り...だったはずなのに
気がつけばすでに土曜日の朝です。
つけっぱなしのFMラジオでは、すでにピーター・バラカンの番組が始まっていたのでした。
そのままうとうとしているうちに、やがてラジオからゴンチチの声が聞こえ
それでようやく布団からはい出したのです。
そう言えば、朝方夢を見ていたような気がします。
老母と二人で飛行機やバスに乗る夢です。
私の母は、昨年の10月28日に旅立っていきました。
享年88歳...その最期のときまで自分の意志を貫きました。
というよりも、最期のときだけは自分の意志を貫こうとしたのかもしれない
戦中派の生涯でした。
なぜ、あんな夢を見たのか。。。
最後に母に会ったのは9月末のことでしたが
そのとき母が、“一度も飛行機に乗らないままに終わるんだねぇ” と
少し冗談めかして呟いたのです。
確かにそうでした。
父との旅行は片手で数えられるほど。
私の自由がある程度利くようになり、ならば一緒に沖縄に行こうと思いついた矢先に
父が入院し、5か月後に亡くなりました。
それから12年...母と一緒の旅行は
近場への日帰り旅行の他に
奈良に1回、歌舞伎見物を兼ねて京都・大阪で過ごす旅が3回と実にわずか。
京都駅のホームで待つ私を見つけてうれしそうに肩をすくめ
まるでお茶目な女学生に戻ってしまったかのようだった母の表情。。。
母と私の最後の旅は2011年初夏のことでした。
この12年の間、母にとって私との旅行だけが楽しみだったわけではありません。
昨年7月に入院する1週間前には女学校時代の友だちと、
2週間前には義妹たちとで温泉に出かけています。
晩年は、こうした年に数回の温泉行きをとても楽しみに過ごしていた母でした。
鳥取から倉吉、あるいは米子に向かう50~90分の短いひとり旅で、
中国から来たという若者と話がはずんで楽しかったと報告してくれたこともありました。
また、毎月のように食事やお茶に誘ってくださる(母より)若いグループがいくつかあり、
私が電話をするたびに、その集まりのことを楽しそうに話してくれたものでした。
そういうふうに母を誘い出してくださる方々の存在が何よりありがたく、
また、高齢になっても自分のコミュニティをもつおばあさんに
私もなりたいと思っていました。
飛行機に乗る機会をつくれなかったことを悔いているのではありません。
十分なことをしてあげられなかったという思いが
あんな夢として表れたのだという気がするのです。
まさに “親孝行したいときに親はなし”、“いつまであると思うな親と××” です。
長い間介護に当たり、手厚い見守りをするなど
周りから見て十分な親孝行をした人でさえ
親を失った後に様々な悔いが残るといいます。
私の場合は “親不孝” そのもののような人生を歩んできましたから
大きな悔いが残るのは当然なのです。
親の人生の終わりの日々に何をしてあげられたか...ということだけでなく
自分自身の人生を通し、親とどう過ごしたか...
どういう関係を築いたか、どういう関係性をもち得たか...
老いた親を失ったときに自ら問うのはそういうことではないかと思います。
その悔いを背負って生きていくのだという覚悟はすでにできていました。
そして母もまた、私の思いを呑み込んでいたのだという気がしています。
しかし、その一方で、自分は母の思いに寄り添うことができていなかったのだとも
思うのです。
今も時折、ふと母に電話しよう...という思いがよぎります。
そして次の瞬間、電話をしても母は出てこないのだったと現実に戻る私がいます。
当たり前のことですが、生の感情の部分で引きずるものがあるというのも事実のようです。
寂しさ、悲しさも含め、あらゆる感情を自分のものとして認め
母を見送った後の日々歳月を過ごしたいと思う昨今です。
::::::::::::::::::::
卯年生まれで大柄だった母を
Kaiapua と私は “おおうさぎ” と呼んでいます。
その母が愛用していたウサギの文鎮です。
ところどころに残る朱筆を置いた跡…
これもまた母が生きた証…痕跡です。
まだ小学生だった Kaiapua が欲しくてたまらなかった思い出の品は
わが家に居場所を移しました。
::::::::::::::::::::::::
母の意志を尊重し、本人のみならず私たち家族をも、実に濃やかに支えてくださった
徳永進先生はじめ野の花診療所の皆さまお一人お一人に対し
ここに改めて深く感謝申し上げます。
入院中毎日のように電話で励ましてくださった、母の生涯最良の友、
加藤昌子さんにも心から感謝いたします。
どうぞいつまでもお元気でお過ごしくださいますように…。