6月11日(土)は生涯学習サポーター養成講座Ⅴ・Ⅵに
出席しました。
今回は土曜日のAM10時~正午の午前の時刻に
講座Ⅴ と Ⅵ が同じ 『利晶の杜』 で。
(利晶の杜、ガラス張りの爽やかな建物)
Ⅴは 2階の会議室で、テーマは 『堺学Ⅰ 晶子から学ぶ』 で
講師は 堺市博物館学芸課 学芸員 森下明穂 さん
与謝野晶子は
明治11年(1878年)に堺の和菓子商 『駿河屋』 に生まれました。
そして、言わずと知れた近代日本を代表する歌人。
しかし、その活動は詩歌にとどまらず 『源氏物語』 の現代語訳や
女性の真の生き方を求める評論活動、文化学院での教育の実践といった
教育活動を行うなど、幅広い分野で活躍しました。
(堺の時代の少女の頃)
また、与謝野寛と結婚し、12人もの子どもを産み育てました。
(6男は生後2日で死去。)
昭和17年(1942年)5月29日、63歳で亡くなり、
命日には、堺市内にある晶子ゆかりの覚応寺で 『白桃忌』 が
いとなまれています。
(来年の5月29日には、覚応寺に行ってみようかなぁ~。)
晶子は、歌をたくさん詠むタイプで生涯に3万首以上を残しています。
その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな
(『みだれ髪』 に収録)
この歌は、あまりにも有名!!
(鉄幹と共に)
こんな歌も。
同じく人なる我等女性 今こそ新たに試す力
いざいざ一つの生くる権利 政治の基礎にも強く立たん
(『婦選の歌』 昭和5年)
晶子の妻として母として、そして女であり人間として、絶えず前向きな
生き方や作品は多くの人々に勇気と希望を与えています。
明日といふよき日を人は夢に見よ今日のあたひはわれのみぞ知る
(『太陽と薔薇』 に収録)
(いつも丁寧なレジメが用意されています。)
また、与謝野家の家計は、主に晶子が支えていたよう。
『良人といて経済的方面では私が主になって働かねばならなかったが
それは大した苦でもなかった。良人のしている学問上の仕事は金に
換算されないだけだと私は思って、良人を尊敬して不平などを
持ったことはない。』
「私と宗教」 (「婦人公論」 昭和12年収録)
(与謝野晶子の略年譜もいただいて。)
そして、晶子の堺への思いを、長男光が晶子の自伝 『私の生ひ立ち』 の後記で
述べています。
苦しい辛い生涯を送った母にとりまして堺時代は一番楽しい時代であったろうと
私は母に堺時代のあった事がせめてもの慰さめであります。
母の没後、整理しておりました家内の迪子が座右にありました朱塗りの手文庫を
開きました所、中身は、堺の祖母からの手紙や堺時代の写真など、堺関係のものが
まとめられて収められていたのです。弱味を見せずに頑張り通した母にも心の奥底には
終始母を慕い、堺時代を偲ぶ心があって、母を慰さめ又励ましてくれたものと信じます。
長男光氏が 母晶子のことを 『苦しい辛い生涯を送った母』 という風に捉えているのは
意外でした!!
(因みに晶子の長男・二男は東大卒で。)
現代、堺市内には晶子の歌碑が26基建立。
改めて、2年くらいかけて回ってみようかなぁ~。
出席しました。
今回は土曜日のAM10時~正午の午前の時刻に
講座Ⅴ と Ⅵ が同じ 『利晶の杜』 で。
(利晶の杜、ガラス張りの爽やかな建物)
Ⅴは 2階の会議室で、テーマは 『堺学Ⅰ 晶子から学ぶ』 で
講師は 堺市博物館学芸課 学芸員 森下明穂 さん
与謝野晶子は
明治11年(1878年)に堺の和菓子商 『駿河屋』 に生まれました。
そして、言わずと知れた近代日本を代表する歌人。
しかし、その活動は詩歌にとどまらず 『源氏物語』 の現代語訳や
女性の真の生き方を求める評論活動、文化学院での教育の実践といった
教育活動を行うなど、幅広い分野で活躍しました。
(堺の時代の少女の頃)
また、与謝野寛と結婚し、12人もの子どもを産み育てました。
(6男は生後2日で死去。)
昭和17年(1942年)5月29日、63歳で亡くなり、
命日には、堺市内にある晶子ゆかりの覚応寺で 『白桃忌』 が
いとなまれています。
(来年の5月29日には、覚応寺に行ってみようかなぁ~。)
晶子は、歌をたくさん詠むタイプで生涯に3万首以上を残しています。
その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな
(『みだれ髪』 に収録)
この歌は、あまりにも有名!!
(鉄幹と共に)
こんな歌も。
同じく人なる我等女性 今こそ新たに試す力
いざいざ一つの生くる権利 政治の基礎にも強く立たん
(『婦選の歌』 昭和5年)
晶子の妻として母として、そして女であり人間として、絶えず前向きな
生き方や作品は多くの人々に勇気と希望を与えています。
明日といふよき日を人は夢に見よ今日のあたひはわれのみぞ知る
(『太陽と薔薇』 に収録)
(いつも丁寧なレジメが用意されています。)
また、与謝野家の家計は、主に晶子が支えていたよう。
『良人といて経済的方面では私が主になって働かねばならなかったが
それは大した苦でもなかった。良人のしている学問上の仕事は金に
換算されないだけだと私は思って、良人を尊敬して不平などを
持ったことはない。』
「私と宗教」 (「婦人公論」 昭和12年収録)
(与謝野晶子の略年譜もいただいて。)
そして、晶子の堺への思いを、長男光が晶子の自伝 『私の生ひ立ち』 の後記で
述べています。
苦しい辛い生涯を送った母にとりまして堺時代は一番楽しい時代であったろうと
私は母に堺時代のあった事がせめてもの慰さめであります。
母の没後、整理しておりました家内の迪子が座右にありました朱塗りの手文庫を
開きました所、中身は、堺の祖母からの手紙や堺時代の写真など、堺関係のものが
まとめられて収められていたのです。弱味を見せずに頑張り通した母にも心の奥底には
終始母を慕い、堺時代を偲ぶ心があって、母を慰さめ又励ましてくれたものと信じます。
長男光氏が 母晶子のことを 『苦しい辛い生涯を送った母』 という風に捉えているのは
意外でした!!
(因みに晶子の長男・二男は東大卒で。)
現代、堺市内には晶子の歌碑が26基建立。
改めて、2年くらいかけて回ってみようかなぁ~。