引き続き、「ユダヤ教の基本」という本のご紹介をさせていただきます。
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(引用ここから)
「聖なる一めぐり」
伝統によって定められている「祭り」と「聖日」は、次のとおりである。
★「安息日」
「天地創造」と「出エジプト」の記念日である。
人も動物も、奴隷も自由人も、みな同様に休むのである。
この日にはすべての労働と争いと心配事が中断され、人は古代ラビたちの気の利いた言葉を借りれば、「来たるべき、より良い世界を前もって味見する」ことができるという。
安息日は、人類の歴史を見ても、解放と休息の日を定期的に定める必要があるという人間の欲求に応えた最初の制度である。
その欲求の普遍性を認識したという点において、注目に値する。
そのためヘブライ精神が個人の幸福と社会の福祉のためにもたらした貢献の中でも特に素晴らしいものとして挙げることができる。
シナゴーグは讃歌と凝った礼拝に彩られ、家庭でめいめいが最も上等な明るい服を着て、まず夕暮れ時にろうそくを灯すことから始まる。
ワインの盃の上で開始の祈りが唱えられ、ごちそうと食卓での歌、安らぎと会話、非公式な学習などが持たれる。
そして安息日の最後はハブダラという美しい分離の儀式で締めくくられる。
ワインの香りと甘い香料の匂い、そしてろうそくの火をもって、喜ばしい聖なる日が閉じられるのだ。
ユダヤ教の安息日はそれ自体が美しいのだが、その美しさをさらに強調するように、この日は豊かな伝説が花を添える。それは例えば、美しく純粋な花嫁が日没の光と共に降りてくるというたとえや、安息日の夕べに家長がシナゴーグから家に帰る途中で2人の天使がそれに付き添うという伝説。
安息日の間ずっと敬虔なユダヤ人にはもうひとつの魂、いわば普段より一回り大きな精神が与えられるという信仰など。その他にも想像力豊かな人々の伝説作りの能力が開花して生まれた、深く親しまれてきたこの安息日という制度を包み込む、風変わりな、あるいは荘厳な、情緒的な、あるいは啓発的な、様々な詩的な考えが存在する。
忠実なユダヤ教信者にとっては喜びと薬である安息日は、さらに別の意味をも持っている。
安息日はユダヤ教とユダヤ人集団の元気を回復させる。
この健康増進剤としての効力は非常に高く、近代のユダヤ思想家アハド・ハアムの述べた「イスラエルが安息日を守ってきた以上に安息日がイスラエルを守ってきた」という警句も、文字通りに適切な表現である。
★「新年祭」
新しい年の始まりを祝い、世界の創造という物語を記念する日である。
そして当然ながら神の主権を再確認し、心の再生を追求する機会として伝統によって定められた日である。
★「贖罪日」
厳かな「白い断食日」で、夜明けから日暮れまで信仰深い人は懺悔のしるしになにも飲み食いせず、祈りと告白を通して人生を振り返り、悪い行いを捨てることを誓い、神と善とに立ち返る再生の時を求めるのである。
★「仮庵の祭り」
9日間行われる楽しい祭りで、最初の8日間は収穫の完了と、古代イスラエル人たちが砂漠で仮小屋の中に住んだこと、そして人間が神の翼の隠れ家に永遠にとどまることができることを記念し、祝う。
最後の日の律法感謝祭では、シナゴーグで一年かけて続けたトーラー朗読の完結と新たな始まりを記念する。
★「過ぎ越しの祭り」
春の到来と、エジプトからのイスラエルの民の解放という二つの事柄を記念する行事であり、将来イスラエルと人類すべてに与えられる救済の約束という喜びを確認する時である。
★「7週の祭り、ペンテコステ」
一つの意義は穀物の収穫と最初の果物の採りいれ時を祝う農業祭であり、もう一つは、シナイ山での啓示を記念する歴史的・道徳的な聖日である。
★「光の祭り」
昔、良心の自由のために戦ったマカベア家の勝利を思い出す日であり、人間の不屈の魂の象徴である。
★「くじの日」
イスラエルの民が、ペルシアの悪人ハマンの手から救われた経験を思い出し、いつの時代のハマン達にも負けない自分達の力を再び確信する日である。
★「アヴの月9日」
「黒い断食日」で、エルサレムの第一及び第二神殿が破壊されたことを嘆いて過ごす日である。
このようにユダヤ人の一年は、様々な色彩と詩情に彩られている。
眠気を払って、魂を呼び覚ます牡牛の角笛。
清浄と再生の象徴であるトーラーの巻物を覆う白い布。
シュロの枝やシトロン。
毎夜火がともるのが増えていく、8本に枝分かれしているハヌカの燭台。
迫害者(ハマン)の名前をかき消すための騒がしい道具。
救い主メシアの先駆けである、エリアに対して開かれる扉。
哀歌の悲しい詠唱。
預言の7つの慰めの教え。
懺悔の時期の始まりを告げる、不気味な深夜の礼拝。
イスラエル民族の過去と、常に変わらぬ人間の情熱と、将来に対するイスラエルと全人類双方の希望とを反映して、一年間もまた、楽しくかつ厳しい聖なる時の一めぐりに姿を変えるのだ。
(引用ここまで)
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wikipedia「過越」より
過越(すぎこし)またはペサハ (pesach) とは、聖書に記載されているユダヤ教の祭り。
聖書の出エジプト記 12章に記述されている、古代エジプトでアビブ(ニサン)の月に起こったとされる出来事と、それに起源を持つとするユダヤ教の行事のことである。
イスラエル人は、エジプトに避難したヨセフの時代以降の長い期間の間に、奴隷として虐げられるようになっていた。
神は、当時80歳になっていたモーセを民の指導者に任命して約束の地へと向かわせようとするが、ファラオがこれを妨害しようとする。
そこで神は、エジプトに対して十の災いを臨ませる。
その十番目の災いは、人間から家畜に至るまで、エジプトの「すべての初子を撃つ」というものであった。
神は、戸口に印のない家にその災いを臨ませることをモーセに伝える。
つまり、この名称は、戸口に印のあった家にはその災厄が臨まなかった(過ぎ越された)ことに由来する。
3月末から4月はじめの1週間、ユダヤの人びとは「出エジプト」のときの多忙を忘れないよう、イースト菌入りの食品を食べない。パンもイーストなしである。
wikipedia「仮庵の祭り」より
仮庵の祭り(かりいおのまつり)は、一般に太陽暦10月頃に行われるユダヤ教の祭りである。
過越祭(ペサハ)と七週の祭り(シャブオット)とともにユダヤ教三大祭の一つ。
ユダヤ人の祖先がエジプト脱出のとき荒野で天幕に住んだことを記念し、祭りの際は仮設の家(仮庵)を建てて住んだことにちなむ。
聖書では、祭りの際にイスラエルの地のユダヤ教徒の成人男性には、エルサレム神殿へ巡礼することが要求されている。
秋の収穫祭の側面ももつ。
初日から7日間、みな仮庵に住む。
また毎日「焼き尽くす捧げ物」が献じられる。
神殿破壊以後は犠牲は行われていない。
捕囚期後、イエスの時代には、祭りの期間中、毎日エルサレム神殿へ市内のシロアムの池から黄金の器で水を汲んで運び、朝晩二回行われる犠牲の際、供え物とともに祭壇に水を注ぐ行事が行われた。
『ヨハネによる福音書』7章37節から38節で言及される「私を信じる者のうちから、生きた水が……流れ出る」は、この行事を背景とした記述である。
現代のイスラエルにおいてもスコットの期間中はいたるところで仮庵が設置されている。
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