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人はそれをシルバー民主主義と呼ぶ・・「少子高齢化社会の民主主義って?」

2018-03-28 | 心理学と日々の想い


半年前の記事になりますが、気になって切り抜いていたものをご紹介します。

リンゴたちの写真は、「一人はみんなのために みんなは一人のために」と言っているように見えたので。。

            *****

  「少子高齢化社会の民主主義って?」    
             読売新聞2017・10・11「論点スペシャル」


          (引用ここから)



「厳しいけど支え合おう・・評論家 樋口恵子」

「日本の社会保障が高齢者に偏っている、というのはそのとおりで、高齢者の一人としては、認めざるをえない。

ただそれは、時代の流れだった、ということも知ってほしい。

戦後、長寿化が進み、日本に初めて大量の高齢者が誕生した。

そのため福祉政策が必要になるのは当然だ。

年金、医療保険、介護保険といった制度があったから世の中がうまく回ってきた。

子どもは、親の扶養から解放された。

自分の子に十分な教育を授けられるようになり、経済的理由で親世代との同居を強いられなくなった。

恩恵は多くの世代に及んでいる。

家計の健全さを支えたのが、社会保障制度だった。

私は70年代後半に大病をした。

治療費はかなりの額に上ったが、実際支払ったお金は驚くほど安かった。

患者の負担を軽減する「高額療養費制度」のおかげだ。

高度な医療を、誰もが受けられる。

なんと良い国に暮しているのかと、涙が出るほどだった。

しかし次の瞬間、背筋がぞっとした。

これでは、いくら国にお金があっても、持つわけがない。

高齢者はますます増えていく。

優遇されすぎではないか?

高額療養費は、今年高齢者の自己負担分が引き上げられた。

国の「審議会」で議論に加わったが、低所得世帯への配慮を要望しつつ、引き上げに賛成した。

辛かったが、介護などの負担も増えている高齢者という立場に、あぐらをかくのは間違っている。

支払い能力に応じた負担を拒みはしない。

経済的余裕がある人も多く、負担する力はあるだろう。

ただ労働する力、健康の力は落ちてくる。

応能負担を経済力だけで論じるのは、いかがなものか?

生物的にだんだんと弱っていく人を、みんなで支えるという基本は忘れないでほしい。

世代間の対立をあおったり、ある世代を攻撃したりするような言い方は不毛だ。

人はかならず年を取る。

今の90才が幸せでなかったら、あなたの未来も幸せではない。

私たちの世代は、平和の恩恵を受けて、長生きもできた。

私たちは、次の世代がいることで暮らしていける。

わたしは、「食い逃げは年寄りの恥」という考えで、子育て支援の活動も続けている。

元気なうちは、なるべく働いて、稼ぐことも重要だ。

異世代を理解するには、「見える化」が大切ではないか?

たとえば若者は介護現場を知らない。

施設を継続的、組織的に訪問し、働く仕組みを作ってはどうか?

地域に文化活動で異世代が交流できる場が増えており、高齢者が参加してみるのもいい。

当事者の意見を聞かずに、物事を進めるのは良くない。

各世代の主張を聞き、粘り強く一致点を見つけていくことが求められる。



「社会保障格差 説明して・・相和女子大特命教授 八代尚宏氏」

衆院選では、消費税を今の8%から10%に引き上げるかどうかが争点になっている。

増税はもちろん必要だが、高齢化で急増する社会保障支出の増加分を抑えない限り、将来の税率を際限無く引き上げなければならない。

税率10%では、焼け石に水なのに、もっぱらその是非を巡って与野党が論争していることに、強い違和感がある。

日本の社会保障費は、大部分が高齢者の年金・医療・介護に使われ、子育てなどへの支出が極端に少ない。

安倍首相の「全世代型社会保障への転換」という考え方自体は正しいが、それならば、子育て支援を増やすだけではなく、高齢者への給付を減らして財源とする必要があるにも関わらず、与野党ともに、たとえば「年金課税の強化」や「医療介護サービスの合理化」などの給付抑制政策をあまり主張していない。

この背景として、政治家が当面の選挙に勝つために、ふえる一方の高齢者の既得権を守ろとする「シルバー民主主義」の影響が指摘できる。

有権者に占める65才以上の割合は、現在すでに約3割となっており、2040年には4割程度に増えると予想されている。

しかも昨年の参院選では70才代の投票率は、20才代の2倍以上だった。

「シルバー民主主義」の傾向は、今後さらに強まっていくのではないか?

日本の社会保障制度は、年金も医療も、まだ少子高齢化が本格化していなかった頃に作られた。

平均寿命が延びるなど、社会環境が大きく変化したのに、特に年金は支給開始年齢の引き上げなどの対応がおくれ、後に生まれた世代ほど不利になる「世代間格差」が大きい。

しかも、国の借金は1000兆円を突破している。

増え続ける社会保障費が、安易に赤字国債で賄われ、後の世代にツケが先送りされ続けたからだ。

欧米では、「社会保障費削減か?それとも増税か?」が主要な政治対立となる。

ところが日本では、「いずれにも反対」という声が大きく、結果として、政府の借金が際限なく増えている。

これはいわば孫名義のクレジットカードを祖父母が使いまくっているような状態だが、そのことがほとんど認識されていない。

今のように、将来に大きなツケを先送りする社会保障制度は、いずれ行き詰まり、維持できなくなる。
年金や医療の給付額がカットされるリスクが大きい。

それなのに政治家と官僚が、高齢者を目先の利益ばかり考えているとみくびり、正確な情報を提供しない。

そこに大きな問題がある。

膨大な借金に依存した年金・医療・介護の厳しい現実を、高齢者が正しく認識すれば、社会保障制度の改革に理解を得ることは可能だ。政治家は、社会保障の「不都合な真実」について、客観的なデータを示して説明すべきだ。



「国の借金 若者と議論を・・NPO法人「ユースクリエイト代表理事 原田健介氏」

大学時代に政治家の事務所で研修し、このままでは社会保障費が際限無く拡大して、将来世代にツケが回されるのに、若年層への配分は少ない、という危機感を持った。

若者と政治をつなぐ活動を始めたきっかけだ。

最近では「18歳選挙権」が実現し、主権者教育が重視されるようになった。

けれども、子どもから、僕らの世代くらいの生の声が、特に国政に届かない状況はあまり変わっていない。

政治家は高齢者に接触する機会が多く、実情も知っている一方で、地域のスポーツクラブで子どもの声を
聞いたり、保育園の送迎に顔を出して保護者と少しでも話をしたり、といった活動をしている人はごく少ない。

政策が高齢者向けに偏ってきたとしたら、こうしたコミュニケーション格差が背景にある。

政党や政治家が、高齢者側にだけ向いているわけではない。

昨年の参院選くらいから、「待機児童問題の解決」や「奨学金の拡充」など、若者向け政策が盛んに取り上げられるようになった。

でも若者との対話が少ない中で、政党・政治家はどこまで本気で将来を考えているのだろうか?

財政の健全化や、莫大な国の借金に関して、とことん議論をしない状況で、「全世代型の社会保障」・「消費増税の凍結」などと言われても、するべき話をとばしているように感じる。

2015年度以降、中学・高校・大学・公民館への出前授業などで、延べ12000人と接し、政治の話をしてきたが、「高齢者の負担を重くすればいい、給付を減らせばいい」という意見は少なかった。

高校では、「高齢者の年金を減らすのはかわいそう。介護も大変」と言う声をよく聞く。

将来負担のことより、親や高齢者が直面する困難を耳にすることが多いからだろう。

生徒同士の話し合いでは、医療や福祉の制度に無駄があるなら、削ろうよ、という方向になる。

若者は、高齢者を対立相手とは思っていない。

ただ「超少子高齢化時代」を担う次世代の意見を政治に反映させる仕組みをいっしょに考えてほしい。

たとえば、選挙で若者がみな投票したとしても、そもそも数が少ないから影響力が限られる。

選挙権年齢・非選挙権年齢の大胆な引き下げも含め、「次世代志向の民主主義」が必要ではないか?

今回の衆院選への若者の反応で目立つのは、「一体政治の世界で何が起きているのか?」という疑問だ。

目につくのが政党の離合集散では、当然だ。

各政党は、公約を下に論争し、「どんな国にするのか?したいのか?」という本質的な選択肢を示してほしい。

  
          (引用ここまで)

            *****

しごくまっとうな意見ばかりで、この記事は半年前のものですが、国会はこの1年、モリカケ論争などに湯水のように時間とお金を注ぎ、国政としてはほんとうに憂うべき事態でした。

このような国の状態を静かに描いたエッセーを、以前ご紹介したので、再掲します。

「しんがりの思想」鷲田清一氏著です。

          *****

         (引用ここから)

未来世代のことを、まずは案じる。

そういう心もほとんど失っているのが、現代である。

私たちは今まだ見ぬ未来の世代に対して、この石工のように「恥ずかしい仕事、みっともない仕事はできない」と、胸をはって言えるだろうか?

かえり見て、懐疑のかけらもなく謳われる空疎なリーダーシップ論ではなく、この石工の、他人にわざわざ訴えることもなく、自らにしみじみ言い聞かせる、このような矜持こそが、激変期に最も必要な眼であろうと思う。

とりわけ私たちは、未来をいくつもの限界の方から考える他なくなった時代にいる。

私たちは今、放射能で自然を修復不能なまでに壊したまま、それを次世代に手渡そうとしている。

また、法外な国の債務を未来世代につけ回して、平気でいる。

さらに次の世代が経済を回すための需要を、「経済成長」の名で先食いしようとしている。

毎年1兆数千億円の社会保障費の「自然増」・・本当はこれは断じて自然のことではなく人為の無策である・・に伴う増税や年金の削減という、過重な負担も、次の世代に強いようとしている。

これが、今のこの国の姿である。


わたしたちは、いつからなぜ、あの石工の矜持を失ってしまったのか?

この国には、今「人口の減少」つまりは「社会の縮小」に伴うさまざまな課題が、今すぐに対応を考えておかなければ取り返しがつかなくなる課題として、立っている。

この事実を前にすれば「経済成長」の掛け声など、どう考えても空言のようにしか響かない。


日本はこれから、先進国の中でいち早く、巨大規模での人口減少という事態に向き合ってゆくことになる。


「右肩下がり」の時代は、社会がまともになってゆくためには悪いことではない。

「右肩上がり」の時代には、次は何を手に入れようかと考えていたわけだが、「右に下がってゆく時代」には、何を最初にあきらめるべきかを考えざるをえない。

絶対に手放してはならないものと、あればよいけれど無くても良いものと、端的に無くてもよいものと、絶対にあってはならないもの。

これら4段階の価値の遠近法にもとづいて、優先順位というものをいやでも常に頭に入れつつ、社会運営にあたらねばらないのである。

そういう社会的な判断を下し、またそれに基づいて行動する力量を、私たち市民は今どれほど持っているか?

社会が嫌でも縮小してゆく時代、「廃炉」とか「ダウンサイジング」などが課題として立ってくるところでは、先頭で道を切り開いてゆく人よりも、むしろ最後尾で皆の安否を確認しつつ、登山グループの「しんがり」のような存在が重要である。

「退却戦」で、敵の一番近くにいて味方の安全を確認してから最後に引き上げるような「しんがり」の判断がもっとも重要になってくる。

こういう「全体の気遣い」こそ、本当のプロフェッショナルが備えていなければならないものなのである。

また、良き「フォロワーシップ」の心得というべきものである。

私はこうした心を「しんがりの思想」と呼んでみたい。

             (引用ここまで)
   
               *****

今、すべての人に関わりがある、とても大切な問題だと思います。


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