ちょっと時間があいてしまいました。
ヴァールブルク著「蛇儀礼」のご紹介を続けます。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
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(引用ここから)
この地域の、有史以前の、あるいは有史以後の住民たちが、自分達の故郷として選んだのは、全体として見ると自然の恵みの薄い土地でした。
リオ・グランデ、デル・ノルテがメキシコ湾に向かっている東北部の狭いうねうねと続く峡谷を別にすれば、この地域は基本的に台地状です。
つまり、どこまでも水平に広がっている巨大な岩石の塊です。
そしてその台地は頂部が平坦で、端は突然の崖になって終わっている卓上大地(スペイン語の「メサ」=机)となっているかと思えば、所によっては水流に浸食されており、1000フィート、あるいはそれ以上の険しい谷、いわゆるキャニオンになっています。
このキャニオンの一番上の壁は、のこぎりで削り込まれたかのように、ほとんど直角に落ち込んでいます。
一年の大半はこの大地に降水は全くなく、キャニオンの大部分は完全に干上がっています。
ただ雪解けの季節と、短い雨期に、猛烈な水量がこの乾ききった峡谷を逆巻きながら流れていくのです。
ロッキー山脈のコロラド大地地域には、先史時代の住居跡があり、また今日インディアン達が暮らしている村々があります。
大地の北西地域のコロラド州に、今日ではもう人の住んでいない岩窟住居、つまり岩壁に掘り込まれた居住跡が残っています。
最も行きにくいが、しかしそれゆえに昔ながらの特色を最もよく残しているのが、ホピ族の村々です。
ホピ族の村は6つほどあり、並行して走る3つの岩の尾根上にあります。
このアルパカーキの近くにあるラグーナ村は、プエブロインディアンの集落のきわめてよい例です。
先住民の村は二階建てあるいは三階建ての家々から成っていますが、入口は上にあって、外から「はしご」で昇っていく様に作られています。
下の階には、出入り口のドアがないのです。
かつてはこういう造りの方が、敵の攻撃から守るのに適していたというのが理由でしょう。
このような家を造ることで、プエブロインディアン達は住居と要塞建築の中間となるものを造っていたわけです。
そしてこうした彼らの文明の特徴は、おそらくアメリカの先史時代にまで遡るものです。
テラス状に家を重ねていく作り方で、一つの家の上に更にもう一つの家を作ります。
このような家の内部には、人形が掛かっています。
しかしこれは遊ぶためのおもちゃではなく、いわゆる「カチーナ」人形で、「仮面舞踏」の時に使うものを忠実に模して作られています。
ホピ族やズニ族を中心に、プエブロインディアンは万物に潜む精霊(カチーナ)を信仰し、それを表現する人形や仮面を「カチーナ」と称しました。
「カチーナ」は神々と人間の仲介者とも考えられていました。
農作業のさまざまな年中行事に、人間と自然の魔術的な仲介者として、この「仮面舞踏」が行われるのですが、この奇妙な習慣は、この農業・狩猟民族の宗教性の極めて独特な表現なのです。
工芸上の産物として、実用的な目的にも宗教的な目的にも極めて重要なのは、粘土製の「壺」です。
これを使って、生活に欠かすことのできない乏しい水が運び込まれるからです。
こうした容器の表面の模様の特徴は、自然現象の骨格を象った形の紋章にしていることです。
たとえば「鳥」は、その重要な構成部分に分解した形で描かれていて、結果として紋章めいた抽象的形態になっています。
「鳥」の抽象的形態は、いわば一種の先史文字=ヒエログリフとして読み取られることを要求します。
ここにあるのは、現実の写像と記号との間の、あるいは写実的な鏡像と文字の中間的段階なのです。
こうした動物たちを描いた装飾の作り方を見ると、このような視覚の在り方、思考の在り方がどのようにして象徴的な絵文字を産むに至るかが分かるでしょう。
(引用ここまで)
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>「先住民の村は二階建てあるいは三階建ての家々から成っていますが、入口は上にあって、外から「はしご」で昇っていく様に作られています。
下の階には出入り口のドアがないのです。
そしてこうした彼らの文明の特徴は、おそらくアメリカの先史時代にまで遡るものです」
著者はこの本全編において、ホピ族のこの「家屋」の構造をとても重視しています。
そして、著者は遠い昔=先史時代からのインディアン文明に思いをはせているのです。
>「このような視覚の在り方、思考の在り方がどのようにして象徴的な絵文字を産むに至るかが分かるでしょう」
著者は、とてもわかりにくいインディアンの描く記号のようなデザインや絵を、どうしたら読み解くことができるかと考えています。
インディアンによって描かれたもの、創られたものから、彼ら独特の考え方を理解することができるはずだと考えています。
wikipedia「ヒエログリフ」より
ヒエログリフ (hieroglyph, 聖刻文字、神聖文字) とは、ヒエラティック、デモティックと並んで古代エジプトで使われた3種の文字のうちの1つ。
エジプトの遺跡に多く記されており、紀元4世紀頃までは読み手がいたと考えられているが、その後使われなくなり、読み方は忘れ去られてしまった。
19世紀になって、フランスのシャンポリオンのロゼッタ・ストーン解読により読めるようになった。
一般には古代エジプトの象形文字あるいはその書体を指すが、広義にはアナトリア・ヒエログリフ(英語版)、クレタ・ヒエログリフ、マヤ・ヒエログリフ(マヤ語の象形文字)など、他の象形文字に対しても用いられることがある。
ヒエログリフの呼称
ヒエログリフの名称はギリシア語の ヒエログリュピカ に由来し、「 聖なる + 彫る」 を意味する。古代エジプト遺跡で主に碑銘に用いられていたためこう呼ばれた。
文字の歴史
ヒエログリフがいつ頃使われ始めたかについてはまだ解明されていない。
エジプト原始王朝時代以前の紀元前4000年のGerzeh cultureの壷に描かれたシンボルがヒエログリフに似ていることが知られている。
紀元前3200年頃、上エジプトにあったen:Nekhenの遺構から1890年に出土したナルメルのパレット(英語版)の文字を最古のヒエログリフとする立場が長い間一般的であった。
紀元前3000年頃にはヒエログリフとヒエラティックが使い分けられていた。
ヒエログリフは主に石碑に刻んだりするための正式な文字で、言わば漢字における楷書に相当する。
一方、パピルスへ手書きするときにはヒエラティック(神官文字)が使われ、これは行書に例えられる。
エジプト中王国時代(紀元前2040年-紀元前1782年)にヒエログリフの改革が行われ、使用する文字の数を750程度に抑え、単語の綴りも一定化された。
当時、古代エジプト語は中エジプト語に移行した時期で、古エジプト語よりも細かいニュアンスを表現出来る文章語としての完成度が求められたことも要因として上げられる。
この改革は、同時代の古代オリエント世界において楔形文字でも使用する文字数を減らす改革と、起こった時期が一致している。
もう一つの改革は、母音を表す記号がなく子音のみで音素を表現するアブジャドの原型となった使用法(ワディ・エル・ホル文字と原シナイ文字)が生まれたことである。ロゼッタ・ストーンのファラオ名表記はその一例である。
後に、この使用法から原シナイ文字から派生した文字体系にみられるようなアブジャド、アブギダ、アルファベットなどの文字体系が生まれた。
末期王朝時代のエジプト第26王朝(紀元前650年)頃にはヒエラティックの簡略化が進み、草書体とも言うべきデモティック(民衆文字)となった。
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