大沢忍氏の「不思議な福の神「仙台四郎」の解明」という本のご紹介を続けます。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
仕事の取引先の人との話ではじめて「仙台四郎」という「福の神」の名を知った著者は、「四郎」の生涯と「布袋尊」の生涯を比較します。
引用します。
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(引用ここから)
「布袋尊」は、中国の禅僧で、中国唐代末期に実在し、生年は不明であるが、西暦916年に亡くなったとされている。
常に大布袋を携えて、その一生を放浪生活に過ごし、その生涯はむしろ奇人伝中の人であった。
「布袋尊」の実在の姿は、実に禅僧とは考えられないものであって、禅僧であったと伝えられていることは後世の創作ではないかという気さえする。
彼は、袋の中に生活必需品の一切を入れ、人中にあってはあたりかまわず物を乞い、施しを受けた魚など少しばかり食べては、残りを袋の中に入れて蓄えていた。
一定の住処や生業を持たず、方々を徘徊する浮浪者であった。
そして雨が降れば湿った草履をはき、晴れれば高歯の下駄をはき、あるいは橋の上に膝を立てて眠るといった奇行も伝わっている。
風体は、短小肥満、満面に笑みを浮かべ、大きな太鼓腹を丸出しにしており、語を出すに定まるところなかった。
それでも、「布袋和尚」は「布袋さん」の愛称で人々から呼ばれ、大切にされた。
というのも、外見上からの判断は、かように愚痴のはなはだしい〝白痴の浮浪者″であったが、「布袋和尚」は、人知を超える能力を持ちあわせていたのである。
雪の上に寝泊まりすれども、少しも身を濡らさず、天気を予報すればすべて的中した。
そして、人の吉凶福禍を予測することができたのである。
「布袋尊」についての記録は簡潔な形でしか伝わっていないが、その姿は、あまりにも「仙台四郎」に酷似している。
施しものを入れる袋をもって物乞いをしていたこと、
生業もなく法部を徘徊してい歩いていたこと、
異様な風体の中にも、顔にはほほえみを絶やさなかったこと、
言葉が不明瞭であったこと、
そして何よりも人知を超える能力を持ち合わせていた。
そしてさらに、両者とも、愛嬌をもって人々に受け入れられ、「布袋尊」が世を去ると、その姿が画像として描かれた。
「四郎」も同様に、その姿が写真として広く人々の間に行き渡るようになった。
こうした共通点を追ってみると、「仙台四郎」は「布袋尊の再来」と言えるのでないだろうか?
ところで、この「布袋尊」に関して、彼を「福伸」とすることについて、実は重要な指摘がある。
「布袋尊」を「福伸」として仰ぐ理由がない、というものである。
はたしてこの事態をどう見るか?
彼は禅僧として、高い位置づけの中にある。
それは彼の全く現世を超脱した行為を、後世の創作により神秘化し、禅学的問答の世界において十分価値を付与された結果による。
そして、その臨終に際してものしたとされる「ゆいげ」の内容から、「弥勒菩薩の化身」とされるに至った。
こうした高い位置づけでの「布袋尊」の解釈は、実は彼の実在の姿から離れ、改めてイメージの世界で宗教的に創作された観念上の「布袋尊」である。
そしてこの「布袋尊」からは、そのまま「福伸」としての「布袋尊」を語ることはできない。
「弥勒」は56億7000万年の後に、この世に現れ、会えるとされる仏である。
この世知辛い、忙しない世の中に、のんべんだらりと56億7000万年の後を待たねばならぬようでは、現世においてご利益を与える「福伸」としてはあまりに気の長すぎた話である。
「布袋尊」、「仙台四郎」、彼らの実在の事実を慎重に検証する必要がある。
彼らは、歴史の中で生きたのであって、そこに「福の神」の本質があるからである。
(引用ここまで)
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たしかに、「布袋さんを「福の神」として仰ぐ理由がない」、という説は、非常に面白い。
昔のテレビ番組「クイズダービー」の篠沢教授風に言えば、「非常に愉快」であります。
しかし、著者は引き続き研究を続けます。
この仙台四郎については、水木しげる氏も名著「神秘家列伝その4」にて言及していますので、少しご紹介します。
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四郎の伝記。近所の店先を勝手に掃除しているところ。
ところが、その店は繁盛するのである。
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大沢忍氏の本に戻ります。
以下引用です。
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(引用ここから)
彼の名は、通称「やぐら下四郎」という。
江戸末期に鉄砲職人の子として、仙台市で生まれた。
家の近くに火の見櫓があったことから、そのへん一帯を通称(やぐら下)と称し、本名四郎を付して、当時は「やぐら下四郎」と言われた。
生来の白痴であって、その程度は判然としないが、一般には「四郎馬鹿、しろばか」などと呼ばれたりしていた。
それは決して四郎を害する目的で馬鹿にして呼んだというよりも、その姿をして一種の愛嬌者のような取り扱いであった。
言い伝えによれば、彼はでっぷりした相撲の親方のような肥大漢。体の生育はいたってよかったようだ。
しかし言葉はほとんどしゃべらずに、「ばあやん」と言うだけ。
年がら年中ドテラに縞の半天を着ていた。
そして、貰い物を入れる大きなふくろを首にかけて、胸にぶらさげ、毎日あてどなく市中を徘徊した。
そしていつも、愛嬌を振り撒きながら徘徊した。
その姿は、決して汚い身なりはしていなかったが、まさに異常に明るい白痴の浮浪者という雰囲気であった。
ところが不思議なことに、「四郎」が立ち寄る店は、必ず大入り満員の繁盛となり、いくら手招きして呼んでも彼が見向きもしない店は、みな傾いたり潰れたりしていった。
この事実は大きく取り上げられる。
エピソードが広まるにつれ、人々は彼の存在をひときわ高く注目し、彼が出現すると、銭や菓子、食い物を与え大事にした。
不思議な人々の共感の中で、四郎は主役の座を得たのである。
そして事実そのままに、特に当時の料亭、遊郭、芸妓屋、旅館といった客商売の店は、四郎をおおいにもてはやした。
その出現を望み、期待に胸を膨らませる。
うわさがうわさを呼び、ついに白痴の浮浪者は「福の神」としてその名が知れ渡ることになる。
店は競って彼を呼び込もうとする。
四郎はあちこちで、大モテとなった。
もちろん相手は「福の神」ということで、仙台市内どこへ行っても 彼の寄る店は無料である。
それでも多くの店は「四郎」を招き、大いに飲み食いさせてはもてなした。
明治20年には、仙台―上野間に鉄道が開通する。
四郎はさっそくその鉄道を利用して、山形、福島といった近隣の県にも、その足を延ばしているが、その汽車でさえも無賃で乗り継いで行ったのである。
彼のその振る舞いは常に注目を集め、動静は、驚くことに、逐一当時の新聞にも紹介された。
新聞という客観的な情報媒介でも「四郎」は、いつしか変わった人気者となったのである。
そして明治35年、大きなセンセーションを巻き起こした「四郎」は、福島県須賀川において、47才で死亡したとされている。
その死亡の原因や様子は一切記録が残っていない。
そのために、それ以上生きていたとする風説すらも伝わっている。
(引用ここまで)
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