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「ホピ・この惑星を救うテックワ・イカチという生き方」という本を読んでみました。続きです。
この本はホピの長老ダン・エヴェヘマと、彼が招へいした白人トーマス・E・マイルズ氏との共著です。
長老エヴェヘマが承認を与え、マイルズ氏が資料を分析して書いたものです。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
長老がなぜホピ族の世界を公に語ることを決意したのか?
その理由は、ホピ族の出現から現在に至る「時の物語」の中に記されているのであると彼らは語ります。
*****
(引用ここから)
人々はオライビ村を作り上げ、マサウの教示に従い始めた。
オライビ村の目的は、マサウとの契約を守るために必要な調和と統一を推進することにあった。
村はずっとマサウが教えた祭りの周期と農耕生活の指導に従った。
生活は乱れず、オライビの住民たちはどんなことも結束して行い、長い間繁栄した。
また、「預言」、「聖なる石板」で「ロードプラン」を毎年調べ直すことで、彼らはいつの日か他の国々から奇妙な人々が来ることを心に刻みつけた。
予告通り、スペイン人がやってきたのは1540年だった。
1826年には新たな宣教師たちが押し寄せた。
宣教師の背後にはアメリカ政府があった。
1881年、アメリカ政府は第一メサの近くに政府機関を設置し、はじめてホピの国に足がかりをつかんだ。
翌年には大統領令によって「ホピ居留地」を設置した。
境界線を引かれた部分はホピの領土の十分の一にも満たないものだった。
むろんこの件についてホピには何一つ相談はなかった。
政府は、まず着手するべきはホピの固有の文化を滅ぼし、白人文化に差し替えることであると見た。
そこで、政府は村の活動、とくに祭りに加われないようにするために子どもたちを村から遠く離れた寄宿学校に入れることにした。
伝統派はこれがホピにとって致命傷になることをすぐ見てとった。
ホピが折れようとしないのを見て、政府は軍事力に訴え、強制的に同意させようとした。
ユキオマ率いる伝統派の指導者たちはバハナ(白人)の提供するものを受け入れれば破滅的な結果になり、契約の誓いを守ることができなくなると民に警告した。
しかし政府の考えを受け入れる友好派はしだいに増し、祭りは中断され、家族氏族の関係は引き裂かれた。
1906年には、オライビの紛争は戦争と化した。
オライビの住民は700人に激減した。
その年、両派は伝統的な方法で勝負をし、敗れたユキオマは村を去った。
ユキオマたちはホテヴィラという名の泉に移動し、ここで独自の村づくりを開始した。
アメリカ政府はこどもたちを寄宿学校に送り込み、反対する親を逮捕して鎖につないで刑務所に送り込み続けた。
著者エベヘマは当時10代で、不在の父親たちの持ち場を埋める経験をしている。
ホテヴィラの伝統派は力を取り戻し、いかなる脅迫にもひるまず、政府の要求をはねつけた。
アメリカ政府は、ユキオマの先祖が、創造主伝来の生き方に永遠に従う厳粛な誓いを立てたことなど、知るよしもなかった。
「第4の世界が終わる兆こうが見えたなら、特殊な「警告」と「存続の道」を伝えなければならない」との約束ごとが、その誓いに含まれていることも知らなかった。
白人にとってはそんな知識がホピから来ること自体あり得ないことだったのである。
これほど重大な歴史的役割を、神が原始部族に託することなどあり得ないと、たかをくくっていたのだ。
ユキオマは言った。
「よいですか。
わたしがこのようにしているのは、わたしの民のためだけではない。
あなた方のためでもあるのです。
わたしがあなたがたの命令に屈してみなさい。
バハナ(白人)の道を受け入れてみなさい。
その瞬間、巨大な蛇はのけぞり、海は雪崩込み、わたしたち皆がおぼれ死ぬのです。」
歳月の経過とともに、基準を満たせるホピはますます少なくなってきた。
ユキオマの子ダン・カチョンバが1972年に死ぬと、ユキマオの近親者がホピを治めた。
彼らの在任中、政府はユキオマの時と同様、村にたっぷりと襲撃を加えたため、伝統派は混乱をおこし、契約と伝統の道の砦たるホテヴィラ村の存続を、誰もが危ぶんだ。
次にモノンギエという輝かしい宗教指導者が族長になり、死ぬまでホテヴィラ共同体を治めた。
彼は「ニュースレター(テックワ・イカチ)」の編集者になり、伝統を強固につらぬき、毎年の生の循環を確実に保ち、政府の襲撃に強く抵抗した。
彼は政府のかいらいである「ホピ部族会議」の宿敵となった。
(引用ここまで)
*****
ホピ族は北米インディアン最古を誇る部族であると言われています。
しかし、「ホピ族伝統派」と呼ばれる派は、1906年、ホピ族が外部の勢力を受け入れるかどうかを巡り分裂するに至った時、はじめて現われたものです。
それ以前はホピ族はひとつの部族としてまとまっていたのですが、100年ほど前に部族内が分裂したのです。
そしてその時はじめて、「伝統的な生き方」を主張する一派が歴史上に現われるという逆説的な事態が起き、その出来事がホピの大転換期となりました。
今の長老たちが石板に見るのは、その分裂の印です。
それは避けるすべなくやってきた分裂だったのです。
守護神マサウとの約束を数千年守り通してきた彼らの前に、約束を破る「道すじ」がはっきりと表れてきた時、、、かつて3つの世界が不道徳のために滅びたように、世界は滅びの道を歩むことが判明したのです。
つづく
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「ブログ内検索」で
ホピの予言 12件
インディアン 15件
環境 15件
舟 12件
などあります。(重複しています。検索結果は15件がマックスです。)
この本はホピの長老ダン・エヴェヘマと、彼が招へいした白人トーマス・E・マイルズ氏との共著です。
長老エヴェヘマが承認を与え、マイルズ氏が資料を分析して書いたものです。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
長老がなぜホピ族の世界を公に語ることを決意したのか?
その理由は、ホピ族の出現から現在に至る「時の物語」の中に記されているのであると彼らは語ります。
*****
(引用ここから)
人々はオライビ村を作り上げ、マサウの教示に従い始めた。
オライビ村の目的は、マサウとの契約を守るために必要な調和と統一を推進することにあった。
村はずっとマサウが教えた祭りの周期と農耕生活の指導に従った。
生活は乱れず、オライビの住民たちはどんなことも結束して行い、長い間繁栄した。
また、「預言」、「聖なる石板」で「ロードプラン」を毎年調べ直すことで、彼らはいつの日か他の国々から奇妙な人々が来ることを心に刻みつけた。
予告通り、スペイン人がやってきたのは1540年だった。
1826年には新たな宣教師たちが押し寄せた。
宣教師の背後にはアメリカ政府があった。
1881年、アメリカ政府は第一メサの近くに政府機関を設置し、はじめてホピの国に足がかりをつかんだ。
翌年には大統領令によって「ホピ居留地」を設置した。
境界線を引かれた部分はホピの領土の十分の一にも満たないものだった。
むろんこの件についてホピには何一つ相談はなかった。
政府は、まず着手するべきはホピの固有の文化を滅ぼし、白人文化に差し替えることであると見た。
そこで、政府は村の活動、とくに祭りに加われないようにするために子どもたちを村から遠く離れた寄宿学校に入れることにした。
伝統派はこれがホピにとって致命傷になることをすぐ見てとった。
ホピが折れようとしないのを見て、政府は軍事力に訴え、強制的に同意させようとした。
ユキオマ率いる伝統派の指導者たちはバハナ(白人)の提供するものを受け入れれば破滅的な結果になり、契約の誓いを守ることができなくなると民に警告した。
しかし政府の考えを受け入れる友好派はしだいに増し、祭りは中断され、家族氏族の関係は引き裂かれた。
1906年には、オライビの紛争は戦争と化した。
オライビの住民は700人に激減した。
その年、両派は伝統的な方法で勝負をし、敗れたユキオマは村を去った。
ユキオマたちはホテヴィラという名の泉に移動し、ここで独自の村づくりを開始した。
アメリカ政府はこどもたちを寄宿学校に送り込み、反対する親を逮捕して鎖につないで刑務所に送り込み続けた。
著者エベヘマは当時10代で、不在の父親たちの持ち場を埋める経験をしている。
ホテヴィラの伝統派は力を取り戻し、いかなる脅迫にもひるまず、政府の要求をはねつけた。
アメリカ政府は、ユキオマの先祖が、創造主伝来の生き方に永遠に従う厳粛な誓いを立てたことなど、知るよしもなかった。
「第4の世界が終わる兆こうが見えたなら、特殊な「警告」と「存続の道」を伝えなければならない」との約束ごとが、その誓いに含まれていることも知らなかった。
白人にとってはそんな知識がホピから来ること自体あり得ないことだったのである。
これほど重大な歴史的役割を、神が原始部族に託することなどあり得ないと、たかをくくっていたのだ。
ユキオマは言った。
「よいですか。
わたしがこのようにしているのは、わたしの民のためだけではない。
あなた方のためでもあるのです。
わたしがあなたがたの命令に屈してみなさい。
バハナ(白人)の道を受け入れてみなさい。
その瞬間、巨大な蛇はのけぞり、海は雪崩込み、わたしたち皆がおぼれ死ぬのです。」
歳月の経過とともに、基準を満たせるホピはますます少なくなってきた。
ユキオマの子ダン・カチョンバが1972年に死ぬと、ユキマオの近親者がホピを治めた。
彼らの在任中、政府はユキオマの時と同様、村にたっぷりと襲撃を加えたため、伝統派は混乱をおこし、契約と伝統の道の砦たるホテヴィラ村の存続を、誰もが危ぶんだ。
次にモノンギエという輝かしい宗教指導者が族長になり、死ぬまでホテヴィラ共同体を治めた。
彼は「ニュースレター(テックワ・イカチ)」の編集者になり、伝統を強固につらぬき、毎年の生の循環を確実に保ち、政府の襲撃に強く抵抗した。
彼は政府のかいらいである「ホピ部族会議」の宿敵となった。
(引用ここまで)
*****
ホピ族は北米インディアン最古を誇る部族であると言われています。
しかし、「ホピ族伝統派」と呼ばれる派は、1906年、ホピ族が外部の勢力を受け入れるかどうかを巡り分裂するに至った時、はじめて現われたものです。
それ以前はホピ族はひとつの部族としてまとまっていたのですが、100年ほど前に部族内が分裂したのです。
そしてその時はじめて、「伝統的な生き方」を主張する一派が歴史上に現われるという逆説的な事態が起き、その出来事がホピの大転換期となりました。
今の長老たちが石板に見るのは、その分裂の印です。
それは避けるすべなくやってきた分裂だったのです。
守護神マサウとの約束を数千年守り通してきた彼らの前に、約束を破る「道すじ」がはっきりと表れてきた時、、、かつて3つの世界が不道徳のために滅びたように、世界は滅びの道を歩むことが判明したのです。
つづく
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「ブログ内検索」で
ホピの予言 12件
インディアン 15件
環境 15件
舟 12件
などあります。(重複しています。検索結果は15件がマックスです。)
ホピの予言を検索しているうちに、このブログに辿り着きました。
昔「ワイズマン」のマンガで主人公の日本人青年とホピの若者との出会いを読んだことがありましたが、ご紹介いただいた著書の引用文を読んでみても、ホピ族は本当に宿命的ではあるけれど実に崇高な部族なので巣ですね。
前々から気になっていたことのひとつなのですが、1万5千年もの歴史を持つとされている、幣立神宮(熊本県阿蘇市)とホピ族とはなんらとても重要な繋がりがあるようなのです。
(詳しく調べていないのでわかりませんが。)
ちなみに今年は5年に一度の五色人大祭が8月23日に行なわれるそうで、その時にあの著名なジュディス・カーペンター女史と長老がいらっしゃるのだそうです。
前に「地球青年誕生」著書を読みましたが、15年ほど前に導かれるようにして、ジュディス女史は初めて幣立神宮を訪れて以来、ご縁をいただいているようです。
ところでその五色人大祭ですが、
それに関してイベントの詳細がHPで紹介されています。
その中にホピの長老による講演が組まれていました。
http://www.masaru-emoto.net/jp/event/japan.html
ご参考までに。
ありがとうございました。
はじめまして。
コメント、どうもありがとうございます。
また、催しのご紹介もどうもありがとうございます。
九州の幣立神宮の五色神面のことは、前から気になっておりました。
いつ頃、どのようにして奉納されたものなのでしょう。
ジュディス・カーペンターさんは、ホピの地に行かれ、また、幣立神宮にもいらしてますね。
太古の地球の、人類の意識が一つであった頃の記憶があるのだろうと思っております。
それを感受しておられるのではないでしょうか?
ホピの方たちも、日本には特別なつながりを感じていらっしゃるのだと思います。