たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

190217 万葉和歌を考える <直木孝次郎さん死去・・・「書紀批判」で古代史研究リード>などを読みながら+岩内1号墳

2019-02-17 | 古代を考える

190217 万葉和歌を考える <直木孝次郎さん死去・・・「書紀批判」で古代史研究リード>などを読みながら+岩内1号墳

 

今朝の毎日記事<直木孝次郎さん死去 100歳 「書紀批判」で古代史研究リード>と<直木孝次郎さん 「建国記念の日」で問題提起、各地の遺跡保護運動にも尽力>を読みながら、ふと突拍子もない空想にふけってしまいました。

 

直木孝次郎さんといっても、著名な古代史研究家というくらいで名前を知っている程度ですので、この記事から特別の思いが浮かび上がるはずがないのですが、読みながらいろいろと思い出すことがありました。

 

まず、記紀の問題について、直木氏が<戦後「神功皇后は架空の人物」であることを主張する論文を発表。日本書紀に施された後世の粉飾を明らかにし、史料的価値を再検討する「書紀批判」の立場で、書紀に頼った戦前の皇国史観、「三韓征伐」に象徴される古代の日朝関係の偏見の打破に取り組んだ。>という点です。いまでは多くの研究者が多様な視点で神功皇后論を書いていますが、直木氏がその嚆矢だったのでしょうね。

 

ところで、私が当地に来てまもなく奈良市周辺を歩いていたとき、偶然変な池と島が次々と現れるので不思議なところだなと思ったのです。当時初めて前方後円墳を見たので、その程度の知識でした。それが佐紀盾列古墳群でした。その北西端に神功皇后陵(五社神古墳)があります。なぜかこの一帯には皇后の陵とされる古墳が多いですね。

 

神功皇后が実在しなかったとしても、その伝承が各地に残っていることをどう考えるのでしょう。当地の隅田八幡神社に下賜された人物画像鏡の由来はとか、鞆の浦にある沼名前神社にも武勇伝のあった皇后から下賜された鞆があるとか、さまざまな伝承がありますね。そういった各地の人々に慕われた皇后がいて、そのような伝承が綜合されて一人の神功皇后ができあがったのかもしれません。記紀の神功皇后の巻は不思議です。直木氏の説を読んでいませんが、何人も追随するような論説を読んでいますと、記紀の記載よりは信頼できるように思うのです。

 

ところで、本日のブログを書き出したのは、神功皇后の話をするつもりでなかったので、つい前置きが長くなりました。実は直木氏の著作は少しだけ読んでいて、そのうち『万葉集と古代』もざっとだけ目を通したことがあります。万葉集も歌もよくわかりませんが、背景の歴史には関心をもっていますので、万葉集の解釈はわからないものの、割合この種の本は読んできました。

 

で、直木氏は、万葉集の生誕と政治的背景に言及しつつ、「有間皇子の変と追悼の歌」というタイトルで、有間皇子の有名な歌2首の成り立ちと追悼の歌を取り上げています。

 

そして大化の改新以前は雄略天皇の歌などの伝誦歌以外では5首くらいで儀礼歌だというのです。万葉集の歌は多様ですが、やはり心がこもった内容ではないかと思うので、直木氏は言外に後代に作られたものと言っているようにも聞こえるのです。それ以降に生まれたとされる有間皇子の歌も実作かどうか疑問を投げかけています。

 

有間皇子追悼の歌として

長忌寸奥麻呂の

磐代の崖の松が枝結びけむ人は反りてまた見けむかも

山上臣憶良の

翼なすあり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ

柿本人麻の

後見むと君が結べる磐代の小松がうれをまた見け

 

などをあげながら、いずれも持統・文武朝以降に作られたものであるとして、時の政権天武天皇時代には追悼の歌が生まれなかったことを指摘しています。その意味では天武天皇時代においてもといえるでしょう。

 

それならば、クーデター?を図ったと糾弾された有間皇子の歌が生まれたとか、残っていたとは言いがたいと思うのです。だいたい有間皇子の謀反話はできすぎで(記紀ではしょっちゅうですが)、後から作った話のようにも思うこともあります。

 

謀反を唆された軽挙妄動したような皇子が次のような哀愁のある歌を歌えるものでしょうかね。

磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまたかへり見む

家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る

 

万葉集の歌の作者、編者も、時の政権には表だって逆らえなかったのではと思うのです。表現の自由は天智天皇、天武天皇の時代に表すことができなかったことを、また当時の政権実力者、不比等や藤原一族に対抗できない立場で、歌に思いを込めた面もあるのではと思うのです。

 

その意味では、直木氏が乙巳の変や大化の改新に触れた歌がないと言うことについて、まだ歌作りが成熟していなかったというとらえ方をされていますが、むろん乙巳の変後は同情的な歌を表に出すことはできなかったと思うのです。

 

蘇我氏、とりわけ入鹿・蝦夷が記紀で言及されたようにいかに非道であっても、長い歴史を築き上げたのですから、哀悼の歌があってもおかしくないわけですが、孝徳天皇や斉明、天智、天武の時代はもちろんその後も、鎌足の子息、孫の系列が支配している政権下ではどだい無理な話ではなかったかなとも思うのです。

 

万葉集のいろはもわかっていないのに、ちょっと読んだ程度で議論する話ではないかもしれませんが、このブログはそのあたりはマイナーな世界ですのでご容赦の程を。

 

最後に90年代初頭、都市問題をいろいろ考えていましたが、首都圏のバブル景気でスクラップアンドビルドが当たり前の世界にいたため、奈良・京都の弁護士は文化的景観や歴史的景観の保全に向けて活発に活動していたことに少し驚きつつも、若干畏敬の念を抱きました。

 

毎日記事では直木氏は、<難波宮跡(大阪市)、平城宮跡(奈良市)、飛鳥池遺跡(奈良県明日香村)などの保存運動にも積極的にかかわった。飛鳥池遺跡の上への「万葉文化館」の建設について、「遺跡として保存活用を図るべきだ」と反対した。吉野熊野国立公園の奈良県吉野町・吉野山近くに進められたゴルフ場計画の中止を求めた訴訟でも、「歴史的景観を守れ」と原告を支援。「破壊の危機にある遺跡や文化財を助ける仕事に従事できたのは、歴史学の研究者としては本当に幸福なことではないか」と述べている。>とのこと。

 

直木氏のようなしっかりした考えのある方が支援されていたのかと思うと、私も頷くものがあります。私が90年代後半から首都圏で景観保全の訴訟を数多く手がけた契機は、やはり学者や住民の信じられないほどの熱い心と研究熱心な働きかけがあったからでした。

 

今日はこのへんでおしまい。また明日。

 

追補

 

222日付け毎日朝刊記事<紀州発掘物語 /5 岩内1号墳(御坊市) 名作詠んだ皇子の墓説 /和歌山>で、ちょうど有間皇子の墓説のある古墳の紹介がありました。

 

私が勝手に敬愛する森浩一氏も紹介されていました。

<有間皇子の墓説を採った研究者の一人が、2013年8月に85歳で亡くなった考古学・古代学研究者の森浩一さんだ。・・雑誌「歴史読本」での連載「敗者の古代史」(12年12月号)の一節にある。

 「『万葉集』には護送中の有間皇子が磐代(いわしろ)で詠んだ有名な歌が二首おさめられている。・・・この時は有間皇子は自分の運命に一縷(いちる)の望みをもっていたと僕はみる」。森さんはこう締めくくった。>

 

森氏は考古学者として厳密な考察をされますが、私のような素人には記紀については割合記述を尊重されているのかなと思うのです。この有間皇子墓説も魅力的ですが、前提としての万葉歌に疑問を抱く一人として、また記紀が不比等による虚構が随所にあると思う一人としては、頷けないものがあります。でも森氏が指摘するとそうかなとも思ってしまう感覚になるのも事実ですが。


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