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たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

大畑才蔵考その5 <本日開催の大畑才蔵顕彰フォーラムを振り返って>

2017-03-25 | 大畑才蔵

170325 大畑才蔵考その5 <本日開催の大畑才蔵顕彰フォーラムを振り返って>

 

先日、隣地境界との関係で、隣地の果樹園に隣接している斜面地が誰か別の方の所有地であるかのような話したことを取り上げたことがあります。

 

その後地番図、公図、登記事項証明書を改めて確認し、現地で自分なりに調べたところ,私の感覚が当地に来たときの状況から判断したもので誤りであったことが分かりました。公図を見ても、土地の形状も一致するところがなく、登記簿上の地積からも推測できる状況ではなかったのです。一部はまったく境界が分かりませんでした。それで地番図を参考にしながら、おおよそ当てはめていったのです。20箇所を超えていたので、なかなか簡単ではありませんでした。

 

そして当地にやってきとき笹藪が高さ1ないし2mで密集している状態、密林状態を2年あまりかけて少しずつ整序していくうち見通しがきくようになった後、残ったのが問題の土地でした。地番図ではそこはどうもわが家の土地ではないとみるほかなかったのです。

 

地番図は、市役所税務課で、地籍調査が行われていない地域では、公図が古い手書きの状態を反映しただけで、現状と適合していないため、航空写真を投影したような図面として出来上がっているので、現況の地形や植生を反映しているので、参考としては使えます。

 

しかし、公図をよく見ると、現況地形とはかなり異なるのですが、この間に竹林を大幅に伐採して、南北・東西方向の見通しがかなりよくなったので(棚からボタ餅?)、公図通りの境界を確認することができました(登記簿上の地積や公図の形状とは似て非なるものとの印象を持ちつつそれが正しいと判断)。そして、関係する境界線の筆が10筆近くあり、現況地形とは著しく異なりますが、やはり問題の斜面がわが家の土地の一角に入っていることがわかりました。丘陵地の少し複雑な尾根の両側とさらに別れた尾根筋という、少し複雑なため見分けが容易でなかったのです。

 

これをうれしいと考えるのは都会的発想で、斜面地で、実測で100㎡もないくらいでしょうか、平面にするとわずかです、それが所有地になることは負担が増えることに繋がるのです。前に紹介したターシャの庭みたいなのが作れる能力と意欲があればいいのですが、そう簡単にいきません。

 

いずれにしても今朝は半日、その草刈と野焼きをして少々へとへとになりました。

 

その後シャワーを浴びて、見出しの<大畑才蔵顕彰フォーラム>が開催された学文路公民館を訪れました。少々疲れ気味でしたが、すでにスタッフの人たちが大勢詰めかけていてその熱意に驚きました。フォーラムは1時半開始ですが、スタッフの集合は1130分。でもみなさんこの時間までにやってきているのです。うーん今日は期待できると即座に感じました。

 

開始時刻近くになると、会場はたしか100人分のイスを用意していましたが、追加しても足りないほど、小さな公民館の中は熱気が一杯でした。主催者側の一人として、一体何が困難に魅了したのだろうと半分不思議に思いました。といっても私の才蔵考を読んでもらった人なら、私がいかに彼に惚れ込んでいるか少しは分かっていただけると思うのですが、会場を訪れた方も郷土の偉人のことを知りたいという熱情があったのでしょうか。

 

フォーラムのメインは、瀬崎浩孝氏による「大畑才蔵、その業績と生涯」で、瀬崎氏は膨大な資料を紹介しながら、簡潔にユーモアを交えて大勢の笑い声が漏れる中、多少、吉宗像を俯瞰しつつ、流れるように概説されました。

 

才蔵の業績としては、普請という潅漑工事がメインです。資料では、藤崎井、小田井、六箇井、新井、それぞれの概要を示されましたが、とくに橋本市にある小田から岩出市の根来側まで延長32.5km、潅漑面積712.1haが偉大な成果といえるかと思います。

 

もう一つの業績として、村々見分を上げています。将軍綱吉が吉宗(当時頼方)と兄頼職にそれぞれ越前3万石を与えたことから、その領地の検分のために訪問し、田畑の評価をして石高を確認しているのです。そして紀州藩のもう一つの領地、勢州の検分も行っています。これは才蔵の仕事としても早い時期だと思いますが、このとき新井では先だってすでに潅漑事業が行われていて、そこの技術を才蔵は相当修得したのではないかと思うのです。

 

才蔵は、「積方見合帳」など多くの古文書を残した数少ない、百姓の一人で、とりわけ近畿圏の特徴である商業化が最も進んでいた農業の生業を、その百姓という立場で書き残した希有な一人ではないかと思っています。江戸時代は平和がやってきて、和紙も広まり、農書も盛んに書かれ始めた時代ですが、多くは武士ないし医師が書いたものではないかと思います。

 

さてそろそろ才蔵の農業土木技術の優秀さに触れておく必要があるかと思います。フォーラムを終えた後、私たちのスタッフ(みなさん技術系の職員)の手作り水盛台を使って、参加者が測量体験をしました。距離にして10mくらい離れた高低差を測るのですが、参加者の方が挑戦して、初めての人ばかりでしたが、測量誤差が少ない人を3人選びましたが、なんと3番目の人で0.7㎝でしたか、次が0.5㎝、そして誤差が一番少ない1等賞はなんと誤差0でした。

 

初めての方でもこれだけ正確に測量できるのですから、いかに測量技術の高い能力を持った器械として、「水盛台」が考案され、利用されたかを知り、改めて驚愕しました。おそらく18世紀初頭の時代、世界中で、これだけ精度のある測量機器はなかったのではないかと愚考します。ちょうどそういった感想を話していたとき、一緒に参加していた県職員の方の話しだと、正式な名前はちょっと聞き逃してしまったのですが、世界的な農業土木技術遺産のようなものに、この水盛台と他のものを登録申請をしているとか話していました。

 

私は、水盛台自体が素晴らしいと思うと同時に、おそらく測量できる距離はせいぜい10間(20m程度)ではないかと思います。それを根気強く継続していく作業は並大抵ではないと思うのです。まず、今日の実験でも水盛台を水平にする作業も微妙な誤差がないよう慎重を要しますし、さらに水盛台を通して眼で高さを測り印をつける作業も大変です。

 

そしてさらに言えば、掘削する場所によっては、より大変な土木技術を要します。県の職員の方もお話ししていましたが、土質が軟弱な場合もあれば、岩盤のような場所もあり、その状態で、勾配を設計通り維持するために、水漏れのない土質(粘土質でしょうか)などに入れ替えたり、その作業は並大抵ではないでしょう。

 

より問題と思うのは、橋本市小田井の地元から笠田町あたりまで、わずかの例外を除き、受益地はありません。普通、潅漑用水路を作る場合に、その用地取得をすることがまず大変です。まったく受益のない用水路に土地を差し出せと言われてはいそうですかという農家はいません。江戸時代においても、百姓の意思を無視して強奪するようなことは領主といえども出来ません。それは江戸時代の裁判記録などからも分かることで、封建時代を色目で見るような理解は最近の歴史学の発見などからいって通らないと思います。

 

それはともかく、そこにもう一つの才蔵の能力が発揮されていたのではないかと思うのです。才蔵は、当時巷に人気であった和算を自然にか意図して学び、農業土木に見事に応用したのだと思うのです。ロジステックの重要性は、戦国時代の秀吉が、あるいは石田三成が見事に証明しているとおり、相当な軍事技術としても蓄積されていたのではないかと愚考します。そのような知見を才蔵は農業土木に開花させ、潅漑用水路の遠大な距離を、工区設定し、それに必要な人工を明らかにし、短期間で農閑期の百姓等を使って完成させたのではないかと思うのです。

 

そして職員の方がヒントで話したように、受益のない橋本市の百姓には、その人工代として稼ぎ賃をもたらすことで、事業の遂行を可能にした一因があるかもしれません。

 

うっかり忘れるところでしたが、小田井の施設管理をされている方の話しでは、小田井の堰から小田を走っている潅漑用水路は、現在、ボックスカルバートという2.1m幅で四角く囲んだコンクリートの中を走っていて、地上からは用水の流れは見えません。それまで洪水で浸水があったりということで、こういう措置になったそうです。昔の面影が見えないのは残念です。

 

しかし、ちょっと先を行くと、用水路は地上に現れます。ところがそこに最近は問題が起こっているようです。いろいろなゴミを用水路(排水路ではありません)に投げ込む人がいて、その清掃・管理のために施設職員が日夜働いているそうです。これは恥ずかしいことです。不法投棄するのは、地域の人だけとはいえないと思いますが、まず地域の人が率先して、用水路をきれいにすることが大事ではないかと思うのです。

 

また、生活排水が相当入り込んでいて、そのため富栄養化で藻が繁殖するため、水の流れを止めて、藻を切り取るそうです。これこそ「柳川掘り割り物語」の昔の姿です。いま柳川はきれいな姿で蘇り、掘り割りを観光船が楽しそうな旅人を乗せて風流を楽しませてくれています。イギリスのテムズ川上流のようにボートが行き交う美しい情景は見ることは困難としても、なんとかならないものかと思う次第です。

 

さらにいえば、笠田駅周辺では用水路は、サイホン式で川を横切るようにしていますが、そのサイホン式の入り口付近にいろいろなゴミが溜まるそうです。それはそうでしょう。サイホン式は流れる水量をある種堰止め、幅を細めて横切る川の下に流すわけで、大きなゴミは流れ込めなくなるわけです。結局、これもゴミが問題です。

 

私は、才蔵を顕彰する会の一人ですが、会の立場としても、才蔵を顕彰するためにも、小田井用水路の美しい状態を再生する必要があるかと思っています。