たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

弥生の空と日本人 <国内最古、弥生の坑道><出土 紀元前、硯作り><日本人の起源>を読みながら

2019-03-04 | 古代を考える

190304 弥生の空と日本人 <国内最古、弥生の坑道><出土 紀元前、硯作り><日本人の起源>を読みながら

 

人と会ったり、裁判準備をしたりで、いつのまにか業務時間が過ぎていました。さて今日のお題はと考える暇もなく、なんとなく気になっていた数日以上前の記事を思い出し、なにか書けるかしらと思いながら、タイピングを始めました。

 

いま古代が賑やかな印象です。次々と発掘される遺物・遺跡で、どんどん従来のとらえ方に改訂を迫っているような状況でしょうか。

 

たとえば弥生時代というと稲作文化の到来で、弥生式土器が発見されたということで、その場所、東京都文京区弥生町の名前がつけられたそうですね。土器を中心に縄文土器などと時代区分された時代があったようですが、現在はどんどんいろんなものが発掘され、その文化の多様性に驚かされます。

 

ちょっと飛びますが弥生町というと、私が駆け出しのころ、マンション駐車場部分(ピロティ)の所有権をめぐる訴訟を扱った場所で、なんども訪れたことがあるのを思い出します。この訴訟も結構長丁場で最終的には当時の裁判例の流れに沿って区分建物所有権が認められ勝訴しましたが、立入妨害などあって、妨害禁止の仮処分をしたりして、いつくもの訴訟で双方争いが長引き、とても心穏やかでない場所でした。その弥生文化の薫り高い場所とはとてもいえない、住宅が密集したところでしたが、わたしにとっては懐かしい場所となりました。

 

さて本題に戻りますと、32日付け毎日記事<徳島・阿南の若杉山遺跡国内最古、弥生の坑道 1~3世紀、赤色顔料「辰砂」採掘>には少し驚きました。

 

私のような素人では、弥生時代に赤色顔料となるような鉱物を採掘する坑道がつくられていたなんて想像すらできませんでした。律令時代か、奈良時代くらいかなと思っていました。その場所も徳島・阿南といったかなり奥地であることも驚きです(まあ弥生遺跡はいわゆる7世紀以降の遺跡分布の感覚でははかれないことはたしかですね)。

 

そのようなことは記事では丁寧に言及し<赤色の顔料となる鉱物「辰砂(しんしゃ)」が古代から採取されていた若杉山遺跡(徳島県阿南市水井町)の坑道跡が、土器片の年代から弥生時代後期(1~3世紀)の遺構と確認された。阿南市と徳島県教委が1日、発表した。国内最古の坑道は従来、奈良時代前半(8世紀)の長登(ながのぼり)銅山跡(山口県)とされていたが、500年以上さかのぼる。【大坂和也】>

 

この坑道の大きさも結構なものです。

<2017年に山腹で坑道跡とみられる横穴(高さ0・7~1・2メートル、幅3メートル、奥行き12・7メートル)が見つか>ったというのですね。これほどの大きさの坑道を掘れるのですから、ちょっとしたトンネルも作れた可能性がありますね。

 

卑弥呼などは結構、顔に朱の顔料を塗っているようなイメージがありますが、同時代にその顔料を大量生産できる場所があったのですね。

 

この点、<辰砂を精製した水銀朱は、死者を弔うため石室やひつぎを赤く彩る目的などに使われ、希少価値が高かった。中四国では弥生時代半ば以後に辰砂の需要が高まったと推測され、若杉山遺跡の辰砂も粉末状にして各地へ流通したとみられる。>ここでは中四国を消費地と考えていたようですが。

 

次の専門家の意見は貴重ですね。地質学的知見に土木技術を保有していたことは確かめられたわけです。ただ、稲作文化が渡来してきたわけですから、当然、中国(場合によって朝鮮)の当時の高度な先進文化・技術も渡来してきたはずで、ただそれを裏付ける考古学的な資料が見つからなかっただけではないかとも思うのです。

<徳島文理大の大久保徹也教授(考古学)は「農耕の印象が強い弥生人が、鉱脈を見つける地質に関する知見やトンネル状の坑道を掘る高度な技術を持っていたことが裏付けられた」と話している。>

 

もう一つの記事は日本人の文字文化の歴史を大きく遡らせることができるような想像をわきたたせてくれます。

 

卑弥呼の時代の中心であった伊都国の所在地ともいわれる糸島市付近で硯の製作遺物が確認されたというニュースです。220日付け毎日記事<出土紀元前、硯作り 国内文字使用、300~400年さかのぼる? 北部九州3遺跡>です。

 

<弥生時代中期中ごろから後半(紀元前2世紀末~前1世紀)に石製の硯(すずり)を製作していたことを示す遺物が、北部九州の複数の遺跡にあったことが、柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)の調査で明らかになった。>

 

<硯は文字を書くために使用したとみられ、文字が書かれた土器から従来は3世紀ごろとされてきた国内での文字使用開始が300~400年さかのぼる可能性を示す貴重な資料となる。【大森顕浩】>国内での文字使用が従来3世紀頃といわれていたのは知りませんでした。卑弥呼の時代を示しているのでしょうか。戦乱が終わり平穏な社会になったとき文字による意思伝達が貴重になったというとらえ方だったのでしょうか。それもこの発見でもっと以前ということですね。硯だけではなんともいえないかもしれませんが、縄文時代の高度の文明からすれば、縄文末期や弥生初期でもおかしくないように思えます(最近は弥生時代の開始を紀元前10世紀くらいまで遡られる見解が有力とか?)。

 

でもそのような私の考えは現時点では成り立たないようです。

<中国での硯の使用開始は戦国時代末(前3世紀)で、前漢時代に長方形の板石製が普及し始める。日本の弥生時代の硯は北部九州を中心に近年相次いで確認されたが、国産かどうかは不明で、古くても年代は1世紀ごろまでだった。今回はさらに100年以上早くなるうえ、中国の板石製とほぼ同年代に国産の硯が作られていたことになる。>前3世紀が中国でも最初というのですから、その後塵を拝す立場としては・・・

 

ところで224日付け毎日記事<今週の本棚池澤夏樹・評 『日本人の起源 人類誕生から縄文・弥生へ』=中橋孝博・著>では、日本人の起源を扱った書籍を池澤夏樹氏が高く評価しています。最近、池沢氏のファンになりつつある私としては興味深くこの書評を読んでいます。

 

池澤氏は<縄文人と弥生人の交代>を取り上げ、<本当に縄文人を駆逐するほどの数の弥生人が渡海して来たのか?>を問題にします。両者の骨の違いなどから身長や顔の形などデータ上の違いを指摘するなどの文献は相当数あるかと思います。その違いは認めるとしても、人数も増大していることから、そのようなすべて渡来したかといった疑問がでるのでしょうね。

 

この書籍から池澤氏は、<出生率が違ったのだ。狩猟採集に頼る縄文人は人口の維持が精一杯だったが、稲作で食料を確保できた弥生人はどんどん数を増やした。>と結論しています。

 

たしかに生産力が格段に上がったので、養える人も増えるでしょうし、自然に出生率も上がったとは想像できます。他方で、縄文人自体が弥生文化を受け入れ、弥生人担った可能性もあるのではと思うのです。そんなに急激に、縄文人を駆逐して弥生人に変わったと言った証明はまだないのではと思うのですが、どうでしょう。

 

私は縄文文化は長く東北や関東、中部などに残っていた(いわゆる蝦夷と律令時代に言われたように)のではないかと思っているのですが、どうでしょうね。ともかく骨の状況から両者の違いを識別できたりしても、日本人の起源はなかなかうまく説明できないのではと思っています。

 

なお、弥生人の多くが渡来人だったとして、一体日本人とはどこの人のことかと時折思います。国とかが意識されない時代、そういう議論自体、問題かもしれないと、ときおり思うのです。

 

今日はこの辺でおしまい。少し長くなりました。また明日。


天皇陵と記紀 <そこが聞きたい 天皇陵古墳の将来像・・白石太一郎氏>を読みながら

2019-02-26 | 古代を考える

190226 天皇陵と記紀 <そこが聞きたい 天皇陵古墳の将来像・・白石太一郎氏>を読みながら

 

昨夜、録画していたNHKの古代史の番組、名称は忘れましたが、正月の特別番組のようでして、磯田道史氏が考古学専門家と現場で話しながら日本の礎というか分明の成り立ちを語るといった磯田氏らしい巧妙なトークで展開します。2時間でしたので少々疲れてけちんと見たわけではありませんが、面白かったです。

 

それを見て余韻が残る中、今朝の毎日記事<そこが聞きたい天皇陵古墳の将来像 大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長 白石太一郎氏>を読んで、歴史学、考古学の先達がいろいろ述べられることに素人的な発想では気になるところがあり、少し書いておこうかと思い本日のテーマにしました。今日は終日仕事で忙しくしたので息抜きかもしれませんが。

 

NHKでは当地の発掘を長年されて著名な考古学の専門家・橋本氏の案内で、初期前方後円墳とされる纏向石塚古墳や纏向勝山古墳を見た後、3世紀半ば築造でしょうか箸墓古墳や周辺の紹介となりました。ここでも当然ながら、日本書紀の「箸墓」築造の伝承が紹介されていました。ただ、被葬者については卑弥呼かどうかの議論はさまざまな研究者の説を紹介していたかと思います。

 

いろいろ諸説があることは当然でしょうけど、書紀で箸墓とされているのは倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)ですけど、卑弥呼とは違いますね。それはどう考えるか、突然ここでは(よくあることですが)魏志倭人伝の記載を持ち出されます。「箸墓」の謂われの伝承というか、書紀の記載を根拠としているにもかかわらず、被葬者になると飛躍するように思えるのです。

 

それがわが国の文明の始まりとか、都市の始まりといわれても、その可能性はうかがえるものの、それを裏付ける書紀や魏志倭人伝の記載はありませんね。考古学的な考察でしょうね。そうだとすると、それだけの文明を形成しながら、なぜ書紀を含めてそれを示唆するような記述がないのでしょう。不思議です。誰かが抹殺したのでしょうか。不比等による書紀の創作(すべてねつ造とは思いませんが)という説に魅力を感じる一つです。

 

次に今朝の毎日記事で紹介された白石太一郎氏は著名な考古学者で一度だけ講演を拝聴したことがあります。著作は何冊か読んでいましょうか。考古学の先達に異論を差し挟むなんて暴挙は素人だから言えるのでしょうね。

 

白石氏は天皇陵について宮内庁の厳格な立入禁止措置や被葬者の指定に、専門家として宮内庁の立場に配慮しつつ、将来国民的合意形成によりそのあり方を検討する必要を提案されているかと思います。

<一般の方への公開、研究者の研究のための公開、どちらも必要です。中心的な埋葬施設の場所は見当が付きますから、尊厳を保った上で差し支えない部分を公開することは十分可能と思います。

 現在、宮内庁というか天皇家が祖先の墓として天皇陵古墳も含めて祖先祭祀(さいし)を丁寧に行っておられることについては、国民の多くが支持していると思います。天皇家の祖先祭祀の場としての陵墓である一方で、日本の歴史を考えるための極めて重要な歴史遺産としての意味ももっているわけです。こうした点については宮内庁も、歴史遺産として保全・調査し、公開や活用もより積極的に考えていかなければいけないという認識をもっておられることは間違いないでしょう。>

 

また<天皇陵古墳の今後のあり方については、やはりもっと幅広い議論と、バランスのとれた国民的合意形成がどうしても必要です。世界遺産登録への運動が議論のきっかけになれば、こんなに良いことはないと思います。>

 

こういった提案は、これまでの天皇と国民との関係を背景にすると、穏当な方法かと思います。個人的にはもっとドラスチックな方法で根本的なあり方を検討してもいいのではと思うのですが、時期尚早かもしれません。

 

こういう一般論を書くつもりで、白石氏の言葉を引用するつもりではなかったのですが、書き出すとついつい、冗長になりました。今回白石氏の発言を取り上げるのは、誉田御廟山古墳と大山古墳の被葬者について、白石氏が考古学的な考察から、前者を応神天皇陵、後者を仁徳天皇陵として、とりわけ前者の害脆性は高いとし、こうしゃも可能性が極めて大きいというのです。この論述に違和感を覚えたのです。考古学の最近の研究成果をまったく知らない素人がもの申す話ではないので、こっから先は笑いの種にして結構です。

 

白石氏が根拠とする一つに前者につき<応神天皇を祭神とする誉田八幡宮が平安時代から隣接して存在している>ことをあげています。八幡宮の隣接はたしかに意味があるかもしれませんが、平安時代の設置ですから、5世紀初頭の築造としてもちょっと違和感を覚えます。8世紀初頭に成立した記紀の影響を感じてしまいます。

 

また<考古学的には、埴輪(はにわ)や須恵器(すえき)(古代の土器の一種)を使った最新の古墳の年代研究から5世紀の第1四半期の築造が確実>であることと、<文献史学の研究による応神天皇の在位(4世紀終わりから5世紀初頭)>と一致することとだけで、判断できるのかどうか、疑問を感じます。

 

世界最大級の前方後円墳、日本で第一、第二の規模を長期間かけて築造したことは間違いないわけですが、だれがなぜこの場所に築造したかはあきらかではないように思うのです。少なくとも、記紀は何も語っていません。応神天皇の崩御を簡単に触れながらも、陵については一切言及がありません。あの半分くらいの大きさの箸墓でさえ、変わった伝承を記載しているにもかかわらずと思えるのです。

 

白石氏は<天皇陵級古墳の築造順の研究から、誉田御廟山古墳の次に築かれたのが大山古墳です>と指摘されていますが、私がこれまで学んできた考古学の通説ではそうではないと思うのですが、どのような根拠なんでしょうね。

 

また応神天皇の次が果たして仁徳天皇かどうか、記紀にはそう書かれていても、信頼性があるのか気になるところです。だいたい書紀には仁徳天皇の即位前から即位後もいろいろ変わった話をてんこ盛りのように展開していますが、あの雄大な墓をつくったにしては、天皇の崩御の他には、書紀では「葬于百舌鳥野陵」、古事記では「御陵在毛受之耳上原也」と墓の場所のみ記載があるのみです。現代語訳では「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」と両者を総合したような名称が一般でしょうか。

 

記紀の記載からは生前に築造したと推測できますが、そのような大事業を行ったにもかかわらず、一切の記述がないことは他の多くの土木事業に関する記述との関係でも違和感を禁じ得ません。

 

ともかく文献資料からは大山古墳に仁徳天皇が葬られたとされる根拠としては十分とは言えないと思うのです。仁徳天皇の存在も疑問視する見解があり、結構説得的ですが、ここでは取り上げません。

 

私が気になっているのは、仮に白石氏や宮内庁の被葬者像を採った場合、なぜ書紀で書かれている仁徳天皇のような謙譲の美徳や臣民への徳の厚い人が、父親より大きな墓を築造するのか、理屈に合わない(記紀の中でよくあるといえばあるのでそれを取り上げるのもなんですが)ように思うのです。そもそも応神天皇と仁徳天皇やその後を継いだ天皇の古墳が大阪にあのような形で散在するようになったのか、これまた不思議です。

 

中途半端ですが、この程度にして今日はおしまい。また明日。

 

 


190217 万葉和歌を考える <直木孝次郎さん死去・・・「書紀批判」で古代史研究リード>などを読みながら+岩内1号墳

2019-02-17 | 古代を考える

190217 万葉和歌を考える <直木孝次郎さん死去・・・「書紀批判」で古代史研究リード>などを読みながら+岩内1号墳

 

今朝の毎日記事<直木孝次郎さん死去 100歳 「書紀批判」で古代史研究リード>と<直木孝次郎さん 「建国記念の日」で問題提起、各地の遺跡保護運動にも尽力>を読みながら、ふと突拍子もない空想にふけってしまいました。

 

直木孝次郎さんといっても、著名な古代史研究家というくらいで名前を知っている程度ですので、この記事から特別の思いが浮かび上がるはずがないのですが、読みながらいろいろと思い出すことがありました。

 

まず、記紀の問題について、直木氏が<戦後「神功皇后は架空の人物」であることを主張する論文を発表。日本書紀に施された後世の粉飾を明らかにし、史料的価値を再検討する「書紀批判」の立場で、書紀に頼った戦前の皇国史観、「三韓征伐」に象徴される古代の日朝関係の偏見の打破に取り組んだ。>という点です。いまでは多くの研究者が多様な視点で神功皇后論を書いていますが、直木氏がその嚆矢だったのでしょうね。

 

ところで、私が当地に来てまもなく奈良市周辺を歩いていたとき、偶然変な池と島が次々と現れるので不思議なところだなと思ったのです。当時初めて前方後円墳を見たので、その程度の知識でした。それが佐紀盾列古墳群でした。その北西端に神功皇后陵(五社神古墳)があります。なぜかこの一帯には皇后の陵とされる古墳が多いですね。

 

神功皇后が実在しなかったとしても、その伝承が各地に残っていることをどう考えるのでしょう。当地の隅田八幡神社に下賜された人物画像鏡の由来はとか、鞆の浦にある沼名前神社にも武勇伝のあった皇后から下賜された鞆があるとか、さまざまな伝承がありますね。そういった各地の人々に慕われた皇后がいて、そのような伝承が綜合されて一人の神功皇后ができあがったのかもしれません。記紀の神功皇后の巻は不思議です。直木氏の説を読んでいませんが、何人も追随するような論説を読んでいますと、記紀の記載よりは信頼できるように思うのです。

 

ところで、本日のブログを書き出したのは、神功皇后の話をするつもりでなかったので、つい前置きが長くなりました。実は直木氏の著作は少しだけ読んでいて、そのうち『万葉集と古代』もざっとだけ目を通したことがあります。万葉集も歌もよくわかりませんが、背景の歴史には関心をもっていますので、万葉集の解釈はわからないものの、割合この種の本は読んできました。

 

で、直木氏は、万葉集の生誕と政治的背景に言及しつつ、「有間皇子の変と追悼の歌」というタイトルで、有間皇子の有名な歌2首の成り立ちと追悼の歌を取り上げています。

 

そして大化の改新以前は雄略天皇の歌などの伝誦歌以外では5首くらいで儀礼歌だというのです。万葉集の歌は多様ですが、やはり心がこもった内容ではないかと思うので、直木氏は言外に後代に作られたものと言っているようにも聞こえるのです。それ以降に生まれたとされる有間皇子の歌も実作かどうか疑問を投げかけています。

 

有間皇子追悼の歌として

長忌寸奥麻呂の

磐代の崖の松が枝結びけむ人は反りてまた見けむかも

山上臣憶良の

翼なすあり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ

柿本人麻の

後見むと君が結べる磐代の小松がうれをまた見け

 

などをあげながら、いずれも持統・文武朝以降に作られたものであるとして、時の政権天武天皇時代には追悼の歌が生まれなかったことを指摘しています。その意味では天武天皇時代においてもといえるでしょう。

 

それならば、クーデター?を図ったと糾弾された有間皇子の歌が生まれたとか、残っていたとは言いがたいと思うのです。だいたい有間皇子の謀反話はできすぎで(記紀ではしょっちゅうですが)、後から作った話のようにも思うこともあります。

 

謀反を唆された軽挙妄動したような皇子が次のような哀愁のある歌を歌えるものでしょうかね。

磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまたかへり見む

家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る

 

万葉集の歌の作者、編者も、時の政権には表だって逆らえなかったのではと思うのです。表現の自由は天智天皇、天武天皇の時代に表すことができなかったことを、また当時の政権実力者、不比等や藤原一族に対抗できない立場で、歌に思いを込めた面もあるのではと思うのです。

 

その意味では、直木氏が乙巳の変や大化の改新に触れた歌がないと言うことについて、まだ歌作りが成熟していなかったというとらえ方をされていますが、むろん乙巳の変後は同情的な歌を表に出すことはできなかったと思うのです。

 

蘇我氏、とりわけ入鹿・蝦夷が記紀で言及されたようにいかに非道であっても、長い歴史を築き上げたのですから、哀悼の歌があってもおかしくないわけですが、孝徳天皇や斉明、天智、天武の時代はもちろんその後も、鎌足の子息、孫の系列が支配している政権下ではどだい無理な話ではなかったかなとも思うのです。

 

万葉集のいろはもわかっていないのに、ちょっと読んだ程度で議論する話ではないかもしれませんが、このブログはそのあたりはマイナーな世界ですのでご容赦の程を。

 

最後に90年代初頭、都市問題をいろいろ考えていましたが、首都圏のバブル景気でスクラップアンドビルドが当たり前の世界にいたため、奈良・京都の弁護士は文化的景観や歴史的景観の保全に向けて活発に活動していたことに少し驚きつつも、若干畏敬の念を抱きました。

 

毎日記事では直木氏は、<難波宮跡(大阪市)、平城宮跡(奈良市)、飛鳥池遺跡(奈良県明日香村)などの保存運動にも積極的にかかわった。飛鳥池遺跡の上への「万葉文化館」の建設について、「遺跡として保存活用を図るべきだ」と反対した。吉野熊野国立公園の奈良県吉野町・吉野山近くに進められたゴルフ場計画の中止を求めた訴訟でも、「歴史的景観を守れ」と原告を支援。「破壊の危機にある遺跡や文化財を助ける仕事に従事できたのは、歴史学の研究者としては本当に幸福なことではないか」と述べている。>とのこと。

 

直木氏のようなしっかりした考えのある方が支援されていたのかと思うと、私も頷くものがあります。私が90年代後半から首都圏で景観保全の訴訟を数多く手がけた契機は、やはり学者や住民の信じられないほどの熱い心と研究熱心な働きかけがあったからでした。

 

今日はこのへんでおしまい。また明日。

 

追補

 

222日付け毎日朝刊記事<紀州発掘物語 /5 岩内1号墳(御坊市) 名作詠んだ皇子の墓説 /和歌山>で、ちょうど有間皇子の墓説のある古墳の紹介がありました。

 

私が勝手に敬愛する森浩一氏も紹介されていました。

<有間皇子の墓説を採った研究者の一人が、2013年8月に85歳で亡くなった考古学・古代学研究者の森浩一さんだ。・・雑誌「歴史読本」での連載「敗者の古代史」(12年12月号)の一節にある。

 「『万葉集』には護送中の有間皇子が磐代(いわしろ)で詠んだ有名な歌が二首おさめられている。・・・この時は有間皇子は自分の運命に一縷(いちる)の望みをもっていたと僕はみる」。森さんはこう締めくくった。>

 

森氏は考古学者として厳密な考察をされますが、私のような素人には記紀については割合記述を尊重されているのかなと思うのです。この有間皇子墓説も魅力的ですが、前提としての万葉歌に疑問を抱く一人として、また記紀が不比等による虚構が随所にあると思う一人としては、頷けないものがあります。でも森氏が指摘するとそうかなとも思ってしまう感覚になるのも事実ですが。


古代渡来人 <奈良・市尾カンデ遺跡 ・・渡来人定住、4世紀の可能性>を読みながら

2018-11-29 | 古代を考える

181129 古代渡来人 <奈良・市尾カンデ遺跡 ・・渡来人定住、4世紀の可能性>を読みながら

 

新たな遺跡が発見と報道されると、途端に血気盛んになるほど、古代史や考古学といったものに関心があるわけではないですが、それでもどんな発見かと関心はもっています。

 

今回は毎日の昨日の朝刊記事のようですが、私は見逃していました。タイトルは<奈良・市尾カンデ遺跡国内最古の大壁建物跡か 渡来人定住、4世紀の可能性>というものです。

 

遺跡名も初めて聞く名前で初心者クラスではあまり知られていないのではと思ってしまいます。だいたい「市尾」という地域名も初めて知りました。明日香の遺跡群を訪れる場合でもあまり通らないところではないでしょうか。

 

それでもなんとくなく興味を抱きますね。それはこの遺跡の時代と場所です。

 

記事は<奈良県高取町教委は27日、同町市尾の「市尾カンデ遺跡」で、古代朝鮮からの渡来人特有の「大壁(おおかべ)建物」と呼ばれる建物跡が見つかったと発表した。>と大壁建物遺跡をまず取り上げています。

 

<年代は大壁建物としては国内最古の4世紀末~5世紀初めまでさかのぼる可能性があり>ということで、そのことが<渡来人が朝鮮半島からやってきた時期を巡る議論にも一石を投じそうだ。>ということのようです。

 

その時期については、<近くで見つかった土器の分析から遺跡は4世紀末~5世紀初めの可能性があるという。>土器分析で年代を推定したようですね。

 

そしてやはり建物の形状・大きさが特徴です。<大壁建物は溝に立てた柱の間に土を塗り込めて壁にするのが特徴。町教委は今年7~11月、約1000平方メートルを発掘し、建物跡とみられる幅約50センチの溝や直径30~40センチの柱穴を16棟分確認した。>柱穴の大きさからかなりの規模を想定できそうですし、それが16棟分となると、当時としてはその建物規模をあいまって、あまり類例がないほどの集団性ではないでしょうか。

 

<渡来人が日本に来た時期については、雄略天皇時代(5世紀後半)との見方が多い>ということですが、5世紀後半には朝鮮の王族もやってきて、わが国の大王との関係性も議論の焦点になっていると思います。

 

ところで、今回の発見では、4世紀後半に渡来人が来たことをうかがえるというのは面白いですね。日本書紀や朝鮮に残る広開土王碑から、一つの可能性として倭といわれていた日本の軍が朝鮮半島を攻め、高句麗の広開土王から反撃を受けて撤退し、その際、朝鮮の人の一部がわが国に渡来したかもしれないと思っています。西暦390年代後半でしょうか。

 

書紀では神功皇后が神の託宣を受け、魚か何かに乗って船群を連れ朝鮮半島に一挙に攻め入り、朝鮮の人たちは直ちに降伏したような夢物語になっていますが、前記碑の方が説得力が高いというか、比較するのもおかしいくらいかもしれません。

 

ただ、神功皇后は、少なくとも書記の世界では大活躍しており、しかも各地にその伝説が残っています。なにせその子、応神天皇は、仁徳天皇とか著名な天皇名の父親ですし、その後血縁者がいなくなったときもその五代目の子孫として登場する継体大王にとっては唯一の命綱みたいな人ですから、母としても凄いのです。

 

で、書記では、神がかりで朝鮮征伐?をしたという、神功皇后が朝鮮から何も持って帰らなかったような感じで、今度は倭国内の内戦の話に展開しますが、仮に朝鮮に渡ったとすると、朝鮮からの渡来人も結構来たのではないかと推測するのです。むろん神功皇后かどうかは別にして。

 

だいたい神功皇后については、何人かの皇后(こういう名称も当時は存在しなかったので?ですが)を一人として、また一時にまとめてしまっているとの見解もあり、それも興味のそそる考えです。

 

ただ、神功皇后が紀ノ川上流の隅田八幡宮に国宝となった人物画像鏡を下賜されたという伝承があり、そのすぐ東方には紀ノ川から吉野川に名前が変わり、ちょうど飛鳥やさらに纏向に通ずる道があったと思われるのです。すると高取町市尾付近はその途中ともいえますし、高取町付近は渡来人が住んでいたとされる地域の一つですね。

 

書記には神功皇后が紀ノ川を遡ったとか、五条付近からヤマトに入ったといった記載はありませんが、そもそも書記の内容には信頼性の乏しいものですから(以前にも少し触れましたが不比等が藤原氏の基盤固めのために創作したという見解も魅力的です)、上記の議論もそもそも成り立たないかもしれませんが、ちょっと今回の4世紀後半の渡来人、高取付近に住んだ痕跡という発見で、ふと浮かんだ考えを書いてみました。

 

もう少し突っ込んだ話をするつもりが、どうも頭の整理ができそうもありません。不完全燃焼でした。おつきあいありがとうございます。

今日はこの辺でおしまい。また明日。

 

 


陵墓のあり方 <宮内庁 仁徳天皇陵を発掘へ>などを読みながら

2018-10-16 | 古代を考える

181016 陵墓のあり方 <宮内庁仁徳天皇陵を発掘へ>などを読みながら

 

今日は2つの特別養護老人ホームを訪ねて私が担当している方と面会してきました。お会いしたとき笑顔を見せてもらえると、こちらもうれしくなります。面会に訪れる人は私が担当している方に限らず、あまり多くないようです。施設に入ると動くことが少なくなり、あるいはほとんど動かない人もいますので、どんどん体力が落ち、言葉も発せなくなり、家族の方も面会しても意思疎通が容易でなくなるように思えます。

 

という私も、なんとか話しかけますが、言葉での応答はなかなか容易でなく、会話も次第に途切れてしまいます。ユマニチュードにはほど遠い状況です。ま、心がけてなんとか前進するといいのですが。

 

さて、今日の毎日記事<宮内庁仁徳天皇陵を発掘へ 今月下旬から堺市と共同で>を見て、時折感じるのですが、紙面とウェブ記事とでは表現を微妙に変えることがありまして、今回もそうでした。

 

紙面では「大山古墳」と表示していたのが、ウェブでは<仁徳天皇陵>になっています。記者はいずれも矢追健介氏です。この点、伊藤和史記者は以前、別の記事<今どきの歴史世界遺産候補 百舌鳥・古市古墳群(大阪府) 悩ましき被葬者論争>で、その当たりを解説しています。

 

紙面で「大山古墳」とだけ書かれていれば、一体どこの古墳かと思う人もいるでしょう(実は私も当地に来るまではそのくらいの感覚でした)。

<「大山古墳?」と首をひねる人も、仁徳天皇陵のことだと聞けばうなずけると思う。墳丘長486メートル(最近、525メートルに上方修正)。最大の古墳として歴史教科書に出てくる前方後円墳である。>

 

といって、堺市をはじめ多くがこれまで長く呼称し、今回の世界遺産登録候補として名乗りを上げる場合も、目玉の古墳名を仁徳陵と呼んでいますが、<仁徳天皇陵という呼称は不評。>なんですね。<在位の時期と古墳の年代とのズレなどから、ここに仁徳天皇が葬られていると考える研究者はまずいないからだ。>さらにいえば、仁徳天皇なる人の実在性についても疑問視する考えも結構有力ではないかと素人的には思っています。

 

そんなこんなで両論併記ではないですが、<「大山古墳(仁徳天皇陵)」のように、その雄大さにちなむ地域での呼称と、管理する宮内庁の認定名との並列的な表記が多い。>わけですね。これは大山古墳だけの問題ではなく、<保存のよい49基(4~5世紀)が世界遺産登録を目指している。その中に天皇陵クラスといえる墳丘長200メートル以上の大古墳も10基ほどあるが、大山古墳に限らず、宮内庁の認定と、実際の被葬者との関係では議論が尽きない。>

 

被葬者も特定できていないのに(宮内庁はちゃんと認定しているというかもしれませんが)、世界遺産登録をしてもいいのかしらと思うのです。

 

<被葬者決定の根拠としては、記紀にある皇統や陵墓の記録のほか、平安時代に律令の施行細則を定めた延喜式(927年完成)にある陵墓の所在地情報が重視される。古墳時代からは数百年も後の史料なので、うのみにはできないのだが。>つまりは歴史的な文献資料は根拠として薄弱なのですね。信頼性に乏しいということですね。

 

結局、<大胆に次々被葬者を特定する研究者もいるが、土生田さん(土生田純之(はぶたよしゆき)・専修大教授(考古学))は「根拠を持ってこうだと言う、その材料がない」と話す。大山古墳の主は「(中国の史書にある)倭の五王の誰か、くらいは言えますが」とのことだった。

 世界遺産登録の可否とともに、天皇陵の現況や、被葬者論の今後にも注目したい。>というのですが、今日の記事は少し進展があったとみてよいのかでしょうか。

 

陵墓で初めての発掘を発表した宮内庁ですが、記事では<宮内庁と堺市は15日、同市堺区にある日本最大の前方後円墳「大山(だいせん)古墳」(仁徳天皇陵)について、今月下旬から共同で発掘すると発表した。古墳保存のための基礎調査だが、歴代天皇や皇族の陵墓の発掘に宮内庁が外部機関を受け入れるのは初めて。宮内庁は「周辺遺跡の知見を持つ堺市との連携は適切な保存につながる。天皇陵の保全管理に地元の協力は不可欠」とする。>

 

大胆な一歩を踏み出したと思いたいのですが、どうでしょう。

今回の宮内庁の計画内容について、記事では<調査は10月下旬~12月上旬、埴輪(はにわ)列などがあったと考えられる最も内側の堤(幅約30メートル)に幅2メートルの調査区を3カ所設け、堺市の学芸員1人も発掘や報告書作成に加わる。宮内庁陵墓課は、今後も堤の別の部分や墳丘の裾などを発掘し、濠の水で浸食されている古墳の保存計画を作る。>

 

これまでの宮内庁の態度からすると、これは大きな変化の表れとも見えますか。

<宮内庁は全国の陵墓への立ち入りを「静安と尊厳を保持するため」として原則認めず、単独で調査してきた。・・・宮内庁は2008年から、日本考古学協会など考古・歴史学の16団体に限定的な立ち入り観察を認めた。16年3月には地元自治体や研究者に協力を求める方針に転換し、徐々に公開度を高めてきた。>漸進であるとはいえましょう。

 

しかし、<大山古墳を含む百舌鳥・古市古墳群の来年の世界文化遺産登録を目指している>堺市だけでなく日本人、日本国として、このままでいいのでしょうかね。

 

だいたい、今回の発掘は前方後円墳の本体に入るわけではないのですね。内堀と外堀を仕切る堤の一部だけを対象としています。保全計画を立てると言っても、それでは全体像は描けないでしょう。なぜ本体に入れないのでしょう。

 

私は今夏に大山古墳を訪問する前に、ニサンザイ古墳と御廟山古墳を訪れたときそれぞれ古墳内では刈払機など機械を使って大勢が入って、古墳本体内の草木や竹林の手入れをしている最中でした。それは当然でしょうね。大山古墳も滅多に見る機会もありませんが、それも濠の外からしか見えません。それでも、とても樹木が整い、美しい状態に保たれているのは分かります。つまりは、樹木や草の管理をする人は入って、機械を使ってやっているはずだと思います。

 

私は直ちに、発掘することについては慎重であってもよいと思いますが、古墳内を研究者の方々が入って、とりあえず表層だけでも調査する価値があるのではと思うのです。樹木の状態を確認することも大事かもしれません。実際、前のブログでも触れましたが、これまではげ山状態にあったことは何度かあると思われます。そうでなくとも樹林の遷移は間違いなく起こるわけですから、さまざまな観点から調査する意味はあると思います。

 

作業員(ちゃんとした宮内庁職員とのことでしたが)が入ってよく、研究者はダメというのは通らないのではないかと思います。いろんな意見があるでしょうから、発掘については段階を経て、また十分な議論と理解を経て行うことを期待したいと思います。

 

だれが被葬者か分からないこと自体、恥ではないでしょうか。

 

ちょうど一時間となりました。この辺でおしまい。また明日。