たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

弥生の空と日本人 <国内最古、弥生の坑道><出土 紀元前、硯作り><日本人の起源>を読みながら

2019-03-04 | 古代を考える

190304 弥生の空と日本人 <国内最古、弥生の坑道><出土 紀元前、硯作り><日本人の起源>を読みながら

 

人と会ったり、裁判準備をしたりで、いつのまにか業務時間が過ぎていました。さて今日のお題はと考える暇もなく、なんとなく気になっていた数日以上前の記事を思い出し、なにか書けるかしらと思いながら、タイピングを始めました。

 

いま古代が賑やかな印象です。次々と発掘される遺物・遺跡で、どんどん従来のとらえ方に改訂を迫っているような状況でしょうか。

 

たとえば弥生時代というと稲作文化の到来で、弥生式土器が発見されたということで、その場所、東京都文京区弥生町の名前がつけられたそうですね。土器を中心に縄文土器などと時代区分された時代があったようですが、現在はどんどんいろんなものが発掘され、その文化の多様性に驚かされます。

 

ちょっと飛びますが弥生町というと、私が駆け出しのころ、マンション駐車場部分(ピロティ)の所有権をめぐる訴訟を扱った場所で、なんども訪れたことがあるのを思い出します。この訴訟も結構長丁場で最終的には当時の裁判例の流れに沿って区分建物所有権が認められ勝訴しましたが、立入妨害などあって、妨害禁止の仮処分をしたりして、いつくもの訴訟で双方争いが長引き、とても心穏やかでない場所でした。その弥生文化の薫り高い場所とはとてもいえない、住宅が密集したところでしたが、わたしにとっては懐かしい場所となりました。

 

さて本題に戻りますと、32日付け毎日記事<徳島・阿南の若杉山遺跡国内最古、弥生の坑道 1~3世紀、赤色顔料「辰砂」採掘>には少し驚きました。

 

私のような素人では、弥生時代に赤色顔料となるような鉱物を採掘する坑道がつくられていたなんて想像すらできませんでした。律令時代か、奈良時代くらいかなと思っていました。その場所も徳島・阿南といったかなり奥地であることも驚きです(まあ弥生遺跡はいわゆる7世紀以降の遺跡分布の感覚でははかれないことはたしかですね)。

 

そのようなことは記事では丁寧に言及し<赤色の顔料となる鉱物「辰砂(しんしゃ)」が古代から採取されていた若杉山遺跡(徳島県阿南市水井町)の坑道跡が、土器片の年代から弥生時代後期(1~3世紀)の遺構と確認された。阿南市と徳島県教委が1日、発表した。国内最古の坑道は従来、奈良時代前半(8世紀)の長登(ながのぼり)銅山跡(山口県)とされていたが、500年以上さかのぼる。【大坂和也】>

 

この坑道の大きさも結構なものです。

<2017年に山腹で坑道跡とみられる横穴(高さ0・7~1・2メートル、幅3メートル、奥行き12・7メートル)が見つか>ったというのですね。これほどの大きさの坑道を掘れるのですから、ちょっとしたトンネルも作れた可能性がありますね。

 

卑弥呼などは結構、顔に朱の顔料を塗っているようなイメージがありますが、同時代にその顔料を大量生産できる場所があったのですね。

 

この点、<辰砂を精製した水銀朱は、死者を弔うため石室やひつぎを赤く彩る目的などに使われ、希少価値が高かった。中四国では弥生時代半ば以後に辰砂の需要が高まったと推測され、若杉山遺跡の辰砂も粉末状にして各地へ流通したとみられる。>ここでは中四国を消費地と考えていたようですが。

 

次の専門家の意見は貴重ですね。地質学的知見に土木技術を保有していたことは確かめられたわけです。ただ、稲作文化が渡来してきたわけですから、当然、中国(場合によって朝鮮)の当時の高度な先進文化・技術も渡来してきたはずで、ただそれを裏付ける考古学的な資料が見つからなかっただけではないかとも思うのです。

<徳島文理大の大久保徹也教授(考古学)は「農耕の印象が強い弥生人が、鉱脈を見つける地質に関する知見やトンネル状の坑道を掘る高度な技術を持っていたことが裏付けられた」と話している。>

 

もう一つの記事は日本人の文字文化の歴史を大きく遡らせることができるような想像をわきたたせてくれます。

 

卑弥呼の時代の中心であった伊都国の所在地ともいわれる糸島市付近で硯の製作遺物が確認されたというニュースです。220日付け毎日記事<出土紀元前、硯作り 国内文字使用、300~400年さかのぼる? 北部九州3遺跡>です。

 

<弥生時代中期中ごろから後半(紀元前2世紀末~前1世紀)に石製の硯(すずり)を製作していたことを示す遺物が、北部九州の複数の遺跡にあったことが、柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)の調査で明らかになった。>

 

<硯は文字を書くために使用したとみられ、文字が書かれた土器から従来は3世紀ごろとされてきた国内での文字使用開始が300~400年さかのぼる可能性を示す貴重な資料となる。【大森顕浩】>国内での文字使用が従来3世紀頃といわれていたのは知りませんでした。卑弥呼の時代を示しているのでしょうか。戦乱が終わり平穏な社会になったとき文字による意思伝達が貴重になったというとらえ方だったのでしょうか。それもこの発見でもっと以前ということですね。硯だけではなんともいえないかもしれませんが、縄文時代の高度の文明からすれば、縄文末期や弥生初期でもおかしくないように思えます(最近は弥生時代の開始を紀元前10世紀くらいまで遡られる見解が有力とか?)。

 

でもそのような私の考えは現時点では成り立たないようです。

<中国での硯の使用開始は戦国時代末(前3世紀)で、前漢時代に長方形の板石製が普及し始める。日本の弥生時代の硯は北部九州を中心に近年相次いで確認されたが、国産かどうかは不明で、古くても年代は1世紀ごろまでだった。今回はさらに100年以上早くなるうえ、中国の板石製とほぼ同年代に国産の硯が作られていたことになる。>前3世紀が中国でも最初というのですから、その後塵を拝す立場としては・・・

 

ところで224日付け毎日記事<今週の本棚池澤夏樹・評 『日本人の起源 人類誕生から縄文・弥生へ』=中橋孝博・著>では、日本人の起源を扱った書籍を池澤夏樹氏が高く評価しています。最近、池沢氏のファンになりつつある私としては興味深くこの書評を読んでいます。

 

池澤氏は<縄文人と弥生人の交代>を取り上げ、<本当に縄文人を駆逐するほどの数の弥生人が渡海して来たのか?>を問題にします。両者の骨の違いなどから身長や顔の形などデータ上の違いを指摘するなどの文献は相当数あるかと思います。その違いは認めるとしても、人数も増大していることから、そのようなすべて渡来したかといった疑問がでるのでしょうね。

 

この書籍から池澤氏は、<出生率が違ったのだ。狩猟採集に頼る縄文人は人口の維持が精一杯だったが、稲作で食料を確保できた弥生人はどんどん数を増やした。>と結論しています。

 

たしかに生産力が格段に上がったので、養える人も増えるでしょうし、自然に出生率も上がったとは想像できます。他方で、縄文人自体が弥生文化を受け入れ、弥生人担った可能性もあるのではと思うのです。そんなに急激に、縄文人を駆逐して弥生人に変わったと言った証明はまだないのではと思うのですが、どうでしょう。

 

私は縄文文化は長く東北や関東、中部などに残っていた(いわゆる蝦夷と律令時代に言われたように)のではないかと思っているのですが、どうでしょうね。ともかく骨の状況から両者の違いを識別できたりしても、日本人の起源はなかなかうまく説明できないのではと思っています。

 

なお、弥生人の多くが渡来人だったとして、一体日本人とはどこの人のことかと時折思います。国とかが意識されない時代、そういう議論自体、問題かもしれないと、ときおり思うのです。

 

今日はこの辺でおしまい。少し長くなりました。また明日。


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