「 テレビの情報番組などでコメンテーターとして活躍していた男性が、経歴を詐称していたということで、ちょっとした騒ぎになっている。
この2日ほどのうちにいくつかのメディアが報道した内容を総合してみるに、件の人物の詐称はなかなか念が入っている。最初の学歴からはじまって、留学経験、MBA資格から、経営コンサルタントとしての業務実態、年商、オフィスの住所、本名、出自に至るまでの一通りの要素が「ウソ」であったことが既に明らかになっており、「イケメン」として厚遇される理由になっていた顔も、美容整形の結果である可能性が濃厚なのだという。
この結果に世間が驚いているのかというと、もちろん驚いている人たちもたくさんいるのだが、ネット内の評判では
「そんな気がしていた」
という声が、意外なほど大きい。
「最初からあやしいと思っていた」
「一目見てうさんくさいヤツだと確信していた」
「あの鼻はなにごとだと常々不審に感じていました」
と、彼らは異口同音に、当該の人物について、以前から不審を感じていた旨を訴えている。
無論、大方の事実が判明してから後乗りで自らの慧眼をアピールしにかかっている人たちもいるはずだ。
そうでなくても、私たちは、おしなべて、そうなってしまってからそんな気がしていたような気持ちを抱きがちな傾きを備えているものだ。
とはいえ、実際に
「ほら、2年前にオレは《うさんくさい》と書いてるぞ」
「オレなんか震災前から一貫して何回も《インチキくさい》と繰り返しアピールしている」
と、目に見える証拠を提示した上で彼の人物への疑惑を語っている人々の例も少なくない。
いずれにせよ、話題の彼が、ずいぶん前から、かなり広範囲の人々に、そこはかとなく怪しまれていたことは事実であるようだ。
私自身は、なんとなく奇妙な印象を抱いてはいたものの、「怪しい」とまでは思っていなかった。
というよりも、絵に描いたようなイケメンに偏見を抱きがちな自分の偏狭さをいましめていたりした。
まして、経歴詐称を疑うところまではまったく踏み込めていなかった。
まあ、人間を見る目がなかったということなのだと思う。無念だ。
ずいぶん前に、人間についてではないが、食品偽装に関連して、「フェイク(偽物)はフォニー(インチキ)の周辺に発生する」という主旨の原稿を書いたことがある。フェイク商品(贋造品)が発生するのは、そもそも真似をされる側のブツがインチキくさいからだ、という、ちょっと乱暴なお話だ。
松阪牛や関サバに偽装食品が発生するのは、オリジナルとされている食品の値段が、その品質に比して、不当に高価だからだ(と私は思っている)。
適正な価格で販売されている良心的な商品にフェイクは発生しない。
というのも、ギリギリの利益率で流通している商品をパクったところで、ほとんど差益は生まれないし、もともと高品質な商品をパクるためには高度な技術が必要で、その高度な技術を実現するためにはそれなりのコストがかかるからだ。
とすれば、たいして品質が高いわけでもないのに分不相応な高値で売られているブツの偽物を作る方が仕事として有望であるに決まっているし、事実、フェイク業者は、ブランド信仰のゆえなのか、消費者の無知に由来するものなのか、異常な関税のしからしむるところなのか、理由はどうであれ、品質に比してはるかに高い取引価格で流通している物品の偽物をもっぱら製造・販売する方針で、彼らの商売をドライブさせているのである。
たとえば、ある種のブランド物のバッグは、製造原価の数十倍以上の値段で販売されている。
強力なブランドを持たない業者が手がければ5万円で売って十分に利益が出る商品を、ブランド販売業者は60万円だとか100万円という信じがたい価格で流通させている。
この価格は、普通に考えればもちろんあからさまな不当価格であり、ブランドの評判そのものも、どこからどう見ても下駄を履いた評価だ。
が、製造しているメーカーも、それを売る販売業者も、さらにはそれを購入することになる消費者も、全員がこの価格になぜなのか、納得している。
メーカーおよび流通小売業者は、値段が高ければ高いほど儲けが大きくなるのだからして、著しく高価な価格設定に満足するのは当然だ。ここについては疑問はない。
では、製造原価の何十倍もの高値でブツを買わされることになる買い手が、どうしてそのバカな価格に納得しているのかというと、彼(または彼女)が当該のバッグを購入する目的が、そのバッグを入れ物として使用するためというよりは、高価な持ち物として他人にひけらかすためだからだ。
その種の衒示的消費のための商品の価格は、誰の目にも分かる形で高価さをアピールしていることが望ましい。
かくして、世間で有名な高級ブランド物バッグは、その高品質ゆえにではなく、高価さゆえに珍重される。そして、それを買った人間は、高品質なバッグを選ぶ鑑識眼の高さを強調すること以上に、高価なバッグを持ち歩くことのできる経済力を内外に誇示しようとする。今さらあげつらうのもなんだが、まったく、なんというバカな話だろうか。
情報番組のコメンテーターが経歴を詐称するに至る事情は、どこの馬の骨とも分からないそこいらへんの名もない牛肉(というのはたしかにちょっと変な言い方ではあるが)が松阪産であることを騙ったり、下町の町工場で作られている革製のバッグが、フランス名前のブランドの刻印を伴って市場に投入される経緯と似ていなくもない。
どういうことなのかというと、実際にはたいしたスキルがなくてもできる仕事の背景を粉飾するための見せかけの看板である以上、それが詐称であったところでたいした違いは無いということだ。
たとえばこれが、ガチなアカデミズムの世界だったり、実際にメスを手に取って患者の腹腔なり頭蓋なりを切り開いて施術をせねばならない臨床医の世界であれば、資格や学歴を詐称したところで、そんなことは何の役にも立たない。偽物は一発でバレてしまう。
料理人の世界でも大工の現場でも同じだ。ウデの無い職人が、書類上の資格を偽造して職を得たところで、包丁を握るなり鋸を挽くなりしてみれば、その場で彼が偽物であることは誰の目にも明らかになる。
ところが、コメンテーターの世界では、詐称がうまうまとまかり通る。
MBAを持っているかのごとくふるまっていれば、見ている者には、そのように見える。
年商三十億円の会社を切り回していますと言い張れば、言われた方は案外信用してしまったりする。
出た学校の名前も、事務所の住所も、それがウソだったからといって、ただちに見破られるような属性でもない。
なぜなら、しょせんは飾りだからだ。
というよりも、「フェイクはフォニーの周辺に発生する」という原則に沿って述べるなら、テレビのニュースショーや情報ワイド番組の周辺に、フェイクな肩書を伴った人物が潜り込んだことは、そこで獲得できる仕事口が、ある程度誰にでもできる難易度の低い業務であるにもかからわらず、不相応に高い社会的評価と知名度をもたらすフォニーな仕事であったことを意味している。
あるいは、経歴をそれらしく飾り立てるための能力と、ランダムに発生する事件にそれらしいコメントを添えてみせる能力は、そんなに遠いものではないということでもある。
というのも、自分の専門分野と特段の関連もない日々の出来事に事寄せて、凡庸でこそないものの、独特過ぎることもない、最終的に無難なコメントをとっさのアドリブで供給し続けるために必要な資質は、経歴を詐称した状態で世間に対峙している病的な嘘つきが、自分の身辺の細部に散りばめられた大小のウソを、破綻させることなく運営していく中で培ってきた「場の空気を読む能力」とほとんど同じもので、つまるところ、ニュースへのコメントの大きな部分は、擬似的な大衆の反応をパイロットしてみせる感情の偽装みたいなものだからだ。
いや、私は、ワイドショーのコメンテーターという職業が、詐欺師もどきのインチキ商売だと言っているのではない。
全然違う。
私は、優秀な詐欺師なら優秀なコメンテーターがつとまるはずだ、ということを申し上げているに過ぎない。
似ているようでいて、この二つの意味するところはかなり違う。
優秀な詐欺師は、優秀なコメンテーターとして通用する。
が、優秀なコメンテーターだからといって、優秀な詐欺師になれるとは限らない。
つまり、詐欺師の方が、より幅広い能力を要求される職業なのである。
別の側面について言えば、コメンテーターに期待される資質の大きな部分はその誠実さに関連している。が、詐欺師の業務において、誠実さは、無能さと区別がつかない。
私はコメンテーターを腐したいのではない。
ただ、フォニーの周辺にはフェイクが発生するということをもう一度申し上げるのみだ。
いやいや、どうせ適当なことを言うだけの仕事に、マジな肩書きもフェイクな肩書きもあるものか、と言いたいのではない。
私がこの際強調しておきたいのは、コメンテーターがフェイクな肩書きを名乗ったのは、われわれ聴き手の側が、コメンテーターの言葉よりも、彼の肩書きを重視していたことの当然の帰結なのではなかろうかということだったりする。
つまり、お互い様だということだ。
もっとも、コメンテーターは、たぶんハタから見ているほど簡単な仕事ではない。
彼らの仕事の大半は、無難なコメントを発信することに費やされているわけだが、すべてのコメントがあまりにも無難過ぎると、それはそれで商売にならない。
時には、ビビッドな感情のきらめきや、スリリングな断言や、皮肉の効いたまぜっかえしや、アブないコメントを織り交ぜておかないと視聴者にナメられる。
ストライクしか投げないピッチャーがいつしかつるべ打ちに遭う成り行きと同じだ。
3球に1球はボール球を投げなければいけない。
1シーズンにひとつやふたつはデッドボールも投げた方が良いのかもしれない。
その方がピッチングに幅が出る。
とはいえ、暴投はいけない。バッターのアタマに当てることも絶対に避けなければならない。
とすると、ストライクゾーンの出し入れやら、変化球の切れ味やらを考えると、コメンテーターという商売も、これはこれで、なかなか精妙な技術を要する職人仕事なのかもしれない。
問題は、コメンテーターの死命を決する能力である、ストライクゾーンを見極める目や、その日のアンパイヤの判定の傾向をいち早く感知するセンスにおいて卓抜な力を発揮するのが、フェイクな人たちだったりすることだ。
嘘つきは、常に人々の顔色を見ている。
誰が自分の言葉に不審を抱き、自分の発したどの言葉が相手にアピールしているのかを、他人を騙すことを生業としている人間たちは、四六時中見極めようとしている。というよりも、日常的にウソをついている人間は、ウソがバレるギリギリのボーダーを常に意識しているわけで、その意味において、空気読みの達人なのである。
その点、正直な人間は、いまひとつ他人の評価に鈍感だ。
自分が本当のことを言っていることを強く自覚している人間は、他人に好まれていようが疎まれていようが、たいして気にとめない。自分だけが正しければそれで十分だと思っている。
そういう人間は、コメンテーターには向かない。
視聴者の目から見て、独善的に映るからでもあるし、スタジオの空気を読むことを怠るからでもある。
と、正直なコメンテーターは、時に舌っ足らずでもあれば、時に暴走することにもなるわけで、結局のところ、通常業務として穏当なコメントを安定供給することができない。
詐欺師は、言葉を紡ぐ能力に秀でているだけでなく、他人の気持ちを先読みする能力にも長けている。
彼は、対面している人間の感情を高揚させたり、落ち着かせたりする方法に精通しており、自分を囲む人間たちが望んでいる感情をその場で言葉にして手のひらの上に現出させる技術を生まれながらに身に着けている。
別の言葉で言うなら、彼には「魅力」がある。
とすれば、こんなに素敵なコメンテーターはいないではないか。
詐称は、簡単なタスクではない。
詐称によって得られるものと、詐称が発覚した時に失うものを勘案してみれば、ふつうの人間は、詐称をしようとは考えない。
MBAを持っているからといって、それだけですべてが手に入るわけではない。自分の言葉に、ちょっとしたオーラを付け加える以上の効果は無いと言って良い。ひるがえって、MBA資格のアナウンスがウソであることが発覚した場合、彼は、すべてを失うことになる。
こんな割に合わない取引があるだろうか。
逆に言えば、これほどまでにリスキーなチャレンジに乗り出すのは、よほど並外れた自信家であるのか、でなければ、どこかしら精神を病んでいる人間に限られるということだ。
経歴詐称は、ゴルフのスコア改竄に似ているかもしれない。
スコアを1つか2つごまかしたからといって、得られるのは、その場のちょっとした虚栄心の満足だけだ。
賭けゴルフに興じていた場合、何らかの報酬があるかもしれない。が、いずれにせよ、報酬は知れている。
対して、改竄が発覚した場合のリスクはずっと大きい。
おそらく、彼は、ほとんどすべてのゴルフ仲間を失うことになる。
そうまでしてスコアをごまかす必要があるだろうか……という、この、普通の人間なら普通に持っているはずの普通の常識が、スコアをごまかす人間にとっては、つけ込みどころになる。彼らは、「スコアをごまかすゴルファーなんているはずがない」という常識を利用して、その裏をかく形で、スコアをごまかしている。このあたりの機微は、ゲームのようでもある。あるいは、病的な嘘つきは、このスリルに嗜癖しているのかもしれない。
結論を述べる。
詐欺師とコメンテーターという、よく似た資質を要求される対照的な仕事を割り振る上で、大切なのは、コメンテーターを起用する側のリテラシー(鑑識眼)だ。
詐欺師もコメンテーターも、人間を扱う仕事で、だからこそ彼らは、人を誘惑するのが上手だ。
とすれば、その彼らを起用する側の人間は、それ以上に人間を見る目の達人であらねばならない。
この何年かの間に、「メディア・リテラシー」という言葉をメディアの人間が平気な顔で使う場面に遭遇してびっくりしたことが何度かある。
メディアの人間がメディア・リテラシーを語ることは、評価される側の人間が評価の仕方を教えている話型の説教になる。これは、話のスジとしておかしい。個人的には、「ラーメンの味わい方」みたいな説教ポスターを店内に掲示しているラーメン屋みたいな傲慢さを感じさせて、大変によろしくないと思っている。
受け手の側から見た「メディアの読み取り方」を意味する言葉だったはずの「メディア・リテラシー」は、いつしか、報道被害の責任や番組制作上の怠慢を視聴者の側に転嫁する際のキーワードになり、さらには「バカは黙ってろよ」という、送り手の増長慢を反映した捨て台詞に変化し、最終的には、メディア自身の自意識(リテラシー)の欠如を物語る、大変にたちの悪い用語になってしまっている。
経歴詐称コメンテーターについて言えば、視聴者に対してメディア・リテラシーの向上を要求することの多くなったテレビの中の人たちが、自分たちの起用するタレントや文化人について、人間を見極めるリテラシーを欠いているのだからして、こんなに皮肉な話はないと思っている。
ネット内の書き込みをしばらく掘り進めてみればわかることだが、今回の一連の報道で経歴詐称が公式に発覚する以前の段階で、話題のホラッチョタレントのうさんくささを指摘していた人たちは、ごく早い時期の書き込みを含めて、決して少なくない。
液晶画面を通した印象だけで、これだけの人が疑念を抱いていたのに、現場で本人と直に接していた共演者や契約関係者は、誰一人として、彼のうさんくささに気づいていなかったのだろうか。
あるいは、あやしいと内心思いながらも、無気力と惰性で現場の仕事を存続させることを優先させていたということなのだろうか。
それとも、優秀な嘘つきは、遠くに立っている人間よりも、より近くにいる人間をより深く騙すものなのだろうか。
経歴より大切なものがあることは、誰もが知っていることだ。
が、その経歴よりも大切なものを見極める目を持っていない人間は、結局のところ、フェイクであれ、ホラッチョであれ、書類に書いてある経歴で人を判断することしかできない。
ひとつはっきりしているのは、ホラッチョ氏の詐称で一番傷ついている被害者は、局の関係者でもスタジオの共演者でもなくて、人間を見極める目を持たない人たちの作った番組を見せられていた視聴者だったいうことだ。
ホラッチョを疑っていなかった過去の自分を、いまになって疑わなければならなくなっている私などは、最も苛烈な被害を受けたひとりかもしれない。
彼はとんでもないものを盗んでいきました。私の自尊心です。ああ悔しい。
(文・イラスト/小田嶋 隆)」
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/031700036/?P=1
この2日ほどのうちにいくつかのメディアが報道した内容を総合してみるに、件の人物の詐称はなかなか念が入っている。最初の学歴からはじまって、留学経験、MBA資格から、経営コンサルタントとしての業務実態、年商、オフィスの住所、本名、出自に至るまでの一通りの要素が「ウソ」であったことが既に明らかになっており、「イケメン」として厚遇される理由になっていた顔も、美容整形の結果である可能性が濃厚なのだという。
この結果に世間が驚いているのかというと、もちろん驚いている人たちもたくさんいるのだが、ネット内の評判では
「そんな気がしていた」
という声が、意外なほど大きい。
「最初からあやしいと思っていた」
「一目見てうさんくさいヤツだと確信していた」
「あの鼻はなにごとだと常々不審に感じていました」
と、彼らは異口同音に、当該の人物について、以前から不審を感じていた旨を訴えている。
無論、大方の事実が判明してから後乗りで自らの慧眼をアピールしにかかっている人たちもいるはずだ。
そうでなくても、私たちは、おしなべて、そうなってしまってからそんな気がしていたような気持ちを抱きがちな傾きを備えているものだ。
とはいえ、実際に
「ほら、2年前にオレは《うさんくさい》と書いてるぞ」
「オレなんか震災前から一貫して何回も《インチキくさい》と繰り返しアピールしている」
と、目に見える証拠を提示した上で彼の人物への疑惑を語っている人々の例も少なくない。
いずれにせよ、話題の彼が、ずいぶん前から、かなり広範囲の人々に、そこはかとなく怪しまれていたことは事実であるようだ。
私自身は、なんとなく奇妙な印象を抱いてはいたものの、「怪しい」とまでは思っていなかった。
というよりも、絵に描いたようなイケメンに偏見を抱きがちな自分の偏狭さをいましめていたりした。
まして、経歴詐称を疑うところまではまったく踏み込めていなかった。
まあ、人間を見る目がなかったということなのだと思う。無念だ。
ずいぶん前に、人間についてではないが、食品偽装に関連して、「フェイク(偽物)はフォニー(インチキ)の周辺に発生する」という主旨の原稿を書いたことがある。フェイク商品(贋造品)が発生するのは、そもそも真似をされる側のブツがインチキくさいからだ、という、ちょっと乱暴なお話だ。
松阪牛や関サバに偽装食品が発生するのは、オリジナルとされている食品の値段が、その品質に比して、不当に高価だからだ(と私は思っている)。
適正な価格で販売されている良心的な商品にフェイクは発生しない。
というのも、ギリギリの利益率で流通している商品をパクったところで、ほとんど差益は生まれないし、もともと高品質な商品をパクるためには高度な技術が必要で、その高度な技術を実現するためにはそれなりのコストがかかるからだ。
とすれば、たいして品質が高いわけでもないのに分不相応な高値で売られているブツの偽物を作る方が仕事として有望であるに決まっているし、事実、フェイク業者は、ブランド信仰のゆえなのか、消費者の無知に由来するものなのか、異常な関税のしからしむるところなのか、理由はどうであれ、品質に比してはるかに高い取引価格で流通している物品の偽物をもっぱら製造・販売する方針で、彼らの商売をドライブさせているのである。
たとえば、ある種のブランド物のバッグは、製造原価の数十倍以上の値段で販売されている。
強力なブランドを持たない業者が手がければ5万円で売って十分に利益が出る商品を、ブランド販売業者は60万円だとか100万円という信じがたい価格で流通させている。
この価格は、普通に考えればもちろんあからさまな不当価格であり、ブランドの評判そのものも、どこからどう見ても下駄を履いた評価だ。
が、製造しているメーカーも、それを売る販売業者も、さらにはそれを購入することになる消費者も、全員がこの価格になぜなのか、納得している。
メーカーおよび流通小売業者は、値段が高ければ高いほど儲けが大きくなるのだからして、著しく高価な価格設定に満足するのは当然だ。ここについては疑問はない。
では、製造原価の何十倍もの高値でブツを買わされることになる買い手が、どうしてそのバカな価格に納得しているのかというと、彼(または彼女)が当該のバッグを購入する目的が、そのバッグを入れ物として使用するためというよりは、高価な持ち物として他人にひけらかすためだからだ。
その種の衒示的消費のための商品の価格は、誰の目にも分かる形で高価さをアピールしていることが望ましい。
かくして、世間で有名な高級ブランド物バッグは、その高品質ゆえにではなく、高価さゆえに珍重される。そして、それを買った人間は、高品質なバッグを選ぶ鑑識眼の高さを強調すること以上に、高価なバッグを持ち歩くことのできる経済力を内外に誇示しようとする。今さらあげつらうのもなんだが、まったく、なんというバカな話だろうか。
情報番組のコメンテーターが経歴を詐称するに至る事情は、どこの馬の骨とも分からないそこいらへんの名もない牛肉(というのはたしかにちょっと変な言い方ではあるが)が松阪産であることを騙ったり、下町の町工場で作られている革製のバッグが、フランス名前のブランドの刻印を伴って市場に投入される経緯と似ていなくもない。
どういうことなのかというと、実際にはたいしたスキルがなくてもできる仕事の背景を粉飾するための見せかけの看板である以上、それが詐称であったところでたいした違いは無いということだ。
たとえばこれが、ガチなアカデミズムの世界だったり、実際にメスを手に取って患者の腹腔なり頭蓋なりを切り開いて施術をせねばならない臨床医の世界であれば、資格や学歴を詐称したところで、そんなことは何の役にも立たない。偽物は一発でバレてしまう。
料理人の世界でも大工の現場でも同じだ。ウデの無い職人が、書類上の資格を偽造して職を得たところで、包丁を握るなり鋸を挽くなりしてみれば、その場で彼が偽物であることは誰の目にも明らかになる。
ところが、コメンテーターの世界では、詐称がうまうまとまかり通る。
MBAを持っているかのごとくふるまっていれば、見ている者には、そのように見える。
年商三十億円の会社を切り回していますと言い張れば、言われた方は案外信用してしまったりする。
出た学校の名前も、事務所の住所も、それがウソだったからといって、ただちに見破られるような属性でもない。
なぜなら、しょせんは飾りだからだ。
というよりも、「フェイクはフォニーの周辺に発生する」という原則に沿って述べるなら、テレビのニュースショーや情報ワイド番組の周辺に、フェイクな肩書を伴った人物が潜り込んだことは、そこで獲得できる仕事口が、ある程度誰にでもできる難易度の低い業務であるにもかからわらず、不相応に高い社会的評価と知名度をもたらすフォニーな仕事であったことを意味している。
あるいは、経歴をそれらしく飾り立てるための能力と、ランダムに発生する事件にそれらしいコメントを添えてみせる能力は、そんなに遠いものではないということでもある。
というのも、自分の専門分野と特段の関連もない日々の出来事に事寄せて、凡庸でこそないものの、独特過ぎることもない、最終的に無難なコメントをとっさのアドリブで供給し続けるために必要な資質は、経歴を詐称した状態で世間に対峙している病的な嘘つきが、自分の身辺の細部に散りばめられた大小のウソを、破綻させることなく運営していく中で培ってきた「場の空気を読む能力」とほとんど同じもので、つまるところ、ニュースへのコメントの大きな部分は、擬似的な大衆の反応をパイロットしてみせる感情の偽装みたいなものだからだ。
いや、私は、ワイドショーのコメンテーターという職業が、詐欺師もどきのインチキ商売だと言っているのではない。
全然違う。
私は、優秀な詐欺師なら優秀なコメンテーターがつとまるはずだ、ということを申し上げているに過ぎない。
似ているようでいて、この二つの意味するところはかなり違う。
優秀な詐欺師は、優秀なコメンテーターとして通用する。
が、優秀なコメンテーターだからといって、優秀な詐欺師になれるとは限らない。
つまり、詐欺師の方が、より幅広い能力を要求される職業なのである。
別の側面について言えば、コメンテーターに期待される資質の大きな部分はその誠実さに関連している。が、詐欺師の業務において、誠実さは、無能さと区別がつかない。
私はコメンテーターを腐したいのではない。
ただ、フォニーの周辺にはフェイクが発生するということをもう一度申し上げるのみだ。
いやいや、どうせ適当なことを言うだけの仕事に、マジな肩書きもフェイクな肩書きもあるものか、と言いたいのではない。
私がこの際強調しておきたいのは、コメンテーターがフェイクな肩書きを名乗ったのは、われわれ聴き手の側が、コメンテーターの言葉よりも、彼の肩書きを重視していたことの当然の帰結なのではなかろうかということだったりする。
つまり、お互い様だということだ。
もっとも、コメンテーターは、たぶんハタから見ているほど簡単な仕事ではない。
彼らの仕事の大半は、無難なコメントを発信することに費やされているわけだが、すべてのコメントがあまりにも無難過ぎると、それはそれで商売にならない。
時には、ビビッドな感情のきらめきや、スリリングな断言や、皮肉の効いたまぜっかえしや、アブないコメントを織り交ぜておかないと視聴者にナメられる。
ストライクしか投げないピッチャーがいつしかつるべ打ちに遭う成り行きと同じだ。
3球に1球はボール球を投げなければいけない。
1シーズンにひとつやふたつはデッドボールも投げた方が良いのかもしれない。
その方がピッチングに幅が出る。
とはいえ、暴投はいけない。バッターのアタマに当てることも絶対に避けなければならない。
とすると、ストライクゾーンの出し入れやら、変化球の切れ味やらを考えると、コメンテーターという商売も、これはこれで、なかなか精妙な技術を要する職人仕事なのかもしれない。
問題は、コメンテーターの死命を決する能力である、ストライクゾーンを見極める目や、その日のアンパイヤの判定の傾向をいち早く感知するセンスにおいて卓抜な力を発揮するのが、フェイクな人たちだったりすることだ。
嘘つきは、常に人々の顔色を見ている。
誰が自分の言葉に不審を抱き、自分の発したどの言葉が相手にアピールしているのかを、他人を騙すことを生業としている人間たちは、四六時中見極めようとしている。というよりも、日常的にウソをついている人間は、ウソがバレるギリギリのボーダーを常に意識しているわけで、その意味において、空気読みの達人なのである。
その点、正直な人間は、いまひとつ他人の評価に鈍感だ。
自分が本当のことを言っていることを強く自覚している人間は、他人に好まれていようが疎まれていようが、たいして気にとめない。自分だけが正しければそれで十分だと思っている。
そういう人間は、コメンテーターには向かない。
視聴者の目から見て、独善的に映るからでもあるし、スタジオの空気を読むことを怠るからでもある。
と、正直なコメンテーターは、時に舌っ足らずでもあれば、時に暴走することにもなるわけで、結局のところ、通常業務として穏当なコメントを安定供給することができない。
詐欺師は、言葉を紡ぐ能力に秀でているだけでなく、他人の気持ちを先読みする能力にも長けている。
彼は、対面している人間の感情を高揚させたり、落ち着かせたりする方法に精通しており、自分を囲む人間たちが望んでいる感情をその場で言葉にして手のひらの上に現出させる技術を生まれながらに身に着けている。
別の言葉で言うなら、彼には「魅力」がある。
とすれば、こんなに素敵なコメンテーターはいないではないか。
詐称は、簡単なタスクではない。
詐称によって得られるものと、詐称が発覚した時に失うものを勘案してみれば、ふつうの人間は、詐称をしようとは考えない。
MBAを持っているからといって、それだけですべてが手に入るわけではない。自分の言葉に、ちょっとしたオーラを付け加える以上の効果は無いと言って良い。ひるがえって、MBA資格のアナウンスがウソであることが発覚した場合、彼は、すべてを失うことになる。
こんな割に合わない取引があるだろうか。
逆に言えば、これほどまでにリスキーなチャレンジに乗り出すのは、よほど並外れた自信家であるのか、でなければ、どこかしら精神を病んでいる人間に限られるということだ。
経歴詐称は、ゴルフのスコア改竄に似ているかもしれない。
スコアを1つか2つごまかしたからといって、得られるのは、その場のちょっとした虚栄心の満足だけだ。
賭けゴルフに興じていた場合、何らかの報酬があるかもしれない。が、いずれにせよ、報酬は知れている。
対して、改竄が発覚した場合のリスクはずっと大きい。
おそらく、彼は、ほとんどすべてのゴルフ仲間を失うことになる。
そうまでしてスコアをごまかす必要があるだろうか……という、この、普通の人間なら普通に持っているはずの普通の常識が、スコアをごまかす人間にとっては、つけ込みどころになる。彼らは、「スコアをごまかすゴルファーなんているはずがない」という常識を利用して、その裏をかく形で、スコアをごまかしている。このあたりの機微は、ゲームのようでもある。あるいは、病的な嘘つきは、このスリルに嗜癖しているのかもしれない。
結論を述べる。
詐欺師とコメンテーターという、よく似た資質を要求される対照的な仕事を割り振る上で、大切なのは、コメンテーターを起用する側のリテラシー(鑑識眼)だ。
詐欺師もコメンテーターも、人間を扱う仕事で、だからこそ彼らは、人を誘惑するのが上手だ。
とすれば、その彼らを起用する側の人間は、それ以上に人間を見る目の達人であらねばならない。
この何年かの間に、「メディア・リテラシー」という言葉をメディアの人間が平気な顔で使う場面に遭遇してびっくりしたことが何度かある。
メディアの人間がメディア・リテラシーを語ることは、評価される側の人間が評価の仕方を教えている話型の説教になる。これは、話のスジとしておかしい。個人的には、「ラーメンの味わい方」みたいな説教ポスターを店内に掲示しているラーメン屋みたいな傲慢さを感じさせて、大変によろしくないと思っている。
受け手の側から見た「メディアの読み取り方」を意味する言葉だったはずの「メディア・リテラシー」は、いつしか、報道被害の責任や番組制作上の怠慢を視聴者の側に転嫁する際のキーワードになり、さらには「バカは黙ってろよ」という、送り手の増長慢を反映した捨て台詞に変化し、最終的には、メディア自身の自意識(リテラシー)の欠如を物語る、大変にたちの悪い用語になってしまっている。
経歴詐称コメンテーターについて言えば、視聴者に対してメディア・リテラシーの向上を要求することの多くなったテレビの中の人たちが、自分たちの起用するタレントや文化人について、人間を見極めるリテラシーを欠いているのだからして、こんなに皮肉な話はないと思っている。
ネット内の書き込みをしばらく掘り進めてみればわかることだが、今回の一連の報道で経歴詐称が公式に発覚する以前の段階で、話題のホラッチョタレントのうさんくささを指摘していた人たちは、ごく早い時期の書き込みを含めて、決して少なくない。
液晶画面を通した印象だけで、これだけの人が疑念を抱いていたのに、現場で本人と直に接していた共演者や契約関係者は、誰一人として、彼のうさんくささに気づいていなかったのだろうか。
あるいは、あやしいと内心思いながらも、無気力と惰性で現場の仕事を存続させることを優先させていたということなのだろうか。
それとも、優秀な嘘つきは、遠くに立っている人間よりも、より近くにいる人間をより深く騙すものなのだろうか。
経歴より大切なものがあることは、誰もが知っていることだ。
が、その経歴よりも大切なものを見極める目を持っていない人間は、結局のところ、フェイクであれ、ホラッチョであれ、書類に書いてある経歴で人を判断することしかできない。
ひとつはっきりしているのは、ホラッチョ氏の詐称で一番傷ついている被害者は、局の関係者でもスタジオの共演者でもなくて、人間を見極める目を持たない人たちの作った番組を見せられていた視聴者だったいうことだ。
ホラッチョを疑っていなかった過去の自分を、いまになって疑わなければならなくなっている私などは、最も苛烈な被害を受けたひとりかもしれない。
彼はとんでもないものを盗んでいきました。私の自尊心です。ああ悔しい。
(文・イラスト/小田嶋 隆)」
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/031700036/?P=1
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