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白夜の炎

原発の問題・世界の出来事・本・映画

大産経新聞の中村修二(青色ダイオード)批判

2014-10-09 17:57:12 | 社会
「■青色発光ダイオード裁判・「和解決着」の意味するもの。
(「産経新聞」文化欄 2005・2・8)

 日亜化学と、元社員の中村修二カリフォルニア大(サンタバーバラ校)教授との間で戦われていた 「青色発光ダイオード」裁判が、「8億4000万円和解」という予想外の結果で終わった。

一審(東京地裁)の「200億円判決」や、一審判決後のテレヒや出版界での 「中村修二フィーバー」から考えれば、この裁判闘争は日亜化学側の見事な逆転勝利と言っていいだろう。
中村教授自身が、判決後の記者会見で、「100パーセント負けですよ」

「日本の裁判制度は腐っていますよ」と興奮気味に怒りをぶちまけているぐらいだから、 この裁判が中村教授側の全面敗北であったことに間違いはない。

では、なぜ、こういう結果になってしまったのか。 なぜ、中村サイドは、高裁はもちろん、最高裁まで争おうとしなかったのか。

実は、私は、この和解決着は当然の結果だったと思う。

マスコミでは、裁判官が社会防衛的な意味から会社の経営的立場を考慮して 無難な線で決着をつけたという批判的な解説が主流のようだが、私の考えは少し違う。

私の考えでは、この裁判には「特許問題」や「発明の対価問題」は別として、 隠された問題点が二つあった。その一つは、「世紀の発明」と言われる青色発光ダイオードの 開発を実質的には「誰が」やったかという問題、 もう一つは、中村氏が理系の「文化ヒーロー」として繰り返してきた過激な日本の教育制度

私は、「大学入試を全廃しろ」「社員は会社の奴隷ではない」とか言うような、 中村氏の粗雑な文化論や教育論にはかなり早くから疑問を感じていた。

そこで、「中村発言」や「中村フィーバー」の原点である「青色発光ダイオード開発成功物語」 そのものを、日亜化学側が一審判決後に公開した新しい詳細な内部データを元に検証してみたくなった。

その結果わかったことは、「青色発光ダイオード開発は日亜化学の若い研究者たちの共同研究の成果」 であって、「会社の反対を押し切って自分一人で開発した」という中村氏の「単独成功物語」 にはかなり無理があるという事実であった。

おそらく裁判官も弁護士も、私と同じように日亜化学側が公開した内部データを元に、 青色発光ダイオード開発の本当の物語を知ったはずであ 「青色発光ダイオード開発における中村氏の役割は、中村氏が大言壮語するほどでのものではない」。

これが、一審判決直後は意気軒昂であった中村派の弁護士が、 屈辱的とも言っていい和解案をあっさりと受け入れざるをえなかった背景であろう。

ところで、「青色発光ダイオード開発」には三つの「ブレイク・スルー」 (「ツーフロー方式」「p型化アニール」「ダブルへテロ構造」)が必要だったが、 中村氏は科学研究者としては、第一段階の「ツーフロー方式」(いわゆる「404特許」)以外では、 さほど重要な役割を演じていない。

実は中村氏の役割は、社内的には、国内外を飛び回って「青色発光ダイオード開発物語」を 宣伝する広告塔的な色彩が強かった。その結果、中村氏の唯我独尊的な独特のキャラの影響もあって、 社外や国外では「青色発光ダイオードを一人で開発した男」という「スター科学者」の虚像が 一人歩きすることになったのである。

しかし、実質的な研究開発の多くは彼の部下たち (妹尾、岩佐氏など)の手によってなされたのであった。ところが日本のマスコミの多くは、 未だに中村氏の「青色発光ダイオードは自分独りの力で開発した」という 「自作自演」的な自慢話を一方的に信じ込み、「日亜化学側の言い分」を黙殺した上で、 中村応援のキャンペーンを繰り返している。マスコミこそ不勉強である。

いずれにしろ、この高裁での和解決着は、中村修二氏の「世紀の発明」 物語の根拠の怪しさとともに、中村氏がテレビや書籍で大言壮語、悲憤慷慨した稚拙な 「日本的システム批判」や「教育制度批判」も、口から出任せの空理空論だったことを間接的に立証したと、私は思う。

中村氏は、高裁判決後の記者会見で、「これから研究生活に戻りたい」と発言している。

大いに結構である。ついでに言わせてもらうならば、 専門外の幼稚な教育論や文化論はほどほどに慎むべきであろう。
いずれにしろ、中村氏の本来の専門分野での活躍を祈りたい。

しかし無理だろうと私は思う。中村氏が批判し罵倒してやまない日本の集団主義的研究生活よりも、 アメリカの大学の個人主義的研究生活の方が、より豊かな研究成果をもたらすだろうとは、 私は思わないからだ。「集団主義」的、「協調主義」的な日本的システムの強さと豊かさに、 中村修二氏が気付くのはそう遠い日ではあるまい。 」

http://maguro.2ch.sc/test/read.cgi/poverty/1412680957/ より転載・一部修正

<インタビュー>「強くて優しい」新しいリベラルが必要 NPO代表理事、駒崎弘樹さん

2014-10-06 19:21:34 | 社会
「 日本の社会起業家のフロントランナーで、病児保育などを手がけるNPO法人フローレンス代表理事、駒崎弘樹さん(35)がツイッターやフェイスブックで「新しいリベラル」のあり方について発信し、話題を呼んでいる。駒崎さんがなぜ既存のリベラル勢力や保守勢力ではなく、あえてリベラル像のアップデートについて発言するのか。新しいリベラルの具体像、アップデートのために必要な「草の根ロビー活動」とは何か。ロングインタビューでお届けする。【聞き手・石戸諭/デジタル報道センター】

 ◇健全な対立軸は必要

 --駒崎さんはツイッターやフェイスブックで新しいリベラルの必要性を語っています。狙いは何だったのでしょうか。

 駒崎さん 今のリベラル勢力の退潮とある種の腐敗について胸を痛めています。リベラルはいろんな課題--例えば集団的自衛権や原発問題--に対して、反対はしますが、ではどうしたらいいかの答えを持っていない。それゆえに説得力ある対案を示せませんでした。例えば、集団的自衛権にしても一足飛びに「明日にも戦争、徴兵制がやってくる」といった形で危機感をあおる。もちろん、その可能性が将来的にないとは思いませんが、今すぐにでもやってくるというような物言いで動員しようとしているように見えます。「俺の正義」をぶつけるだけでは共感が広がりませんし、何より議論が成立しません。

 リベラル勢力のあり方に僕が決定的に違和感を覚えたのは、東日本大震災と福島第1原発事故の後です。確かに原発反対は感情としては非常に理解できます。しかし、原発反対と「福島はもう人が住めない」「福島は終わった」といった福島dis(ネット上では「disる」=中傷する=といった意味で使われる)を結びつけたがる層が一定数いました。

 僕の妻は福島県の出身で、現場から支援にも関わりました。そこで見る福島と反対運動を通して語られる福島はまったく違うわけです。生活している人が実際にいるにもかかわらず、「全員避難」といった主張をする人もいる。ここで穏健的な人たちと社会的共感が切れる形になってしまったと思います。

 僕はNPOをやっているので、リベラルなほうだと社会的に位置づけられています。その僕ですら、やっぱり違うと思ってしまった。やはり、このスタイルの延長線上に未来はない。

 では政権与党の自民党はどうか。経済政策に関しては比較的賛成できる点もあります。しかし、子供は親が面倒を見るべきだ、といった伝統的な家族観を口にする議員も多い上、社会保障や社会的弱者に対する考え方も生活保護バッシングに乗っかるなど賛同できない点が多々あります。

 そうすると、権力は絶対に腐敗する以上、健全な対立軸は必要です。今の日本の政治状況は中道左派がぽっかり空いている。そこに新たな思想を確立しないといけないのではないか。僕の中ではそれを「新しいリベラル」と暫定的に呼んでいます。

 --例えば、経済成長を否定せずに社会的弱者への再分配も考えていくとか、社会の多様性に目配りをするといったイメージでしょうか。

 駒崎さん そうですね。スローガンは「強くて優しい日本」とまとめられると思います。「強さ」は現実的な安全保障が必要といった議論です。現実にある脅威に対して、外交的な努力を通じて回避していく。その一方で、「優しさ」では、伝統的な家族観ではなく拡大家族観、例えば事実婚や夫婦別姓を認め、LGBT(同性愛者など性的マイノリティーの総称)が家族になるとか、里親として子供を育てるといったことも政策として位置づける。

 さらに日本に「経済成長はもういらない」といった考えではなく、成長を否定せずに再分配を考えていく。ただし、経済成長も何かを犠牲にするとか、ブラック企業的なものをはびこらせていくという発想ではなく、イノベーションが生みやすくなるよう無駄な規制を緩和していくとか、政府が創造性を邪魔しないようにする政策が望まれます。成長の在り方もいろんな形があるという議論をしたいのです。

 憲法も「直す部分は直していい」。しかし、憲法の基礎たる「国民の国家への命令」、いわゆる立憲主義的な考えは維持しましょうという考えです。「9条を守れ」的なノリも、憲法に硬直的な家族観を持ち込むとかも勘弁してほしいわけです。

 ◇現場は白黒ではない。問題解決には妥協も必要

 --なぜ、いまのタイミングで主張するのでしょうか。

 駒崎さん 僕は民主党に政権交代した後、鳩山(由紀夫)政権で半年ほど政治任用という形で内閣府非常勤国家公務員として官僚の仕事を経験しました。

 政策決定の現場を中からみると、思っているほど物事は白黒つけられないことが分かりました。政策を決めるときは、「みんなが不満かもしれないが一番マシなもの」をある種の妥協の末に生み出すことになる。これが政治だったのです。実際、リアリズムを肌で感じたことで、ただ理想を打ち出せば良いという考えはできなくなりました。

 例えば担当した寄付税制政策でも同じ問題に関心を持っている自民党議員と民主党議員の差よりも、民主党内の温度差の方が問題として大きかった。単純に党の問題に還元されない問題もあると知りました。

 ある社会問題をリアルに解決しようと思うなら、反対派の意見も聞き、財源の問題も考えた上で、必要なら100%の解決ではなくなりますが、妥協する必要もあります。そうしないと解決しません。反対するだけの姿勢は誰かを「悪」だと決めつけて簡単な方に逃げているように僕には見えます。「友-敵」図式に逃げ込んでいるようでは解決しないのです。

 どの政党も頼れない。ならば自分たちの世代から新しい思想を議論しないといけない、と思ったのです。

 僕も関わった政策でいえば、来年度から「子ども・子育て支援新制度」(http://www8.cao.go.jp/shoushi/shinseido/)が始まります。「保育の市場原理が導入される」といった批判も寄せられますが、ではどうしたら待機児童問題を解決できるのか。僕の考えでは企業参入は大きな論点ではないのです。それより、まともな運営者が残る制度設計が大事。確かにこの政策で100%の解決とは思いませんが、必要なのは対案だと思います。

 ◇草の根ロビー活動で民主主義をハックする

 --もっとリアルに政治に関わる必要がある、とも主張していますね。

 駒崎さん 政治に対していろいろな関わり方があります。例えばデモはやってもいいと思いますよ。しかし、問題解決のために必要なのは前に進める議論だと思います。

 僕が勧めているのは、現実にある制度を活用した草の根ロビー活動です。解決したい社会問題について、政治家や官僚にパワーポイントなどで資料を作って持っていく。ちゃんとしたロジックなら意外と話を聞いてくれます。こうやって民主主義をハック(ハッキング=改変)していくことが大事だと思っているのです。

 これは自治体レベルでもそうですよ。陳情書一つで変わっていくことだってあるのに、多くの人は知らない。議会には「陳情」と「請願」という市民の声を届ける制度が用意されています。しかし、現実ではこの違いもみんな知らない。「陳情」は誰でも出せますが、「請願」には議員の紹介が必要です。誰を担いで請願を出すか、といったところも考えていけば、思いがけない成果を上げることもできるのです。

 政治家だって選挙で選ばれる以上、目に見える実績を探しています。そこにちゃんとまとめた請願書を持っていき、議会で取り上げてもらえば、住民としても問題解決。政治家も実績を作れる。ウィンウィンの関係にあるのです。これが分かっていない。

 政治家と対決姿勢で行くよりも、実際に解決すべき問題を訴え、彼らを使っていく方が問題解決のためにはずっと大事です。政治に声を届けるツールはあるのです。

 草の根ロビーの可能性はまだまだ過小評価されていると思います。特に伝統的な市民運動の世界ではそうです。シンポジウムや署名もやらないよりは良いでしょう。例えば近隣の公園を犠牲にする都道建設をやめさせるというケースで考えてみます。

 僕ならまずスーツを着て、東京都議会の与党都議をつかまえてロビー活動をする。そこから都知事に訴える機会を作ってもらいつつ、問題のキーマンに働きかける経路を作るところから始めます。あるいは、そこから超党派に働きかけ都議会で取り上げてもらうといったやり方も可能でしょう。ダイレクトに意思決定の現場に直接働きかける運動を展開することが大事です。さらにメディアにも働きかけ、自分たちの主張を訴える。記事に取り上げてくれたら、そのコピーを持って、さらに都議や都庁に働きかける。

 こうした方法論を共有することで、例えば安全な通学路を作るといった地元の課題を解決することもできます。リベラルはかつては批判によって立場を表明していけば良かったのでしょうが、批判だけでは何も生まれない時代に突入しているのです。

 ◇新しいリベラルのイメージを「見える化」

 --新しいリベラルが政治の場にあるというのは重要だと思います。潜在的に必要としている層は多いと思いますが、どう広げていけばいいのでしょうか。

 駒崎さん 僕も一定数はいると思います。新たな中道左派的な政党は必要ですが、どこが担うのでしょうか。僕にはそれ以上のビジョンはないです。

 先ほど、僕が話したパッケージに共感してくれる人たちは少なくない。「まあ、そういう日本なら良いよね」と思う人たちに向けて新しいパッケージを「見える化」して届くようにしておきたいですね。

 自分がどこまで関わるかは考え中ですが、民間の有識者が考える「明日の日本像」みたいな本かウェブを作って、共感できる人を広げていくことが必要だとは思います。

 「次世代が考える2030年の日本」というビジョンを作っていくのもいいでしょうね。そのころの日本政府は組織や世帯よりもより個人に対してセーフティーネットを張っている。会社に行くと子育てしながら、介護しながら働く人々が当然いる。働き方も柔軟で、友達には男女のカップルだけでなくLGBTもいて、同性カップルも子育てをしている。自閉症の子供もコミュニケーションに問題は抱えているが、しかし計算能力は高い。マイナスをゼロにするのではなく、1を10にする、能力を生かす教育にしていく……。

 こうなったらすてきだよねっていうビジョンも打ち出して、もっとわくわくするような未来を描く。その上で、必要な制度や課題を整理してどう改革するかといった議論が必要でしょう。アクションリストも作って政策を変えていければさらに良いですよね。

 --確かに働き方やライフスタイルの話は関心が集まりやすい。ライフスタイルから政治を考えていくというアプローチは必要かもしれません。

 駒崎さん ライフスタイルを選ぶことはまさに「政治」です。そこから政治に入っていく経路が必要です。働き方なら労働基準法の問題にもつながるよ、とか。こんな生活になったらいいよなというイメージから入って、それを実現するための制度を作ろうとか、法律を変えようといった話ができるようになるといいですよね。実現したい社会像から実現可能な政治像を示す。共感できる人たちと一緒に、新しいリベラルを作るための議論を始めていければいいと思っています」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141006-00000000-maiall-soci

新たな社会の仕組みを考える/長岡から-福島瑞穂氏とともに

2014-08-25 18:49:16 | 社会
 新潟の長岡で、地元で様々な地域的取り組みをしている人たちを集めてシンポジウムがあった。

 IWJにその様子が上がっています。→http://iwj.co.jp/wj/open/archives/164046

最初の50分ほどはパネリストの一人小林登さんがとった「ちょっと青空」という映画が上映されたため、ずっと映像がなくIWJのマークが続きます。

 その分は飛ばしていただければ、と思います。

 小林さんの映画は31分の短いものですが、札幌で施設を出て一人暮らしをすると決意した佐藤まさひろさんを撮った映画で、とてもいい作品です。

 映画はDVDになっています。(http://aozora223.exblog.jp/13038984/)

 小林登プロダクション : 0258-34-6608 
            e-mail koba-pro@yd6.so-net.ne.jp 迄連絡すれば購入可能だと思います。

 佐藤まさひろさんがこのシンポジウムに寄せたメッセージはとても素敵です。

 メッセージのタイトルは「戦争は障害者を作り出す愚かな行為」です。是非ともご覧ください。

【特ダネ】NHK女性記者15人が7月異動で大量退職の怪/木村正人

2014-07-08 10:23:06 | 社会
「【特ダネ】NHK女性記者15人が7月異動で大量退職の怪
炭鉱のカナリア

都議会に続いて国会でも「まず自分が子供を産まないとダメだぞ」という性差別ヤジが女性議員に飛ばされていたことが明るみになる中、今度は公共放送のNHKで女性記者15人が7月の異動に合わせて大量退職する見通しであることがわかった。

取材の最前線では女性記者も男性記者と同様、朝駆け夜討ちを強いられ、超過勤務が日常的になっている。大量退職する見通しの女性記者15人は、NHKの「炭鉱のカナリア」なのか。

昔、炭坑に入るとき、先頭の坑夫は必ずカナリアの入った鳥カゴを手に持っていた。坑道に有毒ガスがたまっていると、元気に鳴いていたカナリアが突然、動かなくなる。

そのとき異常に気付いて、早く坑道から脱出すれば坑夫は命を失わずに済む。

NHKは他のメディアに比べて女性記者の割合も多く、出産・育児を支援する社内制度も整っており、大量退職に報道局幹部も首をひねっているそうだ。

しかし、女性記者が意欲を持って働けないニュースルームに、男女の機会均等を後押しするバランスのとれた報道を期待するのは難しい。

激減する男子学生の「新聞記者志望」

一時期、新聞記者は大学生にとってあこがれの職業だった。しかし現在、志望者はピーク時に比べ一桁少なくなっている。筆記試験とは名ばかりで、受験者はほとんど全員面接に進むことができるという。(大手新聞社中堅記者)

その中で女子学生の比率は7~8割にのぼり、男子学生は新聞社への就職を回避する傾向が強く現れている。地方紙でも新入社員は女性ばかりという嘆き節を聞いたことがある。

筆者が主宰する勉強会「つぶやいたろうジャーナリズム塾」(現在5期生)の塾生も女性が圧倒的に多い。永久就職先にこだわる男性より、女性の方が先行きに不安を抱える新聞社に就職するリスクを取りやすいと解説する関係者もいる。

男社会のメディアに女性記者が増えることは良いことだ。女性記者が男性記者並みの超過勤務を強いられるより、女性が働きやすい環境を女性記者が積極的に行っていった方がはるかに男女の機会均等が進むからだ。

そうすれば、退職するまで一度も家庭をかえりみない男性記者の働き方もきっと変わるはずだ。一日待てば発表されるニュースをわざわざ朝駆け夜討ちをしてだし抜くことに力を注ぐより、政府や地方自治体の政策にメスを入れた方がずっと社会の役に立つ。

受信料に支えられるNHKでは男子学生の「就職志望離れ」は、経営の苦しい新聞社ほど顕著ではないのかもしれないが、NHKは女性記者の働き方を見直した方が良い。

少なすぎる女性記者

それでなくても日本のニュースルームには女性が少ないのに、女性記者が大量退職すれば、職場のマッチョ化にますます拍車がかかる。2010年12月に国際女性メディア基金(IWMF)がまとめた報告書では日本のニュースルームでの男女比は7対1だった。

日本のニュースルーム

世界経済フォーラム「ザ・グローバル・ジェンダー・ギャップ報告書2013」によると、日本の女性国会議員率は全議員の8%で、120位。サウジアラビアやアフリカのマリよりも低い。国会とメディアは率先して女性比率の数値目標を導入すべきではないか。

IWMFの報告書ではメディアで職業水準に達している女性の割合は世界で35.1%。アジア・オセアニアでも20.7%もあるのに、日本は15%止まり。西欧や北欧では40%を超えている。これで日本は先進国と言えるのか。

同報告書は、日本の放送局は総務省から免許を与えられており、法律で「政治的な中立性」を求められていると指摘。メディアが政府のコントロールを受けることへの批判はあるが、改善されていないことに強い懸念を示している。

「安倍NHK人事」とは無関係か

NHKをめぐっては、籾井勝人(もみい・かつと)会長が就任会見で、旧日本軍の慰安婦問題について「どこの国にもあった」「なぜオランダには今も飾り窓があるのか」と発言して大騒ぎになったことは記憶に新しい。

NHK経営委員の長谷川三千子・埼玉大学名誉教授も、産経新聞のコラムで「人間の女性は出産可能期間が限られていますから、その時期の女性を家庭外の仕事にかり出してしまうと、出生率は激減するのが当然です」と、人口減対策として「性別役割分担」を強調したことがある。

NHKの新入女性社員の間では、長谷川名誉教授の発言に衝撃が走ったという。

都議会で、妊娠・出産・不妊に悩む女性への支援を訴えた塩村文夏(あやか)都議(36)に「自分が早く結婚すればいい」と性差別ヤジを飛ばした鈴木章浩都議(51)=自民党会派離脱=は「少子化、晩婚化の中で、塩村議員に早く結婚して頂きたいという軽い思いで」発言したと謝罪した。

やすな
ロンドン支局長時代の助手、樋熊泰奈さんが出産した奈津ちゃん(右)と美南海ちゃん

長谷川名誉教授も鈴木都議も女性の晩婚化が少子化の原因とみているようだが、果たしてそうだろうか。筆者の産経新聞ロンドン支局長時代の助手、樋熊泰奈さんは3カ月半前、37歳で愛くるしい双子の女児を出産した。

筆者は「英国で働く女性が出産、子育てしやすい理由は何だと思いますか」と質問してみた。

泰奈さん「英国は国営医療制度(NHS)なので医療費の心配がありません。夫が育児休暇を取りやすく、職場復帰もしやすいという理由もあります。中小企業の場合、産休手当ての補助が国から102%出るので、中小企業の負担にはまったくなりません」

少子化の原因を晩婚化に結びつけるのは、日本で「真正保守」を名乗る頑迷固陋な人たちだけだ。

英国やフランスで回復する出生率

ソ連崩壊や米国の衰退を予測した著名なフランスの家族人類学者エマニエル・トッド氏は「女性の識字率が上がれば、出生率は下がる」ことを人類普遍の傾向としてとらえた。女性の識字率が上がれば晩婚化が進み、出生率は下がるという。

しかし、英国やフランス、北欧などの先進国で、女性が一生の間に出産する子供の平均数を表す「合計特殊出生率」は回復している。

世界金融危機後の景気低迷で「産み控え」が心配されていたが、世界銀行の統計によると、英国では1997年の1.69を底に2012年は1.9。昨年のロイヤルベビー誕生の影響で「2」達成の期待が膨らむ。

フランスでは93年の1.73から12年には2.0まで上昇した。「2」を超えると人口減は回避できるといわれている。

女性先進国の北欧はどうだろう。12年時点でスウェーデンは1.9、ノルウェー1.9、フィンランド1.8。方やドイツは1.4、ギリシャ1.3、イタリア1.4。

欧州のおける出生率の格差をどう見るか。多産のイスラム系移民の増加、育児支援、産休制度などの影響はもちろんあるものの、女性の社会進出度と出生率の回復は密接に関係している。

メルケル首相は女性だが、ドイツでは「女性は教会、台所、子供を大切にすべきだ」という風潮が今でも強く残る。ドイツ人女性は家庭か、仕事のジレンマに悩まされている。

ギリシャ、イタリアも女性に対する考え方が日本の「真正保守」同様、極めて保守的だ。長谷川名誉教授の説が正しいのなら、ドイツやギリシャ、イタリアの出生率は英仏、北欧のそれを上回っていなければならない。

破綻している「真正保守」の論理

日本では非正規雇用が増え、夫の収入だけで妻子を養う経済構造ではすでになくなっている。夫婦共働きでも子供を育てていけるような社会をつくっていくのが正しい方向だ。

妊娠中絶や避妊薬など、「産む性」の否定がジェンダーフリーを意味した戦後とは異なり、ジェンダーフリーが「産む性」を保障する時代を迎えつつある。

2012年合計特殊出生率

日本の出生率は05年の1.26で底を打ち、12年には1.4まで回復した。仕事も結婚も出産も家庭もが女性にとって当たり前になる社会が最高の少子化対策だ。

安倍首相は経済政策アベノミクス第3の矢「成長戦略」の中でウーマノミクスを重要な柱として位置づける。それが偽らざる真意であるのなら、NHKの女性記者大量退職を深刻に受け止めなければならないだろう。

今回の問題についてのご意見を以下のアドレスで受け付けます。情報提供の場合、ニュースソースの秘密は必ず守ります。
tsubuyaitaro@imediajapan.onmicrosoft.com

(おわり)」

http://kimumasa2012london.blog.fc2.com/blog-entry-507.html

「社会保障は風俗に敗北した」 NHK「ガールズプア」特集が話題に

2014-06-09 19:04:05 | 社会
「働いても働いても暮らしが楽にならない「ワーキングプア」が問題となる中、貧困のために風俗で働くことになった若年女性の様子を「ガールズプア」としてNHKが特集し、話題を呼んでいる。

1月27日放送のNHK「クローズアップ現代」で、特集「あしたが見えない ~深刻化する『若年女性』の貧困~」が放送された。

20代シングルマザーの8割が「貧困状態」

番組によると、現在10代、20代で働く女性は全国に503万人。だが、高卒女性で正規の仕事に就いているのは48%にとどまり、半数以上が非正規で働いている。

アルバイトを3つ掛け持ちしても給料が10万円程度にしかならない19歳の女性など、厳しい状況にある単身女性が紹介された。中でも特にきつそうなのが、小さな子どもを抱える若いシングルマザーだ。

今、20代シングルマザーの80%が年収114万円未満の貧困状態にあるという。そうした中でも、周囲の支援を受けられなかった若いシングルマザーは、風俗店に居場所を見出すしかなくなってしまう。こうしたケースがかなりあるのだという。

性産業がセーフティネットに?

番組では、東京近郊のある風俗店を取材。この店では、若いシングルマザーに働いてもらうため、子どもを預ける提携託児所を用意し、その費用も負担しているという。家を借りられない女性のために、事務所近くに寮も設けた。

21歳のシングルマザーは、出産直後から働かなくてはいけない状況だった。しかし、託児所に子どもを預ける余裕もなかったため、この店に流れ着いた。現在、週5日働いて収入は月30万円。給料を店に積み立ててもらっている人もいる。

また、面接に来た30代のシングルマザーは、役所に生活保護を申請したものの審査に2~3か月かかると言われた。それまで待つことはできないので、20代のころに経験した風俗の世界で再び働こうと決めたのだという。

スタジオでは、若い困窮者の支援をしている臨床心理士の鈴木晶子氏が、

「性産業が職や住居、保育までを含めたしっかりとしたセーフティネットになってしまっている」
と指摘。公的機関ではそうした包括的なサービスが提供できておらず、

「社会保障の敗北といいますか、性産業の方が、しっかりと彼女たちを支えられているという現実だと思う」
と話した。これはネット上でも話題になり、

「風俗が超優良企業に見える」
「風俗と刑務所が日本のセーフティネット」
といった皮肉な声が挙がった。

「風俗の求人は嘘が多いので信じないで」

「社会保障が風俗に負ける」という状況を苦々しく感じている人も多いようだ。ただ、実際に番組が取材できた風俗店は「上澄みのほんの一部」にすぎないという人もいる。風俗店に勤務していたとする女性は、こんな書き込みを残している。

「風俗の求人広告は、女の子の気を引くように上手く作っていて、嘘が多いので信じないでください。夜の世界は特に悪い人が多い」
元風俗店の店長だったという人の書き込みにも、「託児所付きとは名ばかりで、紹介はするが、契約などは一切関知せず、酷い話でした」というものがある。

さらにネット上にはこんな提言も。

「まずは最低賃金の水準を引き上げること。そして安く長い時間子供を預けられる公立保育園の整備。行政がやるべきなのはまずこの二点じゃないか」
行政の違法な対応で、風俗に頼らざるを得なくなった

NPO法人自立生活サポートセンター・もやいの大西連氏は29日、ヤフーニュース「個人」で、放送についてコメントした。番組に登場した女性が生活保護申請に2~3か月かかる、と役所で言われたことについて、こう指摘する。

「生活保護の申請はその日にできます。そもそも、市役所が申請を受理しないのは違法です」
生活保護法では、役所が申請を受けて決定か却下を判断するまでの期間は「原則14日以内」と定められていると説明。女性は役所窓口で申請を受け付けない「水際作戦」の被害を受けたのだとし、

「生活保護行政の違法な対応により、本来利用できる制度利用にいたらず、風俗の仕事に頼らざるを得なくなった」
その上で、番組は生活保護に関する正しい情報を伝える必要があったとしている。

「家の外にも味方がいる!」

また、シングルマザーの支援を行っているNPO法人リトルワンズ(東京都杉並区)代表の小山訓久氏はキャリコネ編集部の取材に、「生活に困って風俗で働くことも選択肢になってしまっている」と話す。

「役所やNPO法人に相談すれば適切な情報や、他の道が見つかることもあります。まずは頼ってきてほしい」
シングルマザーは、離婚した直後の急激な生活の変化や、経済的に窮地にいても、独りで考えてしまうことが多く、また行政支援などに関する情報を知らない人も多い。同団体では彼女たちを対象に、日々の生活情報などを提供する企画を開催している。

「シングルマザーが集まるイベントも毎月開催しています。頼ったり、 助けを求めることを悪いと思うのではなく、家の外にも味方がいると思ってもらえれば」
あわせてよみたい:「社畜女子」の実態」

http://careerconnection.jp/biz/tyosahan/content_1116.html

私と民族国家とキム・ヨナ/ハフィントンプレスより

2014-03-03 19:57:58 | 社会
「ソチ冬季オリンピックが幕を閉じた。今回のオリンピックは韓国人にいい思い出だけを残したとは言えないだろう。釈然としない判定で金メダルを逃したキム·ヨナ選手のためだ。キム·ヨナ選手の件で、想像以上に多くの人々が怒った。怒りの要因は一つではないだろうが、何より「不公正」への不満が挙げられるだろう。

今回のオリンピックでのフィギュアスケート女子の結果は、国内外を問わず、専門家の間でさえ議論になった。別に専門家でなくても、比較的簡単に「不当性」に気づいただろう。オリンピックという、不正があれば大規模な怒りが起こりやすい条件だったことも一役買っただろう。

そのような怒りの奥底を見ると、韓国社会の素顔がある。民主主義社会の基本原則である機会の平等さえまともに確保されず、既得権のための法治主義だけが存在し、様々な特権など不正が横行する韓国で、平凡な市民として生きるということは不公正に敏感な人に社会化されることを意味する。数年前、韓国の書店を席巻したマイケル·サンデルの「正義とは何か」の流行は、その証拠だろう。

にもかかわらず、また古い分析の枠組みとしてナショナリズムを呼び起こすしかないのは、次のような理由からだ。まず、今回のオリンピックでショートトラック女子のパク·スンヒ選手とぶつかって彼女を転倒させた英国の選手への韓国人の怒りも大きかったことがある。フィギュアスケートの不公平な判定の背景(?)と推測される主催国ロシアと、金メダリストのソトニコワに見せた過度の攻撃性も好ましくはないだろうが、少なくとも不公正さへの抗弁というそれなりの正当性は持っていた。しかし、パク·スンヒ選手と交錯した英国の選手は「不公正」ではなく「不可抗力」によって結果的に韓国の選手を妨害したのに、インターネット上で韓国人の無分別な攻撃対象となり、最終的に自分のSNSを閉鎖した。

第二に、2010年のバンクーバーオリンピックで金メダルを獲得する前のキム·ヨナだったら、韓国人の怒りはこれほどではなかったはずだからだ。キム·ヨナ選手は世界が競争するオリンピックという最大の舞台で成果を出し、韓国人のプライドを高める象徴的な人物となった。国家対抗戦のオリンピックはナショナリズムを強化、再生産する代表的なメカニズムとして、フィギュアに興味のない人でも、自分の国または同じ韓国人を応援する気持ちにさせる。試合で大多数の韓国人が集中するのはフィギュアの美学ではなく、キム·ヨナがミスをするかどうか、点数、そしてメダルの色だ。キム·ヨナのような優れた選手が再び登場してこなければ、大多数の韓国人たちはもうフィギュアスケートを見ないだろう。サッカーに興味がなく、うるさい音楽を好まない人が、世界最高のチームで活躍したパク·チソンと、YouTube再生回数1位に輝いたPSYを絶賛するのは昨日や今日始まったことではない。

最後に、「私たち」ではなく「相手」が不公正の犠牲になった場合、激しい怒りはなかっただろうという点だ。実際、2002年のワールドカップで韓国が勝った準々決勝の韓国―スペイン戦は、判定について議論があったのに、韓国では不公正だという問題提起はあまり聞かれなかった。不当さへの「大きな怒り」は、本質的に自分自身や自分に近い人々が被害を被ったとき誘発されるのだろう。私と民族国家とキム·ヨナを同一視させ、キム·ヨナのことをまるで自分のことのように感じさせるナショナリズムがなかったら、怒りはそれほど大きくなかっただろう。

もちろん、韓国からロシアに国籍を変更して活躍した「ビクトル・アン」(アン・ヒョンス)への支持と、「あなたはキム·ヨナではなく大韓民国」とうたった広告に世論の大勢が批判的に反応したのを見て、韓国のナショナリズムが薄まるのではないかとも期待した。しかし、それも結局、自分に何もしてくれない韓国という国への恨みと、韓国人としての誇りを高めてくれる2大スポーツスターへの愛情が共存するからではないだろうか。ナショナリズムが国家主義と民族主義を包括する概念であることを考えると、前者はかなり退潮したが、後者はまだ有効な力を発揮すると言えるだろう。条件さえ整えば韓国を離れたいという人も多く、実際そうする人もいるが、それでも韓国人のアイデンティティーを捨てるのは容易でないことは韓国を離れた移民が証明済みだ。

キム·ヨナ現象の根源にあるナショナリズムを指摘するのは、それほど重要なことではないかもしれない。韓国人すべてが自分にナショナリズムがあると知っているからといって、「他者」や「他の集団」より「私」と「私たち」がよければいいという原始的な感情が簡単に消えるかは疑問だ。

問題は依然として少なからぬ人々が、国家と民族の名前に包まれた少数の既得権の利益を、自分の利益と同一視しているということだ。財閥企業の自動車や半導体産業などの輸出増大のため、中小企業や農民を犠牲にする米韓FTAが「私たち」が住む「国」の発展のためには仕方ないという論理だ。そうした状況を助長するナショナリズムが、自分と関係ないキム·ヨナ選手の成果をまるで自分のことのように誇るナショナリズムの論理と、どれほど明確に区分できるかはわからない。

不公正な世の中に飽きた人々が、自分自身に潜む怒りを、1年で数百億を稼いで皆に尊敬される国家代表のスター選手に注いで解消している今の状況は肯定しがたい。キム·ヨナ選手は確かに「私たち」だが、ナショナリズムで想像された「私たち」よりも、自分とより近い境遇にある人々を、より近い「私たち」と考えられるようにするには、どうすればいいだろうか。

韓国の地に住む大多数の市民は、韓国のブランドパワーを高めてくれるサムスンの所有者ではなく、劣悪な作業環境で働いて難病になっても労災判定すら受けられないサムスンの労働者により近く、国家の発展のためという古い美名の下で生きる基盤を踏みにじられている密陽(注:韓国電力の高電圧送電線の建設を巡って反対運動が起きている地方都市)の人々と「私たち」で結ばれる方が自然だろう。

イ・ファンヒ
ユン・ジョンシン(歌手)公式ファンクラブ事務局長、「緑の党」青年部共同運営委員長」

http://www.huffingtonpost.jp/hoani-lee/kim-yuna_b_4888140.html?utm_hp_ref=japan

破られた「アンネの日記」と国際紙/日刊ベリタより

2014-02-25 20:15:16 | 社会
「破られた「アンネの日記」と国際紙


  第二次大戦中、ナチスのユダヤ人狩りを逃れるため、ドイツから家族でオランダに渡り、アムステルダムの家に隠れて暮らしていた少女、アンネ・フランク。しかし、やがて当局に潜伏先をつきとめられた彼女は収容所に入れられ、15歳で亡くなった。アンネが当時つづった日記、「アンネの日記」が東京都内の図書館で多数、ページが破り取られるなどして破損していたことが報じられた。

  このニュースは世界に発信された。国際紙は日本の右傾化を報じてきたが「アンネの日記」を破損した事件は改めて欧州人に警報を鳴らすことになってしまった。

  BBCのニュースサイトではイスラエルのハイファ大学の日本文化研究者Rotem Kowner氏がコメントをしている。それによると、「アンネの日記」は世界の中でも日本ではよく読まれてきた本だという。本の販売数では日本は米国に次いで2位だった。Rotem Kowner教授のウェブサイトに掲示された研究リストによると、Rotem Kowner教授は日本文化の研究者だ。その中にはアジアや日本におけるレイシズム、あるいは反ユダヤ主義の研究も含まれている。

  たとえば ’The rise and fall of Holocaust denial in Japan’(日本におけるホロコーストを否定する潮流の台頭と失墜)と題する論文もある。この論文は1989年から1999年、つまり冷戦崩壊の10年くらいの期間の研究のようである。発表媒体は’Journal of Genocide Research’(「虐殺の調査」)日本語媒体でも反ユダヤ主義をウォッチしている人はKowner教授一人ではあるまい。日本語に限らず、イスラエルには世界中の言語を話せる人材がそろっている。
http://www.bbc.co.uk/news/world-asia-26284614

  戦後、ナチスの犯罪者を追究してきたサイモン・ウィーゼンタールセンターから「アンネの日記」を破損した犯人を捜査するように日本に対して要請が出されたという。このセンターを創設したサイモン・ウィーゼンタール氏は生前、アンネ・フランクは虚構の人物だ、と言ったドイツ人に対して、アンネ・フランクが実在した証拠を突きつけたことがあるとインタビューで語っていた。

■Wiesenthal Center Expresses Shock and Deep Concern Over Mass Desecrations of The Diary of Anne Frank in Japanese Libraries(サイモン・ウィーゼンタールセンターは日本の図書館で起きた「アンネの日記」破損事件に驚きと深い危惧を表明)
http://www.wiesenthal.com/site/apps/nlnet/content.aspx?c=lsKWLbPJLnF

http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201402250919202

教育現場における民族差別・ヘイトクライムを危惧する教育関係者の声明

2014-02-25 17:31:46 | 社会
 是非とも賛同してください⇒http://www.change.org/ja/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%83%B3

「 教育現場における民族差別・ヘイトクライムを危惧する教育関係者の声明

  日本社会では、民族的マイノリティ、特に在日韓国・朝鮮人に対する暴力や暴言、差別落書きが後を絶たず、地道な人権教育の積み重ねを経てもなお、根絶する ことができていません。それどころか、 政治家の露悪的パフォーマンス、営利を目的とした週刊誌・テレビによる扇情的な報道、著作物の出版によって、むしろ民族差別は勢いを増しています。そして 高校無償化法からの排除など国や自治体の差別的決定が、人々の差別・排除意識を助長してしまっている有様です。

 このようななか、2013年12月13日、立命館大学の授業内で、学生有志が朝鮮学校を高校無償化の対象とするよう求める「文部科学省宛てのメッセージカード」を配布したことに対し、一ヶ月近く経った2014年1月10日、 立命館大学の学生と思われる者が、カードへの記入が強制であったかのような誤情報をツイッター上で流しました。その内容はインターネット上で広がり、便乗 した差別主義者が担当教員への誹謗中傷、ヘイトスピーチを 拡散するという事件が起こりました。また、この件に対して立命館大学は、2014年1月15日 に、担当教員が「嘆願書への署名は任意であること、署名と成績とは無関係であること、そして嘆願書は署名の有無に拘わらず学生団体の担当者が回収すること を、受講生に対しアナウンス」していたことを認めた上で、教員が「誤解」を与えたことは「不適切」であり「指導」をしたとの見解を示しました。

 まず、この点について、朝鮮学校無償化への取り組みを、もし大学として「問題行動」と見なしたとすれば、そのこと自体が、立命館大学は、「子どもの権利条約」第30条 「種族的、宗教的若しくは言語的少数民族又は原住民である者が存在する国において、当該少数民族に属し又は原住民である児童は、その集 団の他の構成員とともに自己の文化を享有し、自己の宗教を信仰しかつ実践し又は自己の言語を使用する権利を否定されない」に、明確に違反していることを認 めたことになります。

 また、差別は人の尊厳を踏みにじり、ヘイトスピーチは人々に底知れぬ恐怖と不安を与えます。差別的デマは、古くは関東大震災直後の朝鮮人 虐殺、近年ではルワンダにおけるフツによるツチの虐殺など、大量虐殺の引き金になります。これらの行為およびその背後にあるヘイトスピーチは社会的に許し てはならず、教育機関にはそのような行為が決して起こらないように教育を行っていく社会的責務があります。

 しかし立命館大学は、見解において学生と思われる者の誤情報を流すという行為やそれに続くヘイトスピ ーチに関して、批判どころか一言も言及することはありませんでした。それどころか、担当教員の行為を「不適切」とし「指導」を行いました。これは、差別行 為を非難することなく見逃した点、今後学生を含む若者一般にあのような書き込みが許容されるものであると”学習”させる点、学生の自治活動や教員の教育活動を委縮させかねない「指導」を行った点で大変問題があります。右翼、差別主義者からの圧力を前に、教育機関としての役割を放棄したと言われても仕方のない行為です。

 ただし、今回の立命館大学の対応を異常なものとして批判するだけでは不十分です。ご存じのとおり、教育機関をめぐる環境は厳しさを増して おり、管理強化はもちろん、教育には本来なじまない競争原理の導入が 図られ、私たち教育労働者は分断、孤立させられています。今回の見解作成に携わった教職員と同じ立場に立たされたとき、誰が自分は違う対応ができたと自信 を持って答えられるでしょうか。この問題を自分たち一人一人の問題、教育労働者の連帯の問題であると捉えない限り、差別との闘いは後退を強いられるでしょ う。

 そして2014年1月22日 に、神戸朝鮮高級学校に不法侵入した者が教員を負傷させるという事件が起こってしまいました。インターネット上や「行動する保守」などによる街宣で物理的 暴力の行使をほのめかす言葉が飛び交うなかの事件であり、日本の人権状況が極めて厳しい状態にあることを示しました。これは2009年から2010年 にかけて行われた京都朝鮮学校襲撃に対して、損害賠償およ び学校周辺での街宣禁止が勝ち取られてもなお、日本社会がヘイトクライムを根絶することができていない証左です。また、確かに判決は被告らの行為を人種差 別行為であると認めましたが、民族教育権について触れなかったことも忘れてはいけません。国際人権基準でも保障されている民族教育権を司法ですら軽視して いる現実は、朝鮮学校襲撃の背景にある日本社会の人権意識の低さを表しています。

 私たち教育関係者は、人権が守られる差別のない社会を作ることを自らの使命の一つとして学校教育に関わってきました。それにもかかわらず 現在のような状況が生じていることに対して、なぜなのかと自ら問い直す必要があるかもしれません。一方、今後も右翼、差別主義者は、彼らの常套手段である 恐怖による威嚇でもって自らの意に反する教育を封じ込めることを行ってくるでしょう。しかし、人権を重んじる教育を止めることはできません。

 私たちは、教育現場における民族差別・ヘイトクライムへの危惧を示すとともに、改めて全ての教育者、教育機関に、差別を許さないという意思を示すことを呼びかけます。
                                  2014年2月16日

呼びかけ人

安部彰(立命館大学教員)、安部浩(京都大学)、石原俊(明治学院大学)、伊田広行、市野川容孝(東京大学)、鵜飼哲(一橋大学)、宇城輝人(関西大学)、浦木貴和、大越愛子(VAWW RAC)、 大椿裕子(関西学院大学雇止め解雇事件被解雇者、大阪教育合同労働組合副執行委員長)、大畑凛(学生)、沖本和子、柿並良佑(言語教育センター)、角崎洋平(立命館大学専門研究員)、北川知子、金尚均(龍谷大学教員、立命館大学卒)、清末愛砂(室蘭工業大学)、熊本理抄(近畿大学)、倉橋耕平(関西大学・近畿大学・大手前大学非常勤講師)、黒瀬勉(大学非常勤講師)、上瀧浩子(弁護士、立命館大学卒)、小宮友根(明治学院大学社会学部付属研究所研究員)、酒井隆史(大阪府立大学)、高橋慎一(立命館大学ほか非常勤講師)、田中隆一(同志社大学嘱託講師)、玉置育子(四天王寺大学)、土肥いつき(高校教員)、中倉智徳 (立命館大学ほか非常勤講師)、中村一成(ジャーナリスト、立命館大学卒)、能川元一、盧相永(公財・世界人権問題研究センター嘱託研究員)、朴実(京都・東九条CANフォーラム代表)、橋口昌治(立命館大学ほか非常勤講師)、浜邦彦(早稲田大学)、肥下彰男、福本拓、堀田義太郎(東京理科大学)、堀江有里(日本基督教団、牧師)、前川真行(大阪府立大学)、松島泰勝(龍谷大学教員)、松葉祥一(神戸市看護大学教員)、南守、文公輝(NPO法人多民族共生人権教育センター事務局次長)、山本崇記(世界人権問題研究センター専任研究員、立命館大学卒)、ユニオンぼちぼち立命館分会、李洙任(龍谷大学)、渡邊太(大阪国際大学教員)


*本声明への賛同は、差別を許さないという意思を改めて社会に対して表明し、そのような意思の輪を広げていくものであると捉えて下さい。
*ここでの「教育関係者」は教壇に立つものだけではなく、生徒や学生、学校を職場にする労働者など、広く教育に関わる人々を含んでいます。
*今後、声明作成に関わった有志でシンポジウムなどを開催し、教育現場における民族差別・ヘイトクライムについて考える取り組みを行ってい く予定です。お知らせいただいたメールアドレスは、その際の連絡などに使用させていただくかもしれません(連絡の頻度は最低限に抑えさせていただきま す)。」

http://www.change.org/ja/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%83%B3/%E3%81%99%E3%81%B9%E3%81%A6%E3%81%AE%E6%95%99%E8%82%B2%E9%96%A2%E4%BF%82%E8%80%85-%E6%95%99%E8%82%B2%E7%8F%BE%E5%A0%B4%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E6%B0%91%E6%97%8F%E5%B7%AE%E5%88%A5-%E3%83%98%E3%82%A4%E3%83%88%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%92%E5%8D%B1%E6%83%A7%E3%81%99%E3%82%8B%E6%95%99%E8%82%B2%E9%96%A2%E4%BF%82%E8%80%85%E3%81%AE%E5%A3%B0%E6%98%8E?utm_source=supporter_message&utm_medium=email&utm_campaign=petition_message_notice

袴田事件「本当は見覚えなかった」 刃物店員の証言誘導か/東京新聞

2014-02-24 16:48:08 | 社会
「一九六六年六月に静岡県清水市(現静岡市清水区)で起きた一家四人殺害事件で、死刑判決が確定した袴田巌死刑囚(77)=第二次再審請求中=の凶器購入先とされた刃物店で働き、公判で「袴田死刑囚の顔に見覚えがある」と証言した女性(87)が「本当は見覚えがなかった。思っていることと違うことを証言した」と話していることが、共同通信の取材で分かった。

 また、女性の長男高橋国明さん(64)は、女性が六七年七月の静岡地裁での公判に検察側証人として出廷し帰宅した際に「証言の仕方を教えてくれるんだね」と話していたことを明らかにした。袴田死刑囚弁護団の村崎修弁護士は「公判前に捜査機関が証言を誘導した可能性がある」とした。

 昨年十二月に提出した弁護団の最終意見書には盛り込まれていないが、村崎弁護士は「凶器とされた小刀では事件を実行できないとする弁護団の主張を裏付けている。捜査機関が証拠を捏造(ねつぞう)したことを示す重要な証言として裁判所に訴えていきたい」としている。

 女性は事件当時、同県沼津市にあった刃物店の店主の妻。現在は病気療養中だが意思疎通は十分でき、高橋さんと取材に応じた。

 一審や控訴審では「捜査員から見せられた顔写真の中に見覚えのある顔があった。事件の二~三カ月前に見たような気がする」などと証言していた。

 しかし高橋さんによると女性は店を訪れた捜査員に数十枚の顔写真を見せられたが、見覚えのある顔はなかった。別の日に捜査員が「犯人がこの店で刃物を買ったと話している」と言い犯人が書いたものとして手書きの地図を見せた。女性は地理関係が正しかったので「だったら店に来たのだと思う」と答えたという。

<袴田巌死刑囚の再審請求> 1966年6月30日、みそ製造会社専務宅から出火、焼け跡から一家4人の刺殺体が発見された。静岡県警は同年8月、強盗殺人容疑などで従業員袴田巌死刑囚(77)を逮捕した。公判で無罪を主張したが、80年に死刑が確定。第1次再審請求は2008年3月に最高裁が特別抗告を棄却した。同年4月に姉秀子さん(81)が申し立てた第2次再審請求の審理は昨年12月に終了し、静岡地裁が早ければ、今春にも再審の可否を判断する。」

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014022402000227.html

「脱法」水際作戦横行 生活保護法 見直しに便乗/東京新聞

2014-02-04 11:57:47 | 社会
「 生活保護費の抑制を目的とする改正生活保護法が昨年末に成立したのと前後し、全国の自治体で申請を拒む「水際作戦」が強化されている。扶養は保護受給の要件ではないのに、あたかも要件であるかのような説明が横行。「法改正後も実態は変わらない」という厚生労働省の説明は早くも空証文となっている。 (上坂修子)

 改正法は一部を除き七月に実施される。自治体が扶養を断る扶養義務者に説明を求めたり、扶養義務者の収入や資産の状況に関し、勤務先などに調査することを可能にする。ただし、あくまで調査ができるだけで、扶養義務者が援助を断ってもこれまで通り、生活保護は受給できる。

 にもかかわらず、改正法の審議中に、全国の約三分の一に当たる四百三十六の福祉事務所が、申請の際に「扶養義務を果たさないと生活保護は受けられない」という誤った書面を扶養義務者に送っていたことが分かった。厚労省は該当する自治体に表現を改めるよう通知を出した。

 改正法成立直後には、大阪市が受給者を扶養する義務がある親族に援助を求める場合の金額の「目安」を公表。母子家庭に子ども(十四歳以下)の父親が援助する場合、年収六百万円なら最大月八万円。まず親族に受給者がいる市職員に援助するよう求め、七月以降は一般市民も対象にする。

 大阪市福祉局は「あくまで目安。強制ではない」と主張している。しかし、改正法成立や昨年八月から始まった生活保護費の切り下げなど、安倍政権の「生活保護バッシング」に便乗した感はぬぐえない。

 NPO法人自立生活サポートセンター・もやいの稲葉剛理事長は「非常に脱法的だ。『基準』にすると法律に抵触するので『目安』として数字を出し、扶養義務者にプレッシャーをかける。姑息(こそく)な手段だ」と批判する。

 若者の生活相談などを行っているNPO法人「POSSE」が二〇一一年から三年間で受け付けた二百九十九件の生活保護申請に関する相談のうち、明確に違法と判断できるケースが全体の四分の一に当たる七十七件あったという。

 都内に住む五十代の男性は十年ほど前に胃がんになり、働けなくなった。何度も拒まれたが昨年三月、申請にこぎ着けた。だが、福祉事務所から長年会っていない兄に扶養できるか照会すると迫られた。男性は父親の遺産相続で兄と争っていた。住んでいた家が兄の名義で「何かあったら追い出される」と不安に思っていると説明したものの、取り合ってもらえないため申請を取り下げた。

 厚労省通知は「適当でない」と認められる場合は照会を差し控えるよう指導している。吉永純花園大教授(公的扶助論)は「国会での改正論議を踏まえ、付帯決議で確認された『扶養義務の履行は要件ではない。申請権は侵害してはならない』などの点を自治体は自ら点検し、しっかり法にのっとった運用をしなければならない」と話している。

<改正生活保護法> 昨年12月に成立。保護の申請時に、本人の資産や収入などを記した申請書と所定の書類の提出を義務付けるなど手続きを厳しくし、不正受給対策として罰金の上限を30万円から100万円に引き上げた。厚生労働省によると、全国の生活保護受給者は昨年10月時点で216万4338人と過去最多。
(東京新聞)」

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2014020490070118.html

エフゲニー・モロゾフ氏によるネットの未来とプライバシー(5) 最終回/小林恭子ブログより

2014-01-27 14:19:34 | 社会
「エフゲニー・モロゾフ氏によるネットの未来とプライバシー(5) 最終回

 エフゲニー・モロゾフ氏の「すべてを解決するには、ここをクリックしてください -テクノロジー、解決主義、存在しない問題を解決しようとする欲望」から、抜粋を紹介してきた。今回が最終回となる。「私たちの敵は、テクノロジーの世界に住む、ロマンチックで革命的な問題解決者だ」という。

***

第8章 スーパーヒューマンの状態

 マイクロソフトのエンジニア、ゴードン・ベルは1990年代末から自分についての記録をとり出した。首につけたカメラで視覚に入ったものを20秒ごとに撮影する。ほかにも、メール、写真、メモなどを記録する。

 自分の行為を記録することをライフ・ブロギングという。

 プルーストにとって、現実を描写するための鍵はデータを集めることではなく、想像力を使って、私たちの感覚を記憶と結びつけることだった。

 再生できないものを再生できるようにしたら(ライフブロギング、セルフトラッキングなど)、ノスタルジアの体験は崩れてしまう。

 コンピューターのメモリーと人間のメモリー(記憶)は違うのだ。人間は、過去の出来事の一部を選択して覚えている。旅行のすべての瞬間の録画対3枚の印象的な写真のように違う。コンピューターの「保存(リテンション)」が思い出すことを意味しないのと同様に、「削除」は忘れることを意味しない。

 セルフトラッキングにはもうひとつの動きがある。

 アイフォーン、アイパッド、キンドル、グーグルのメガネは何を読んでいるかを追跡する。将来は目の動きも追跡される。利用者について、情報が集まるーーどこにどれだけ目をおいたか、クリックしたかがわかる。これを数値化する動きもある。

 新聞やテレビは、グーグルのメガネや電子読書端末を使えば、それぞれの利用者に(さらに)あわせた情報を出せる。

 セレンディピティ(別のものを探しているときに、偶然に素晴らしい幸運に巡り合ったり、素晴らしいものを発見したりすることのできる)を入れたフィルタリングがデジタル技術で実現した。これによって、利用者がまだ消費していないが、消費するべきものを推奨できる。うまく使えば、消費者についての情報をもっと取得できる。

 グーグルのシュミットは、私たちがポスト世界主義の時代に生きている、という。「世界のどこでも人々は同じだ」。

 Facebookのザッカーバーグは、世界中の人をつなぐことが問題を解決する鍵だという。中東での憎悪は「つながっていない、コミュニケーションがない、同情心、理解がないこと」が原因という。FBでつながれば問題が消えるのだ、と。しかし、これはエセ人道主義ではないか。

 新しいテクノロジーの出現で「人間同士の理解を振興するだろう」とする言説は、過去にもあった。しかし、コミュニケーションの速度が高まったからといって、理解度が進むとは限らないのだが。

 私たちがシリアの問題に関心をもつのは中東の平和や人間の運命について関心を持つからであって、グーグルやFacebookがそうさせたからではないようにしたい。

 2011年7月から、グーグルニュースはたくさんニュースを読んだ人にバッジをあげるサービスを開始した。ニュースを読む行為をゲーム化するのは楽しいとしても、結局は企業にもっと情報を出すことになっている。

 「すべてがゲーム化する。政府もそうなる」という政治家がいるが、政府は企業ではなく、市民は消費者ではないという考えがゲーム化信奉者にはみあたらない。

 例えば、ポイントを得るために投票所に行くことに対し、私たちの多くは抵抗感を持つ。ゲームのインセンティブは市民性からその意味を取り去ってしまう。正しいことをさせるのではなく、正しい理由で行動を起こすようにするべきだ。経済の理論のみで人間行動の複雑さを説明できない。

第9章 スマートなメガネ、おろかな人間

 米サンタモニカのある駐車場にはスマートメーターが導入されている。車の滞在時間をセンサーで察知する。車が駐車場所を離れるとメーターを自動計算し、時間を過ぎても出ない場合、一定時間を超えたら、支払いを受け付けないようにする。違反者が出ないように、機械的にパーキングの規則を守るシステムを作った。運転者は頭を使う必要がない。しかし、選択があったほうが、交通混雑を避けられるのではないか?

 テクノロジーで問題を解決するやり方を拒否する必要はない。しかし、もっとオープンにし、選択肢を残すほうが良いと思う。

 サンタモニカの駐車場の仕組みを設計するのに、「正しい」方法はない。いかにも正しい方法があるかのアプローチの仕方はやめるべきだ。

 セルフトラッキングやゲーム化で私たちの生活が不快になったというのではない。生活の意味がやや減り、人間の要求や奇行にはより合わなくなったと思う。

 すべての制約を自由を縛るものと考えるのがコンピューター科学者やテクノロジー設計者たちだ。しかし、私たちは、プライバシーの保護についての制約があるからこそ、個人性を維持してきた。

 クーポンの代わりにプライバシーを屈服させている可能性がある。その結果どうなるか、私たちには十分に見えない。

 自動化されたプロファイリングやデータマイニング技術は、私たちの行動を予測する知識を持つ。私たちが訪れるウェブサイトや受け取る広告をカスタマイズする。

 自分の船の指揮官であることが人間であることだが、オンラインのプロファイリングはこの点で問題になろう。

 例えば、ベジタリアンになろうとして情報をネット上で探したとしよう。情報が売られて、サイト上には肉についての広告が増えることがあるかもしれない。ベジタリアンになりたいという気持ちと、冷蔵庫になぜ無料の肉が入っているのか(広告を見て、購入した)を関連付けられないかもしれない。

 何かがあなたの視覚を妨げていて、それをあなたが気づかないとしたら、自分に自治権があるのかを問うときだ。

 テクノロジーを否定しない。人間の状況を向上させるために使える。しかし、コンピューターの専門家、設計者、ソーシャルエンジニアは何が私たちを人間にするのかを考えてほしい。人間をロボットであるとするのではおぼつかない。

 デジタル技術が今後どのように展開するかは、インターネットがどう機能するか、コンピューターがどう機能するかではなく、私たちがどのように機能させたいかで決まる。

 インターネット、携帯電話、ウィキペディアなどについて、見かけの新奇性から「今後どうなるか見極めよう」としてはいけない。もうすでに「待つ」行為は終わったし、見えてきたものはきれいではない。

追記

 前作では、「インターネットの自由」などのあいまいな概念が、高度に洗練された専制政権を倒すことに役立つとする考えが、いかにナイーブで危険かと書いた。

 この本では、インターネット至上主義と解決主義について書いた。解決主義はこれからも続くだろう。「直したい人」をなくすることはできないが、私たちはインターネット至上主義から自分を切り離す試みはできるだろう。

 この本がデジタル技術の知的議論の最前線に貢献できればと思う。

 その「議論」とは、一方がインターネットが世界の問題を解く鍵とする考えで、もう一方はネットは政治家を混乱させており、デジタル活動家がインターネットにたよることなく議論を展開するようになればいいと考えている。自分は後者だ。

 ポスト・インターネットの社会とは何だろう?

 まず、ネットあるいはソーシャルメディアが、私たちの脳、自由、独裁者に何をするかについての議論には加わらない社会だ。ツイッターやアラブの春現象よりもゴミ箱や駐車場の問題について考える社会だ。個々の問題について考えるほうが、デジタル技術の機会や限度についてよく考えられる。「ソーシャルメディアが革命を起こすか」という問いについて考えるよりも、だ。

 ポスト・インターネットのアプローチは、デジタル技術を原因とするさまざまな主張について、非常に注意深い態度をとる。デジタル技術は原因ではなくて、結果だと思っている。デジタル技術は空から降ってきた(神聖な)ものとは考えず、その詳細を研究する。

 過去100年ほど、その時代の人々は自分たちこそがテクノロジーの最先端をゆく、と言っていた。2005-07年ごろ、実は自分も革命が起きたといっていた。ウィキペディアにはうっとりするようなスタイルがあった。

 だから、自分は現在の議論に満足するインターネットの専門家の気持ちは分かる。しかし、おそらく、(その言動を)許さないだろう。

 この本ではインターネット理論家の大部分が、自分たちで作った想像上の神をあがめ、否定の世界で生きていることを示したかった。

 テクノロジーに関する議論の世俗分離を行い、インターネット至上主義の邪悪な影響をきれいにすることは、今日のテクノロジー知識人のもっとも重要な課題だと思う。

 インターネットの言葉自体が争点となり、不確かさがいっぱいであるのに、「インターネットの自由」という言葉を使うことの意義がどこにあるのだろう?

 テクノロジーは敵ではない。私たちの敵は、テクノロジーの世界に住む、ロマンチックで革命的な問題解決者だ。これをおとなしくさせることはできない。しかし、解決者の最愛の兵器「インターネット」については、多くのことができる。できるかぎり、そうしようではないか。(終)

***

 モロゾフ氏のエージェントから許可を得て、本の概要を抜粋紹介してきた。日本語の翻訳は未定のようだが、どこかの出版社が興味を持ってくれることを期待して、訳出してみた。

 「インターネット=善=自明のこと」という見方に挑戦する論考だった。「疑え、とにかく疑え」という声が聞こえてくるようだった。

 私自身がこの本を読んで、ネットに関する見方が変わった。

 この本は昨年3月に出版された。その後、スノーデン事件(6月以降)があり、ネットとプライバシーについての人々の考え方は随分と変わったのではないかと思う。商業上の目的で企業が利用者から情報を集めていること、政府・当局が大規模に情報を収集していることなどについて、「いかがなものか」という意識が強くなってきたと思う。

 今回の抜粋の掲載の過程で、「でも、仕方ないじゃないか」「どうせ現状は変えられない」という声を聞いた。

 私はそうは思わない。

 インターネットの未来の話ばかりではない。日常生活でおかしいなと思うことがあったら、友人同士で会話する、関連の論考を読んでみる、情報をもっと探してみるなど、何でもいい。ちょっと視野を広げるだけ、つぶやいてみるだけで、自分が、そして周囲が変わる。池に小石を投げる様子を思い浮かべてほしい。小さな声は一つの塊になるまでに時間がかかるかもしれないが、最終的には世論形成につながってゆく。「世論形成」という言葉が堅苦しければ、「雰囲気作り」と言ってもいい。ある雰囲気を作ることは、それほど難しくないーそんな気がしないだろうか?

 実際、スノーデン氏による暴露で、オバマ米大統領が情報収集体制の見直しを命じている。米ニューヨークタイムズがスノーデン氏に恩赦を与えるべきとも書いている。国家の機密を暴露した人物に恩赦を、とー。ウィキリークスを通じて機密をリークした米マニング兵は数十年の実刑判決を受けて受刑中だが、今後、釈放される可能性だってないわけではないだろう。

 当局から情報を取られないようなネットの暗号化をどうするかで専門家による話し合いも続いていると聞く。

 2014年の私たちはスマホを活用し、トラッキングに慣れ、グーグルめがねを奇妙とは思わなくなった。私自身はウェラブル機器がさらに発展したとき、究極には「おろかな人間は必要がない」方向にまで進むのかなと思い、複雑な思いがするーそれでも「構わない」方向に最後には進むのかな、と。

 昨日までは奇妙だと思っていたことが、今日は普通になる。そんな世界に私たちは生きている。

***

 モロゾフ氏のツイッターは皮肉ときついジョークで一杯だ。」

http://ukmedia.exblog.jp/21456186/

エフゲニー・モロゾフ氏によるネットの未来とプライバシー(4)/小林恭子ブログより

2014-01-27 14:18:07 | 社会
「エフゲニー・モロゾフ氏によるネットの未来とプライバシー(4)

 ジャーナリスト、リサーチャー、作家エフゲニー・モロゾフ氏の本「すべてを解決するには、ここをクリックしてください -テクノロジー、解決主義、存在しない問題を解決しようとする欲望」から、その一部を紹介する。今回はビッグデータの取り扱いやセルフトラッキングについて疑問を呈する。(次回は最終回。)

***

第6章 犯罪をより少なく、もっと処罰を

 警察はビッグデータから利を得ている。犯罪をリアルタイムで見つけ、事前に行動を起こすことが可能になっている。

 問題はアルゴリズムが客観的とみなされていることや、透明性に欠く点だ。

 アマゾンのアルゴリズムはまったく不透明で、外部からの詮索がない。アマゾンは競争力を維持するために機密が必要だという。しかし、警察活動はどうだろうか。

 警察活動のソフトウェアは民間企業が作っている場合が多く、どんな偏見が入っているかを検証できない。

 アルゴリズムに偏見は入らないのだろうか?犯罪は貧しく、移民が多いところで起きる。アルゴリズムに人種によるプロファイリングは入っていないのか?路上尋問で、アルゴリズムがそう言ったからとして、尋問の理由付けに使われないだろうか?法廷での位置付けはどうなるのだろう?

 予防アルゴリズムは、将来の犯罪を予測しているのではなく、現在の状況を基にして将来に発生するかもしれない可能性のモデルを示す。

 アルゴリズムが私たちの生活にどんどん入っているので、資格を持った、かつ公的な第3者によって定期的に検証されることが必要なのではないか?

 警察は個人のプライバシー情報にアクセスするとき、逮捕状が必要になるが、Facebookなどは顧客情報を見るだけでよい。警察からすれば、Facebookが汚い仕事をやってくれるので助かる。

 ソーシャルメディアは、どの程度まで実際に警察と情報を共有しているのかを公開するべきだ。

 今は Facebookやイェルプを使えば、ほしいものを入手できる。合理的選択論が基にあるので、Facebookのアプリが歓迎される。評価=レピュテーションを作れば、差別がおきにくくなるという人もいる。しかし、完全のマッチングには恐ろしさもある。似たもの同士ばかりの世界に入り込む。社会を前進させるための冒険を除外する。

 情報社会化がどんどん進んでいる、「私たちはこのテクノロジーの世界を変えられない」-こんな感情が広く存在している。しかし、これは「デジタルの敗北主義」ではないか。

 技術が自動的な力であるとする考えは昔からあった。1978年にはランドガン・ウイナーが「Autonomous Technology」を書き、 Kevin Kelly は「What Technology Wants」を書いた。ケリーはテクノロジー雑誌「ワイアード」の最初の編集長だった。ケリーの本はインターネット至上主義者に知的な理由付けを与えた。

 ケリーはテクノロジーを進化としてみる。テクノロジーが自然であり、自然がテクノロジーなのだ、と。こういわれたら誰も反論できない。「テクノロジーに耳を傾ければ、パズルが解ける」、とケリーはいった。テクノロジーには語るべきストーリーがあり、私たちができるのは耳を傾けること。そして、政治および経済上の予測をこれによって変えることだと。

 しかし、なぜそうする必要があるのだろう?Facebookもグーグルも規制できるのに、なぜ私たちのプライバシーについての概念を変えなければならないのだろう。どこまで私たちは考えを変えるべきなのか?その「声」とはシリコンバレーの広報部の声だったらどうするのか。

 私は、テクノロジー自体は何も欲していないと思う。インターネットも、だ。

 テクノロジーの発展を止められないという敗北主義が抵抗の力や改革・変革を求める道を隠してしまう。テクノロジーは進展するので、人間はこれに合わせるしかないという考え方はいかがなものか。

 19世紀、カメラが市場に出ると、人々はプライバシーの侵害だと思った。今はみんながカメラに慣れている。こういうことがネットでも起きるという説があるが、本当だろうか。

 昔、産業化で町が騒音でいっぱいになった。これに対し、反騒音運動が起き、1934年、これを反映する道路交通法ができた。インターネットでもできないだろうか。

 シリコンバレーの世界観から離れ、個々の新しいテクノロジーを検証してはどうか。たとえば顔の認証、バイオメトリックの技術の採用など。

 欧米の消費者は、このシステムが中国やイランでは異端者をとらえるソフトにもなることも考えるべきだろう。

 新たなテクノロジーを拒否するつもりではない。ただ、もっと問いかけをしてもいいのではないか。本当に有効なのか、逆に問題を複雑にしただけではないのか、と。

第7章 ガルトンのアイフォーン

 「データセクシュアルな人々」という考え方がある。個人データに熱中する人々だ。今はスマホをみんながもっているので、自分の行動を細かくトラッキングできる。歯磨きや睡眠時間を記録する人もいる。自分の生活をデジタルに記録する。こういう人は昔からいた。

 オンラインの評判を守るにはお金を払うサービスを提供するのがReputation.comだ。金融危機後、評判を守るために銀行家たちは高額を費やした。

 しかし、お金を払えない人はどうするのか。二極化になるのだろうか。お金のある人は評判をクリーンアップでき、そうではない人は守れない。オンライン上の評判を気にさせる、心配にさせることをビジネスとするコンサルタントたちがいる。実はそんなことよりも、もっと緊急に心配するべき問題があるかもしれないのに。

 個人のデータ売買を商売する起業家たちが出てきている。Digital locker, Personal.comなど。後者では個人がデータをキュレートし、自分が選ぶマーケターに情報を出したり、関連する広告を出す。ディスカウントを得たり、好きなブランド情報を出し、そのブランドが売れたら、品物の価格の5-15%を得る。これを「すべての人が勝つ」などといっていいのかどうか。

 デジタルロッカーにはエンパワーメントの意味があるのだろうが、すべてを語っていない。それは、消費者に力を与える唯一の方法が自己の情報をもっと出すことだと考えさせている点だ。

 私が自分の情報を出すことで、状況が変わってくる。私が健康情報を出し、あなたが出さないとしたら、あなたには何か隠すものがあると思われる。誰かが情報を出すと、その社会のほかの人も情報を出さざるを得なくなる。

 例えば、米国では携帯電話の情報を出さない人を潜在的テロリストとみなす。Facebookにアカウントがあるなしで不審と思われるところまできている。

 セルフトラッキングの普及はプライバシーの露出につながる。情報は私たちの「個人的な目論見書」になる。これを通じて、すべて(市民、社会、公的組織)とつながる。健康でお金もあるなら、楽しいかもしれないが、そうでない場合、人生は困難になる。

 セルフトラッキングの倫理について議論が必要だ。数で測ればこぼれ落ちる才能・職がある。芸術、学問、作家など。数は少なくても、リスクがあってもやることが少なくなるとしたら残念だ。

 ヤフーCEOのメリッサ・マイヤーズは、「文脈上の発見」を目指すといった。利用者が聞く前にサーチエンジンが答えを与える。

 グーグルのシュミット会長は、ベルリンの通りを歩いているうちに検索が進み、情報を与えてくれる。これが次の検索だと。自分が知らないことでも、面白そうな興味がありそうなことが広がっている。つまり、自主的な(autonomous)検索だ。勝手に調べて教えてくれる。例えば、グーグルのメガネをかけていて、気分が沈んでいたら、ルーベンスの絵を見せてくれる。気持ちが明るくなる、と。

 自主的な検索には、自主的な広告が出てくるに違いない。探さなくてもよい。見つけてくれるからだ。「このレストランがお勧めだ」と。

 しかし、これは究極の消費者主義ではないだろうか。(続く)」

http://ukmedia.exblog.jp/21449454/

エフゲニー・モロゾフ氏によるネットの未来とプライバシー(3)/小林恭子ブログより

2014-01-27 14:16:47 | 社会
「エフゲニー・モロゾフ氏によるネットの未来とプライバシー(3)

 東欧ベラルーシ出身のジャーナリスト、リサーチャー、作家エフゲニー・モロゾフ氏の反シリコンバレーの本「すべてを解決するには、ここをクリックしてください -テクノロジー、解決主義、存在しない問題を解決しようとする欲望」から、その一部を紹介する。今回はアルゴリズムの門番としての危険性についてだ。

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第5章 アルゴリズムの門番(=ゲイトキーパー)の危険性

 グーグルの検索では、アルゴリズムが不適切と判断したものは、検索結果にあがってこないことがある。

 問題は、グーグルが自分たちは検索エンジンとして中立である、客観的であると主張する点だ。

 実はそうではないことを示す一つの例が、オートコンプリート機能だ。利用者が文字の入力を開始すると、グーグルが何を検索しようとしているかを察知し、文章を自動的に入れてくれる。

 その結果は必ずしも中立でも客観的でもない。誰かが意図的に児童性愛主義者という言葉の後に、ある人の名前を大量に入力し、すぐに出るようにすることもできるはずだ。

 日本、イタリア、フランスでは同様の事例にあった犠牲者が声をあげ、修正してもらった例もあるが、グーグルのアルゴリズムが管理しているため、修正する道はないといわれている。

 グーグルはアルゴリズムは中立で、オートコンプリートはほかの人の検索結果を基にしていると説明するが、なぜもっと人間的な方針を導入できないのだろう。

 実際に違法なファイル共有サイトについては厳しく、パイレートベイについてはオートコンプリートがきかないのだ。個人や企業が消したいと思うネガティブな情報については、グーグルは同様な処理をしてもよいのではないか。

 しかし、グーグル側がアルゴリズムは正当で、客観的で現実を反映しているだけだと主張する限り、実現できない。

 グーグルはよく、検索の結果は現実を反映しているだけだという。自分たちは鏡であると。しかし、果たしてそうか。グーグルはものごとを形作り、創造し、捻じ曲げているのではないか。鏡よりもエンジンと言えないだろうか。

 グーグルは自分たちは鏡だからといって隠れていないで、自分たちが公的領域を作るうえで大きな役割を果たしていることを認めるべきだ。

 グーグルはよく、アルゴリズムによる計算が客観的であるばかりか正しいということを示すために「民主化」という言葉を使う。「ウェブの世界の民主化」だと。利用者は、好みのウェブサイトをリンクで示すことで投票している、これがグーグルのページランクのアルゴリズムで数えられ、どれが最初に来るべきかを決めているのだ、と。

 しかし、これは民主主義の変なとらえ方だ。リンクで投票したとしても、一人一票ではない。お金のある人が検索結果の中で上位に来るようにすることもできるし、オプティマイズ化(最適化)もできる。ページランクにはサイトのアップロードまでの時間を含め、200の要素が考慮されている。

 そして、「一票を入れた」ら、利用者についての別の個人情報も知らぬ間に取られている状態だ。

 グーグルは自分たちが科学者というだけで行動を正当化し、議論を停止させている。シュミット会長はこういった。「私たちは科学的だ。もしうまくいけばすばらしい。そうでなかったら、別のことを試すまでだ」。こういわれたら、誰も反論できない。

 しかし、科学にも道徳上の規範がある。人間がかかわる実験を試みたことがある人は誰でも知っている。だからこそ、さまざまなパネルや諮問会議が人間にかかわる実験を行う前に議論・認可する仕組みがある。「まずやってみる、その後で実験の社会的および政治的結果を考える」ものではないだろう。

 といって、ストリートビューやGoogle Buzz(グーグル・バズ。Twitterに類似したソーシャルサービス。利用を促すためにGmailと連動させたことで、開始当初から個人情報の流出を巡る議論に巻き込まれた)の開発を認可する諮問機関はないだろう。グーグルバズの失敗時、創業者の一人はこういった「プライバシーについてはまったく考えなかった」。

 インターネットから派生しているというだけで神のようなもので、バイアスとは無縁だと考える必要はない。

 技術者やコードを書く人は、公的議論についての姿勢を明確にするべきではないか。

 デジタルフィルターやアルゴリズムにもっと注意を向け、何を隠し何を出しているのかをつかめば、インターネット至上主義の神話が崩れる。

 その神話とは、ネット上ではアイデアが急拡大し、こうした情報は報道する価値があるというものだ。また、インターネット至上主義者はオフラインとオンラインがまったく別物とするが、そうではない。ネットは実際はリアルとつながっている。

 しかし、オンラインという衣をまとわせることで、ミーム(ここではインターネット・ミーム=インターネットを通じて広まる情報、画像、映像、単語、表現など)としてカバーする価値がある存在になる。

 重宝するのはPR企業だ。PR会社の隠された操作が、ユーチューブやFacebookなどミームを広めたいプラットフォームによって拡大されてゆく。

 公的生活がミーム化されることで、何がネット上でヒットになるかという観点から、報道の仕方や報道の内容が決まってゆくことは問題だろう。

 オーディエンスがどんな反応をするかで物事を決めるやり方はどんどん広がっている。

 クリストファー・スタイナーは著書「Automate This」の中で、音楽レーベルがアルゴリズムによって音楽家や音楽を決める日を予測する。

 前は人間が決めていた。今はもっと客観的方法としてアルゴリズムを使う。しかし、芸術分野で主観性が果たす役割を忘れるべきではない。また、過去に何が売れたかで決めると、同じものばかり作るようになるだろう。

 ジャーナリズムはどうだろうか?

 広告収入が減っている出版社は、インターネットを使って読者の情報を詳細に得るようになった。ウェブサイトやソーシャルメディアから情報を取る。読者のコンピューターのクッキーに蓄積された情報、あるいは「指紋装置」(ネット上の足跡)を使う。クッキーを消したり、使わない読者の情報も得ている。

 こうして、「デイリー・ミー」(「日刊私」)が生成される。個々の人に合わせてカスタマイズされたニュースが利用者に送られる。サッカーの記事を読めば、関連記事や広告が出る。

 ニュースの選別のみならず、読解力にあわせて文章や語彙が変わることもありそうだ。米女優アンジェリカ・ジョリーの話で、国際問題についての側面を出す記事を送ったり、ゴシップ好きには夫ブラッド・ピットの話と関連付けるなど。

 将来、個人にあったストーリーを作る、新世代のコンテンツファームが出てくるかもしれない。

 公的生活(パブリックライフ)が、個人それぞれの空間に割れて行く。

 全体が同じストーリーにアクセスしなくなると、連帯感や十分な情報が入った議論の機会を破壊するかもしれない。

 効率性という面からのみでは判断できない。かつてはオーディエンスについての情報が少なく、いわば非効率だった。しかしどの記事がどれぐらい読まれているかわからないこそ、さまざまな記事に投資できたのではないか。

 かつては広告の効果が計測できなかったので価格はインフレされていた。今はターゲット化されている。広告費が下がり、メインストリームのメディアがインフラの維持をまかなえないほど小さくなった。

 インターネットを使うことで、情報の門番(ゲイトキーパー)や中間業者がなくなるという説には疑問がある。

 逆にたくさんの仲介業者が生まれているのではないか。見えないだけなのだ。

 2012年、商業プラットフォーム(タンブラーやワードプレス)を使うと、コメントが第3者のDisqusなどを通る。ディスカスはImpermium(インパーミアム)と協力し、コメントがスパムかどうかをチェックしている。したがって、中間業者の消失ではなく、むしろ増えているのだ。

 インパーミウムはさらに先に進み、スパムのみならず、損害を与えるコンテンツを識別するテクノジーを開発した。たとえば暴力的、人種差別的、憎悪スピーチなどのコンテンツが読者に届けられることを防ぐ。

 カリフォルニアの一企業が30万ものウェブサイトのために、何が憎悪スピーチで、何がみだらな言葉かを決定している。そのアルゴリズムが偏向していないか、過度に保守的かではないかの検証はされていない。インパーミウムのアルゴリズムのブラックボックスの中を見るべきだ。

 中間業者の消失による利点は本の未来に関する書物によく出てくる。図書館も書店もいらない、編集者もいらない。読者のニーズに合致した記事や書籍を出せるのだから、と。極端に言えば、アルゴリズムで書けるのだから、著者もいらない、と。門番をバッシングするこの考え方は、プロテスタントの宗教改革にも似ている。教会は不必要なもので、神と信者の間の直接的なコミュニケーションを邪魔する門番だと。

 そう考える一人がアマゾンのベゾス氏だ。門番はイノベーションを遅らせ、利用者を満足させるプラットフォームの邪魔になると。目標はたくさんの本を出し、たくさんの読者を持つこと。内容が何かは関係ない。ベゾス氏の考えは解決主義者と似ている。いわゆるイノベーショントークだ。「すべてのイノベーションが善」。結果は考えない。

 アマゾンがめざす、門番がいない世界では、企業が力を持つ門番になることを意味しないだろうか?アマゾンはしぶしぶ門番になったのかもしれないが、門番であることに変わりはない。将来、アマゾンは作家の代わりにロボットを使うようになるかもしれない。作家もアイデアの門番といえるのだ。(ただし、アマゾンは買い手をロボットにはしない。誰かがお金を払う必要があるから。)

 アマゾンはキンドルのおかげで、読者の情報をたくさん入手している。キンドルの辞書で何を調べたか、どこに頻繁に下線を引いたか、読み終えるまでに何回開いたかなど。すべての読者の体験を増大させるために情報を収集している、とアマゾンはいう。

 アマゾンが個々の読者にあった本を自動的に作ることも不可能ではない。新聞や雑誌も同様の動きに向かっている。Narrative Scienceはアルゴリズムで作った記事(スポーツ、金融)を提供する。

 アマゾンはもっとうまくやれる。もし文学の目的がミームの幸福感を増大させること、つまり読者を満足させることなら、アマゾンは文学の救世主だ。

 しかし、もしアイデアすべてがよいとは限らず、文学の目的が挑戦し、滅ぼすことでもあるなら、アマゾンの門番がいない世界を祝福することもない。

 レビューサイト、イェルプ(Yelp)はプロのレストラン批評家よりも数が多く、かつもっと客観的といわれている。しかし、レビュー数が多い=これに相当するほどのたくさんの人が行ったとは限らない。ザガットは科学的に評価するという。しかし、食体験を集めたものだ。そこにいって食べたいとき、イェルプやツイッターでもよい。しかし、料理を芸術としてみるなら不十分ではないだろうか。(続く)」

http://ukmedia.exblog.jp/21442956/

エフゲニー・モロゾフ氏によるネットの未来とプライバシー(2)/小林恭子ブログより

2014-01-27 14:14:49 | 社会
「エフゲニー・モロゾフ氏によるネットの未来とプライバシー(2)

 東欧ベラルーシ出身のジャーナリスト、リサーチャー、作家エフゲニー・モロゾフ氏の新たな反シリコンバレーの本「すべてを解決するには、ここをクリックしてください -テクノロジー、解決主義、存在しない問題を解決しようとする欲望」(To Save Everything, Click Here (Technology, Solutionism and the urge to fix problems that don’t exist))から、その一部を紹介したい。


第1章:解決主義とその議論

 BinCam(ビンカム)というアプリがある。ゴミ箱のふたにスマートフォンをつけて、中身を撮影し、写真をFacebookのアカウントに送る。リサイクル度に応じて、スコアを得る。これも友人たちと共有する。センサーの技術と友人たちが見ているというプレッシャーで、リサイクルが進むという仕組みだ。

 解決主義(ソリューショニズム)の問題点は、解決方法よりも何かを「問題」とする定義の仕方だ。たとえば、ハンマーを手に持つ人にとっては、すべてが釘に見えるのと同じだ。非効率、あいまいさ、不透明さ、これはすべて問題なのだろうか?

 スマートテクノロジーのおかげで、料理についての知識はいらなくなった。台所のセンサーが何をすべきかを教えてくれる。

 ある科学者たちは台所を「拡大現実」(argumented reality)に変える。天井にカメラなどをつけて、どの食材を使うかまでコントロールする。魚を切ろうとするとバーチャルなナイフがどこを切るべきかを教えてくれる。

 このロボットあるいは「拡大された現実」がほかの場所にも入ってくるのではないか?

 テクノロジーを拒絶せよというのではない。もっとほかに人間が栄える方法があるのではないか。

 解決主義は昔からあったが、今は新しい形がシリコンバレーからやってくる。

 インターネットには神話ができたと思う(注:神話としてのインターネットという意味を込めて、モロゾフ氏は本の中で “the Internet” と表記している)。現代の解決主義者のさまざまなイニシアティブを生み出すのがインターネットであること、また私たちが解決主義の欠点を見ないようにしているのもインターネットだ。インターネットの到来で、解決主義的態度が正当化されるようになった。

 インターネット至上主義とは、インターネットがあるために、私たちは特別に固有な世界に生きており、すべてが深い変化の中にあり、「物事を直す」ことへのニーズが高まっていると考えることを指す。いわば、「科学」と「科学主義」(科学万能主義)のようなものだ。

第2章:インターネットのナンセンスとこれをどうやって止めるのか

 インターネット、といえば、真剣な議論が止まってしまう状況がある。

 今はどんな記事にもインターネットのアングルをつけて語られる。よく「インターネットはそんな風には働かない」などというが、本当だろうか?

 グーグルもあのような活動になるのは仕方ないのだろうか?グーグル、Facebook、Twitterそれぞれの企業がそれぞれやりたいようにやっているだけではないのか?

 どれほどTEDなどでトークをしても、たとえばグーグルのような大手検索エンジンに定期的に監査をかけるべきではないか、という議論は出てこない。そういう話になると、ネットのオープンさに対する戦争だという人もいるが、そう主張することで、インターネットの神話を作っている。

 インターネットがなくなることも想定されていない。インターネットが存在する前のことを私たちは思い出さないようになっている。物理的に消えたブリタニカ百科事典のような例もあるのだが。

 ネットにつながらない生活を1週間やってみる人もいる。しかし、オフラインはオンラインによって規定されている。

 インターネットの終わりを想定できないのは、これを究極のテクノロジーとして考えているからだろう。インターネットの終わりは歴史の終わりだ、というわけである。まるで宗教のようだ。

 グーグルのシュミット氏は政策立案者たちがインターネットの流れに沿って働くべきだ、といった。黙って眺めていれば、インターネットがすべてを解決してくれる、とでもいうようだ。

 インターネットは単にケーブルとネットワークルーターがつながったものに過ぎないのに、これを知識や政策の源だとみなすことで、わくわくするようなテクノロジーに変わってゆく。

 科学者スティーブ・ジョーンズは、インターネットはフランス革命、あるいはベルリンの壁の崩壊ほどに画期的な出来事だという。

 そして、クラウドファンディングの仕組み「キックスターター」はインターネットを使う、だからよいものだ、と考えられている。しかし、実はいつもよい結果を生み出すとは限らない。間違った政治メッセージをあっという間に広げる可能性もある。果たして、公正で正義があるもの、と言い切れるのだろうか。

 別のインターネット至上主義者ジェフ・ジャービスは、「インターネットはオープン、パブリック、共同作業的のように見える。グーグルもそのように見え、繁栄している。したがって、インターネットの価値とはオープンで、パブリック、共同作業的だ」と書いた。

 しかし、グーグルは市場で競争をしている企業だ。オープン、パブリックなどの精神で機能しているわけではない。いまや多くのプラットフォームを閉鎖し、お金をとるようにもなっている。

 オープンに使えるというウィキペディアも誰がどうやって動かしているのか、わからない。こうした点を分析することが必要ではないか。単に情報を引き出しているだけでいいのだろうか。

 ハーバード大のジョナサン・ジトランはインターネットが普及したのはオープンなプラットフォームだったからといった。少しでもそのオープン性について門番的な動きをするものには懐疑の目を向けられてしまう状況がある。

 ソーシャルメディアの発達は産業革命に匹敵するほど画期的な出来事だという人もいる。「画期的」といわれると、分析や議論がとまってしまう。どうしても変えられないものだと思うからだ。「デジタル革命」という言葉が独り歩きする。

 インターネットは特別な出来事と解釈されているため、歴史と無関係と思われている。

 まるで宗教のようになったインターネット至上主義には、「世俗分離」が必要だ。

第3章:オープンすぎて、痛い

 インターネット至上主義者によれば、透明性はより活発で、責任ある市民生活につながるという。はたしてそう言いきってよいのか。

 一旦インターネット上に出たものは消えないのだから、何でもオープンにするよりも、一定の歯止めをかける方法を考えてもいいのではないか?(続く)」

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