ロシアの監督アレクサンドル・ソクーロフ監督が、第2次世界大戦末期から終戦直後にかけての昭和天皇ヒロヒト(イッセー尾形)の苦悩を描く。
日本での公開は難しいだろうといわれていたこの映画が日本で公開され、大評判になったのが8月のこと。
銀座シネパドスの単館上映で朝早くから並ばないと観ることができない状態だったので
あきらめていたのだが、最近近くのシネコンでも上映するところが出てきたので早速行ってみた。
映画は「神でないのに神のように振舞わなければいけない立場に生まれたものの悲喜劇」を描いていたように思える。
虚構なのか、それとも史実に忠実なのか。
歴史的なものを求めて映画館に足を運んだ人は?と思うだろうし、
ましてや娯楽を求めて映画館に足を運んだ人は眠るしかなかったことだろう。
誰も天皇ヒロヒトの心のうちなど分かるはずもないのだから、推測にしか過ぎないのかもしれないけれども、イッセー尾形の演技がすごい説得力を持つ。
昭和から平成に変わってもうすぐ20年。
若い人たちにはなじみのない昭和天皇の姿だけれども、イッセー尾形はまるで昭和天皇そのものだった。
「あっそう」の口癖も、いつも口をちょっとパクパク動かしている仕草も。
日本人の監督では絶対撮れなかった映画だと思うけど、「天皇」の役は日本人でなければできなかったはずだ。
「天皇ヒロヒト」を演じるというひとつのタブーを軽々と破ってしまったイッセー尾形の演技を観るだけでもすごく満足できた。
それにしても撮るのが大変な映画だけど、感想も書きにくい映画だ。
映画が終わって、隣にいた夫に言った言葉が
「天皇はマッカーサーに自分の命と引き換えに国民を救ってくれるように頼んだんじゃないの?」だった。
映画の中では私の中の想像ではヤマとなるはずの場面がなかったのだ。
映画の中でマッカーサーと会ってる時の天皇は命乞いはしないけれども、巧みに話が核心にふれるのをかわしているように見えたのだ。
「現人神」と崇められながらも、実際には大事なことの決定権を持てなかった天皇の苛立ち、後悔、
そして「人間」としての弱さ、のようなものを感じた場面だった。
「あっそう」というどこか他人事のような口癖も、現人神という立場が作った処世術のようなものだったのかもしれない。
10年前に夫のショーンを亡くしたアナ(ニコール・キッドマン)は、何年もプロポーズし続けてくれたジョセフ(ダニー・ヒューストン)と再婚することを決める。
そんなアナの前に亡くなった夫の生まれ変わりだと名乗る10歳の少年(キャメロン・ブライト)が現れる。名前も夫と同じ。
二人だけしか知りえない秘密も知っている。
たちの悪いいたずらだと思っていたアナだったが、心は激しく動揺する。
リインカネーション、輪廻転生。
キリスト教にそんな考え方があるのかどうか分からないけど、
愛する人を突然に失ったとき、誰もが願うことなのかもしれない。
その願いがふいに現実になったときの心の揺れを、ニコール・キッドマンが静かだが表情豊かに演じる。
30代後半の大人の女性と10歳の少年の間に生まれる微妙な愛。
ありえないような設定なのにキャメロン・ブライトの独特の雰囲気になぜか納得させられてしまう。
この少年、不思議なのだ。
オカルト映画に出そうなタイプなのだ。
ニコリともせずに、一途にアナを見つめる視線の強さだとか
とても子供とは思えないような落ち着いた態度が、ただの子供であるはずがないと思わせる。
アナとのキスシーンがあったり、入浴シーンがあったことでカトリック教会からクレームがついたらしいのだけど、それはまあ。。。かろうじて許容範囲。
でも、この会話はどうだろ。
「夫は妻の面倒をちゃんと見て養うのよ。あなたにできるの?」
「働くよ。」
「私の求めにも応じられるの?」
「。。。どういうことなのか意味は分かるよ。」
「。。。女の子と経験あるの?」
10歳の子供とこんな会話できるモンなのか。
していいものなのか。
この子は子供のはずがない。絶対生まれ変わりだ。と確信した時
あっけないほど現実的な結末を迎えてしまう。
少年は「生まれ変わりだったのか」
映画の結末に素直に納得する人と、どうも納得できない人に分かれると思う。
私はあの少年は「生まれ変わり」だったと思う。
自分が生まれ変わりだと主張し続ければ、愛するアナを過去に裏切ったことが明るみに出てしまう。
アナが持ち続けている美しい思い出を傷つけることを恐れて身を引いたような気がして仕方がないのだ。
絵本の「100万回生きた猫」を思い出してしまった。
どんなに愛されても自分以外の人を愛することのなかった猫は、何度も生まれ変わる。
何度生まれ変わっても誰も愛せない。
100万回目に生まれ変わった猫はやっと心から愛する人とめぐり合い、それからは生き返ることがなかったというお話。
心に悔いを残して死んでしまった場合に輪廻転生があるとしたら、
このショーン少年もまた生まれ変わらなければいけないのだろうか。
一応結末で答えを出してはいるけれど、なんとなく観る人を納得させない。
裏があるのでは?と考えてしまう。
アナが少年を信じまいとしてもいつの間にか信じてしまったように、私の中にある神秘的なことを信じたい気持ちが「結末の裏」を考えさせるのかもしれない。
ほんとうに杏仁豆腐の味がするし、かき氷は食感も似せてある。
1個20円ぐらい?
1個20円のものにこんなに情熱をそそげるなんて、こだわれるなんて~
すごい!!
すごく感動したので、思わずケータイからの投稿でした。
昭和40年、炭鉱の町福島県いわき市。
時代の変化とともに日本中の炭鉱が閉山に追い込まれ、いわきの常磐炭鉱も例外ではありませんでした。
炭鉱の縮小に伴う大量の解雇は住民に大打撃を与えます。
そんななか、会社は雇用の場を確保するため坑道に噴出する温泉を利用して炭鉱の町に「ハワイ」を作ろうとします。
「ハワイ」の目玉は炭鉱の娘達が踊るフラダンス。
東京からフラダンスの先生(松雪泰子)を招いて猛特訓が始まります。
ウォーターボーイズのような、
スィングガールズのような、
そして最近のキンキーブーツのような、普通の若者達が一発逆転!きらきら輝いていく物語です。
男も女もこの町に生まれたものは何の疑いもなく炭鉱で働いてきました。
仕事には危険がつきもの。歯を食いしばって耐えるもの。
そんな考え方が染み付いてる親世代にとって、ハワイやらフラダンスやらは仕事とは思えないわけです。
それでも炭鉱の仕事が無くなれば生活出来なくなります。
若い娘っこたちのほうがずっと現実的でした。
生活のため、親のため、町のため、
そして最後には自分の人生を輝かせるためにフラダンスに打ち込んでいきます。
常磐ハワイアンセンター、今のスパリゾート・ハワイアンズが出来るまでの実話だそうなので
ストーリー的には先が読めてしまうのですが、そんなことは全然関係ありませんでした。
いつの間にか泣いている自分がいました。
泣くというよりは自然に涙が伝い落ちてくるような感じでした。
先が読めるような話をここまで魅せてくれるのは、監督の演出も良かったのかもしれませんが、
とにかく登場人物がすごく魅力的でした。
松雪泰子の気の強い先生も。
トヨエツの素朴な兄ちゃんも。
富司純子の頑固な母親も。
岸部一徳の人の良い部長?も。納得の配役でした。
そしてなにより蒼井優、南海キャンディーズのしずちゃんをはじめとするフラガールズ。
素朴な田舎娘達がフラの衣装を身に着けたときのなんと可愛らしいこと。
圧巻のフラダンスシーンでした。
東北出身者としてはいつものことながら方言も気になってしまうのですが、
驚いたことに、岸部一徳が早口でまくし立てた時、私、分かりませんでした
字幕を出してくれ~と思いました
故郷を離れて長くなったとはいえ、自分はネイティブだと思ってましたのでちょいと動揺しました。
東北といっても場所によって言葉は違うのでしょうし、ある程度映画向けに誇張されてる部分もあるのでしょうね。
それはそれとして、
すごく「常磐ハワイアンセンター」に行ってみたくなった私です。
たくさんの人たちの夢と情熱でできたものだなんて知りませんでした。
自分以外の誰かのために、町のためにがんばる。という若者が普通だった頃の日本。
そして自分以外の何かのためにがんばる。ということが結果として自分を輝かせるということ。
あの頃より生活は豊かになったかもしれないけど、それと引き換えに失くしてしまったものもあるのだなぁということを考えてしまいました。
夕方遅くだったし、気もせいていたので偶然手に触れたTシャツに着替えた。
ごく普通の丸首のTシャツ。
グレーで胸に小さくコムサのロゴが入ったヤツ。
Tシャツって流行がなさそうだけど、やっぱりあるのかな?
ここ2~3年ほど、TシャツといえばUネックかVネック。
色は地味だけど首のところにちょっとギャザーが入ってたり、そんな感じのものばかり着ていた。
普通のTシャツは随分久しぶり。
鏡を見て驚いた。
似、似合わない~~~
普通のTシャツなのに、すんご~く老けて見えるのだわ。
Tシャツの迫力に負けてるというか。
自分の水分が足りてない感じというか。
なんと言ったらいいのか、
こういう普通のTシャツって体の弾力とかそんなものが着こなしに必要なんだわ。
いやいや、私は全然やせてないんだけどね。
もうTシャツを着るような体じゃないんだわ。それだけは確か。
直球勝負はもう無理。変化球で勝負しなきゃいけないんだなぁ~と痛感いたしました
変化球。。。いったい何をどう着ればいいのか。
悩んでしまう。
大忙しの朝。
時計代わりのテレビから懐かしい歌声が。
土曜日に31年ぶりに行われた「つま恋コンサート」のニュースでした。
31年前。
もうちゃんと中学生でした
吉田拓郎とはちょっと世代がずれてるのですが、友達にすごい「こうせつファン」がいて
彼女は当時富士山麓に住んでいた南こうせつを訪ねて行ったりもしてました。
偶然家にいた南こうせつと奥様の育代さん(?でしたか)と会えたそうで
何度も何度もその時の話を聞かされた記憶があります。
こうせつの歌は好きだけど、そこまでのめりこめる友達が不思議で別の人種のような気がしてました。
31年後、
ジョニー・デップ会いたさに六本木ヒルズで丸1日待ち続ける自分の姿を想像も出来なかった頃の話です。
普段は思い出すこともないような遠い昔の記憶を、懐かしい歌がするっと引き出してくれます。
学校の帰り道。
時効だよね。。。りんご泥棒したこともありました
なつかしい深夜放送。オールナイトニッポン。
娘に言うと「嘘!」って言われるけど、あの長渕剛が売り出した頃、こうせつの番組でコーナー持ってたんだよね。たしか「ギターを抱いた渡り鳥」。
何を考えて暮らしていたのか。
楽しくて、今思えば些細なことに真剣に悩んだ日々。
いつまでも中学生でいられるはずもないことは知っていたけど
まさか自分が30代、40代になっても生きているなんて考えもしなかった頃。
気持ちはあの頃とそんなに変わってないつもりでも(それも問題だけど)
外見は、31年ぶりのつま恋に集まった人たちと同じなのだよね。
お弁当を作りながら、ふといろんなことを思い出した今朝でした。
蛇イチゴ
明智家。どこにでもありそうな平凡な家庭。
小学校の教師をしている娘の倫子(つみきみほ)は同僚の鎌田(手塚とおる)との結婚を考えている。
母(大谷直子)は痴呆症の祖父(笑福亭松之助)の介護と家事を一人でこなすしっかり者。
父(平泉成)はまじめな会社員。
しかし突然の祖父の死で、平凡な家庭の秘密が浮かびあがる。
祖父の葬式に10年ぶりに現れた放蕩息子の周冶(宮迫博之)が事態を収めようとするのだが。。。
先週観た「ゆれる」の西川美和監督の監督第1作。
ホームドラマというにはシニカルで、コメディというには毒がある。
見た目は赤くて可愛い実をつける「蛇イチゴ」。
見かけとはあまりにも違う名前は「毒イチゴ」を思わせる。
でも実際には毒はないそうだ。
食べるとかなりまずいらしいけど。
明智家もそんな家庭だ。
勘当した放蕩息子がいることは、倫子の恋人の鎌田に隠している。
父は仕事人間の振りをしてるけど、リストラされて巨額の借金を抱えている。
母は痴呆の義父を優しく介護してるように見えるが、実は疎ましく思ってる。
そして消極的な殺人。まで犯してしまう。
放蕩息子の口八丁はいかにも胡散臭い人生を送ってきた人間に見える。
誰でも少しは持ってるだろう表と裏。2面性。
家庭という本来暖かいはずの場所で見せ付けられる人間のずるさや弱さ、見栄や欲にちょっと怖くなる。
役者の淡々とした演技があまりにもリアルな感じで、
自分が襖の隙間から覗き見でもしているような気になってしまう。
家庭の平和を守るために,隠さなければいけないものがあるとしたら家庭ってなんだろう。
そう思った時,さて,自分はどうなんだ。と考える。
胸の中にあること全部ぶちまけてる?
さすがにヤミ金に借金は抱えてないけど,言っていいこと悪いこと,そんな選択を無意識にしながら暮らしているんじゃないかい?
。。。。だってそのほうが絶対平和だもの。
その無意識の選択が不意に崩れたとき,家庭は崩壊してしまうのだろうか,
見えないものを信じることは出来るのだろうか、と映画は問いかける。
問いかけられた質問の重さに応えあぐねているうちに、映画は軽やかに幕をおろしてしまう。
監督がラストシーンに残した余韻は,観ている私にどこまでも答えを考えさせる。
すったもんだしながらも家庭は再生して,何もなかったように朝ごはんなんか食べてるんじゃないのかな。
家族って,家庭って,たぶんすごくしぶといものなのだと思うから。
おとといのこと。
自分の足元が崩れていく。という感覚を初めて知りました。
いつもの朝と変わりなく学校に行ったはずの息子が登校していない。という電話が夫からかかってきました。
その日は哲学のレポートの提出期限で、もし提出されなければ単位がもらえません。
朝、学校に父親と名乗る人物から「息子の欠席」を伝える電話がきたのだそうですが、
やはり不審なものを感じたのでしょう。
担任の先生が夫のケータイに確認の電話をくださったのでした。
その電話を受け取った時、頭が真っ白になり足元が揺らぎました。
それは夫も同じだったと思います。
何度も息子のケータイにメッセージとメールを送り、息子の居場所がつかめました。
自宅近くの大きなスーパーで時間をつぶしてたみたいです。
とりあえず事故や事件に巻き込まれてなかったことを安心すると、今度は怒りがこみ上げてきます。
「レポートができてないから父親の名を騙って電話までしてサボった。」
その時点では理由はこれしか考えられません。
しかし、レポートはできてました。
うなだれて帰ってきた息子を車に乗せて、とにかく学校に向かいます。
学校までの1時間。
何を聞いたのか。何を話したのか。
学校に着く直前、落ち着かない様子の息子が「バレて良かった。。。」とつぶやくのを聞いたとき
少し安心しました。
ありがたかったのは、担任の先生が頭ごなしに叱るのではなく息子の言い分をまず聞いてくれたことです。
先生だってレポートができてなかったんじゃないか。と思ったはずなのに、そのことについては一言も言いませんでした。
息子がいうには、最近学校に行く意味がわからなくなっていた。と。
そんな時、通学の電車を乗り越してしまって遅刻してまで学校に行く気力がなくなったのだと。
ゆっくり考えようと思ってサボったけど、考えたってそんなこと分かるはずもないわけです。
そんな漠然とした息子の話に先生はちゃんと応えてくれました。
今は無駄だと思うだろうけど、学校は社会に出るための訓練なのだ。ということ。
そして生きていくうえで、「信頼」がすごく大切だということ。
サボったことも悪いけど、父親の名前を騙って電話したということが一番悪い。ということ。
今思えば、高校生になって長距離の通学。
格段に難しくなった授業。ハードな部活。
やっと慣れたと思ったら鎖骨の骨折。
鎖骨と一緒に折れてしまったものがあったのかもしれません。
体の傷は心に留めても、息子の内面の変化には思い至らなかった。
子育てはそろそろひと段落。。。と思っていた私も反省させられた出来事でした。
おかげさまで、次の日から学校にはちゃんと行ってるみたいです。
子育てって難しい。。。
友達になりたいと思ってる「棒人間」です。
前にもチョロっと紹介したと思います。
出会った頃は歩いたり、走ったり、の単純な動きをしてたのですが、
最近は側転運動をしたり、動きが活発になってきました。
弾くほうの身にもなってみろよっと時々怒鳴りたくなるチョコです。
さてこの側転運動ですが、左手、右手、左手と交互に使いながら弾いていきます。
しかもペダル付き。
棒人間が華麗な側転をするためには、滑らかに音をつなげなければいけません。
タララタララタラララ~
よりは、タラララララララララ~と弾くべきなのでしょう。たぶん。。。
どうしたことか何度も続けて弾くと、すっごく気分が悪くなってきます。
軽い車酔いしたみたいになってしまいます。
思うに1オクターブずつ高くなっていくので、鍵盤を見つめる目線の横移動が激しいからだと思います。
鍵盤を見なきゃ弾けないし、見てたら酔うし、どうしたものでしょう。
当然、棒人間の華麗な側転は途中でよろけます。
棒人間の舌打ちが聞こえてくるようです。