ビター☆チョコ

店じまい後も変わらずご訪問ありがとう。
新居をかまえましたので
お近くにお越しの際はお寄りくださいませ。

その名にちなんで (DVD観賞)

2008-06-27 | 洋画【さ】行

アショケ(イルファン・カーン)は、若い頃、旅の途中で知り合った老人に、海外に出て見聞を広めるように強く勧められる。
老人の言葉は、その後に起こった事件と共にアショケの心に深く残り、アショケはNYで学ぶことになる。
数年が過ぎ、NYで暮らすアショケは故国のインドの慣習に従ってお見合いをし、
アシマ(タブー)と結婚することになる。

結婚してNYで暮らすことになるアショケとアシマ。
言葉も生活習慣も違う国で、少しづつお互いを理解していく二人。
そんな二人の間に男の子が生まれ
アショケは生まれた男の子に「ゴーゴリ」という名前をつけた。

インド人でありながら、ロシアの作家の名前をつけられたゴーゴリ(カル・ペン)は、
成長するにつれて自分の名前に嫌悪感を持つようになる。
アメリカに長く住みながらインドの慣習を守って
同郷の人との狭いコミュニティの中で暮らす両親と
アメリカで生まれ育ったゴーゴリと妹のソニアの間には、どうしても埋めきれないものが生まれる。
普通の親子ならジェネレーションギャップ。。というだけの問題なのかも知れないけど
異国で暮らすこの親子の間にはカルチャーギャップも存在するのだ。

インド人でありながら、インドという国に行っても馴染みきれない。
アメリカで生まれ育って気持ちはアメリカ人なのに、外見からは、やはり「インド人」と見られる中途半端さ。
ゴーゴリの苛立ちもわかるし
自由の国で自由に生きて欲しいと願うのに
離れていってしまう子供達を寂しく見守る両親の心の痛みもひしひしと感じられる。

ゴーゴリの名前の由来は、映画の冒頭で明かされているので
観ているこちらには、少し物足りないような気もするのだけど
映画の核となってるのは、名前の由来ではないのだよね。
異国で暮らすひとつの家族が、悩み、傷つきながらも
自分のほんとうの居場所を捜し求める物語だ。

異国で暮らすということ。
結婚して子供が生まれて
子供が育って
子供が巣立っていくということ。
どこに巣立っていくのか。
巣立ったあとは、どこに心の拠り所を求めるのか。
30年近くの長い年月を
淡々と描いているようで、とても深く心にささるものがある。

名前というのは。。
親の一番ピュアな願いが込められた贈り物なのだよね。。。

この映画の原作は
ピュリッツァー賞作家 ジュンパ・ラヒリの「The Namesake」という本だそうです。

インドの女性監督ミーラー・ナイールが撮っただけあって
インドの風景や、結婚式の様子などが、とても美しく映し出されている。
結婚式の赤と白とゴールドの色彩の豪華さ。
インドの街の喧騒や埃っぽさ。
タージマハルの神聖な美しさ。
まるで、旅をしているような気持ちになる。

映画がとても良かったので
長編だと聴く原作も読んでみたいと思っているのだけど
きっとこの映画で感じたインドの空気が、読書を楽しいものにしてくれるのではないかと期待している。








 


ジュノ

2008-06-20 | 洋画【さ】行

ホラーとパンクが大好きな16歳の高校生ジュノ(エレン・ペイジ)
好奇心から。。の出来事で予期せぬ妊娠をしてしまう。
手早く、産婦人科の予約を済ませたものの、産婦人科の前で出会ったクラスメイトの
「お腹の赤ちゃんには、もう爪だって生えてるのよ」のひと言で、産むことを決意する。
別に、母性愛に目覚めたわけでもないらしい。
ただ。。ジュノはお腹の赤ちゃんを消してしまうことがイヤだったのだ。
産むことを決意したジュノは
産まれたらすぐに赤ん坊を里親に引き渡そうと、タウン誌で「里子募集中」の広告を読みふけるのだった。
赤ん坊を安心して引き渡せそうな里親を見つけたジュノは、ここでやっと自分の妊娠を両親に告げるのだった。

。。日本じゃ、ありえない話だよねぇ。
まず、妊娠したら学校はアウトだろうし、タウン誌に里子募集の広告をだしてる夫婦なんかいない。
そもそも「里子」という発想が、日本人にはなじみのないものだし、
家族の形が多様化しているアメリカならでは、の物語なのかもしれない。

もし、自分の高校生の娘が、ある日突然妊娠を告白したと想像してみる。
母親であるワタシが最初に言う言葉って、きっとかなり後ろ向きなものだと思う。
娘と、そのボーイフレンドの軽率な行動をなじると思う。責めると思う。
言ったところでどうしようもない言葉を何度も繰り返して、やっと現実的なことに目を向けていくんだろうな。

ところが。。ジュノの両親のさばけっぷりときたら
さすがジュノの両親!!
この親にして、この子あり!!って感じなのだ。
すでに里親候補まで見つけて。。。まぁ、外堀を埋めた状態での告白だったし
娘がそこまで考えて赤ん坊を産もうとしてるんなら、親として出来るのは娘の気持ちを大事にして
立派に赤ん坊を産ませてやることだ。って決断が早いんですよね。

ジュノの家庭は、アメリカでは特に珍しくもないステップファミリーなんだけど
もし、日本でこういう形の家庭で、娘が妊娠なんかしたら
そりゃあ、ステップマザーの面子まるつぶれ。。みたいな悲壮感が漂って、
親戚、学校、ご近所を巻き込んだ修羅場が繰り広げられるんだろうなぁ。
ジュノのステップマザーは、取り乱すでもなく、妊娠した継子をなじるでもなく
今までと同じように、時々喧嘩しながら、
それでもジュノを守るべき時は毅然として守る、という姿勢が
とっても素敵だったなぁ。

里親も、裕福な暮らしをするマークとヴァネッサに決まり
ジュノのお腹は順調に大きくなっていく。

ジュノのお腹は順調に大きくなっても
ジュノの気持ちには波風が立ってくるのだった。
普通の女の子より、ちょっと生意気で大人びたジュノだけど
中身はやっぱり16歳の女の子。
特に愛してたってわけじゃないけど、赤ん坊の父親である同級生のブリーカーが
他の女の子とプロムに行くと知って、深く傷ついてしまう。
傷ついた心を癒してもらいたかった里親候補のマークからは、
ヴァネッサとの離婚を考えてることを明かされ、ヴァネッサよりも気の合うジュノと暮らしたいような素振りを見せられてしまう。
そんなマークを、責めるわけにもいかない。
ジュノにだって、少しは、そんなマークの気持ちを知ったうえでの甘えがあったのだ。
マークに会いに行く前には、無意識に口紅を濃く塗っていたジュノ。
里親としてだけじゃなく、男としてマークを意識していたのだ。
「自分の大人度」を遥かに越えた出来事にジュノは泣き崩れる。

ここからジュノがどんな選択をするのか
ワタシには読めなかった。

永遠の愛はあるのか。変わらぬ思いというものは存在するのか。
そして、自分の本当の気持ちはいったいどうなんだろう。
悩みながらジュノは出産の時を迎える。

ジュノがどんな選択をしたのかは
映画館で、あるいは、少し先になるけどDVDで確かめていただくとして
ひと言だけ言っておくと
思いがけなく、泣いちゃいました。ワタシ。(汗)

ジュノの選択については。。多少。。そんなに割り切れるもんなの?という思いは残るものの(爆)
登場した人たち全て、もちろん生まれた赤ちゃんも、幸せになってもらいたいなぁ~と
そう願いながら、映画館を後にしたのでした。

インテリアや音楽もおススメです。





潜水服は蝶の夢を見る

2008-02-16 | 洋画【さ】行


フランスのファッション誌「ELLE」の編集長 ジャン=ドミニク・ボビー(マチュー・アマルリック)は、
ある日脳溢血で倒れる。
昏睡から3週間ぶりに目覚めた彼には、体を動かす自由はなかった。
彼に残された自由は左目で瞬きすることだけ。
自分の置かれた状況を受け入れるしかないどうしようもない状況で、彼は言語療法士の力を借りて
瞬きだけで自分の意志を伝える方法を学ぶ。
そして「20万回の瞬き」で1冊の本を書き上げたのだ。

潜水服は蝶の夢を見る。
この不思議な題名は、ロックトイン・シンドローム(閉じ込め症候群)という難病にかかってしまったジャンの境遇を表している。
重い潜水服を着て、深い海を彷徨うジャン。
かすかに見える、かすかに聴こえるけど、自分の意志を伝えることは出来ない。
重い潜水服はジャンの体だ。
元気だった頃は、自分の意のままに軽やかに動いていた体。
ジャンは今ではその自分の体に閉じ込められてしまったのだ。
周りに人はいるのに意志を伝えられない孤独は、ひとりで海の底にいるような気分なのだ。

いわゆる難病もの、闘病ものを予想させられるのだが
不思議とこの映画に悲壮感はない。
もちろん働き盛りのある日、突然に体の自由がなくなったことはあまりにも不幸な出来事なのだが
やがてジャンは、本当の自由というのは「想像する精神」を持ち続けることなのだと気がつく。

ほんとうの自由ってなんだろう。
体は自由に動いても、現実はいつだってなにかに縛られてる。
時間だったり、お金だったり、あるいは大切な家族にすら縛られてると感じることだってある。
「縛られてる」と感じるときは
きっと、私達に余裕がなくなってるんだと思う。
どんな状況にあっても、少し想像を働かせるだけで心は解き放たれるものなのかもしれない。

ファーストショットはピンボケだ。
視線が定まらないように、映像も不安定に揺れたりする。
それは、昏睡から目覚めたジャンの左目からの視線を再現したものなのだと気がつく。
映画は終始ジャンの目線で映される。
だから、妙に女の人が色っぽい(笑)

別れた内縁の妻。
言語療法士の女性。
理学療法士の女性。
ジャンの瞬きを言葉に書きとめる女性。
身近にいる女性は、動けないジャンの世話を、ジャンに寄り添うようにしてする。
風に揺れるスカート。
そっとジャンの唇から流れるよだれを拭く柔らかい手。
重病なのに(笑)彼女達を見つめるジャンの目線はいちいち「男」なのだ。
どんな状況でも現役の男!!なのだ。
その男目線が、映画を活き活きとさせている。

見舞いに来た友達が話しかける言葉に
心の中でチャチャをいれたり
潜水服に閉じ込められたジャンの中で
ちゃんと心は自由に動いているのだ。

誰だって病気なんかしたくない。
健康な今だって、いつかは病気になるかもしれないことや老いて体が動かなくなることを恐れている。
そんな不安を打ち消すために
自分の幸運を誰かの不幸と並べて量ってみたりすることもあるかもしれない。
でも、そういうケチな根性でこの映画を観ることはしたくない。

本の出版からわずか10日後、ジャンは亡くなってしまうのだが
そのジャンの死すら、哀しいというよりも清々しいものに思えてしまったのだ。
体の不自由を補ってあまりあるバイタリティーと精神の自由に拍手を送りたい。




ちょっと余談なのだけど。。。
ジャンの役はジョニー・デップが切望した役だといわれている。
スケジュールの都合でかなわなかったことなのだが
ジョニー・デップはこの映画を絶賛しているようだ。
彼(マチュー・アマルリック)が演じたほうが良かった、とジョニーが語っている記事を読んだ。
マチュー・アマルリックの演技は素晴しかったし
その役を改めてジョニーに置き変えて想像することはできない。

でも、ファンのひとりとして
もし叶うなら
今度は44歳の普通の男を演じるジョニーが観たい。
ごく普通の仕事をして家庭があって
つまらないことで落ち込んだり、喜んだり
私達と同じように日常のゴタゴタがある普通の男。
あのギルバート兄ちゃんのような。。。ね。






 






 

 


ぜんぶ、フィデルのせい

2008-01-25 | 洋画【さ】行


70年代、パリで暮らす9歳のアンナ(ニナ・ケルヴェル)に起こった重大事件のお話。

アンナは名門女子校に通うお嬢さま。
スペインの貴族階級出身のパパ(フェルナンド・ステファノ・アルコシ)は弁護士で
ママ(ジュリー・ドパルデュー)は雑誌の記者をしている。
弟のフランソワ(バンジャン・フィエ)とは喧嘩もするけど、仲良しで
忙しい両親に代わって、大好きなキューバ人のお手伝いさんフィロメナが面倒を見てくれる。
庭付きの一戸建て。
バカンスはボルドーのおばあちゃんのお城のような家で過ごす。
アンナは、そんな暮らしが当たり前のことで
これからもずっと続くのだと思っていた。
しかし、突然、アンナの生活が変わってしまう。

初めて聞く「キョーサン主義」
アンナにはよくわからないけど
どうやらフィロメナが憎む「フィデル・カストロ」が、その元凶らしいのだ。

スペインの反政府運動を行っていた伯父さんが亡くなったことがきっかけだった。
夫を亡くした伯母さんが、アンナのパパを頼ってパリに逃げてきた。
アンナのパパは祖国を捨ててきたことに密かに負い目を感じていたから、それで一気に社会的良心に目覚めてしまった。
ママと共になぜかチリに渡り、見事に共産主義の洗礼を受けて帰ってきた。

当然のように弁護士を辞め、チリのアジェンデ政権のために働くことにする。
家は小さなアパートに引越し
反共産主義者のフィロメナは解雇され
家には、いつも怪しげな南米人の
髭面のおじさんたちが出入りするようになる。
キョーサン主義に目覚めたはずのママですら
生活の激変になんだか苛立っているみたいなのだ。

人の出入りが激しくて、なんだか家の中はいつもざわついているけど
アンナは孤独を感じるようになる。
そして、爆発する。
元の生活に戻りたい!!
キョーサン主義ってなんなんだ?
そして。。パパやママたちは、いったい何をしようとしてるんだ。

大人って子供にとって、独裁者みたいなものかもしれない。
自分達の都合で、子供の生活まで変えてしまう。
子供は不満ながらも、一人で生きていく力はないので親の生活にくっついてくる。
でも。。子供はちゃんと見てるんだな、恐ろいほどにシビアな目で。

初めは、自分達が決めて変えた生活なのに
どこか腰が据わってないパパやママたちに反抗していたアンナが
だんだん、「本気」になってきたパパとママを見て
子供なりに、今までの生活が必ずしも一番いいものだとは思えなくなってくる。

家に出入りする「キョーサン主義」のおじさんたちの話に耳を澄ませ
中絶の自由を訴える女性解放運動に夢中なママの支援者たちの訴えを立ち聞きし
少しづつ少しづつ、考え始める。
「反抗」が考えることを始めさせたのだ。
口を真一文字に結んで、眉間にしわを寄せて
9歳のアンナは一生懸命考える。

70年に9歳。
このアンナちゃんは、もしや私と同じ年じゃないか(苦笑)
私って9歳のとき、なにしてたっけ?
のんびりとした田舎で、ただただ遊びほうけてたかな。
もちろん「キョーサン主義」について考えたこともなかったし
大人になった今だって、「キョーサン主義」について真剣に考えることなんか、ない(苦笑)

「キョーサン主義」に生活を脅かされることはなかったけど
遊びほうけつつも、友達と絶交したり仲直りしたり。
そんなことだってそのトシの女の子には、けっこう重大な問題で
精一杯、小さな胸を痛めたり、頭をつかったりして生きていたんだ。

そうして私も親になり
さて、うちの娘が9歳の時はどうだったかな、と考えてみる。
その頃、うちは転勤が激しくて
娘は小学校だけで4校に通った。
まさしく私達親は、娘にとって「独裁者」であり「圧制者」だったわけだ。
学校を変わるたびに泣かれたり、ハラハラしながら見守ったり、居直って怒ってみたり(苦笑)
アンナのパパとママと同じような役をやっていたわけだ。

問題の大きさに差はあるけど
反抗したり考えたりするアンナを見ながら
自分や娘や、すべての女の子が通ってきた「あの年齢」が愛おしくなってきた。

小さいなりに悩みながら
果てしなく広がる好奇心を両親にぶつけて
アンナは「知ること」が自分を孤独から救ってくれることを学んでいく。

アンナは誰に強制されることもなく
ささやかな、でも9歳の女の子にとっては重大な決断をするのだけど
アンナにそっと自然に差し伸べられたひとりの女の子の手は
まるで、アンナの決意を祝福してくれてるように見えた。

70年代から時は流れて。。。
アンナがそっと開いた新しい世界は
いったいどういう世界に繋がったのか。
アンナと同じ年のオバサンは、知りたいなぁ~という好奇心を抱きながら
映画館を後にしたのだった。














サン・ジャックへの道

2007-12-30 | 洋画【さ】行

仲の悪い三兄妹がいる。

長男のピエール(アルチュス・ド・バンゲルン)は経済的には成功してるが、妻がアル中で自分も薬が手放せない虚弱体質。傲慢にも見える性格。

長女のクララ(ミュリエル・ロバン)は高校の国語教師をしている。差別と宗教を憎み、毒舌はかなりのものだけど、当たってることが多いので痛快に感じる。強面、腕力強し。失業中の夫と子供あり。

次男のクロード(ジャン=ピエール・ダルッサン)は、長いこと失業していてアルコール依存症。別れた妻と暮らす娘にも酒代を無心するほどだが、どことなく憎めない男。

こんな3人が、亡くなった母親の遺産を相続するために1500キロもの巡礼の旅に出ることになる。

フランスのルピュィを出発して、目指すのはキリスト教の聖地、スペインのサンティアゴ(サン・ジャック)

その距離は1500キロにも及び、その長い距離をなんの乗り物も使わずに、約3ヶ月間、ひたすら歩き続けるのだ。

長い巡礼の旅にはガイドがついて、巡礼の道々には、そんな旅人をほとんど無料で泊める安宿が点在しているらしい。
敬虔なキリスト教徒は、きっとその長い道のりを祈りと感謝を胸に旅をするのかもしれない。

しかし、このツアーに集まったのは、敬虔なキリスト教徒とは言えない者ばかり。
遺産目当ての3兄妹は無神論者で、ことあるごとにののしりあい、つかみ合いの喧嘩まで始める始末だし
キリスト教巡礼の旅なのに、なぜかアラブ系のイスラム教徒の若者2人まで混じっている。
総勢9人のツアーだが、誰も純粋に巡礼をしようという雰囲気ではないのだ。

旅が進むにつれて、それぞれの事情があきらかになってくる。

携帯電話すらほとんどつながらない田舎道。
旅を快適にするために背負ったきたはずの重い荷物が
この長い旅では、ほとんど必要のないものばかりだったことに気がついていく。

シャンプー、ドライヤー、日焼け止め、薬。
手当たり次第捨てた荷物から解放されて
やっと美しい風景に目をやる余裕が出てくる。
ばらばらに距離を取りながら歩いていた一行が
足並みをそろえて
話をしながら歩いていくようになる。

旅に必要なのは、最新の装備でも重い荷物でもなかったのだ。
しっかりと大地を踏みしめて歩くこと。
疲れたら疲れたと言って休んで
雨が降ったら雨宿りをして
時には誰かの肩を借りたり、貸してあげたり。
そんな単純なことだったのだ。

目的地に、いかに早く着くか、そのことに目が向きがちなこの時代に
まだ「巡礼」という旅が存在するのは
きっと、自分の足で「歩く」というシンプルな行動がとても大切なことだからかもしれない。

歩き初めのころは、いろんなことを考える。
なんで、こんなことしてるんだろう。
こんなはずじゃなかった。とか、後悔やなにかを責める気持ちが湧いてくる。
だんだん体が慣れて落ち着いてくると、自分のことや家族のことを考える。
歩いているうちに、どんどん心が浄化されていくみたいだ。

世間から隔絶されたような田舎の道を歩いている間に
世間ではいろんなことが起こっている。
家族のために家族と離れて一生懸命働いてるのに
皮肉なことに不在がちな父をないがしろにして、新しい生活を始めようとする家庭もある。
妻が入院したり
最愛の人との別れもある。
すべては旅の途中で起きことで、遠く離れた身では、なすすべもないのだが
なすすべもないことが起こるのだということを知って
人はそれを受け入れて、新たな道を探ろうとする。

長い人生の中では、ほんの短い3ヶ月だけど
偶然の出会いがその後の人生を変えることもある。
旅に出会いは付き物だけど
その出会いは必ずしも素敵なものばかりじゃない。

権力を笠に着て、我慢のならないことを言う輩には
啖呵のひとつも切っていいし
明るくて元気でとってもいい人たちなんだけど
どうしても一緒に旅をしようという気にならない人もいる。
出会って、
けんかしたり
怒ったり、許したり許されたり
泣いたり、愛想笑いしたり
そんなことを繰り返しながら旅は続いて
人は自分を知っていく。
自分を知ることで人にも寛容になっていくんだね。

たぶん、今年最後に観る映画(DVD)が
こんなにも力を与えてくれる映画で良かった。。と思う。
今年の初映画が「リトル・ミス・サンシャイン」
これもロードムービーで、明るい光が差してくるような映画だったのを思い出す。

旅という非日常の生活が
今までの自分の殻を破ってくれるという展開は
いつだって私達に憧れを抱かせるけど
長い目で見れば、この普通の暮らしも
生きていくうえでの旅の途中なんだよね。
そう思えば、日常がもっと大切なものに思えてくるから不思議だね。

長くて辛い旅は、目的があると苦痛じゃなくなる。
そして、がんばれるのは、この旅に必ず終わりがあることを知っているからなんだよね。
旅の途中で出会う人や景色を見逃さないように
ちゃんとしっかり歩いていかなきゃね。

どこまでも続く青い空と広大な大地。
軽快なテンポで繰り広げられる会話に、時々胸がつまったり、クスリ、と笑えたり
ハートウォーミング、とひと言で片付けられないような
素敵なロードムービーだった♪




 


幸せのレシピ

2007-10-15 | 洋画【さ】行

マンハッタンの人気レストランでシェフをしているケイト(キャサリン・ゼダ・ジョーンズ)は、あまりの完璧主義ぶりに、レストランのオーナーにセラピーを受けることを勧められる。
でも、いくらセラピーを受けたところで、自分のやり方は変えられないケイト。
そんな時、姉が急死する。
シングルマザーだった姉の、9歳になる娘、ゾーイ(アビゲイル・ブレスリン)を引き取ることになったのだが、ゾーイはケイトに心を開こうとしない。
戸惑うケイトに追い討ちをかけるように
ケイトの留守中にニック(アーロン・エッカート)が厨房に雇われ、その明るい性格がいちいちケイトの神経を逆なでするのだった。




10日ぐらい前に観た映画。
観たらすぐ書く、忘れないうちに(笑)というスタイルでやってきたのが、なんでこんなに遅れたのかというと
オリジナル版をもう1度観なおしてから書こうと思っていたからです。
そう、この映画はドイツ映画「マーサの幸せレシピ」のリメイクなんです。

1年ほど前にDVDで観たんですけど、。。。書いてなかったみたいですね(汗)
けっこう観たものでもボロボロ書きもれてるんですよね。
特にDVDで観たものは。

改めてオリジナル版を見直してみると
リメイク版は出だしなんか、ほんとに忠実にオリジナルを再現してるんですね。
でも、何かが違う。
その何かは、やっぱり「お国柄」とも言うべきものなのかなぁ。

リメイク版はとにかくパワフルで華やか。
同じ冬の街角でも、どこか湿度を感じさせるドイツの冷たい冬と違って
ニューヨークの街角には湿度が感じられないです。
なにもかも、パッキリクッキリしていて、寒ささえも華やかさの小道具のようです。
ケイトは、仕事に行き詰った時は、厨房の冷蔵庫にひとり閉じこもって頭を冷すのですが
その姿さえも、落ち込んでいる。。というより
頭を冷しつつ次の戦略を練っているような力強さを感じます。

一方、オリジナル版のほうは
マーサ(マルティナ・ケディック)、この女優さんは、この間観た「善き人のためのソナタ」に出ていた女優さんなんですけど、強さの中に憂いや繊細さが感じられます。
そのマーサの相手役としてイタリア人シェフのマリオ(セルジョ・カステリッド)が絡んできます。
真面目で堅実なドイツ人のマーサと
明るくて、人生を楽しむ術を知っているイタリア男。
この対比がとても興味深く描かれてます。

マリオがイタリア人だったので
マーサが引き取ったリナの父親(イタリア人)を探すのに一役買って、
そして、それをきっかけに二人の仲が深まっていく。。という大切な設定が、
どうしたことかリメイク版ではすっぱり落とされています。
その分、リメイク版ではケイトとニックの恋愛模様が深く描かれてるあたりが
とってもアメリカ的ではあるのですが。。

どちらにもそれぞれの持ち味があり
どちらが好きかは、もう好みの問題ですよね。
同じ素材でも違うスパイスを使えば全く違う料理になるわけです。

オリジナル版のマーサが最後にセラピストの作った料理を批評するシーンがあります。
マーサのレシピどおりに作ったはずなのに、何かが足りない料理の出来に
マーサは、いったいどんな作り方をしたのか、セラピストに質問します。
オーブンの設定温度、焼き時間など細かく。

そして最後に「ちゃんとベルギーの砂糖を買った?」と訊きます。
「どこの砂糖を使ったのか、味を見て分かるのか?」とセラピストは驚いて訊きます。
「どこの砂糖かはわからないけど、何を使っていないのかは、ちゃんとわかるわ」
マーサはゆったりと答えます。

。。。。私はどちらかというと、オリジナル版のほうが好きです。







 

 




シャイン

2007-07-29 | 洋画【さ】行

オーストラリアの実在のピアニスト、デヴィッド・ヘルフゴットの半生を綴った物語。
劇中のピアノは、ほとんどデヴィッド本人が演奏している。

幼い頃から天才少年と呼ばれてきたデヴィッド。
父は幼い頃の自分の夢を息子に託し、厳しいレッスンを課すのだった。
やがて成長したデヴィッドは、父の元から飛び立ちたいと願う。
しかし、父は息子を手放そうとはしない。
家出同然でロンドンに留学したデヴィッドは、今まで以上にピアノにのめり込むのだった。



ロンドンで貧しい暮らしをしながらデヴィッド(ノア・テイラー)は、ひたすらピアノを弾き続ける。
コンクールの決勝に残ったデヴィッドが選んだ曲は「ラフマニノフ協奏曲第3番」。
難関中の難関、と呼ばれる曲で
実は決別した父との思い出の曲だった。

猛練習の末、コンクールで見事に演奏しきった彼は、観客の喝采を受けながら倒れてしまう。
そして、不幸なことに彼はその後、精神に異常をきたしてしまうのだ。
留学先からオーストラリアに帰った彼を、それでも父は受け入れようとしない。

医者にピアノを弾くことを止められ
翼をもがれたような空白の長い時間があって
ある日突然、デヴィッド(ジェフリー・ラッシュ)のピアノへの想いが目を覚ます。

体は大人でも
まるで子供に戻ってしまったようなデヴィッドは
これまで「勝つ」ことだけを期待されて弾いてきたピアノとは違うピアノを弾きだしたようだ。

体中からあふれるように湧いてくるピアノへの想い。
強く、激しく弾く姿は、彼がピアノに愛されてる人間なのだと思い知らされる。

ひとつの道を究めようとするものの苦悩と
歪んだ形ではあっても、心から息子を愛した父と
父から逃れようとして、それでも父を愛する息子と
子供のようになってしまったデヴィッドを応援する人々と
いろいろな想いがデヴィッドのピアノを、より輝かせているようだ。


才能を持って生まれた人間というのは
たとえどんな境遇になっても輝くことが出来るのだと思う。
たとえばデヴィッドのようにピアノに愛された人間は、
一度見失っても、必ずピアノが見つけ出す。

平凡な私は
選ばれた特別な人が放つ輝きを
時々、遠くから見つめて
それだけでも、けっこう勇気をもらって生きていけるのだ。
そんな人生も、それはそれでいいものかもしれない。
ラフマニノフの3番を、きちんと聴いてみたくなった。


300

2007-06-14 | 洋画【さ】行

紀元前480年。
東方の大帝国ペルシアのクセルクセス王(ロドリゴ・サントロ)が、スパルタに宣戦布告する。
スパルタのレオ二ダス王(ジェラルド・バトラー)は、わずか300人の精鋭を率いて、100万のペルシア軍を迎え撃つ。

チョコさん、どうした。。と言われそうなチョイスです。
でも、少し私を知ってる人なら、「あ、なるほどね。」と思い当たる納得のチョイスだと思います。
はい、正直に言います。
ロドリゴ・サントロを観にいってきました。
でも、こういうコスチューム物って好きだし、自分としては違和感ないんですけどね。

でも、それって思い違いだったかも~。
誰もコスチュームは着てませんでした(汗)
コスチュームの代わりにまとっているのは
重い盾と剣と、パンツ一丁になぜか長いマント。
そして、下手なコスチュームなんか必要ないほどの
暑苦しいまでの筋肉、でした。

彩度が感じられないざらっとした映像と
そして映像の暗さが際立たせてる肉体の陰影が。。
なんと言うんでしょうか、ぜんぜん人間っぽくないんですよね。
演じてるのは生身の役者さんなんだけど、
全部作り物っぽい。
オールCGなんじゃないかと思ってしまうんですよね。
だから、戦闘シーンなんか
血しぶきはあがるし、首も飛ぶんだけど
現実感がない。

少年犯罪が起こるたびに、ゲームとの関係がささやかれるけど
確かに、こういう映像ばかり見ていたら
うまく現実とのリンクが出来ないんじゃないかと思ってしまったわけです。

しかし、まてよ。と考える。
息子は前日に観てきて
エライ感動したらしいんです。
この映像から感動を引き出すなんて、私には出来ない芸当です。
世代の差なのか
あるいは男女の差なのか
どちらなのかは分かりませんが、両者の間にある溝はかなり深いことは確かなようです。

私としては
あまりの現実感のなさに
スイッチがつい、「笑い」に入ってしまうのです。
300人で100万の敵に挑むという暴挙も
ありえないほどの強さも
「スパルタだから。。」のひと言で片付けてしまえます。
そして悲しい事に、その「笑い」のツボに入ってしまったのが
ロドリゴ・サントロ演ずるクセルクセス王、なのでした。

「シザーハンズ」でジョニーがエドワードを演じたように、
「パイレーツ~」でビル・ナイがデイビー・ジョーンズを演じたように、
姿、形が原型をとどめていなくても
「彼」でなければいけなかった、というキャスティングの理由が
クセルクセス王を演じたロドリゴ・サントロにもあるのだと思うのですが
今の段階では私には想像がつかないです(苦笑)








世界最速のインディアン

2007-02-08 | 洋画【さ】行

ニュージーランドで暮らすバート・マンロー(アンソニー・ホプキンス)には40年来の夢がある。
それは伝説のバイク「インディアン」で世界最高速度をだすこと。
体は老いても、心は若い頃と同じ熱いまま。
年金暮らしのバートは倹約を重ね、廃品でバイクを改良して、バイカーの聖地ポンヌヴィル塩平原に旅立つ。
干上がった湖底がどこまでも続くポンヌヴィル塩平原で、世界最高速度を出すことだけを夢見て。

自分の夢に向かってひたすら歩き続けるバート。
早朝からバイクの騒音を出したり、家の手入れもしないものだから
近所からは苦情がきたりもするのだけれど、
苦情を言いながらも、みんながバートの夢をなんとなーく応援している。

家を抵当に入れてまでやってきたアメリカ。
ここからまたポンヌヴィル塩平原までの長い道のりを
バートは「インディアン号」と長い長い旅に出る。
誰一人知る人のいない国で、様々なアクシデントにあい
そのたびに様々な人と出会い、バートはその人たちをみな味方にしてしまう。

ゲイのお兄さんにも、インディアンのおじさんにも、ひとり暮らしのおばさんにも、
誰にでも正直で公平で、誰のことも批判したり偏見でみたりしない。
その人のあるがままを受け入れ、そして素直に接する。
そういうバートの自然な姿が人をひきつけ、誰もがバートの熱烈応援団になってしまう。

夢。
最近いろいろあって、私は「夢」というものに疑いを持っていた。
夢という言葉はあまりにも美しすぎて、夢、と言われたら最後、もう認めるしかない、みたいな。。。
でも、夢、夢、って言うけど、現実から逃げてるだけなんじゃないの、と。
将来、夢が実現する夢だけを見て、現実にはなにもしてないんじゃないの。
今、自分がやるべきことをやりもしないで「将来の夢」を語ってもらっちゃ困る。と。
夢よりも自分の足元を見ろってことで、
かなり現実的な母親目線ですね。
そしてそんな超現実的な自分が冷たいんじゃないかとも思っていた。


でも、年老いて、なお夢を追うバートの姿を見て気がついた。

『夢を持たない人間は野菜、そう、キャベツと同じだ。』

夢を実現するにはリスクも危険も伴うのだと。
そしてそれを自分で引き受ける覚悟があるものだけが「夢」を追いかけられるのだと。
誰かを無理に巻き込まなくても
魅力のある人間には求心力があって、人が自然に手を差し伸べて集まってくる。
もし夢が叶わなくても、夢を追うことでそんな人間になれたとしたら
それはそれで素晴らしいことじゃないか。
全ては本人しだい、自分しだい。
どう覚悟が出来るかってことなんだね。
そこのところをはっきり伝えたら、後は見守るしかないのかもしれない。

夢が叶ったら、それほど嬉しいことはないだろうけど。。。

こんな爽快な映画で、つい母親目線になる私ってどうなんでしょ(苦笑)
でも、そんなふうに、自分のことと照らし合わせてみてしまうことってありますよね。
夢をかなえたバートの笑顔を見ながら
「自分は一生懸命やってるのかい?」
そう問いかけるもうひとりの自分がいて、ちょっと寂しくなったりもしたのでした。







 


幸せのちから

2007-02-02 | 洋画【さ】行

クリス・ガードナー(ウィル・スミス)は新型医療機器のセールスマン。
絶対売れるはず、と見込んで大量に仕入れた機械は全然売れず、
生活もだんだん苦しくなってくる。
苦しい生活は、夫婦の仲をぎこちなくし、ついに妻は家を出てしまう。
クリスは5歳の息子クリストファーと2人で暮らすことになった。

クリスは父を知らずに育った。
だから自分の息子には思い切り父親の愛情を注いで育てたいと思っている。
でも、子供は愛だけで育たない。
現実には生活していくためにお金がいる。
セールスマンの仕事に見切りをつけたクリスは別の道を歩こうとする。
それは証券会社の証券マンになることだ。
証券会社で半年間の研修を受ける。
それも無給で。
研修が終わっても、たくさんの研修生の中から採用されるのはただひとり。
宿無し、文無し、子連れのクリスにとって大きな賭けだ。

普通ならそんな懸けはしない。
でも、これは実話なのだ。
普通の男が自分の力を信じて、懸けて、そして・・幸せを掴み取った。
幸せはただぼんやりと待っているものでなく
自分の力で掴み取るものなのだ。

人生が不意に暗転した時、私たちは「なにか」に祈る。
特別信心深くなくても、つい祈ってしまう。
助けてください・・・と。
もし神様がいるとして
神様はそんな時何かヒントをくれるのだと思う。
でもそれは分かりやすい形のものではないのかもしれない。
今の状況よりも、もっと困難なことに感じるのかもしれない。
でもその中になにかチャンスを見つけるのか
あるいは、ぼんやりと見送ってしまうのか
それが人生の岐路になるのかもしれない。

実話だから、物語の行き着く先は分かっているのだけど
あまりにも続く困難に
つい、眉間にシワが寄ってしまう。

疲れ果てて、明日の希望も何もない夜。
それでも傍らの子供を笑わせ、安心させ、駅のトイレで抱きしめて眠る夜。
クリストファーに折に触れ語りかける言葉は
まるで挫けそうになる自分を奮い立たせるための言葉のように聴こえた。

天性の聡明さもあるかもしれないけれど
自らの努力と、持ち前の明るさでつかんだ成功はとても輝かしいものに思えた。

この映画はサクセスストーリーではないと思う。
父と息子の愛と信頼の物語だ。
自分ひとりが生きていくためだけなら、こんなにはがんばれない。
守ろうとした小さな息子が、しっかりと後ろから押してくれていたのだと思う。