ビター☆チョコ

店じまい後も変わらずご訪問ありがとう。
新居をかまえましたので
お近くにお越しの際はお寄りくださいませ。

君のためなら千回でも (DVD観賞)

2008-09-09 | 洋画【か】行

1970年代、アフガニスタン。
「中央アジアの真珠」と呼ばれた美しい街カブールでは、少年達が凧揚げに夢中になっていた。
裕福な家の1人息子アミールは、ひとつ年下の召使の息子ハッサンと凧揚げ大会に出場して
見事、優勝する。
しかし、糸の切れた凧を追ったハッサンは、ハッサンたち少数民族のハザド人を快く思わない悪童達に捕まり、暴行を受けてしまう。
それを物陰から見ていることしかできなかったアミールは、何事もなかったようにアミールを今までどおり慕うハッサンを疎ましく思うようになる。
ハッサンに対する屈折した気持ちは、アミールの中で残酷なものになっていき、ハッサンはアミールの元を去ることになる。
間もなくソ連がアフガニスタンに侵攻してきて、反共産主義者だったアミールの父は
アミールを連れ、国外に逃れることにする。
アミールは、心の奥底に棘をさしたまま、アフガニスタンを去ることになる。

君のためなら千回でも。
それは、少年の日にハッサンがアミールに言った言葉だ。
君のためなら、どんな辛い事だってするよ。。というハッサンの友情の証のような言葉だったのかもしれない。

友達でありながら主従関係。
同じ国の国民でありながら、民族が違うという微妙な違和感。
そして、アミールの心の中には、自分を生んだために死んでしまったという母に対して
申し訳ないような。。そしてそのために、父が自分を愛していないのではないかという恐れがある。
だから、父が召使の子供であるハッサンを可愛がるのも、気持ちにひっかかりがある。
そこにあの事件。
人と争うのが嫌いだから。。という理由で親友を見殺しにした後ろめたさ。
少年だったアミールの心の中に渦巻く複雑な思いが
ハッサンとの仲を自ら断ちきることに繋がってしまったのかもしれない。

忘れようと、心の中にしまったハッサンへの思いは
ある1本の電話がきっかけで、ポンとふたを開かれる。

戦火のアフガニスタンを逃れ、アメリカに渡ったアミール親子は
裕福だったアフガニスタン時代とはまるで違う貧しい暮らしに耐えながらも
「小説家になる」というアミール(ハリド・アブダラ)の夢をかなえた矢先だった。
電話はアフガニスタンに残っていた父の親友からで、アミールが本当にやり直したいと思ったら
アフガニスタンに戻ってこい。という内容だった。

戻ったタリバン統治下のアフガニスタンは荒廃しきっていて、かつての面影はどこにもなかった。
そこで、ハッサンの出生の秘密と
死を知り
ハッサンが、別れてからもずっとアミールを案じ続けていたことを知る。
アミールはハッサンの息子を助け出すために、タリバンのアジトに向かう。
今は亡きハッサンに償うために。

少年というのは、なんと残酷なものなのか。
アミールがハッサンに対して行ったことは、ほんとに胸がむかつくような仕打ちだった。
まったく、どうしようもないイヤなガキだった。

年月がどのようにアミールを変えたのか、物語は多くを語ってない。
裕福に暮らした少年時代から一転して、
自由で命の危険こそないけれど、たぶん暮らし向きは豊かではなかったアメリカでの生活が、
アミールの心に少しの変化をもたらしていたのかもしれない。
貧しい暮らしの中で、父と二人、肩を寄せあって暮らしてるうちに、父親に対する信頼がゆるぎないものになって、気持ちが安定したからからかもしれない。
成長したアミールは、なんだか、良さげな青年なのだ。
しかし、彼は、やっぱ、どこか甘い。

ハッサンの息子の行方を追って、孤児院にたどり着いたときは
「たったひとりの子供を救ってあんたは満足するだろうが、他にも救われない子供はたくさんいる。」
私財を投げ打って孤児の世話をするアフガン人になじられ、返す言葉もない。
たどり着いたタリバンのアジトでは
「ソ連から国を守ろうともせず、祖国を捨てた卑怯者」呼ばわりされて、ここでもひと言も言い返せない。

ハッサンの息子を救うことで、自分の過去の罪を償えると思った考えが甘かったことに
アミールは愕然とする。
そうなのだ。彼はアフガン人でありながら、祖国を見る目はすでに外部の人間のものなのだ。
祖国のために命をかけて人と争うよりも、たったひとりの子供でも救いだせば、自分の過去の罪も消えるという考えは、まったくの自己満足にすぎないのだ。

では。。外部の人間には、なにも出来ないのか。なにをしても無駄なのか。

アフガン人である原作者が言いたかったのは、ここにあるのだと思う。

アミールのように物を書く人間なら書けばいい。このアフガンの現在の状況を。
なにか出来ることがあるならば、そこから始めてほしい。
厳しい環境に暮らす人々がいることを忘れずに、心を寄せて欲しい。
そんなことを伝えたかったんじゃないんだろうか。

アメリカに戻ったアミールが
口答えひとつしたことのなかった妻の父親に毅然とした態度で静かに言う言葉が
アミールの出した結論なのだと思う。

アメリカの空高く悠々と舞う凧が
また、美しいカブールの空に舞う日が来ることを願う。









 


奇跡のシンフォニー

2008-07-04 | 洋画【か】行

エヴァン(フレディ・ハイモア)は生まれて間もなく養護施設に預けられ11歳になった。
温かいとは言いがたい環境だったが、エヴァンには心の支えがあった。
それは。。両親は自分を捨てたのではなく、なにか事情があって離れ離れになったのだ。
そして、きっといつかは自分を探し当ててくれるのだ。。。という強い想いだった。
その想いを後押しするのは、エヴァンの耳に、いつも聴こえる音楽だった。
風の音、雨の音、足音。。。街の騒音さえもエヴァンの耳には、素晴しい音楽になって聴こえるのだった。

ある夜、エヴァンは何かに導かれるように養護施設を出る。
向かったのはNY。
両親を探す手がかりは何ひとつなかった。

ファーストショットは草原だ。
一面の草原の中に、ひとり立っている少年が、音楽を聴いている。
草が揺れる。
風に揺れて重なって、ざわざわと音をたてる。
私たちが「風に揺れる草の音」としか聴こえないものを
この少年は体中で、「音楽」として聴いている。
そして、風に揺られて、ただ勝手にざわめいていた草が
まるで、少年の意志によって動かされているような錯覚に陥る。

。。。鳥肌がたった。
そして、ある映画を思い出していた。
嗅覚が異常に優れていたグルヌイユの物語を。
彼もまた、全ての「匂い」を「香り」として受け止め、最後には香りをまとって消えてしまった。
しかし、同じ天才ながらエヴァンは、消えてしまうことはなかった。
自分の中だけで感じていた「音楽」というものを表現する術を知ったから。
そして、なによりエヴァンには、まだ会ったことはないけれども愛する両親がいた。

エヴァンがNYに向かった頃
エヴァンの両親も、大きな転機を迎えていた。
実らなかった恋の痛手から音楽を捨てていたのだが
また、音楽と向き合っていく決心をする。
11年間離れていた3人が
同じ時期に、音楽に導かれNYにやってくるのは
ちょっと出来すぎな感じもするのだけど
これはお伽噺なのだから。。と思えば、なんの問題もない。
ジャンルを超えた様々な音楽に彩られた、極上のお伽噺だ。

エヴァンが初めてギターにふれて
弾き始めた時の喜びに満ちた顔。
そして指先から、あふれ出てくる音とリズム。
「鳥肌がたったシーン」は、数えきれないほどある。

大きなスクリーンで、音楽を体中に浴びながら観てほしい映画だ。











カサブランカ (DVD観賞)

2008-06-17 | 洋画【か】行

第2次世界大戦が激しくなり
ナチスドイツがパリを占領すると、ヨーロッパの人々はフランス領モロッコ、カサブランカへと脱出した。
ここからリスボンを経由して、戦火を逃れるためにアメリカに渡ろうとしたのだ。
しかし、運よくアメリカに渡れるのはわずかな人数だった。

異国で祖国を思い、戦火を逃れるために見知らぬ国を目指す人々は
つかの間のやすらぎと情報を求めて、夜ごと酒場に集まった。
そして、その酒場で、かつて離れ離れになった恋人たち、リック(ハンフリー・ボガード)とイルザ(イングリット・バーグマン)が再び巡り会うことになる。
しかし、イルザにはレジスタンスの指導者であるラズロという夫がいた。

あまりにも有名なカサブランカという、この映画。
数々の名台詞は知っていたので、それでなんとなく観た気になってたんだね。
今回、初めて観て、
観始めは正直、????だった。(笑)
リック役のハンフリー・ボガードの魅力が、全然わからなかったのだ。
ビジュアルだけじゃなく(爆) リックという役の性格も、いつまでも過去にこだわるヤなヤツ。。みたいな見方しか出来なかったのだ。

イングリット・バーグマンは文句なく美しい。
この映画はワタシにとって、彼女の美しさを堪能するだけの映画なのかも~~と、
タラタラ観ていたら、中盤過ぎから、一気に面白くなってきた。

ラストシーンまで観て、ハンフリー・ボガード。。というかリックの魅力がわかった。
そうなんだ。ここまで観て、やっとわかるんだ。
リックという男は、「やせがまんの美学」を持った男なのかもしれないなぁ。

男が求める「かっこよさ」は、様々だろうけど
「やせがまん」が似合う男はなかなかいないだろう。
押し付けがましくなく、身を引くときは、すっぱりときれいに身を引く。
時には、恋愛よりも戦うことを選ぶ。
あまりにも、かっこよすぎる幕の引き方だ。

この映画は、メロドラマの名作のように言われてるけど
むしろ、男っぽくて、苦味のある映画のような気がした。
ただの三角関係の顛末を描いただけじゃない。
三人の恋は、たぶんどれも成就したものはなかったのかもしれないけど
それでも、どこか清々しさを感じさせるラストは、お見事、と手を叩きたくなる。

リックとイルザの大切な曲として出てくるのが
これもまた有名な As Time Goes By 
二人の恋愛と破局をずっと見守ってきたピアノ弾きのサムが歌う歌は
カラッと乾いた感じがする。



時代がどんなに変わっても
男と女の間に起こるさまざまなことは変わらないよ

(たぶん)そんな意味の歌詞にふさわしく
見守ってる感、とゆうか、離れたところから眺めてる。。みたいな歌い方だ。

なぜ、ワタシが歌うとどこか湿っぽいんだろう。。と、思う。(苦笑)
見守ってる感どころか、どっぷり当事者だ。
歌詞を考えると
こんなふうにカラッと歌ったほうがいいのかな。。と思うものの
やっぱ湿っぽくなっちゃうんだよね。
歌う人によって、曲の感じががらりと変わるのも
「歌うこと」のおもしろさかもしれないのだけどね。















グッド・シェパード

2007-10-24 | 洋画【か】行

1930年代の終わり、第2次世界大戦が始まろうとする頃のこと。
アメリカの名門大学イェール大学の優秀な学生だったエドワード・ウィルソン(マッド・デイモン)は、
サリヴァン将軍(ロバート・デ・ニーロ)の目に留まり、現在のCIAの前進であるOSS(米軍戦略事務局)の発足に関っていく。

物語は、冷戦下、キューバのカストロ政権の転覆をもくろみながら失敗した、ビスク湾侵攻作戦失敗の原因を究明していく「現在」と
OSSとして発足してCIAへと組織が成立していく「過去」の時制を行き来しながら進んでいく。

優秀な学生だったエドワードは、図書館で耳の不自由なローラ(タミー・ブランチャード)と知り合い、惹かれていく。
しかし、その一方で同じ秘密結社「スカル&ボーン」の一員であるジョンの妹クローバー(アンジェリーナ・ジョリー)とも関係をもってしまう。
クローバーの妊娠でローラとは別れ、生まれてくる子供のために結婚したものの、結婚式の1週間後にはOSSの活動のためロンドンに渡り、その後6年間はアメリカの地を踏むことはなかった。

エドワードJrと名づけられた息子は、父の顔を知らずに少年に成長していた。
6年ぶりに会う夫と妻。初めて会う父と息子。
互いにどこかぎこちない生活が始まる。
仕事は多忙を極め、家族にすら言えない重い仕事は
家庭にいつも秘密の匂いを持ち込んだ。
家庭の中には、どこか冷え冷えとした空気が漂っていた。


国を守るということは、いったいどういうことなのだろう。
個人が集まって家族になり
その家族がいくつもいくつも集まったのが「国」なのだと思う。
「国」を守るために、家庭が犠牲になるのなら、いったい「国」を守る任務についている人たちは
なにを守っているのだろう。

イタリア人には家族と教会がある。アイルランド人には故郷がある。ユダヤ人には伝統がある。
黒人には音楽がある。あんたたちにはなにがあるんだ。

そう訊かれて
アメリカ合衆国、と答えた男は
国を守るために寡黙に徹した。
その妻も、若い頃の奔放さは嘘のように消え
どこか疲れた表情の女になった。
息子は父をどこかで恐れながらも憧れ、追いつきたいと願い同じ仕事につく。
そしてその選択が
父親のエドワードに大きな問題を突きつけることになる。

この物語はビスク湾事件を軸に描かれているが
エドワード・ウィルソン家族の物語なのだと思う。

大きな事件を題材にしながら
奇をてらわず、じっくりと役者の表情を追っていくような描き方には
静かな怖さを感じた。

マッド・デイモンの寡黙だが冷徹になりきれない様子がいい。
アンジェリーナ・ジョリーの奔放な娘から、疲れた女に変化していく様子がいい。
エドワード(マッド・デイモン)の片腕として働くレイ(ジョン・タトゥーロ)のあまりの怖さには泣きたくなった。
ウイリアム・ハートはやっぱりうさんくさいし
「善き人のソナタ」や「マーサの幸せレシピ」のマルティナ・ケディックがドイツ人秘書役で出ていたのも
嬉しかった。

3時間弱の長尺で、行き来する時制に時々苦しみながらも見応えのある映画だった。
ディカプリオの代役?とか訊いた気がするけど、これはマッド・デイモンが適役だったんじゃないかと思う。
マッド・デイモンの息子の役をやった彼。。名前は知らないけど(爆)
どこか気の弱そうな、いつも人の顔色を伺ってるような様子は、ああいう秘密の多い家庭に育つと
なるほど、こういうふうな男の子になるのかなぁ~と思いつつも。。
ちょっとCIAから声がかかるような優秀な子に見えなかった。。かな。

もし観にいくなら
いつものことながら(苦笑)少し予備知識があったほうがいいかもしれない。
少なくともFBIとCIAの違いぐらいは知ってたほうがいいかも。(え?常識なんですか?/汗)
それから、「おじさん」の見分けがつけられない方は絶対苦しむと思いますので(笑)
ご注意ください。










 






 


傷だらけの男たち

2007-07-13 | 洋画【か】行

かつて共に犯人を追ったヘイ(トニー・レオン)とポン(金城武)。
しかしポンは恋人が自殺したショックから立ち直れず、刑事を辞め私立探偵になったものの、酒びたりの日々を送っていた。
一方、ヘイは富豪の娘スクツァンと結婚し、幸せな日々を過ごしていた。
そんな時、スクツァンの父が殺されるという事件が起きる。
事件の真相に疑問を抱いたスクツァンは、ポンに捜査を依頼する。

犯人の乗った車が走り出す。
それを尾行する車が、まるで絶妙のパス回しをするように、入れ替わりながら香港の夜の街を走っていく。
華やかなネオンの先にあるのはうらびれたアパート。
冷静に犯人を追い詰めて逮捕したヘイが、犯人の残虐な犯行現場を目撃して、眉ひとつ動かさず、犯人を徹底的に打ちのめす。

物語は
華やかな都会とうらびれたアパート。
冷静な刑事が一瞬のうちに冷酷に変わる様を描き出して始まる。
表の顔と裏の顔。
まるで、今後の展開を暗示するような滑り出しだ。

心に深い傷を負った時
もがきながらも傷を癒そうとする男と
傷口を癒すことなく、そっと包み隠し、復讐のためだけに生きる男がいる。
まるで兄弟のように仲の良いその二人の男が
ひとつの殺人事件を境に、進む道が完全に別れてしまう。
復讐するためだけに生きてきた男は
結局、願いを叶えても幸せにはなれず
せつなさだけを残して、消えてしまうしかないのだ。

ストーリーは、とにかく最初に犯人が明かされてしまうので
なぜ、そういうことになったのか、ということを暴いていくのだけれど、
なんとなく、想像がついてしまう。
それでも最後まで引っ張られるのは、やっぱ、役者さんの力なのかもしれない。
うまく張られた伏線の中に
少しの疑問を感じながら、それでもこの映画の雰囲気はとても好きだ、と思う。

ただ。。欲を言えば
悲しみに歪んだポンの顔が
一転して幸せな笑顔になってしまうラストシーンには、
あふれそうなせつない気持ちが、逸らされてしまったような物足りなさもある。
エンディング曲も。。。しっくりこないような。。。
邦題も、わざわざつけることはなかったんじゃないかと。。。

変に盛り上げようとしなくても
せつなさはせつなさのままで終わらせてもらったほうが
この独特の空気感を抱いたまま帰って来れたのに。
それが、ちょっと残念だった。








 

 


 


クィーン

2007-04-27 | 洋画【か】行


1997年、8月。
パリでダイアナ元皇太子妃が事故死する。
そのニュースは世界中を駆け巡り、イギリス国民だけでなく世界中が悲しみにくれた。
そんななかイギリス王室は、
ダイアナは「元」皇太子妃で、今は民間人であるとして沈黙するのだった。


あの日から、もう10年が過ぎようとしている。
ダイアナ元皇太子妃が亡くなった瞬間から、テレビはダイアナ一色に変わり
何も関係のない遠い国にいる私たちまでもが、沈黙を守り続けるイギリス王室の動向に注目したものだった。
ダイアナ妃という華やかなスター性をもった女性を失った悲しみは
やがてイギリス王室への批判というものに形を変えていく。

誰もが知りたいと願ったのに
誰も知りえなかったあの空白の時間。
そこにいたのは
冷淡な女王ではなく、自分に与えられた宿命を背負って生きようとする一人の女性だった。

ダイアナの死に対する国民の過剰な悲しみに
エリザベス女王(ヘレン・ミレン)は違和感を覚える。
女王が思うに
悲しみはもっと慎み深いものなのだ。
マスコミに煽られ、派手なパフォーマンスばかりに注目が集まることにも違和感を持っている。

若くして望まずに即位し
激動の時代を一国の長として切り抜け
母として子供を育て
執務が第一、自分のことは二の次、という姿勢を貫いてきた女王にとって
王室に嫁ぎながら、普通の女性と同じ幸せを求め続けるダイアナの行動は
どうしても理解できないことだったのかもしれない。

静かな城の奥深くで、女王は自分の中にある嫉妬、孤独、疎外感と向き合っている。

そしてそんな女王に助言をし続けるのが就任したばかりのブレア首相。
女王を尊敬しながらも、イギリスに新しい風を入れようとしている首相と
昔ながらの君主制を守りたい女王。
微妙に考えの違う二人が、静かに火花をちらし
ついに女王は英国王室の『とるべき道』を決断する。

威厳と品格を保ちながら
ひとり涙を流す女王の姿。
その姿は、はるかに遠い世界の人でありながら
とても身近なひとりの女性に感じられた。

テレビで見る女王の姿はいつもフォーマルなものなので
広大な領地で車を運転する姿や
ヘアピンをつけたガウン姿
着ているセーターで眼鏡を拭く様子がとてもリアルで
いっそう、親近感を感じる。
ダンナさんのエジンバラ公が寝る前に女王に
「おやすみ、キャベツちゃん。。」なーんて本当に言ってるのかどうか分からないけど
ちょっとした覗き見気分にさせられてしまう。
それほどキャストがみんな実物に良く似ているのだ。

あの衝撃的な事故から10年たったとはいえ
人々の記憶に、まだはっきりと残っているこの時期に
これほどまで、生々しく「女王」の心情を描いた映画が作られて上映される、ということに驚いてしまう。
昭和天皇が亡くなってから20年近くたって、
やっと外国人の監督の手で撮られた『太陽』という映画が日本で公開されたのが去年の夏のこと。
それを思うとき、英国王室の懐の深さを感じてしまう。

王室の立場からすれば
世間に知られたくないような本音のセリフもぽんぽん飛び出す。
ダイアナの評判が世間でどんなに良くても
王室の中では「困り者」であったことを女王も認める発言をしている。
ダイアナを愛するイギリス国民が見れば
王室をますます悪者に追い込んでしまいそうなネタがあふれているのに
不思議なことに
女王が一人の人間として
様々な葛藤を抱えながら生きていることを知ることは
女王をよりいっそう魅力的に思わせてしまうのだ。
このことは
王室にごく近い筋からの協力を得て
出来るだけ事実に近く、
そして細心の注意を払って書き上げたであろう脚本家の苦労を伺わせる。

世間のバッシングを一身に受け
ひとりテレビカメラの前に立つ女王の姿は凛としていた。














キング罪の王

2006-11-30 | 洋画【か】行



海軍を退役したエルビス(ガエル・ガルシア・ベルナル)は、自分と母を捨てた会ったことのない父(ウィリアム・ハート)に会うために、テキサスの田舎町を訪れる。
父のデビッド・サンダウは裕福な牧師として、町の人々の信頼を集めている。
そんな成功者である父にとって、突然現れたエルビスという息子は過去の汚点でしかなかった。

テキサスの田舎町、コープス・クリスティという町。
コープス・クリスティというのは「キリストの死体、キリストの生きた証」という意味があるのだそうです。
その町で、物語は始まります。
牧師として成功している父に拒絶されたエルビスは、町を立ち去ることなくピザのデリバリーの仕事を見つけて父と同じ町で暮らし始めます。
たぶん、幼い頃から憧れていたであろう父に拒絶されたというのに、その表情からは大きな落胆も悲しみも憤りも感じられません。
ピザのデリバリーの仕事を無難にこなし、小さな部屋で自炊をする姿はごく普通の青年です。

しかし、彼は異母妹で16歳のマレリー(ペル・ジェームズ)に接近し、ついに血縁のタブーを超えてしまいます。
その事実に気がついた異母弟のポール(ポール・ダウ)に責められると、あっさりと刺殺してしまいます。

物語はその間も、ずっと静かにゆっくりと流れていきます。
凄惨な殺人が行われてるのに、誰しもが妙な静けさです。
衝動的に殺人を犯したエルビスは、パニックに陥ることもなく淡々と死体を始末して、
あとは涼しい顔です。

ポールの突然の失踪が、表面的には平和だったサンダウ家の均衡を崩します。
崩れ始めた均衡は雪崩のように最悪の結末に向かいます。
全ての決着をつけるため、エルビスは父の教会に向かいます。
「懺悔しよう、愛のために」
でも、懺悔というのは自分の罪を悔いている人間がするものです。
エルビスの澄んだ瞳に懺悔の色はありません。
もし、エルビスが懺悔したとして、宗教家としての父はその恐ろしい懺悔を許さなければなりません。
恐ろしい罪を懺悔されたとしても、牧師の立場では、その罪を公に告発することは出来ないのです。
若い日の自分の過ちが招いた不幸を、そのとき父は思い知り苦しむのか。。。
あるいは。。。。

エルビスがどのような行動をとるのか。
観客に委ねられた形で映画は幕を閉じます。
私には懺悔するエルビスは想像できません。
もっと単純で凄惨な場面を想像してしまいました。

現代版のカインとアベルをオイディプス・コンプレックスを混ぜて描いた。。というような監督の談話を読みましたが、それがどのようなものなのか私には残念ながらピンときません。
父への深い愛情が憎悪に変わったのか。
それとも、大きな動機もないのに、人間はこんなにも恐ろしい罪を重ねることができる生き物なのか。

はっきりしてるのは、エルビスには「過去」も「未来」もないのです。
あるのは「今」だけ。
そして「自分」だけ。なのです。
だから涼しい顔で恐ろしいことが出来てしまうのです。
それが不幸な生い立ちからきたことなのか。
それとも「悪魔」なのか。
あるいは「天使」なのか。
ガエル・ガルシア・ベルナルのイノセントな瞳が最後まで観るものを混乱させます。











カポーティ

2006-10-04 | 洋画【か】行



すでに作家としての名声を手にしていたトルーマン・カポーティ(フィリップ・シーモア・ホフマン)は、
ある日カンザス州ホルカムという田舎町で起きた一家惨殺事件に興味を持つ。
事件の詳しい内容も犯人もまだ見当もつかない事件だったのだが、カポーティは早速取材助手で幼馴染のネル・ハーパー・リー(キャサリン・キーナー)とともに現地に向かう。
取材を続けるうち犯人が逮捕され、カポーティは犯人に強く興味を引かれる。
カポーティは今までにない新しい作品を書くために犯人の一人ペリー・スミス(クリフトン・コリンズ・Jr)に深く関っていく。

その深い丹念な取材で書き上げたのが「冷血」という作品だ。
ノンフィクション・ノベルという新しいジャンルを開拓しただけでなく、死刑制度の是非や取材者のモラルなど様々な物議を醸しだしたそうだ。
その取材から「冷血」を書き上げるまでの過程がこの「カポーティ」という映画だ。

映画を観る前に「冷血」を読んでみた。
ノンフィクション・ノベルというが、フィクションのように感じる。
映画の中ではほとんど語られていないが、本の前半は惨殺されたクラッター家の人々、そしてクラッター家に関る人々が細かく生き生きと描かれていく。
映画の中で、
カポーティが殺されたクラッター家の娘ナンシーの日記を読むシーンがあるのだが、
たぶんこの日記を読んで作家としての想像力を膨らませて書いたのだろう。
クラッター家の誰よりもナンシーの描写が細やかだ。
犯人が逮捕されるのは本の中盤も過ぎた頃だ。

映画の中では、この「冷血」を書き上げるまでのカポーティの苦悩が描かれる。
犯人のペリー・スミスと面会を重ねるうち、二人の間には友情ともいえるものが生まれてくる。
ペリーの持つ不幸な生い立ち。強いコンプレックスとナルシシズム。
それはまさにカポーティが持っているものと同じ種類のものだったのだろう。
自分と似たものを見るとき湧き上がる愛しさと嫌悪という相反する感情。
その同類である友が死刑にならなければ、長い年月をかけて書いてきた本の結末を書くことが出来ないのだ。
カポーティの中でペリーを救いたい気持ちと死刑を待ち望む気持ちが複雑に同居する。

「愛する人を自分の目的のために利用できるものなのか」と映画の中でカポーティは問われる。
「出来ない」とカポーティは言う。
でも作家としての彼は、書くためならどんなことでも利用しようとしているのが観ているこちらにはよくわかる。

そうして書かれた「冷血」は、ペリー・スミスとの関係で苦悩したことなど微塵も感じさせないほど客観的な目で書かれている。
「冷血」というのはこの犯人たちのことではなく、カポーティ自身のことなのではないのだろうか。

「冷血」の後、カポーティは作品をほとんど書かずに亡くなったそうだ。
この作品で燃え尽きてしまったのだろうか。
人を愛しながらも利用しつくす。
人間の心の中には複雑で恐ろしい魔物が潜んでいるようだ。









記憶の棘

2006-09-29 | 洋画【か】行



10年前に夫のショーンを亡くしたアナ(ニコール・キッドマン)は、何年もプロポーズし続けてくれたジョセフ(ダニー・ヒューストン)と再婚することを決める。
そんなアナの前に亡くなった夫の生まれ変わりだと名乗る10歳の少年(キャメロン・ブライト)が現れる。名前も夫と同じ。
二人だけしか知りえない秘密も知っている。
たちの悪いいたずらだと思っていたアナだったが、心は激しく動揺する。

リインカネーション、輪廻転生。
キリスト教にそんな考え方があるのかどうか分からないけど、
愛する人を突然に失ったとき、誰もが願うことなのかもしれない。
その願いがふいに現実になったときの心の揺れを、ニコール・キッドマンが静かだが表情豊かに演じる。

30代後半の大人の女性と10歳の少年の間に生まれる微妙な愛。
ありえないような設定なのにキャメロン・ブライトの独特の雰囲気になぜか納得させられてしまう。
この少年、不思議なのだ。
オカルト映画に出そうなタイプなのだ。
ニコリともせずに、一途にアナを見つめる視線の強さだとか
とても子供とは思えないような落ち着いた態度が、ただの子供であるはずがないと思わせる。

アナとのキスシーンがあったり、入浴シーンがあったことでカトリック教会からクレームがついたらしいのだけど、それはまあ。。。かろうじて許容範囲。
でも、この会話はどうだろ。

「夫は妻の面倒をちゃんと見て養うのよ。あなたにできるの?」

「働くよ。」

「私の求めにも応じられるの?」

「。。。どういうことなのか意味は分かるよ。」

「。。。女の子と経験あるの?」

10歳の子供とこんな会話できるモンなのか。
していいものなのか。
この子は子供のはずがない。絶対生まれ変わりだ。と確信した時
あっけないほど現実的な結末を迎えてしまう。

少年は「生まれ変わりだったのか」
映画の結末に素直に納得する人と、どうも納得できない人に分かれると思う。
私はあの少年は「生まれ変わり」だったと思う。
自分が生まれ変わりだと主張し続ければ、愛するアナを過去に裏切ったことが明るみに出てしまう。
アナが持ち続けている美しい思い出を傷つけることを恐れて身を引いたような気がして仕方がないのだ。

絵本の「100万回生きた猫」を思い出してしまった。
どんなに愛されても自分以外の人を愛することのなかった猫は、何度も生まれ変わる。
何度生まれ変わっても誰も愛せない。
100万回目に生まれ変わった猫はやっと心から愛する人とめぐり合い、それからは生き返ることがなかったというお話。
心に悔いを残して死んでしまった場合に輪廻転生があるとしたら、
このショーン少年もまた生まれ変わらなければいけないのだろうか。

一応結末で答えを出してはいるけれど、なんとなく観る人を納得させない。
裏があるのでは?と考えてしまう。
アナが少年を信じまいとしてもいつの間にか信じてしまったように、私の中にある神秘的なことを信じたい気持ちが「結末の裏」を考えさせるのかもしれない。












キンキーブーツ

2006-08-27 | 洋画【か】行



イギリス、ノーサンプトン。
一生物のしっかりした紳士靴を作り続けるプライス社。
跡取り息子のチャーリー(ジョエル・エドガートン)は婚約者とロンドンで暮らしていたが、父の急死で会社を継ぐことになってしまう。
継いでみてびっくり。
会社は倒産寸前で再建の見通しも立たない。
やけで飲んだ酒場でドラッククイーンのローラ(キウェテル・イジョホー)と出会ったチャーリーは、
思わぬところにビジネスチャンスがあったことに気がつく。

チャーリーが見つけたビジネスチャンスは、ローラのようなドラッグクイーン(このドラッグは麻薬のdrugではなくてオカマのdrag )がはくセクシーなブーツの制作。
キンキーブーツ。
直訳すると変態ブーツ。
あ!でもこの場合はエナメルでピンヒールの女王様ブーツのことをそう呼ぶらしいのだけど。
心は女でも体はたくましいドラッククイーンの体重を支えきれるブーツはなかなかないのだ。
そしてソーホーにはそんな需要が山ほどある。
思いがけないところにニッチ市場はあったのだ。
目標が定まってからのヘナチョコチャーリー坊やはどんどんたくましくなっていく。
ど田舎の、ドラッククイーンなんかみたこともない偏見で凝り固まった従業員と闘い、
婚約者ともめたり、落ち込んだりしながらミラノのショーを目指して驀進する。

「フルモンティ」では失業したおじさんたちがストリップをして成功したり、
「カレンダーガール」ではオバ様たちがヌードカレンダーを作ったり、
イギリス人は危機に陥るととんでもないアイディアをひねり出す傾向があるようだ。
どれもこれも実話に基づく映画なのがすごい。
敗者復活戦映画の宝庫イギリス。
そして私はそんな敗者復活戦映画が大好きなのだ。

すごいヒーローも登場しないし、みんなどこか情けなかったりするんだけどそこが愛しい。
そんなに立派な人間ばかりじゃない。
ちょっと勇気を出して踏み出せば、人生って不意に光が当たったりするかもしれない。
「自分らしく生きる」って難しいことだけど、自分に嘘をついて生きるのは辛いことだよね。
最初に登場した時はちょっとローラの姿に引いてしまったんだけど、
彼女の悩みや生き方を知るうち、不思議なことにマッチョなドラッククイーンのローラが、だんだんすごい美女に見えてきた。

たぶんお金もかかってないし、たぶん大スターも出てないのだけど、こんな映画が一番好き。
東京では今のところシャンテシネだけの上映なのが残念です。
キウェテル・イジョホー。
私のこれまた大好きな「ラブ・アクチュアリー」でキーラのダンナさんの役をやった俳優さんです。
あの役の時は嫌いだったけど(爆)今回は良かった
歌もいいし、踊りも、あの15センチピンヒールで踊れるなんて~~見事でした。




ミラノのショーの場面で、思わず立ち上がって拍手したい気持ちになったのは私だけではなかったはず。
ちょっと自分に自信がなくなってたり、落ち込んでたりする人。
ぜひローラに会いに行ってください。