ビター☆チョコ

店じまい後も変わらずご訪問ありがとう。
新居をかまえましたので
お近くにお越しの際はお寄りくださいませ。

西の魔女が死んだ

2008-06-25 | 邦画

まい(高橋真悠)は中学生になって間もなく、学校に行けなくなってしまう。
もう学校には行かない、と宣言したまいは、しばらくの間 母方の実家で祖母と暮らすことになる。
母(りょう)と二人で向かったのは、山奥の一軒家。
その家には、たったひとりで祖母(サチ・パーカー)が暮らしていた。
英国人の祖母と、13歳の孫の二人の生活が始まった。

祖母は静かに暮らしていた。
畑で野菜をつくり、花やハーブを育て
飼っているニワトリが生んだ卵でキッシュやお菓子を焼いた。

一見、なんの変化もなさそうで退屈そうな生活なのだけど
山の毎日には、必ずなにかしらの変化があった。
それを楽しみ
自然の恵みを受けて、ジャムを作ったり
洗ったシーツをラベンダーの上に広げて乾かしたりして
ていねいに、ゆっくりと暮らしていくのは
学校生活で、心をすり減らしたまいには、とても新鮮に感じられるのだった。

ある日、祖母はまいにそっと秘密を打ち明ける。
まいの家系は、「魔女」の家系なのだと。

りっぱな魔女になるには、精神的に強くなくてはいけない。
まいは「魔女になるためのトレーニング」をすることになる。

毎朝早起きして
ちゃんとご飯を食べて
一所懸命働いて
夜はきちんと早寝をする。

ただそれだけのことなのだけど
まいには、とても難しく思えることなのだった。
このトレーニングがまいを
正しい方向を感じるアンテナを持って
ちゃんと自分のことを自分で決められる「りっぱな魔女」に導いてくれるのだという。

どこかお客さん気分だった まいの生活に
規則正しいリズムがついてきた。

梨木香歩さん原作の物語が映画化されると知って
観にいったものかどうか、迷っていた。
原作から自分なりに膨らませていたイメージが、
映像化されることによって
まったく別のものになって目の前に映し出されたら
とっても嫌だなぁ。。と思っていたのだ。
でも、それは杞憂だったみたいだ。
思い描いていたイメージどおりの世界が、スクリーンの中に映し出されていた。

まいの「魔女修行」の中に、特別なことはなにもない。
少なくとも、わたしたち世代が育った時代には
あたりまえのこととして、毎日していたことだ。(こんなにオシャレじゃないけど)

ただ。。こういう言い方は好きではないのだけど
時代が少しづつ慌しくなってきて
食べること、眠ること
そんな必ず必要なことすらも、削らなくてはいけなくなってきている。
削ったものは、必ずツケになって、どこかに表われる。
そのツケが一番表われるのが「心」なのだと思う。

思春期と呼ばれる、子供から大人になろうとする時期。
親も子供も、ほんとうに不安でいっぱいなものだ。
子供が、友達との関係で悶々としているのは
親に、直接は言わなくても、なんとなく態度で伝わってくる。
ここで、子供が望むとおり「逃がす」べきか親は悩む。

でも「一時避難」は必要だけど
ぜったい「ちゃんと生活すること」からだけは逃がしてはいけないのだと思う。
朝、目覚める。
食べる。
動く。
夜、眠る。
正しいリズムが、心と体を強くして、また人の中に出て行く勇気を与えてくれるのだと思う。
人と人との関係の中で、傷ついたり疲れたりした心は
人との関係の中でしか癒すことは出来ないのだと思うから。

美しい自然も、時にはすごい勢いで人間に襲い掛かってくる。
自分と合う人とだけ関って生きて行けるものでもない。
自分勝手な思い込みが、自分自身を苦しめてることもあるかもしれない。
忙しくて、日々の暮らしに余裕がなくなったとき
ちょっと思い出して読み返していた物語は
イメージを損なうことなく、スクリーンの中に映し出されていた。
今までよりも、ずっと鮮明なものとして心に残る。

 


オリヲン座からの招待状

2007-11-10 | 邦画

京都、西陣の小さな映画館の物語。

映写技師の松蔵(宇崎竜童)はシベリアから復員後、夢だった映画館を持った。
妻のトヨ(宮沢りえ)が、職人気質で無愛想な松蔵を支え、映画館は毎日たくさんの客でにぎわった。
まだ日本が貧しかった時代、映画は貴重な娯楽だった。

ある日、松蔵とトヨの前にひとりの青年が現れる。
留吉(加瀬亮)と名乗る青年は、天涯孤独の身で、仕事もなく、松蔵に弟子入りしたいと頼み込むのだった。

松蔵に弟子入りを許された留吉は、必死で働いた。
時折、疲れを見せる松蔵に楽をさせたいと、映写技師としての勉強も一生懸命にした。
松蔵、トヨ、留吉。
3人が力を合わせて切り盛りする「オリヲン座」は、なにもかも順調のように思えた。

しかし
松蔵が突然亡くなり、今まで追い風だった風向きがふいに変わった。

松蔵に変わって、オリヲン座の映画技師として働く留吉と
未亡人になったトヨとの間に、不愉快な噂が立った。
噂は面白半分に広がり、仲の良かった隣人にも冷たい目を向けられる。
追い討ちをかけるように、日本が高度成長期に入り
テレビの普及は、映画館への客足を遠ざけた。

時代の移り変わりの中で
貧乏生活をしながらも、留吉(原田芳雄)とトヨ(中原ひとみ)はオリヲン座を守り続けた。
子供にも観せられる映画を。
そして、亡くなった松蔵から受け継いだものを手放したくない一心だった。

二人は夫婦として長い年月を暮らしたのか
あるいは、夫婦のように暮らしながら
実際はどこまでも、先代の妻と先代の弟子の関係だったのか。
物語の中では、淡くぼかされている。
貧乏暮らしをしながらも
二人の生活はどこか御伽噺めいていて、とても静かで温かい。

表面の静かさが、時に崩れて
心の中の揺れが細やかな動作になって表れる。
迷い、揺れ。
心の中の揺れを押えたのは、亡くなった松蔵へのそれぞれの想いだったのではないだろうか。

年老いた二人が
オリヲン座を閉める決断をして、最終上映の招待状をオリヲン座ゆかりの人々に送る。
幼い頃、オリヲン座を遊び場にして育って、大人になって結婚した祐次(田口トモロヲ)と良枝(樋口可南子)のもとにも届いた。
恵まれない子供時代を、お互い労わりあいながら過ごした二人だったのに
今ではお互いを思いやる心を見失って別れを決意していた。
しかし、懐かしいオリヲン座と
長い年月を経ても変わることのない留吉とトヨの、お互いを思いやる姿を見て
もう1度、やり直してみようという気持ちが湧いてくる。

めまぐるしく動く世の中と忙しい日常の中で
疲れた心が、人の心に寄り添う余裕を失わせてしまう。
そんな時、昔から変わらずにずっとあるもの、に、私たちは癒されるのかもしれない。
昭和の暮らしや人々を描いた映画が、最近評判になるのにも
そんなわけがあるのかもしれない。

昔だって、誰もがいい人ばかりだったとは限らない。
嫌な噂話は尾ひれをつけて、あっという間に広がる。
今よりも世間が狭かった時代には、人と人の間の摩擦だってあったはずだ。
それでも、なんだか今よりも人の気持ちが豊かに思えるのはなんでだろう。

多くを求めず
なにが一番大切なのかということを見極めて
誠実に生きる、ということは
あたり前のようでいて
なかなかできないことなのだと思う。
だから、こんなふうに不器用に思えるほどまっすぐに生きた人たちの物語に出会うと
私はいつも泣いてしまうのかもしれない。

涙には感動だけじゃなく
どこか誠実とは言い切れない自分への恥ずかしさも混じっている。



















めがね

2007-10-01 | 邦画

春まだ浅い南の島に、ひとりの女性がやってきた。
ハンドバックひとつでやってきて、ゆったりと、でも確かな足取りで歩くその女性はサクラ(もたいまさこ)。
同じ頃、もうひとり、大きなトランクを引きずって空港に降り立った人がいた。
名前はタエコ(小林聡美)。
手書きの地図を頼りに、たどり着いたのは「ハマダ」という宿屋。
ユージ(光石研)が犬のコージと二人で(?)切り盛りする小さな宿屋だ。

あの「かもめ食堂」のスタッフとキャストが贈る最新作です。
前回の「かもめ食堂」は、ほとんどなにも起こらない(笑)ゆるーい映画でしたが
今回の「めがね」も、それに輪をかけてなにも起こらない映画でした。

南の島にやってきたサクラは、どうやら「ハマダ」の常連客で
毎年、春の訪れと共にどこからともなくやってきて、海岸で「かき氷や」を始めるみたいです。
そして、春が終わる頃になると、またどこかへ帰っていく。。という人のようです。

一方、タエコは、ただ「携帯のつながらないところに来たかった」というだけで
いったい、どこで何をして暮らしている人なのか、なんの説明もありません。
ただ、タエコの着ている、どこか都会的で知的な匂いのする洋服や
あとで、タエコを追ってきたヨモギ(加瀬亮)という、つかみどころのない青年が
タエコを「センセイ」と呼ぶことから、タエコは医者か教師なのかもしれません。
ヨモギとの関係も
もしかしたらセンセイと生徒の許されない恋があったのか
あるいは、単にただの同僚なのか、
勘ぐりようによっては、どんどん想像も広がるのですが
この南の島のゆるい空気の中では
二人の関係がどうなのか、だんだんどうでも良くなってきます。

「ハマダ」のユージにしても、どこかワケありの都会の匂いを感じるし
この島で高校の生物教師をしていて、「ハマダ」に入り浸ってるハルナ(市川実日子)も
話の端々から感じられるのは
どこか、違う土地からやってきて、この島に偶然いついてしまった。。という気配です。

なにも説明はないけれど
みんな、どこかで忙しく暮らした日々があって
そして、ちょっと疲れて、そして偶然、この島に来ちゃって。
せっかく何にもない島に来たんだからさ、
一緒においしいご飯を食べてさ、海を見ながら一緒にたそがれようよ。。
。。。簡単に言ってしまうと、ただそれだけの映画です。

でも、すごーく好きでしたね、私は。
「かもめ食堂」より好きかも。
一緒にたそがれたいって、本気で思いましたもん。

「家庭」って、確かにくつろげる場ではあるけど
主婦にしてみれば「家庭」も、「職場」と同じようなところがあって
なんか、こう、私がちゃんとしなきゃ!!という意識が、絶えずどこかにある。
家族旅行も、楽といえば楽だけど
面子は家庭と一緒だから(笑) やっぱ、「おかあさんの顔」が前面に出てしまう。
ほんとに「たそがれたい」と思ったら
ひとりで、こんなふうにポンとどこかに飛ばなきゃだめなんだろうな。。って。
最近得意の(苦笑)現実逃避癖が、全開になってしまったのでした。

あったらいいなぁ。。
こんな隠れ家みたいな場所。
朝は、サクラ考案の「メルシー体操」で、ゆる~く体をほぐして
おいしいご飯とおいしいビール。
甘いかき氷に癒されて
ぼんやり海なんか眺めていたい。
。。。一週間だけ(爆)







 


東京タワー オカンとボクと、時々、オトン

2007-04-18 | 邦画

ありえないほどの自由人であるオトン(小林薫)と別居したオカン(内田也哉子)は、女手ひとつでボク(オダギリジョー)を育ててきた。
オカンはどんなときもボクを受け止めてきた。
親元を離れて遠くの高校に進学した時も、東京の美大を受験すると決めた時も、オカンは快く送り出してくれた。
それなのにボクは大学は留年するし、就職はしないし、全く最低の生活を送っていた。

そんな生活にピリオドを打とうと必死で働き出した矢先、
故郷のオカン(樹木希林)の病が完全に癒えていないことを知る。
15歳で親元を離れてから15年。
親子の新しい生活が東京で始まる。

これはあなたにも訪れる物語です。

たぶん誰にでもある親子の情愛と、そしてどんな深い繋がりにもやがて来る別れの時。。。
そのときを淡々と綴っていきます。

始めはオカンの目線で見ていました。
頼りない息子を責めもせず、何もかも受け止めて悠然と構えるオカンの姿と
小さなことでうろたえてしまう自分と、比べて見ていました。
そして、オカンの病が進行する頃には
私は、自分の母親と弟を見ているような錯覚に陥りました。

弟も田舎から上京して美大に入りました。
まあ、田舎の実直な人から見れば、大学とは言え、ほとんど「道楽」に思われてたみたいです。
両親はそれでも弟を送り出し、遠くからいつも心配していました。
やっと卒業しても、なかなか一つの会社に落ち着かず
特に母にとっては胸が痛む歳月だったと思います。
そんな弟もやっと落ち着いて、時々は実家に顔を出して、けんかしながらも母と買い物にいったりして
安心していた頃、突然母が倒れました。
倒れたきり、もう目覚めることはなかったのですが
亡くなるまでの1週間、ほとんど母の側から離れることのなかった弟の姿は痛ましかったです。

同じ母の子供でも
女の私は「現実」に目が向きます。
残してきた家族のこと、仕事のこと、残される父のこと、実家の細々したこと。
弟はそんなものをすっ飛ばして、母が眠り続けている間はただ母のことだけを想っているようでした。

上の子である私がどこか親に遠慮がちに暮らしてきたのとは反対に
なんの屈託もなく母と喧嘩しながら暮らしてきた弟と母の繋がりは、私とは違った「濃さ」を持っていることを思い知らされました。

娘が公開日に観た、というので感想を訊いてみたら
「う~ん、思ったより淡々としていたね。もっと泣かせようと仕掛けてくるのかと思った。」
という答えが返ってきました。

それは、だって、この物語がオカンの死をただ悲しんでるだけの物語じゃないから。
オカンが生きた日々を描いてる物語だから。
訪れる「死」は、淡々とした日常の延長線上にあるもので
けっして特別のものじゃない。
形は違うかもしれないけれど、誰もが必ず経験することなのだから。

娘が、その淡々と描かれているひとつひとつのことが、とても大切だということに気がつくのは、
もう少し先のことなのかもしれないですね。

『楽しいときは鈴が坂を転がっていくように一瞬のうちに過ぎ去って、後には鈴の音色だけが残る。』
過ぎ去って行った日々は取り戻すことが出来ないけど
せめてその鈴の音を忘れないように、
これから自分が残す鈴の音が、思い出した誰かさんを憂鬱にさせることがないようにしたいものです。




 


それでもボクはやっていない

2007-01-24 | 邦画

就職の面接試験に向かう朝の満員電車の中で、金子徹平(加瀬亮)は痴漢に間違われて逮捕されてしまう。
連れて行かれた警察署では、徹平の言い分も満足に聞かれず、ついに起訴され裁判になってしまう。
身の潔白を証明するため、徹平の長い戦いが始まった。

普通に生活をしていれば、裁判所など足を踏み入れることなく一生を過ごす人が大多数だと思います。
警察署だって余程のことがない限りお世話になることはないはずです。
でも、もし何かが自分の身に降りかかったとき、自分にやましいことがない限り
警察も裁判所も強い味方になってくれる所だと思っていました。
そんなこと思ってた私はとんだ世間知らずでした。
冤罪だろうがなんだろうが、逮捕されたらほとんどのことは「有罪」を前提にして進められてしまうんですね。

記憶に間違いがなければ中学の時に習った「三権分立」。
あれも建前みたいです。
裁判所だって国のひとつの歯車なわけで、「無罪」にするということは警察や検察の面子をつぶしてしまうことになるわけですね。
それは、やっぱり、あまり好ましくないわけですよね。。。。

殺人だとか大きな事件になれば、捜査もかなり慎重に行われるのでしょうが
毎日こまごまと起こる事件、当事者にとっては重大なことでも
「痴漢」なんて余程強力な目撃者でも出ない限り、無実の証明なんかできないし
なにより捜査するつもりも暇もないみたいです。
「無実」を叫んで裁判に持ち込んでも、勝てる見込みはほとんどなく
何ヶ月も拘留され尋問され、神経がズタズタにされます。
たとえ「無実」でも罪を認めてさっさと示談にしてしまえばそれでOK。
無実の罪を着せられた人は自分の誇りを捨てて
本物の痴漢だけが喜ぶ、そしてまた繰り返す。。そんな図式が出来ているようです。

映画は、その逮捕から拘留、取調べ、裁判、判決、と実に丹念に描いています。
自分が傍聴席に座っているような気がしました。
恐かったです。
静かに、恐かったです。
そして同時に可笑しさもありました。
その可笑しさは、どこからきてるのかと考えたとき、
この国の「裁判」のあり方そのものが可笑しいのだと気がつきました。

帰ってきてから新聞を開いたら「平成21年度から裁判員制度が始まりますよ」というお知らせが
大々的に載っていました。
法の番人であるはずの裁判官ですら人を裁くというのは難しいことです。
もし、自分が突然に人を裁く立場になったらどうしたらいいのでしょう。
そして、今、もっと切実に心配なのが、毎朝満員電車に乗ってるダンナと息子です。
ダンナはずっと前から、かなり気を遣って電車に乗ってるらしいです。
何年か前、まだ痴漢の冤罪事件の話など聞かなかった頃、
知り合いの警察官の人が、「満員電車に乗るときは必ず両手でつり革を持って乗る」と言ってたのを聞いて、「考えすぎ」と笑ったのですが、
もしかしたら彼は冤罪の恐さというものを、職業柄、身をもって知っていたのかもしれません。

周防監督、11年ぶりの映画だそうですが、丹念な取材がうかがえる映画でした。
あのラストにも監督の強い意志のようなものが感じられました。
警察と裁判所にはちゃんと正義の味方でいて欲しい。
そんな当たり前のことを願わずにいられないのは、なんとも情けなかったです。
「女性専用車両」を望んでいるのは、冤罪に怯えるおじさんたちなのかもしれません。






武士の一分

2006-12-02 | 邦画

東北の小藩、海坂藩の下級武士、三村新之丞(木村拓哉)は藩主の毒見役を務めている。
新之丞にとって不本意な仕事ではあるものの、美しい妻、加世(壇れい)と
つましいながらも幸せな日々を送っていた。
そんな幸せな日々を突然に揺るがすような出来事が起こる。
毒見を努めていた新之丞が毒にあたって失明してしまうのだ。
そして彼は視力だけでなく、もっと大切なものを失うことになってしまう。

最初に言っておきますが大の「藤沢周平ファン」です。
原作に思い入れがある場合、どうしても映画化にあたっては構えてしまいます。
自分の中に出来上がった藤沢ワールドにどうしても照らし合わせてしまうからです。
特に、主演、木村拓哉。ということが正直、ものすごく不安でした。
彼の持ち味である、どんなときでもキムタク流ナチュラル?な演技が、どうしても盲目の武士という役に合わないような気がしていたのです。

でもそれは杞憂だったようです。
最初の出だしこそハラハラしましたが、
新之丞が失明してからの演技には時々ゾクりとすることがありました。
時代劇、下級武士、庄内弁、盲目。というかなり制限された設定の役柄が、いつもの木村拓哉の影を薄くしたのかもしれません。

藤沢作品を思うとき、忘れてはいけないのが「海坂藩」という架空の藩です。
藤沢周平の故郷である山形県鶴岡市の辺りをイメージして作った藩のようです。
その美しい風景もいつも楽しみのひとつなのですが、今回は風景の映像がほとんどなく
それに変わって色々な音が印象に残りました。
蛙の声、蝉の声、風の音。。。
その音が季節の移り変わりや、時には新之丞の心の動きを教えてくれます。
盲目になってしまった新之丞の心の動きを表すには、美しい風景よりも音のほうが適切だったのかもしれませんね。

物語は夫婦の愛を描いています。
武士として絶対に譲れないもの、武士の一分。
これがなくなったら倒れてしまう。死んでしまう。というほど大切なものです。
ある人にとっては地位や名誉や財産かもしれません。
新之丞が「武士の一分」を守るために命を懸けて戦いを挑んだ相手は、新之丞に片腕を切り落とされ自害してしまいます。
片腕で生きるのは武士の面目が立たないと思ったのでしょう。
彼にとっての武士の一分は地位や名誉だけだったのかもしれません。
何か目に見えるものに自分の「一分」を見出していた者は、もろいものなのかもしれませんね。

映画は小説よりも少しユーモラスに描かれています。
三村家の中間の徳平(笹野高史)、新之丞の叔母の以寧(桃井かおり)。
この二人が、暗く重くなりがちな話にいい意味での軽さを出してくれます
以寧は小説の中では叔母ではなくて従姉妹、それも一時は新之丞との縁談があった人物として登場しています。
映画を観てから小説を読んでみるのも面白いかもしれません。
「盲目剣谺返し」という小説です。





 


フラガール

2006-09-27 | 邦画



昭和40年、炭鉱の町福島県いわき市。
時代の変化とともに日本中の炭鉱が閉山に追い込まれ、いわきの常磐炭鉱も例外ではありませんでした。
炭鉱の縮小に伴う大量の解雇は住民に大打撃を与えます。
そんななか、会社は雇用の場を確保するため坑道に噴出する温泉を利用して炭鉱の町に「ハワイ」を作ろうとします。
「ハワイ」の目玉は炭鉱の娘達が踊るフラダンス。
東京からフラダンスの先生(松雪泰子)を招いて猛特訓が始まります。

ウォーターボーイズのような、
スィングガールズのような、
そして最近のキンキーブーツのような、普通の若者達が一発逆転!きらきら輝いていく物語です。

男も女もこの町に生まれたものは何の疑いもなく炭鉱で働いてきました。
仕事には危険がつきもの。歯を食いしばって耐えるもの。
そんな考え方が染み付いてる親世代にとって、ハワイやらフラダンスやらは仕事とは思えないわけです。
それでも炭鉱の仕事が無くなれば生活出来なくなります。
若い娘っこたちのほうがずっと現実的でした。
生活のため、親のため、町のため、
そして最後には自分の人生を輝かせるためにフラダンスに打ち込んでいきます。

常磐ハワイアンセンター、今のスパリゾート・ハワイアンズが出来るまでの実話だそうなので
ストーリー的には先が読めてしまうのですが、そんなことは全然関係ありませんでした。
いつの間にか泣いている自分がいました。
泣くというよりは自然に涙が伝い落ちてくるような感じでした。
先が読めるような話をここまで魅せてくれるのは、監督の演出も良かったのかもしれませんが、
とにかく登場人物がすごく魅力的でした。

松雪泰子の気の強い先生も。
トヨエツの素朴な兄ちゃんも。
富司純子の頑固な母親も。
岸部一徳の人の良い部長?も。納得の配役でした。
そしてなにより蒼井優、南海キャンディーズのしずちゃんをはじめとするフラガールズ。
素朴な田舎娘達がフラの衣装を身に着けたときのなんと可愛らしいこと。
圧巻のフラダンスシーンでした。

東北出身者としてはいつものことながら方言も気になってしまうのですが、
驚いたことに、岸部一徳が早口でまくし立てた時、私、分かりませんでした
字幕を出してくれ~と思いました
故郷を離れて長くなったとはいえ、自分はネイティブだと思ってましたのでちょいと動揺しました。
東北といっても場所によって言葉は違うのでしょうし、ある程度映画向けに誇張されてる部分もあるのでしょうね。

それはそれとして、
すごく「常磐ハワイアンセンター」に行ってみたくなった私です。
たくさんの人たちの夢と情熱でできたものだなんて知りませんでした。
自分以外の誰かのために、町のためにがんばる。という若者が普通だった頃の日本。
そして自分以外の何かのためにがんばる。ということが結果として自分を輝かせるということ。
あの頃より生活は豊かになったかもしれないけど、それと引き換えに失くしてしまったものもあるのだなぁということを考えてしまいました。













 


蛇イチゴ

2006-09-24 | 邦画



明智家。どこにでもありそうな平凡な家庭。
小学校の教師をしている娘の倫子(つみきみほ)は同僚の鎌田(手塚とおる)との結婚を考えている。
母(大谷直子)は痴呆症の祖父(笑福亭松之助)の介護と家事を一人でこなすしっかり者。
父(平泉成)はまじめな会社員。
しかし突然の祖父の死で、平凡な家庭の秘密が浮かびあがる。
祖父の葬式に10年ぶりに現れた放蕩息子の周冶(宮迫博之)が事態を収めようとするのだが。。。

先週観た「ゆれる」の西川美和監督の監督第1作。
ホームドラマというにはシニカルで、コメディというには毒がある。
見た目は赤くて可愛い実をつける「蛇イチゴ」。
見かけとはあまりにも違う名前は「毒イチゴ」を思わせる。
でも実際には毒はないそうだ。
食べるとかなりまずいらしいけど。

明智家もそんな家庭だ。
勘当した放蕩息子がいることは、倫子の恋人の鎌田に隠している。
父は仕事人間の振りをしてるけど、リストラされて巨額の借金を抱えている。
母は痴呆の義父を優しく介護してるように見えるが、実は疎ましく思ってる。
そして消極的な殺人。まで犯してしまう。
放蕩息子の口八丁はいかにも胡散臭い人生を送ってきた人間に見える。

誰でも少しは持ってるだろう表と裏。2面性。
家庭という本来暖かいはずの場所で見せ付けられる人間のずるさや弱さ、見栄や欲にちょっと怖くなる。
役者の淡々とした演技があまりにもリアルな感じで、
自分が襖の隙間から覗き見でもしているような気になってしまう。

家庭の平和を守るために,隠さなければいけないものがあるとしたら家庭ってなんだろう。
そう思った時,さて,自分はどうなんだ。と考える。
胸の中にあること全部ぶちまけてる?
さすがにヤミ金に借金は抱えてないけど,言っていいこと悪いこと,そんな選択を無意識にしながら暮らしているんじゃないかい?
。。。。だってそのほうが絶対平和だもの。

その無意識の選択が不意に崩れたとき,家庭は崩壊してしまうのだろうか,
見えないものを信じることは出来るのだろうか、と映画は問いかける。
問いかけられた質問の重さに応えあぐねているうちに、映画は軽やかに幕をおろしてしまう。
監督がラストシーンに残した余韻は,観ている私にどこまでも答えを考えさせる。

すったもんだしながらも家庭は再生して,何もなかったように朝ごはんなんか食べてるんじゃないのかな。
家族って,家庭って,たぶんすごくしぶといものなのだと思うから。





ゆれる

2006-09-17 | 邦画



猛(オダギリジョー)は東京でカメラマンとして活躍している。
田舎の父(伊武雅刀)とは折り合いが悪く、母が亡くなってからはほとんど実家に帰ることもない。
そんな冷め切った父と猛の間を取り結ぶのが、実家のガソリンスタンドを継いでいる兄の稔(香川照之)だ。
母の法事で久しぶりに実家に帰った猛は、幼馴染の智恵子(真木ようこ)と再会する。
智恵子に思いを寄せているらしい稔の気持ちを知りながらも、猛は智恵子と関係をもってしまう。
次の日、3人で出かけた渓谷。
吊橋の上にいた稔と智恵子。
いつの間にか吊橋の上に智恵子の姿はなく、吊橋の上には放心したようにしゃがみこむ稔がいるだけだった。

徳利からこぼれた酒がズボンを濡らしていく様。
まな板の上の切りかけのトマトの赤。
放り出されたホースが踊るように水を撒き散らす様子。
魚の大きな目玉。
子供が忘れた赤い風船。

そんなものが言葉よりも雄弁に、細かな心の動きを伝えてくれたような気がする。

猛にとって稔は母のような存在だったのかもしれない。
自分の好きな仕事が今はうまく行っているとはいえ、明日の保障は何もない浮き草のような仕事だ。
田舎で地道に誰も敵を作らないように暮らしている兄の存在が、唯一猛を支えていたものだったのだろう。
だから兄が心を寄せている智恵子を奪った。
母親を失うのを恐れるような気持ちで。
私にはそんなふうに思えた。

智恵子は昔からずっと猛と一緒に東京に出たいと思っていた。
普段はそんな気持ちをしまいこんで静かに暮らしていたのに、猛と関係したことでずっと抑えていた気持ちが抑えきれなくなってしまう。
そうなると、自分を田舎に縛り付けようとするもの全てがわずらわしくなる。
そして不幸な事件は起こってしまったのだ。

この事件は、兄弟の心の中に知らず知らずにたまっていた想いを残酷に暴き出す。
兄弟の揺れる心は、時には励まし労わりながらも、激しい言葉でお互いの心を突き刺す。
その緊張感は息苦しくなるほどだ。

事件の前夜、ひとり洗濯物をたたむ稔の背中が忘れられない。
35歳、独身。
まだ若く将来に夢を描いたり冒険も許される年齢なのに、稔の背中にはあきらめや生活の疲れがにじみ出ていた。
同じ親から生まれ、同じ環境で育ってもまるで違う兄と弟。
先に生まれたものは、育っていく過程で少しずつ弟や妹の分の荷物まで背負ってしまおうとするのかもしれない。

真実は果たしてどうだったのか。
猛の目に見えたものだけがすべてではなかったのかもしれない。
それでも、法廷という場で初めて自分の心のうちを吐露する弟を見つめる兄の目に怒りはなかった。
たとえどのような裁きでも受け入れるつもりだったのだろう。
そうすることが、稔が新しい人生を歩き出すためには必要だったのかもしれない。

重厚なテーマ。隙のない台詞。
思わず圧倒される素晴らしい演技。心の細かな動きまで映し出す映像。
重厚なテーマは兄弟の心の葛藤を描いているので、自分のことと重ねてみてしまう。
こんな大きな事件を起すことはそうはあることではないけれど、
兄弟だからこそある小さな心の行き違いは、誰にでも覚えがあるのではないだろうか。
この映画を観ながら、
兄や姉は自分の弟、妹を思い
弟や妹は自分の兄や姉を思い、いつの間にか心がゆれるのではないかと思う。

幼い頃のフィルムが思い出させた兄弟の絆。
稔の新しい人生がどこでどのような形で始まるのか分からないけれども
兄弟の手は幼い頃と同じように固く結ばれているのだと信じたい。






















メゾン・ド・ヒミコ

2006-07-30 | 邦画



小さな塗装会社で事務員として働くサオリ(柴咲コウ)。
亡くなった母の入院費用のため借金を背負い、夜はコンビ二でバイト。風俗業への転職も考える日々だ。
そんなある日、サオリの職場に春彦(オダギリジョー)という若く美しい男が訪ねてくる。
春彦は、サオリの父(田中泯)が末期癌で、老人ホームで暮らしていることをサオリに告げる。
その老人ホームはサオリの父が作った、ゲイのための老人ホームだった。
実はサオリの父は突然自分がゲイであることを告げて家を出て、それ以来音信不通になっていたのだった。
春彦はどうやら父の恋人らしい。

父を憎んでいたサオリは父に会うことを拒むが、
破格の時給と父の遺産への興味から、毎週日曜日にホームの雑用係として働くことになる。


誰もがやがて老いて死んでいくのは分かっている。
分かっていても、やがて自分が老いていくことは考えたくない。
人は自分ひとりで生まれてきたわけでもないし、死ぬ時だってひとりでは死にたくない。
せめて自分を理解してくれる人に看取られ逝きたいと願うものだと思う。
この映画で描かれるゲイの人たちの多くは、自分に正直に生きるために
家族を捨てたり、
生きていくために本当の自分を隠して働いてきた人たちばかりだ。
一見、楽しげに生きてきたように見える彼らの明るさが、老いることへの心細さを際立たせる。

先週見た「トランスアメリカ」もトランスジェンダーを題材にした映画だったのだけど、
共通してるのは核が「親子」や「家族」だということ。

自分の性への違和感や同性愛というのはすごく個人的なもので

親子の間でも分かり合うにはあまりにも壁が高すぎる問題だと思う。
ゲイの父親と娘。
ゲイの青年とゲイの青年に惹かれる娘。
ゲイを蔑む中学生とホームの住人達。

異次元に生きてるんじゃないかと思える人たちが、ふっとその壁を越えてしまう瞬間。
そんな瞬間を暖かく描いている。

寂しくて哀しくて、でも暖かくて、不思議な空気感の映画だった。
ちょっとここだけ日本じゃないような雰囲気の老人ホーム。
その老人ホームの館長は病んでいてもなお凛として美しい人で、
若い恋人は透明な色気で周りを圧倒する。
だから、その不思議なホームの住人たちの奇抜な姿さえも妖精のように見えてしまうのだ。

サオリの父親を演じた田中泯。
確か「隠し剣鬼の爪」にも出てたので舞台の役者さんかと思っていたら、舞踏家!だそうで。
身のこなし方が優雅なはずですね。



そしてその恋人役のオダギリジョー
美しい人だというのは分かってましたが、今回は思い知らされました。
サラリと質の良さそうな
シャツとパンツに素足にサンダル。
白いスーツを嫌味なく着こなす様。
男も女も中学生さえも惹きつけなければいけないこの役は、オダギリジョー以外いないんじゃないでしょうか。
いつも同じに見える柴咲コウのぶっちょ面の演技も可愛く見えてしまった。

さわやかな風の吹く今日。
胸の中にも夏の夕方のような、少し寂しくて心地よい風が吹いている。