ビター☆チョコ

店じまい後も変わらずご訪問ありがとう。
新居をかまえましたので
お近くにお越しの際はお寄りくださいませ。

バベル

2007-04-28 | 洋画【は】行

モロッコで少年が遊び半分で銃の引き金を引いた。
銃弾は1台のバスをめがけて放たれ、
バスに乗っていたスーザン(ケイト・ブランシェット)に命中した。
スーザンはアメリカ人で、夫のリチャード(ブラッド・ピット)と旅行中だった。
3人目の子供を亡くしてから、冷え込んだ夫婦の溝を埋めようとしていた旅だった。
モロッコの山道で、突然の不幸に見舞われた二人は、医者を求めて近くの村へ向かった。

一方、リチャード夫婦の留守を預かるアメリア(アドリアナ・バラーザ)は苛立っていた。
息子の結婚式が迫っているのに、リチャード夫婦が帰ってこないことには、結婚式に出かけることができないのだ。
アメリアは、リチャードの二人の子供マイクとデビーを連れて、メキシコに向かうことにする。
甥のサンチャゴ(ガエル・ガルシア・ベルナル)の車に乗り込んだ3人は、国境に向かう。
そのころ、東京ではヤスジロー(役所広司)を探す刑事の姿があった。
世界のあちこちでバラバラに起きた出来事は、実は関係のあるものだったのだ。

物事が順調に進んでいるとき
私たちは、つい傲慢な気持ちを持ってしまう。
誰の力も借りずに、自分ひとりの力で生きてきたようなつもりになる。

でも、いったん物事が悪いほうへ転がりだすと
ボタンを掛け違えたように
次々と悪いことが連鎖して起こって
傲慢な気持ちは、もろく崩れ去る。

誰かに責任を押し付けたくなる。
逃げたくなる。
叫びたい。
誰か助けて。
大声で助けを呼びたくなる。

でも、それがもし、言葉の繋がらない場所だったら?

大昔、世界中の人々は、ひとつの同じ言語を話していたという
しかし、神の怒りに触れ、神は言語をばらばらにし
人々の心もバラバラになったのだという。

モロッコ、アメリカ、メキシコ
舞台が変わるたびに、空が大きくスクリーンに映し出される。
東京のクラブの天井にまで空が映し出される。
そうなんだ。
まだ、全てがバラバラになったわけではないんだ。
少なくとも、まだ繋がっているものがある。

同じ言語を持っていても、繋がらない想いもある。
誰もが、人と人との距離の取り方に悩んでいる。
伝えきれない想いを抱えた時、人は人のぬくもりを求めるのかもしれない。

言葉を持たないチエコ(菊池凛子)は、吐き出せない想いを胸に抱えていた。
母に自殺されてしまった悲しみを、父のヤスジローにも誰にも吐き出せないでいる。
チエコが望んでいるのは、なぐさめの言葉でもない。
ただ誰かにそっと抱きしめてもらいたいのだ。
その願いを伝えるためにとったチエコの行動は、あまりにも突飛で痛々しくて
観ているこちらの心まで、ヒリヒリと痛くなってくる。

湧き上がるような感動を期待してはいけない映画だと思う。
どこか痛さを感じて
それでも暗い夜道にポツンを灯った明かりを見つけて
映画館を出てこれたら、それでいいのだと思う。

どうやって想いを伝えよう。
人と人との距離を、どうとったらいいのだろう。
誰もが悩むことだけど、
答えなんかないし、出せっこないのだ。
きっと、ずっとずっと生きている限り、それぞれが探し続けていくものなんだと思う。





 


クィーン

2007-04-27 | 洋画【か】行


1997年、8月。
パリでダイアナ元皇太子妃が事故死する。
そのニュースは世界中を駆け巡り、イギリス国民だけでなく世界中が悲しみにくれた。
そんななかイギリス王室は、
ダイアナは「元」皇太子妃で、今は民間人であるとして沈黙するのだった。


あの日から、もう10年が過ぎようとしている。
ダイアナ元皇太子妃が亡くなった瞬間から、テレビはダイアナ一色に変わり
何も関係のない遠い国にいる私たちまでもが、沈黙を守り続けるイギリス王室の動向に注目したものだった。
ダイアナ妃という華やかなスター性をもった女性を失った悲しみは
やがてイギリス王室への批判というものに形を変えていく。

誰もが知りたいと願ったのに
誰も知りえなかったあの空白の時間。
そこにいたのは
冷淡な女王ではなく、自分に与えられた宿命を背負って生きようとする一人の女性だった。

ダイアナの死に対する国民の過剰な悲しみに
エリザベス女王(ヘレン・ミレン)は違和感を覚える。
女王が思うに
悲しみはもっと慎み深いものなのだ。
マスコミに煽られ、派手なパフォーマンスばかりに注目が集まることにも違和感を持っている。

若くして望まずに即位し
激動の時代を一国の長として切り抜け
母として子供を育て
執務が第一、自分のことは二の次、という姿勢を貫いてきた女王にとって
王室に嫁ぎながら、普通の女性と同じ幸せを求め続けるダイアナの行動は
どうしても理解できないことだったのかもしれない。

静かな城の奥深くで、女王は自分の中にある嫉妬、孤独、疎外感と向き合っている。

そしてそんな女王に助言をし続けるのが就任したばかりのブレア首相。
女王を尊敬しながらも、イギリスに新しい風を入れようとしている首相と
昔ながらの君主制を守りたい女王。
微妙に考えの違う二人が、静かに火花をちらし
ついに女王は英国王室の『とるべき道』を決断する。

威厳と品格を保ちながら
ひとり涙を流す女王の姿。
その姿は、はるかに遠い世界の人でありながら
とても身近なひとりの女性に感じられた。

テレビで見る女王の姿はいつもフォーマルなものなので
広大な領地で車を運転する姿や
ヘアピンをつけたガウン姿
着ているセーターで眼鏡を拭く様子がとてもリアルで
いっそう、親近感を感じる。
ダンナさんのエジンバラ公が寝る前に女王に
「おやすみ、キャベツちゃん。。」なーんて本当に言ってるのかどうか分からないけど
ちょっとした覗き見気分にさせられてしまう。
それほどキャストがみんな実物に良く似ているのだ。

あの衝撃的な事故から10年たったとはいえ
人々の記憶に、まだはっきりと残っているこの時期に
これほどまで、生々しく「女王」の心情を描いた映画が作られて上映される、ということに驚いてしまう。
昭和天皇が亡くなってから20年近くたって、
やっと外国人の監督の手で撮られた『太陽』という映画が日本で公開されたのが去年の夏のこと。
それを思うとき、英国王室の懐の深さを感じてしまう。

王室の立場からすれば
世間に知られたくないような本音のセリフもぽんぽん飛び出す。
ダイアナの評判が世間でどんなに良くても
王室の中では「困り者」であったことを女王も認める発言をしている。
ダイアナを愛するイギリス国民が見れば
王室をますます悪者に追い込んでしまいそうなネタがあふれているのに
不思議なことに
女王が一人の人間として
様々な葛藤を抱えながら生きていることを知ることは
女王をよりいっそう魅力的に思わせてしまうのだ。
このことは
王室にごく近い筋からの協力を得て
出来るだけ事実に近く、
そして細心の注意を払って書き上げたであろう脚本家の苦労を伺わせる。

世間のバッシングを一身に受け
ひとりテレビカメラの前に立つ女王の姿は凛としていた。














葉っぱキラキラの朝

2007-04-26 | 

ホントに久しぶりのおひさまがうれしい朝。

庭の沙羅と金木犀の葉っぱに
朝の光があたって
キラキラときれいでした。



写真のいいところは
『写したものしか写らない』こと。

こうしてみてみると
とても狭いせまーい我が家の庭に
ゴチャゴチャに植わってる木、には見えないでしょ?
どこかの森の一画、ぐらいには見えませんかね?(無理やり/笑)
高級リゾート地、とは言いませんけど。

。。。いいの、いいの。
そうやって『だましだまし』やって行くのが私のやり方なんだから。

ちょっと想像してみる。
空想してみる。
ついでに妄想してみる。
入り込みすぎると出てこれなくなったりして






ラブソングができるまで

2007-04-25 | 洋画【ら】行


アレックス( ヒュー・グラント)は80年代に一世を風靡したポップスターだった。
しかしそれは遠い日の栄光。
今は往年のギャル達相手のしょぼい営業で食いつなぐ日々だ。
そんなアレックスに返り咲きのチャンスがやってきた。
人気歌手のコーラから新曲を依頼されたのだ。
とはいえ、長年の営業で作曲は久しぶり。
おまけにアレックスには作詞のセンスが全くない。
困り果てていたアレックスは、バイトで植木に水をやりにきていたソフィー(ドリュー・バリモア)に
作詞の才能があることを発見する。

ヒューの魅力が全開。
軽快なテンポで物語は進んでいく。
もう~~!!
とにかく・もう~~ ヒュー♪ヒュー♪ヒュー♪

ヘタレで(笑)
いいかげんで
プレイボーイで
それでもどこか憎めなくて
こんな役をやらせたらヒューの右に出るものはいない(笑)
いつも思うのだけど、ヒューはもう一生このままで、この線で行って欲しいと強く思う。

80年代、どんな歌が流行ったのかとっさに思い浮かばないのだが
そう、この80年代って時代はポップスが不毛の時代だったそうな。(なにかで読んだ記憶が)
それでもヒューが演じるアレックスの妙な腰振りダンスと
スカッと突き抜けたような脳天気な歌と
微妙な衣装が、80年代の空気を感じさせてくれる。

そしてアレックスは時代が変わった今も、その過去に生きている。
ソフィーもまたつらい過去の恋に縛られたまま生きている。
そんな二人が出会って
二人でラブソングを作るのだから、
これはもう「恋」が生まれないはずがない。

だから観客は安心して
ヒューの魅力に酔うことができる。

踊りと笑いと、そしてほろりとさせられちゃう歌と
ソフィー役のキュートなドリューも
脇で光ったコーラとソフィーの姉も
隅々まで楽しむことができる。

ここまで楽しませてもらって
エンドロールまで楽しませてくれるとは
すごい大サービス、なのでした。








 


みそあん柏餅

2007-04-23 | 食べたり飲んだり

昨日は義父の三回忌でした。
東北は桜が満開でとてもいい時期なのですが
昨日はあいにくの雨でした。

義父の兄妹はもう誰も残っていないので
集まったのは私たち息子夫婦、そして義母の姉妹夫婦。
ほんとうに内輪だけの法要でした。
昨年の1回忌よりは義母の顔もずっと明るくて
それでも、昨年、元気な様子で法要に参列してくれた人が
今年はもういなくなってしまったり
短いようでいろいろなことがあった1年を思いました。

義母の姉妹は
かならずお茶菓子を買ってきてくれます。
それも大量に。
わたしなぞ、特に生菓子を買う時は
その日に食べきれる分しか買わないのですが
義母たちくらいの年の女の人は
「おなかいっぱい食べさせる」ということが
自分の使命だと思ってるような節があります。

私の母も母の姉妹達も、いつもそうでした。
この人たちが我が家にやってくると
普段、ほとんど空に近い我が家の冷蔵庫が
食べ物で満杯になって
なんだか息苦しくなったものでした。

さて、昨日もそんな訳で
大量の柏餅を分けてもらって帰ってきました。

白いのが「みそあん」
黒いのは普通のあんこです。



ダンナは「みそあんがあるなんて知らなかった。」
。。。と言い張るのですが
ダンナの半分も生きていない子供達は
二人とも知ってました。
もちろん、私も知ってます。

あまり「知らなかった」と言い張られると
ダンナが留守の時に
子供とコソコソ食べているんじゃないかと
疑われてるような気がして
なーんか居心地が悪いのでした(笑)

私の思い過ごしでしょうけど
すこーし、心当たりもあったりして(笑)








 


アボカド シュリンプ ベーグル

2007-04-21 | 食べたり飲んだり

アボカドだけ食べても
そんなにおいしいと思わないのに
アボカドに海老が加わって
マヨネーズソースがかかって
軽く焼いたベーグルと食べると
なんでこんなにおいしいんだろ。



アボカドと酢飯とのりとマヨもいいよね。

あ、でも
カプチーノにシナモンはやだ。
アップルパイにシナモンはいいけど。

組み合わせの問題、なんでしょうね。

 

 




プリンと夢

2007-04-19 | 食べたり飲んだり

実はプリンの最高峰は『プッチンプリン』か
もしくは、プリンの素で作るハウスのプリンだと思ってる。

あのお店のプリンがおいしい、とか聞くと
一応食べてみても
どーも、私的には『プッチンプリン』が一番だ。

今日は
プリンが評判のお店で
『レアチーズ』を食べてきた。



連れが食べたのは評判の『プリン』なのだが
連れも実はハウスのプリンが一番好きなんだそうだ。
子供の頃、あのプリンの素で作るプリンを
独り占めしたくて仕方なかったそうだ。

それは私も同じ。

できればお鍋一杯、大きなボール一杯に作ったものを
ひとりでスプーンですくって食べてみたい。

うわー夢だよね、一生の夢だよね。

いい年をした大人がプリンの話で盛り上がって
別れてきたのだが

帰りに運転しながら、ふと思う。

一生の夢、なんて言わなくても
今すぐ叶えられる夢なのに
なんで叶えないんだろう。

子供の時には夢でも
大人になった今は、
すぐにでも何度でも叶えられることだ。

もし、おなかでも壊して
大好きなプリンが嫌いになったら困るから?


夢、夢、と言いながら
現実に叶いそうなことでも
夢のままにしてしまってることって
案外多いのかもしれない。


東京タワー オカンとボクと、時々、オトン

2007-04-18 | 邦画

ありえないほどの自由人であるオトン(小林薫)と別居したオカン(内田也哉子)は、女手ひとつでボク(オダギリジョー)を育ててきた。
オカンはどんなときもボクを受け止めてきた。
親元を離れて遠くの高校に進学した時も、東京の美大を受験すると決めた時も、オカンは快く送り出してくれた。
それなのにボクは大学は留年するし、就職はしないし、全く最低の生活を送っていた。

そんな生活にピリオドを打とうと必死で働き出した矢先、
故郷のオカン(樹木希林)の病が完全に癒えていないことを知る。
15歳で親元を離れてから15年。
親子の新しい生活が東京で始まる。

これはあなたにも訪れる物語です。

たぶん誰にでもある親子の情愛と、そしてどんな深い繋がりにもやがて来る別れの時。。。
そのときを淡々と綴っていきます。

始めはオカンの目線で見ていました。
頼りない息子を責めもせず、何もかも受け止めて悠然と構えるオカンの姿と
小さなことでうろたえてしまう自分と、比べて見ていました。
そして、オカンの病が進行する頃には
私は、自分の母親と弟を見ているような錯覚に陥りました。

弟も田舎から上京して美大に入りました。
まあ、田舎の実直な人から見れば、大学とは言え、ほとんど「道楽」に思われてたみたいです。
両親はそれでも弟を送り出し、遠くからいつも心配していました。
やっと卒業しても、なかなか一つの会社に落ち着かず
特に母にとっては胸が痛む歳月だったと思います。
そんな弟もやっと落ち着いて、時々は実家に顔を出して、けんかしながらも母と買い物にいったりして
安心していた頃、突然母が倒れました。
倒れたきり、もう目覚めることはなかったのですが
亡くなるまでの1週間、ほとんど母の側から離れることのなかった弟の姿は痛ましかったです。

同じ母の子供でも
女の私は「現実」に目が向きます。
残してきた家族のこと、仕事のこと、残される父のこと、実家の細々したこと。
弟はそんなものをすっ飛ばして、母が眠り続けている間はただ母のことだけを想っているようでした。

上の子である私がどこか親に遠慮がちに暮らしてきたのとは反対に
なんの屈託もなく母と喧嘩しながら暮らしてきた弟と母の繋がりは、私とは違った「濃さ」を持っていることを思い知らされました。

娘が公開日に観た、というので感想を訊いてみたら
「う~ん、思ったより淡々としていたね。もっと泣かせようと仕掛けてくるのかと思った。」
という答えが返ってきました。

それは、だって、この物語がオカンの死をただ悲しんでるだけの物語じゃないから。
オカンが生きた日々を描いてる物語だから。
訪れる「死」は、淡々とした日常の延長線上にあるもので
けっして特別のものじゃない。
形は違うかもしれないけれど、誰もが必ず経験することなのだから。

娘が、その淡々と描かれているひとつひとつのことが、とても大切だということに気がつくのは、
もう少し先のことなのかもしれないですね。

『楽しいときは鈴が坂を転がっていくように一瞬のうちに過ぎ去って、後には鈴の音色だけが残る。』
過ぎ去って行った日々は取り戻すことが出来ないけど
せめてその鈴の音を忘れないように、
これから自分が残す鈴の音が、思い出した誰かさんを憂鬱にさせることがないようにしたいものです。




 


古うさぎ

2007-04-17 | 日々のこと

寒いですね。
雨も降ってます。

あまりにも寒いのでストーブをつけました。
ほんのちょっと灯油が残っていたので。
この灯油がなくなる頃には
暖かくなるといいのですけどね。

実は、もう寒くなることはないだろうと
娘がテツのケージを掃除したついでに
テツの冬の必需品のヒーターも撤去したのですが
撤去したとたんに、この寒さです。

テツもやっぱり寒いらしくて
すぐにストーブの前にやってきます。



野生で暮らしてる仲間には見せられない
堕落した姿です。。。



おもいっきり平らになった姿は
「敷物」みたいです。

ちょっと前まで誰かが近寄ると
どんなに寒い日でも場所を空けてくれたのに
最近は平然と、このまま、です。
うさぎも古くなると
ずうずうしくなるみたいです。



スケキヨしながら

2007-04-15 | 日々のこと
週末の夜はお風呂上りにパックをします。
今さら。。なのですが
超乾燥肌ゆえ、たとえ気休めでも(笑)
こーゆーことは必要なのです。

これが家族にはすこぶる評判が悪いです。
風呂上りに淡々とパックして
普通に座ってジュースなど飲んでると
不意に目にした家族はエライたまげるらしいです。

パックする時は「ひと言断ってからしてくれ」と言うので
パックする前に「これからスケキヨします」
と断ってからすることにしてます。

『スケキヨ』とはあの『犬神家の一族』の『佐清』です。
美容液を沁みこませた白い紙のパックが
ちょうどあのスケキヨの白いマスクのようだからです。

むかーし、まだ私が小学生だった頃
母も夜にパックすることがありました。
あの頃、母がしてたパックは
塗って、固まるのを待って、ピリピリっと剥がすタイプのものでした。
テカテカに固まったパックを剥がすのを見るのも楽しみでした。

そんなパックだから、
ちゃんと固まるまで、無表情で待ってなくちゃいけない。
子供はそれが面白いものだから
なんとかして笑わせようとして
本気で母に怒られたりしたものです。

私が小学生の頃のことだから
その時の母はまだ30代。
今の私よりはずっと年が若かったわけです。

でも、いつどんな時でも思い出す母というのは
私よりもずっと年上の大人で
圧倒的な存在感を持っています。
不思議なものですね。

「スケキヨ」してる間は暇なので
思考があちらこちらに飛びます。
思いがけないことを思い出したりして
ひとりで勝手に、笑いたくなったり、せつなくなったりしています。