ビター☆チョコ

店じまい後も変わらずご訪問ありがとう。
新居をかまえましたので
お近くにお越しの際はお寄りくださいませ。

子猫4兄弟

2006-09-19 | 日々のこと

3連休も終わり、どこかけだるい火曜日です。

世間では3連休だったかもしれませんが、土曜日は仕事。
そのほかは、息子の高校の文化祭のバザーの手伝いでちっとも連休の幸せを感じる暇もありませんでした。
無理やり時間をやり繰りして、ずっと観たかった映画を観たことだけが連休の収獲でしょうか。

あ。ひとつ嬉しいことがありました。
以前、記事に書いた子猫の一家。
こちら。
突然姿が見えなくなって心配していたのですが、元気な姿で帰ってきました。

土曜日の仕事中、夫から「子猫発見!」のメールが来てました。
家に帰ってから窓からのぞいてみると、ちょうどお隣とうちの敷地の境界あたりをチョロチョロしてました。



その夜は、次の日のバザーの準備があったので車で出かけたのですが、
そのバザーの準備中に夫からまたメール。
子猫がうちの駐車場をチョロチョロしてるから、よく見てから車を入れるように。とのメールでした。
帰ってから話を聞くと、お皿にご飯を入れて玄関のところに置いておいたらペロッと食べてしまったそうです。

それでも簡単になつくわけもなく、次の日はまたいなくなってました。
案外そうやって餌をくれるおうちが何軒かあって、楽しく気ままに暮らしているのかもしれません。
昨日、雨があがった夕方。
またうちの窓の下で、毛糸玉みたいになって4匹で遊んでました。
目が合ってもすぐには逃げないで、しばらくの間見つめ合ってしまいました。
「悪い人じゃないらしい。」ぐらいには思ってくれてるのでしょうか。

 


バタフライ・エフェクト

2006-09-18 | 洋画【は】行



エヴァン(アシュトン・カッチャー)は7歳の頃から時々記憶が欠落するブラックアウトという症状が出るようになる。
精神科の医師は治療のためにエヴァンに日記を書くことを薦める。
13歳になったエヴァンは悪友のトミー(ウィリアム・リー・スコット)とその妹ケイリー(エイミー・スマート),レニー(エルデン・ヘンソン)と一緒にある事件を起してしまう。
4人が起した事件は結局犯人がわからないままになってしまうのだが、4人の人生はその事件で大きく変わることになる。
しかしエヴァンにはその瞬間の記憶が全くない。
その事件で町の治安に不安を持ったエヴァンの母は町を去ることにする。
虐待傾向のある父や粗暴な兄と暮らすケイリーに心を残し、「必ず迎えに来る」という約束を残して町を去るエヴァン。

大学生になったエヴァンは記憶喪失になることもなくなり、ケイリーとの約束も忘れていた。
ある日、幼い頃の日記を見つけたエヴァンは、自分の欠落した記憶に興味を持ち始める。
そして、自分にある不思議な能力に気がつく。
日記を読むとその日記に書かれた過去に戻ることが出来るのだ。

映画のタイトルは、地球の裏側で蝶が羽ばたけば竜巻が起こる。というカオス理論を例えた言葉。
カオス理論とは、初期条件のわずかな違いが、予想もつかないほどの大きく違った結果を生む現象。

分かったよう分からないような、およそ私のチョイスとは思えない映画ではある。

誰だって1度は思ったことがあるのではないだろうか。
あの時こうしていれば良かった。
あの時別の道を選んでいたら、今とは違う人生があったのではないのだろうか、と。
そんなことを思うのは、不意に人生に陰りを感じた時だろう。
なにもかも順調な時は、そんなことは思わないものだ。
そんなことを思っても過去に戻ってやり直せるわけもなく、私達はただ今の状況で選べる最良の選択をして前に進むしかないのだ。

エヴァンの持っていた能力は、その不可能を可能にしてしまうことだった。
自分が約束を忘れて不幸にしてしまった初恋のケイリーの人生を幸せなものにするため、自分が失った記憶を思い出すため、彼は過去に戻って細工をしてしまう。
その結果、エヴァンとケイリーは幸せの絶頂を迎えるのだが、その幸せの絶頂の時にエヴァンがケイリーの兄を殺してしまう。
ケイリーの代わりに自分の人生が悲惨なものになってしまうのだ。

納得できないエヴァンは、また過去に戻り細工をする。
何度過去に戻っても、誰かが幸せになれば誰かが不幸になり、
皆が幸せになれば自分が不幸になる。
ケイリーと愛し合う幸せを体験してしまったエヴァンは、ケイリーが不幸になることも自分が不幸になることも耐えられないのだ。
愛する人が幸せになるためには、過去のどこに戻ればいいのか。
エヴァンは必死で考える。
そしてエヴァンがケイリーの幸せのために選んだ道は。。。胸が震えた。

良く考えればエヴァンはとてもエゴイストだし、多少の謎もあるのだが、
とてもテンポよく展開するので、とてもそんなことは考える余裕もなく
ただただ鳥肌を立てながら観ていました。(感動の鳥肌です)

DVDには別バージョンのラストシーンも2つ収録されていたのだが、やっぱり劇場版のほうがいいと思う。
別バージョンだったらエヴァンは全く学習能力のないただのアホだし、
人生ってそんなに何もかもうまくいかないものだと思うから。

過去は修正できないからこそ、今できることをきちんとやろうよ。
どんな過去でも、その過去が今の自分を作ったのだから否定は出来ない。ともいうけれど、
消してしまいたいような過去なんかないに越したことはないのだ。







 


ゆれる

2006-09-17 | 邦画



猛(オダギリジョー)は東京でカメラマンとして活躍している。
田舎の父(伊武雅刀)とは折り合いが悪く、母が亡くなってからはほとんど実家に帰ることもない。
そんな冷め切った父と猛の間を取り結ぶのが、実家のガソリンスタンドを継いでいる兄の稔(香川照之)だ。
母の法事で久しぶりに実家に帰った猛は、幼馴染の智恵子(真木ようこ)と再会する。
智恵子に思いを寄せているらしい稔の気持ちを知りながらも、猛は智恵子と関係をもってしまう。
次の日、3人で出かけた渓谷。
吊橋の上にいた稔と智恵子。
いつの間にか吊橋の上に智恵子の姿はなく、吊橋の上には放心したようにしゃがみこむ稔がいるだけだった。

徳利からこぼれた酒がズボンを濡らしていく様。
まな板の上の切りかけのトマトの赤。
放り出されたホースが踊るように水を撒き散らす様子。
魚の大きな目玉。
子供が忘れた赤い風船。

そんなものが言葉よりも雄弁に、細かな心の動きを伝えてくれたような気がする。

猛にとって稔は母のような存在だったのかもしれない。
自分の好きな仕事が今はうまく行っているとはいえ、明日の保障は何もない浮き草のような仕事だ。
田舎で地道に誰も敵を作らないように暮らしている兄の存在が、唯一猛を支えていたものだったのだろう。
だから兄が心を寄せている智恵子を奪った。
母親を失うのを恐れるような気持ちで。
私にはそんなふうに思えた。

智恵子は昔からずっと猛と一緒に東京に出たいと思っていた。
普段はそんな気持ちをしまいこんで静かに暮らしていたのに、猛と関係したことでずっと抑えていた気持ちが抑えきれなくなってしまう。
そうなると、自分を田舎に縛り付けようとするもの全てがわずらわしくなる。
そして不幸な事件は起こってしまったのだ。

この事件は、兄弟の心の中に知らず知らずにたまっていた想いを残酷に暴き出す。
兄弟の揺れる心は、時には励まし労わりながらも、激しい言葉でお互いの心を突き刺す。
その緊張感は息苦しくなるほどだ。

事件の前夜、ひとり洗濯物をたたむ稔の背中が忘れられない。
35歳、独身。
まだ若く将来に夢を描いたり冒険も許される年齢なのに、稔の背中にはあきらめや生活の疲れがにじみ出ていた。
同じ親から生まれ、同じ環境で育ってもまるで違う兄と弟。
先に生まれたものは、育っていく過程で少しずつ弟や妹の分の荷物まで背負ってしまおうとするのかもしれない。

真実は果たしてどうだったのか。
猛の目に見えたものだけがすべてではなかったのかもしれない。
それでも、法廷という場で初めて自分の心のうちを吐露する弟を見つめる兄の目に怒りはなかった。
たとえどのような裁きでも受け入れるつもりだったのだろう。
そうすることが、稔が新しい人生を歩き出すためには必要だったのかもしれない。

重厚なテーマ。隙のない台詞。
思わず圧倒される素晴らしい演技。心の細かな動きまで映し出す映像。
重厚なテーマは兄弟の心の葛藤を描いているので、自分のことと重ねてみてしまう。
こんな大きな事件を起すことはそうはあることではないけれど、
兄弟だからこそある小さな心の行き違いは、誰にでも覚えがあるのではないだろうか。
この映画を観ながら、
兄や姉は自分の弟、妹を思い
弟や妹は自分の兄や姉を思い、いつの間にか心がゆれるのではないかと思う。

幼い頃のフィルムが思い出させた兄弟の絆。
稔の新しい人生がどこでどのような形で始まるのか分からないけれども
兄弟の手は幼い頃と同じように固く結ばれているのだと信じたい。






















2006-09-15 | 日々のこと



久しぶりのお日様。

ここしばらくお世話になっていた傘を干す。

狭い庭に微妙に重ねながらも、なんとかみんなの傘を広げる。

新顔がひとり。

私の緑の傘。

長年愛用してた傘に小さな針で突いたような穴を発見したのが数ヶ月前。

まあいいや。と使い続けたのだが、おとといkarakoでこの傘を発見。

なんと1000円でおつりがきたのに、骨が多い。16本。

見せびらかしたら、娘が「おっ、番傘?」って。。。

骨の数が多いだけで、傘の雰囲気が違うもんなんだねぇ。

アジアン雑貨のお店だから、原色でもどこかアジアっぽい色の傘が数種類。

赤や黄色に比べると地味な色ではあるけれど

私にしては鮮やかな色。

こんなことで雨の日の通勤が楽しくなったりする、ささやかな日常。





マッチポイント

2006-09-14 | 洋画【ま】行



元プロテニスプレイヤーのクリス(ジョナサン・リース・マイヤーズ)は、コーチを務める高級テニスクラブで資産家の息子トムと知り合う。
野心家のクリスはトムの妹のクロエとの交際をきっかけに、上流社会への仲間入りをしようとする。
しかしクリスの心は、トムの婚約者で女優の卵のノラ(スカーレット・ヨハンソン)に強く惹かれていく。
自分の気持ちを偽って、クロエと結婚するクリス。

トムとノラは破局。
ノラはクリスの前から姿を消してしまう。
切れたかに見えたクリスとノラを結ぶ糸だったが、思いがけなく再会した二人は。。。。


映画はテニスコートから始まる。
勝負を決める大事なボールがネットにあたってしまう。
ボールがどちらのコートに落ちるかで勝負は決まってしまう。
最後は運。
誰を恨むことも出来ない。

ここで、すでにウディ・アレン監督の罠にはまってしまった。
ここにさりげなく仕掛けられた罠は最後に威力を発揮する。
おまけに私ときたら罠にはまっただけでなく、勘違いまでしてしまった。
「テニスプレイヤーの悲恋物語」だと。
ところが進むにつれ、出てくる人間が誰も彼も嫌なやつばかりで悲恋物語もいつの間にか泥沼化。
「不倫物か」と思った矢先にサスペンスに変わる。

どんな映画にでも、たとえ悪役でも魅力的な登場人物がいるものなのだが、
今回は見事に見当たらなかったような。
人間の持つ「黒くて嫌な部分」をクローズアップして見せてくれたのでしょうか。

ノラとクリス。貧しく育った二人が、とにかく成り上がろうとしてやっとその手がかりをつかむ。
しかし、憧れ続けた上流社会の中では居心地の悪さを感じている。
そんなときに出会った二人は瞬時にお互いの中に「同じ匂い」を感じたのだろう。
人目を避けて会い続けるうちに、同類だったはずの二人の境遇はどんどん変わっていく。
流されるままのノラと
流されながらも、自分の地位だけは手放すまいとするクリス。
二人の明暗を分けたのは握力の強さなのか。
その握力の強さを「運」と呼ぶのだろうか。

それにしても、この結末を「運」で片付けてしまっていいものなのだろうか。
最後に観客席からもれたどよめきのようなため息のような声。
これをウディ・アレンが聴いたら嬉しいだろうなぁと思ったりして。

結局、一番運が強かったのは誰だったのだろう。
クリスだろう。とは思っても、この先のクリスの人生を考えるととても幸せとは思えない。
心の底に絶対消えることのない罪悪感を抱えて、妻の一族の顔色を窺いながら暮らす一生。
彼が望んだ生活とはいえ、
最後に映し出された彼の顔は、まるで「運に見放された男」のように情けない顔だった。



カフェ・コムサ

2006-09-13 | 食べたり飲んだり
カフェ・コムサは「ひとりランチ」の時に入りやすいので時々利用します。

今日も幕張で映画を観たあと、ららぽーとに寄って遅いお昼になりました。
キハチのアイスが食べたかったので、軽くパスタでも食べるか~。とカフェ・コムサに入りました。
で、通されたのがこの席。



これは本物ではないのですが、カフェ・コムサのケーキにそっくりです。
食べてもおいしいけど、見た目の美しさときたら・・・

この席でケーキを食べないほどの意志の強さは持ち合わせていません。
キハチのアイスはあっさり却下して
パスタのあと、マンゴーとオレンジのタルト。食べました。





大丈夫。
そのあとすっごく歩いたから。
ららぽーとの中をウロウロ。
迷路のようなIKEAで迷子になりそうになりたぶん今日1日で10キロは歩いたんじゃないの。

食べた後に、つい言い訳してしまう自分がすごく嫌です。。。




ホテルルワンダ

2006-09-12 | 洋画【は】行



1994年、ルワンダでは長年争ってきたツチ族とフツ族の和平条約が結ばれようとしていた。
そんな矢先フツ族の大統領がツチ族に暗殺され、事態は一気に内戦へと突き進んでいく。
ルワンダの四つ星ホテルの有能な支配人ポール・ルセサバギナ(ドン・チードル)も家族を守るため、隣人を守るため、ついにはホテルに逃げ込んできた1200人もの人々を救うため、命懸けで戦う日々が始まる。

何をどう書いたらいいのか。。。自分の無知と無関心が恥ずかしかった。

私達が目にする膨大な情報は、決して公平なものではなくあくまで偏ったものなのだ。

産油国の独裁政治には目くじらを立て、
100万もの人々が虐殺されても、黙殺する。
たぶん利害関係がないから。

いわゆる大国と呼ばれる国が見捨てた国のことはほとんど大きく報道されることはないし、
たとえ報道されたとしても、豊かな遠い国にいる私達は、一瞬目を留めて、「あら怖いわね」と言ってディナーを続けるのだ。
そして次々と放映される悲惨な戦場の映像にさえも、いつの間にか慣れてしまうのだ。
たとえその内戦の種をまいたのが、テレビの「こちら側」にいる植民地時代のベルギーの悪政だとしても。
安全で快適な「こちら側」から内戦を煽り、武器を売りつけて一儲けしようという国があったとしても。

知ったからといって何が出来るわけでもないけど、知らないよりはずっといい。
他国からの救援を断たれた人々が、自分達が知る限りの外国人に電話をかけて助けを請い脱出の機会を得ているし、日本で公開の予定がなかったこの映画も、ネットの署名活動で公開にたどり着いたいきさつがある。
一人ひとりの想いが重なって大きな力になることもあるのだ。

ぜひ1度は観て欲しい映画だと思う。
そしてエンドロールも最後まで。
このエンドロールに流れる「ミリオン・ヴォイセス」の歌詞が
ルワンダの人々、そして今、争いの起こっている国の人々の望みなのだと思う。


天皇家って?

2006-09-11 | 日々のこと

すごいタイトルなので、書いた本人があせってますが。
今日、患者さんとそんな話になったのだ。
「この土壇場で男の子が生まれるなんてすごい。」という実におばさん的視点の話から、
なんで女性天皇じゃいけないんだろう。と言う話になり、
そもそも天皇って、世界的にはどんなポジションにいるのかしら。
エリザベス女王よりえらいの?
という、これまたおばさん的な話になったのでした。

でも、コレが分からない。
女王も国王も法王も大統領も、みんな同じってわけではないだろう。
こんなん習った覚えもないし、そもそも歴史の授業って明治以降になると時間がなくなって大急ぎで済まされてきたような気がする。
今、何かと外交の問題になってるのはその明治以降にあったことが後を曳いてるのに、近い昔のことよりも鎌倉幕府のこととか大昔のことばかりが記憶に残ってるような気がする。

話は反れましたが調べてみた。

天皇は日本神道の法王、皇と兼任だから「法皇」なのだそうだ。
そして下世話な言い方だけど、ランクとしては

皇帝>法王>王様>大統領>首相 

ちなみに法皇だと皇帝と兼任なので、皇帝の上の位置になるそうだ。
具体的に分かりやすく並べれば

天皇陛下>ローマ法王>エリザベス女王>アメリカ大統領etc>小泉首相etc

ということになる。
エリザベス女王も天皇陛下と同席する時は上席をゆずるし、アメリカ大統領が最敬礼するのは天皇と法王とエリザベス女王だけなのだそうだ。

そして天皇の一番の仕事は神道の法王だから
日本国民が平和に幸せに暮らせるように祈ることなのだそうだ。
「象徴」というあいまいな言葉での天皇しか知らなかったけど、
権威は天皇、権力は内閣と分業することによって、独裁者が出ないような仕組みになっていたり
何らかの原因で内閣が空中分解したときは、機能が回復するまで一時的に天皇が権力を預かるような仕組みもあるらしい。
こんなん習った?記憶がない。。。授業中寝てたのかなぁ。。。
知らなかった私が馬鹿なだけなの?

海外に行けば外交官1000人分の働きをし、
国民の幸福を邪心なしに祈り、いろんなところで重石になってる。
「象徴」どころかとんでもなく重い仕事を背負ってるではないか。

後継者の男がいなければ女でいい。とあわてて簡単に決められるものでもないし
男の子が生まれたから、良かった良かった。めでたしめでたし。でもないのじゃないか。
少しの猶予が出来たこの間に、よーくじっくりと考えたほうがいいんじゃないだろうか。

明日「命名の儀」だそうで
生まれる前から注目されている運命の男の子。
どうぞ健やかに育ってもらいたいものです。




 


ヘイフラワーとキルトシュー

2006-09-10 | 洋画【は】行



優等生のヘイフラワーとちょっとわがままなキルトシューは仲のいい姉妹。
ジャガイモの研究に没頭するお父さんと、家事が全く出来ないお母さんとの4人家族。
家事が出来ないお母さんをカバーし、わがままなキルトシューを育て、この家は小さなヘイフラワーが支えている。
しかし、ヘイフラワーはもうすぐ小学校に入学する。
学校に行くようになったら、この家はどうなるのだろう。。。ヘイフラワーは心配でたまらない。

フィンランドの児童文学の映画化だそうで、どのシーンもポストカードにでもなりそうな可愛らしさ。
「かもめ食堂」でもフィンランドのシンプルでモダンなインテリアやファッションに釘付けになったけど、
同じフィンランドでもこちらはポップでカラフルでキュートで、ヘイフラワーとキルトシューの天使のような可愛らしさも加わってまるで童話の世界のようだ。

でも、つい可愛いことに目を奪われちゃうんだけど、ホントは「親のあり方」のようなものが焦点なんじゃないのかな。

家事はまるで駄目。自分は外で働くべき人間だと思い込んでる割には、仕事探しも身が入ってないようなお母さんと、自分の研究しか頭にないお父さん。
もちろん二人の娘を愛してはいるのだけど、どうも地に足が着いてないような頼りなさを感じる。
子供って親を選べないから。
そして選べない親だけど、絶対的に愛してるし、絶対的に絆が切れることはないから難しいのだろうね。

よそはよそ。うちはうち。変わった親も面白い。
そんな風に割り切れるのは大きくなってから。
小さいうちはお母さんの焼いたパンを食べてお父さんと遊んだりする普通の家庭が良く見えるのだろうね。

「神様。どうかうちを普通のうちにしてください」
と祈りながら、家庭を支える小さなヘイフラワーがいじらしい。

・・・そして爆発。

大人でも子供でも、そんなことってあるよね。
たまってた怒りや我慢が抑えられなくなることって。

「お姉ちゃんだから」しっかりして欲しいという親の気持ちも
「お姉ちゃんだから」我慢しなきゃいけない辛さや理不尽さも両方分かる年になった私だから、
子供だっていつもいい子ではいられない
というヘイフラワーの言葉にはうなずいたり、耳が痛かったり。

自分が親になったとき、特に胸をはれるようなポリシーも持たずに、なんとかその日その日をやり繰りして暮らしてきたのだけど、これだけは絶対しないようにしようと思っていたことがある。
お姉ちゃんだからという理由だけで、子供を押さえつけないこととご近所のお友達と比べないこと。
自分が子供のときに嫌だったことだから。
でも、自分が親になってみると良く分かる。
「お姉ちゃん」ってけっこう使い勝手がいいものなのだ。

爆発しないように気持ちを吐き出すところが誰にでも必要だし、身近な人の心の動きを感じられる心配りだけはたとえ家族という親しい仲にでも必要なものかもしれない。

日本の映画なら、ここでお母さんが良妻賢母になることを誓って終わったりするのかもしれないけど、
ちょっと違うところがお国柄なのでしょうか。
家庭の中で出来ないことは地域でカバーしていこうよ。という大らかさがなんともうらやましい。

可愛いけど、その底にちょっと痛いものをかんじた映画でした。

公式サイトこちらです。
あまりの可愛らしさに、つい貼り付けてしまいました。


暗譜

2006-09-09 | 歌 ときどき ピアノ

「それじゃ、この曲は次回暗譜で弾いて終わりにしましょう。」
と言われたのが先週の火曜日。
そして未だに出来ないでいる

もともと楽譜が読めるようになりたくてピアノを習い始めたはずなのに、
初心者の今やってるのは短い曲ばかりなので、楽譜は開いてるものの「空で覚えて」弾いてるような感じだった。
だから~つまずいたら大変。
楽譜を目で追ってないから立て直すことが出来なくなっちゃうのだ。

これじゃ「楽譜を読みたい」という願いは叶わないんじゃないか。と不安になったりもしてた。
楽譜なんかただ形だけ開いてるだけだし。

ところがおかしなことに、いざ楽譜を目の前から取り去ってしまうと不思議なほど弾けないのだ。
つっかえてばかり。
親に捨てられた子供みたいに途方に暮れるだけ。

歌の時もそうなんだよね。
歌詞は完璧に覚えたはずなんだけど、必ず歌詞を書いた楽譜は前に置きたい。
置いても見ないんだけど、絶対置きたい。
断固として置く。

楽譜ってお守りみたいなものなのかなぁ。