ビター☆チョコ

店じまい後も変わらずご訪問ありがとう。
新居をかまえましたので
お近くにお越しの際はお寄りくださいませ。

ペネロピ (DVD観賞)

2008-09-24 | 洋画【は】行

イギリスの名家ウィルハーン家の5代前の当主が魔女に呪いをかけられた。
ウィルハーン家に次に生まれてくる女の子は、豚の耳と鼻を持って生まれてくる。
しかし、ウィルハーン家に生まれるのは男の子ばかり。
呪いはそのまま現代まで持ち越され
ついにウェルハーン家に運命の女の子が生まれた。
豚の耳と鼻を持った女の子。。。呪いは本当だったのだ。
ペネロピ(クリスティーナ・リッチ)と名づけられた女の子は、世間の好奇の目から避けるために死んだものとされ、屋敷の奥深くで大切に育てられた。

やがて女の子は年頃になりお婿さん探しが始まる。
死んだとされてる女の子にお婿さん?
そう、魔女の呪いは、「同じ仲間」の中で、ペネロピをほんとうに愛してくれる人が解いてくれるはずなのだ。
眠れる森の美女や白雪姫や美女と野獣のお姫様と同じように、ペネロピにも王子様が必要なのだ。

同じ仲間。。すなわちイギリスの上流階級の名家の息子。。ということで
次々に上流階級の名家の息子が屋敷に呼ばれ極秘のお見合いが行われる。
しかし、ペネロピの姿を見たとたんに仰天して逃げ出すものばかり。
俊足の執事が逃げ出すお婿さん候補を追いかけて、口止め工作をする。。という繰り返しだ。

豚の耳と豚の鼻をもったペネロピは、そんな生活にうんざりしている。
生まれてから一度も友達をもったこともなく
年頃になってお婿さんが現れるのを待つ日々。
お婿さん候補はウィルハーン家の財産目当てでやって来て、ペネロピの姿を見たとたんに血相変えて逃げ出してしまう。
そりゃー。。うんざりするよね。

そんなとき、ちょっと毛色の違うお婿さん候補がやってくる。
賭け事で家を没落させたというマックス(ジェームズ・マカヴォイ)は、ペネロピの心を初めて動かす。
お互い惹かれあいながらも、ちょっとしたすれ違いから心は繋がらず。。
でも、それがきっかけとなって
ペネロピは、生まれて初めて家を出て、街でひとりで暮らそうと決心するのだ。

カラフルでロマンチックなペネロピの部屋。
鼻は豚の鼻だけど、どこから見ても可愛らしいペネロピ。
ちょっと陰のある王子様。
金持ちのバカ息子。
ユーモラスなパパとママ。
(いちいちリアクションの大きいママ(キャサリン・オハラ)は、どこかで見た顔だな~と思ったら
そうだ「ホームアローン」のママだ。なつかし~。)
しっかりと道具立てのそろった、ロマンチックなおとぎ話。

でも、少し違うのは、往年のお姫様たちは王子様が現れるのをじっと待つだけだったけど
現代のお姫様は、どんどん自分で探しにいく。
べたべたと甘いだけのロマンチックじゃなくて、どこかスパイスがきいたロマンチックなおとぎ話なのだ。
そしてペネロピはついに気がつくのだ。
呪いを解くのは王子様じゃないってことに。
呪いを解く鍵は、自分の心のなかにあったんだってことに。

なんかねぇ~うれしくなっちゃったよ。この映画は。
そうだよ。コンプレックスも含めて自分なんだよね。
悩み多き乙女たちを、さりげなく応援してくれる。。そんな映画だね♪














ペーパームーン (DVD観賞)

2008-06-05 | 洋画【は】行

1930年代、アメリカは不況の嵐が吹き荒れていた。
そんな時代に9歳の女の子アディ(テータム・オニール)は、
母親を交通事故で亡くして、たったひとり取り残されてしまう。
親戚は遠くミズーリ州に住むおばさんだけ。
いったいアディを誰がミズーリ州まで連れて行こうかと、近所の人たちが困っているところに
気の良さそうな男(ライアン・オニール)が、ひょっこり葬式に現れた。
男はモーゼという名で、車で聖書を売り歩くセールスマンだった。

これ幸いと、無理やりアディをモーゼに押し付けて、あとは知らん顔のご近所さんたち。
困り果てたモーゼだったが、セールスマンのふりをした、実は詐欺師。
アディの母親を轢いた男の兄の元に乗り込んで、まんまと大金をせしめてしまう。
あとは、アディをミズーリ行きの汽車に乗せて放り出そう、という魂胆だ。
ところが、このアディという女の子。
詐欺師の上を行く機転と度胸の持ち主だった。
放り出すはずが、一転してアディに脅迫されてしまうモーゼ。
こうして、二人の旅が始まった。

1973年の映画だから、とてもとても古い、まだワタシが小学生か中学生か。。そんな昔の映画です。
この作品で映画初出演、親子共演のテータム・オニールがアカデミー助演女優賞を獲って
その最年少記録は、未だに破られていない。。という輝かしい映画なのです。
そして、そのあまりに有名な映画を、数十年たって初めてDVDで観た次の日に
テータム・オニールが麻薬で逮捕されたという。。なんだかワタシにとって
哀しい「曰くつき」になってしまったんでした。
マコーレ君の例もあるし、子役がうまく育つのって難しいのかしら。。と
映画の中の9歳のテータムがとっても素晴しかったので、とっても残念な気持ちになってしまったのでした。

それはさておき、
ミズーリの伯母さんの家まで、モーゼとアディは「稼ぎ」ながら旅をすることになる。
モーゼにとって、初めは「やっかいもの」だったアディが
二人で「稼ぐ」うちに、だんだん頼もしい相棒になっていくのだった。
アディはアディで、心の中には、もしやモーゼは自分の父親なのではないかという気持ちがある。
アディの母は、少なくとも3人の恋人をもっていたらしいから
その中のどうやらひとりだったらしいモーゼは、3分の1の確率を持つ父親候補なのだ。

稼いで、お金をもうけて、
そしたら家を買って、ピアノも買えるんだよね。
ここだけは女の子らしいアディの夢は
紆余曲折の末たどり着いた
ミズーリの伯母さんの家で、あっけなく叶いそうになる。

夢だったピアノの鍵盤に、そっと触れるアディ。
でも、夢みていた音色ではなかったんだ。
だって、ここにはモーゼがいない。
そう思った瞬間、アディは気づくのだった。
優しそうなおばさんも
裕福そうな家やピアノも、私をしあわせにするものじゃないんだ。
たとえパパじゃなくても、ずっと貧乏な旅暮らしでも
モーゼと一緒にいたい!!!

感動!!!のはずのラストシーンも
一筋縄じゃいかないアディとモーゼのコンビらしくて
思わずニヤリとさせられてしまうのだ。
自分にとってなにが一番大切なものなのか
9歳で気がついてしまうこの女の子、やっぱ只者じゃない。
血の繋がり以上に、もっと強い絆があるってことなんですね。
そして、その強い絆が人生という長い旅を歩く支えになるんですね。

映画のテーマ曲として使われた
It‘s Only A Paper Moon。
ジャズボーカルの名曲なのですが
この歌詞が、とってもいいです。

ボール紙の海の上に浮かぶ紙の月でも
あなたが私を信じてくれるなら本物になる。

作り物の木と、絵に描いた空でも
あなたが私を信じてくれるなら本物になる。

あなたの愛がなければ
この世は騒がしいだけのパレード。

あなたの愛がなければ
人生は安っぽいメロディー。

まるでサーカスのような
うつろではかない世界

でも、あなたが信じてくれるなら。

きっと、曲名は知らなくても
一度はどこかで聴いた覚えがあるメロディじゃないでしょうか。



ジャズって
なんだかむずかしくて敷居が高そうだけど
かなり乱暴に言ってしまえば
古い流行歌。。アメリカの懐メロみたいなものなのかなー。。なんて
最近、ジャズを聴き始めたジャズ超初心者は思ってます。
案外、有名な映画のテーマ曲になってるものも多くて
ワタシときたら、そういう映画はほとんど観ていなかったんですね。(汗)
これから、少しずつ、そういう古い映画も観ていきたいなーと思ってます。



 

 

 

 





 


フィクサー

2008-04-19 | 洋画【は】行

ニューヨークの大手法律事務所でフィクサーとして活躍するマイケル・クレイトン(ジョージ・クルーニー)。ある日、農薬会社U-ノースが訴えられていた巨額の訴訟問題の担当弁護士アーサー(トム・ウィルキンソン)が、原告との協議の大詰めに突然服を脱ぎだすという奇行を起す。
事態を収拾することを命じられたマイケルは動き出す。

そして、U-ノース社の敏腕弁護士カレン(ティルダ・スウィントン)も動き出す。

フィクサーというのは、公に出来ない案件を密かに穏便に処理する役目の人のことを言うらしい。
この「フィクサー」という題名から、きっとジョージ・クルーニー扮するマイケル・クレイトンがフィクサーとして
嬉々として活躍する物語なのだと思っていた。
ところが、どうやらマイケルはフィクサーという仕事を快く思ってないらしい。

望まない仕事を長年勤め
私生活では、副業で始めたレストランが倒産して、巨額の借金を抱えてしまってるという最悪の状況。
離婚して、今は離れて暮らす息子の成長だけが楽しみという、
ワタシが勝手に思っていた、難事件を次々に解決するかっこいい敏腕フィクサーとはちょっと違うような設定なのだ。

人生最悪の時に
持ち込まれた厄介な仕事。
腐りきっていた仕事だけど、今は引き受けるしかとる道はない。
そんな追い詰められた状況の中で、マイケルは、親友でもあったアーサーが密かにつかんでいた事実を知り、その中で、自らの人間性を回復していくのだった。

大きな組織の中で、大きな仕事をするというのは、とても誇らしいことなのだと思う。
上司に目をかけられ、期待され、期待に応えようとする。
そのうちに、どんな場合でも組織を守るということが、一番の優先事項になってしまうという恐ろしさ。
仕事という名の元で、大切なものを見失っていく怖さを感じた映画だった。

物語は、いったいどういう展開になるのか読めないような始まり方をする。
そこであきらめないで(笑)ぐっとこらえると
クライマックスに繋がる道が見えて、引き込まれていく。
アメリカの訴訟問題というのは、日本とは桁が違うらしいので、こういうことも本当に起こりうることなのかもしれないと思わせるような説得力がある。

こういう汚い世間を見続けてるマイケルが
幼い息子に
お前は心が強い子だから、絶対いい人生を送れる。そう信じてる。
そう語りかける姿が印象的だった。
最後の幕引きの鮮やかさよりも、小さな息子に語りかける言葉がとても心に残った。



 

 





 




 


ヘアスプレー

2007-11-04 | 洋画【は】行

この夏、初めて字幕つきのミュージカルを舞台で観ました。
そのミュージカルが映画化されてスクリーンに登場です。

舞台は1960年代のアメリカ、ボルチモア。
歌と踊りが大好きな太目の女の子トレーシー(ニッキー・ブロンスキー)は
テレビの「コーニー・コリンズ・ショー」に夢中。
いつか「コーニー・コリンズ・ショー」で踊るのが夢だ。

時代はどんどん新しい風を運んできても
ここボルチモアでは、まだ人種差別があからさまだ。
でも、トレーシーにはそんなことは全然関係ない。
飛び切りクールな彼らの踊りと歌に魅了され、いつか彼らと共にテレビで踊りたいと願うのだった。

トレーシーの願いのひとつは突然叶えられる。
あっという間に「コーニー・コリンズ・ショー」の人気者になり
出演者の一人、リンク(ザック・エフロン)との間にも恋の予感が♪

でも、人生って全てはうまくいかないもので
恋敵はいるし
恋敵だけじゃなく、トレーシーに圧力をかけてくる恋敵のママ(ミシェル・ファイファー)までいる。
絶対絶命のピンチもしばしば。

そんなとき助けてくれるのは
娘を深く愛するパパとママ。
そして友達。

スクリーンから次々と繰り広げられる60年代の軽快な音楽とダンス。
見つめる私は、ついつい舞台と比べている。
映画のこのシーンは、なるほど舞台だとああなるわけだ。。と
つい、映画を基準にして比べてしまうのは
やっぱり映画のほうが慣れ親しんでいるから仕方がないのかなぁ。。

そして、話はそれちゃうけど
最近、また話題を集めているあの「ALWAYS 3丁目の夕日」。
あの映画の設定が昭和30年代で、ちょうどこの「ヘアスプレー」と時代がかぶるわけなんですよね。
昭和30年代、1960年代。
もう40年以上も前、私が生まれた時代。
その昭和の時代が、どこかなつかしいセピア色で思い返されるのに
同じ時代のアメリカは、こんなに原色でまぶしくキラキラと輝いていたのかと思うと
当時の若者がアメリカに恋焦がれ、アメリカに追いつきたいと願ったこともすごく素直に納得できたりするのだ。

話は戻って。。
舞台には舞台の魅力はあるのだけど
映画は役者さんの表情まではっきり見えるからね。
そのうえ、ママの役をジョン・トラボルタが
パパの役をクリストファー・ウォーケンが演じるという楽しみまでくっついてしまった。
これは、つい、力が入りますわ。

ジョン・トラボルタのママは、全く違和感がなく
あ、こんなオバサン、いるよね~という感じで
クリストファー・ウォーケンは、すっごく優しいパパ。。のはずなんだけど
やっぱりどこか不気味。。というか、うっすらと怖い。。
これはきっと私の記憶の中にクリストファー・ウォーケン=首狩りの騎士(「スリーピー・ホロウ」)のイメージが
染み付いてしまってるからだと思うのだけど(苦笑)

物語は
人種差別の問題も出てくるし
能天気に明るいだけってわけじゃないのだけど
そこは歌とダンスの力で
ぐっと薄められてる感じですね。
舞台よりも映画のほうがもっと重さを薄めているような感じがある。

歌とダンスを楽しんで
ハッピーエンドに拍手喝采。
それだけで充分♪大満足♪

このハッピーな気持ちを少しお裾分け♪









 


ヴァージン・スーサイズ

2007-09-13 | 洋画【は】行

アメリカ、ミシガン州の閑静な住宅街。
リスボン家の美しい5人姉妹の末っ子、セシリアが
聖母マリアの肖像を胸にバスタブで手首を切った。
一命はとりとめたものの、わずか13歳の少女の自殺未遂に周囲の大人は困惑する。
「まだ人生の辛さも知らないのに」とセシリアを諭す医者に、
「先生は13歳の女の子になったことがないじゃないの」とセシリアは言い放つ。

そして、13歳の少女は、今度は本当に永遠に時間を止めてしまった。
この後、1年もたたないうちに
残された4人の姉妹がすべて自殺してしまうなど、この時、誰も想像できなかった。

音楽が、以前に観た映画を連れてくることがあります。
街で、ふと10ccの「I’m not in Love」を聴いて
そう言えば「ヴァージン・スーサイズで使われてたな。。」と思ったら
もう観たくてたまらなくなって、TSUTAYAに直行してしまいました。
ついでにサントラも一緒に借りてきてしまいました。
これは正解でした。
このサントラはとても後を引きます。
かなりのヘビーローテーションで聴いてます。

「ヴァージン・スーサイズ」
直訳すると「乙女の自殺」というタイトルなんだと思います。
少女達は「自殺」してしまうけど
この映画の中で「自殺」の重さは感じられません。
むしろ彼女達は「自殺」することで
永遠に時間を止めることに成功したような感じを受けます。

物語は、リスボン家の姉妹に憧れてた少年達が
大人になってから回想する形で進められます。
リスボン家の姉妹が、なんで死んでしまったのか。
少年達が姉妹が残した日記を読んだり、思い出をいくら語り合っても
その理由は誰にもわかりません。

姉妹がキラキラと世界中の光を集めたように輝いてたあの日々。
少年達は遠くから、憧れの眼差しで見つめるだけでした。
近くにいるのに絶対手の届かない存在。
同じような年頃なのに
彼女達の内面は「大人」で「女」で
少年達はただ、その周りでがやがやと騒々しい「子供」にすぎないのです。
姉妹は永遠に時を止め
25年たった今でも、少女のままなのに
流れる時を過ごし、大人になった少年達は
未だに少女達に追いつけないでいるようです。

自殺の理由を暴いていくような映画ではないので
もしかしたら、 物足りなさを感じる人もいるかもしれません。
映画が映し出すのは
少女が持っている「特別な時間の」輝き、淡さ、儚さ、せつなさ、危うさ、絶望、残酷さ、
そんなもの、です。
私も終始
彼女達に憧れる少年と同じ目線で彼女達を追いかけます。

乱雑な少女の部屋の香水のビンや化粧品を
くらくらするような想いで見つめたり
下着に書いたボーイフレンドの名前に、少年達と同じようにドキドキします。

少年達とほんの少し違うのは
私も昔は少女だったから、少しは思い当たることもあるところです。
自殺する直前のセシリアが
心の内側では、たぶん色々なことが渦巻いてるのにどんどん無表情になっていく様子とか
気になる男の子を無視したり、とか(苦笑)

あの年頃のときって
今より内面が激しかったような気がします。
今なら考えられないような理由で友達と絶交したり、そして仲直りしたり
どうでもいいようなことで「死ぬこと」も考えるし、
なんでこんなことで。。と思うようなことで大笑いも出来ました。

親はうっとおしいし
経済的にも自立してないし
大人に比べて不自由ではあるのですが
それでも絶対大人になるのはイヤだと思ってました。
30過ぎのオバサンが、いったい何が楽しくて生きているのだろう、と思ってました。
10代のこのときこそ、人生の中で最良の特別な時間だと思い込んでいたのです。

その最良の時を遠く過ぎて。。。
今なら「そんなことないよ。」と言えるのだけど
やっぱり、心のどこかで、あの遠い日々を懐かしむ自分がいるのでしょうね。
思い出は、時に美化されて、ふいに心の中に現れます。

思春期と呼ばれるとき
誰でも自分を危うくする可能性を持っていたのではないでしょうか。
それを乗り越えて「ただの大人」になるか
時間を止めてしまうのか。

時間の流れに乗ってしまった私は
自分が永遠に戻ることのできない世界に住み続ける姉妹に
憧れと哀れみを抱いて、
この映画を観るたび、こんなにせつなくなるのかもしれません。

ソフィア・コッポラの映す世界は
どれも淡い木漏れ日に照らされているようで
インテリアや小道具の全てに、胸がときめきます。
苦手な(苦笑)キルスティン・ダンストも
この映画の中では、なんと美しく輝いていることか。
ひとつ、注文をつけるとすれば。。。
ジョシュの髪型は。。なんとかならなかったものでしょうか。

。。いえ、そんなことは小さなことです。


夏の終わりを感じるこの頃。
せつなさがいっそう胸にせまる映画でした。



















ボルベール < 帰郷 >

2007-07-05 | 洋画【は】行

失業した夫の変わりに家計を支え、必死で働くライムンダ(ペネロペ・クロス)。
難しい年頃の一人娘パウラに手を焼きながらも、明るくたくましく生きていた。
そんなライムンダに突然、恐ろしい出来事が。
ライムンダの留守中に、パウラが、関係を迫ってきた義父を刺し殺してしまったのだ。
パウラをかばうために、夫の死体を隠す事に奔走するライムンダ。
そんな時、故郷のラ・マンチャに住む最愛の伯母の死がライムンダに伝えられる。

高らかな音をたてて交わされる、あいさつのキスの音。
生活は楽ではなさそうだけど、生き生きとしてたくましそうな女たちの姿から物語は始まる。
自分が入るお墓を生前から自分できれいに磨く、という風習のある小さな村には、生と死が身近なものとして存在しているようだ。

ライムンダが夫の死体を必死で隠していた頃
伯母の葬儀に参列したライムンダの姉のソーレ(ロラ・ドゥエニャス)は隣人のアグスティナ(ブランカ・ポルティージョ)から不思議な話を聞く。
昔、火事で死んだはずのソーレとライムンダの母が、亡くなった一人暮らしの伯母の世話をしていたのではないかと言うのだ。
半信半疑のまま、マドリッドに帰ってきたソーレの前に死んだはずの母イレネ(カルメン・マウラ)が姿を現す。
果たして母は幽霊なのか。
生きていたとしたら、なぜ、姿を隠していたのか。
そして、姉娘のソーレの前には姿を現したのに、母はライムンダの前に姿を現そうとはしないのだ。

ライムンダには母親と分かり合えないまま、母を火事で失ったという辛いいきさつがある。
なぜ、実の母親を避けるようになったのかは、自分の胸にしまってある。
そして母のイレネにも秘密がある。
その二つの秘密がこの親子に不幸をもたらしたことは、後で明かされることになる。

死んだはずの母が姉の家に居候してることなど全然知らないライムンダは
日々の生活に奔走していた。
鍵を預かってる休業中のレストランを勝手に大繁盛させ、その合間に冷凍保存していた夫の死体を
河原に埋めてしまうという荒業までやってのける。
普通なら、正当防衛とはいえ娘の犯罪を知った時点で半狂乱になるはずなのに、信じられないような強靭な精神力だ。

その強さは、きっと過去の悲惨な経験からきているのだろう。
「娘」として「女」として、とても耐え切れない経験を10代の若い頃にしてしまったライムンダは、
たぶん、どんな悲惨な出来事からをも逃げることをやめたのだと思う。
逃げても悪夢は追いかけてくる、決して消え去りはしない。
それなら、起きてしまったことは受け止めて生きていくしかない、という決意をしたのかもしれない。

強く、たくましく、明るく生きて
それでもふとした瞬間にもろく崩れる感情が
ライムンダの歌う「ボルベール」からあふれ出て、なんだか涙が止まらなくなってしまった。

スペインの強烈な太陽と
乾いた大地に良く似合う、ヴィヴィットな色彩と
どこまでも明るくたくましい女たちが向き合う、辛い現実と悲惨な過去。
それでも
ちゃんと明るく生きていくことが大切で、自分の過去には自分なりの決着をつけなければいけないのだ。
そのとき
そっと手を差し伸べてくれるのが
母であったり、娘であったり、女友達であったりしたら、これほど心強いものはないのかもしれない。

人との係わりを、どちらかというと、できればそっと済ませたい私は
もしかしたら
果汁100%のおいしいジュースを、わざわざ水で薄めて飲もうとしてるのかもしれない。
果物は甘さだけでなく苦さも酸っぱさもあって、おいしいのだ。
泥臭いほど濃い、この女たちの係わりのなかで、水割りジュースは、あまりにも味気なく感じられてしまった。

私としては
今のところ、今年ナンバー1の映画です。
今までそんなに魅力を感じた事のなかったペネロペ・クルスがとても素敵でした。
映画に出てきた全ての女たちの欠点すらも愛おしい、そんな思いです。










 


 


プレステージ

2007-06-25 | 洋画【は】行

19世紀末。
共に一流のマジシャンを目指すアンジャー(ヒュー・ジャックマン)と
ホーデン(クリスチャン・ベール)だったが、ある出来事をきっかけに二人は敵対することになる。
その争いは、ステージの上だけでなく、お互いの人生のすべてをかけたものだった。

何気ない会話や仕草が全て伏線といっていいかもしれない。
観ている最中は、自分がだまされてるとは思いもつかないかもしれない。
細かく張り巡らされた伏線に
うっすらと気がつくころに物語は幕を閉じる。

物語は、「アンジャー殺し」の罪で捕らえられたホーデンが、獄中で「アンジャーの日記」を読み
アンジャーがマジックの助手のオリビア(スカーレット・ヨハンソン)に盗ませた「ホーデンの日記」を読む。という回想で進められていく。
実はその日記すらも「敵」に読まれる事を想定して書かれたものだから、マジシャンは侮れない。
時系列が複雑に絡み合う中で、もし途中で放棄してしまったら
この映画の面白さはわからないかもしれない。

時代が大きく移り変わろうとする時の空気の不穏さや
闇の中で動く力が、映画をよりミステリアスなものにする。
単なる謎解きで終わりそうもない。。と思い始めたとき
姿を見せる事実に
ちょっと呆然としたりもするのだが
それは。。。ミステリーからSFに頭をシフトすることにしよう。

「だれにも結末を語らないでください」
そう、人に結末を聴いてしまっては全くつまらない。
1度自分で観て、だまされて、そして自分がどこでだまされたのか
何を見逃していたのか、それを確かめるために観るのは面白いかもしれない。
1度目とは違った楽しみ方が
2度目に用意されてるかもしれない、そんな映画だった。


バベル

2007-04-28 | 洋画【は】行

モロッコで少年が遊び半分で銃の引き金を引いた。
銃弾は1台のバスをめがけて放たれ、
バスに乗っていたスーザン(ケイト・ブランシェット)に命中した。
スーザンはアメリカ人で、夫のリチャード(ブラッド・ピット)と旅行中だった。
3人目の子供を亡くしてから、冷え込んだ夫婦の溝を埋めようとしていた旅だった。
モロッコの山道で、突然の不幸に見舞われた二人は、医者を求めて近くの村へ向かった。

一方、リチャード夫婦の留守を預かるアメリア(アドリアナ・バラーザ)は苛立っていた。
息子の結婚式が迫っているのに、リチャード夫婦が帰ってこないことには、結婚式に出かけることができないのだ。
アメリアは、リチャードの二人の子供マイクとデビーを連れて、メキシコに向かうことにする。
甥のサンチャゴ(ガエル・ガルシア・ベルナル)の車に乗り込んだ3人は、国境に向かう。
そのころ、東京ではヤスジロー(役所広司)を探す刑事の姿があった。
世界のあちこちでバラバラに起きた出来事は、実は関係のあるものだったのだ。

物事が順調に進んでいるとき
私たちは、つい傲慢な気持ちを持ってしまう。
誰の力も借りずに、自分ひとりの力で生きてきたようなつもりになる。

でも、いったん物事が悪いほうへ転がりだすと
ボタンを掛け違えたように
次々と悪いことが連鎖して起こって
傲慢な気持ちは、もろく崩れ去る。

誰かに責任を押し付けたくなる。
逃げたくなる。
叫びたい。
誰か助けて。
大声で助けを呼びたくなる。

でも、それがもし、言葉の繋がらない場所だったら?

大昔、世界中の人々は、ひとつの同じ言語を話していたという
しかし、神の怒りに触れ、神は言語をばらばらにし
人々の心もバラバラになったのだという。

モロッコ、アメリカ、メキシコ
舞台が変わるたびに、空が大きくスクリーンに映し出される。
東京のクラブの天井にまで空が映し出される。
そうなんだ。
まだ、全てがバラバラになったわけではないんだ。
少なくとも、まだ繋がっているものがある。

同じ言語を持っていても、繋がらない想いもある。
誰もが、人と人との距離の取り方に悩んでいる。
伝えきれない想いを抱えた時、人は人のぬくもりを求めるのかもしれない。

言葉を持たないチエコ(菊池凛子)は、吐き出せない想いを胸に抱えていた。
母に自殺されてしまった悲しみを、父のヤスジローにも誰にも吐き出せないでいる。
チエコが望んでいるのは、なぐさめの言葉でもない。
ただ誰かにそっと抱きしめてもらいたいのだ。
その願いを伝えるためにとったチエコの行動は、あまりにも突飛で痛々しくて
観ているこちらの心まで、ヒリヒリと痛くなってくる。

湧き上がるような感動を期待してはいけない映画だと思う。
どこか痛さを感じて
それでも暗い夜道にポツンを灯った明かりを見つけて
映画館を出てこれたら、それでいいのだと思う。

どうやって想いを伝えよう。
人と人との距離を、どうとったらいいのだろう。
誰もが悩むことだけど、
答えなんかないし、出せっこないのだ。
きっと、ずっとずっと生きている限り、それぞれが探し続けていくものなんだと思う。





 


ホリディ

2007-03-28 | 洋画【は】行

ロンドン郊外で暮らすアイリス(ケイト・ウィンスレット)とL・Aで暮らすアマンダ(キャメロン・ディアス)
仕事は出来るし美人なのに、どういうわけか男運が悪い。
クリスマスを目前に控えたある日
アイリスは3年越しの片思いの相手に二股かけられたうえに、あっけなく捨てられる。
アマンダは同棲していた恋人の浮気に激怒して、恋人を家から追い出してしまう。
恋に破れた二人は
傷心を癒すために、住み慣れた街や仕事から離れようとする。
二人が選んだ方法はホーム・エクスチェンジ。
家や車をそっくり交換すること。

ゴージャスなお屋敷から田舎のコテージに
田舎のコテージからゴージャスなお屋敷に。
こうして見知らぬ同士の二人の2週間の休暇が始まった。

落ち込んだ時、いっつも「どこか遠くに行きたい」と思います。
どこか遠くへ行ったからって、この自分の性格がコロッと変わるはずもないのは分かってるのですが、
「どこか遠くへ行きたい」と思ってしまいます。
どこかへ行くことで、なにか変わるきっかけをつかもうとしているのでしょうね。

アマンダも落ち込んだ勢いで、全く環境の違う田舎のコテージにやってきました。
でも、来てみたものの、ついた6時間後には時間を持て余してしまいます。
そんな時、アイリスの兄グラハム(ジュード・ロウ)が訪ねてきて
これまた勢いで、二人は一夜を共に過ごします。

一方、アイリスは近所に住む元脚本家のアーサーと知り合います。
若いときは有名な脚本家だったアーサーは
年をとった姿を人目にさらしたくない、という意地があってどこか頑なです。
アマンダの元カレの友人だというマイルズ(ジャック・ブラック)の協力もあって
アーサーの頑なな心を解いていくうちに
アイリスの気持ちには変化が訪れます。

二股かけられて、利用されていると知っているのにあきらめられない恋。
恋がうまく行かないのは「自分が悪いから」という考えに縛られていたことに気がつきます。

そしてアマンダも、遊びのつもりで始めた期間限定の恋がどんどん本気になっていくのに気がつきます。

離れた場所で違う経験をして
この二人の表情はどんどん変わっていきます。
アイリスは堂々と明るくなって
アマンダは柔らかくなっていきます。
その変化は、場所が変わったからというだけじゃなく
そのきっかけを生かして、二人が自分の考えを少し変えたからなんですね。
もちろん、新しい恋が始まったせいでもあるのですが。

ラブコメディで泣かされるとは思っていませんでした。
全くの予想外です。
そして、ちょっと訂正もします。
私、何度かジュード・ロウの生え際が気になって、どうしても素敵に見えない。。と言ったような気がします。
完全に間違ってました。
今回のジュード・ロウは生え際なんか全然気になりませんでした。
あのメガネ。
あの泣き顔。
「ラッキーナンバー7」のジョシュの腰タオル以来の衝撃でした。(笑)

『人生に1度だけ、誰にでも特別な休暇がある』
考えても思いつかないので、
たぶん私にはまだ特別な休暇は訪れてないのかもしれません。
そう思うと、まだこれから楽しみがありそうじゃないですか。
今夜はいい夢が見られそうです。





ブラッド・ダイヤモンド 試写会

2007-03-27 | 洋画【は】行


1999年、内戦が続くシエラレオネ。
反政府テロ組織RUFは、村の働き盛りの男を拉致しダイヤモンド鉱山で強制採掘させた。
男の子は拉致されたあと、少年兵としてRUFに強制的に加えられた。
そうして採掘されたダイヤモンドは密輸され、その膨大な金額はURFの活動資金となっていく。
国民の宝であるはずの貴重なダイヤモンドという資源が、国民のささやかな幸せを奪ってしまったのだ。

ここにも不幸な父親がいる。
家族を、息子をこよなく愛している父親、ソロモン・バンディー(ジャイモン・フンスー)は、ある日村を襲撃してきたRUFによってダイヤモンド鉱山へと連れ去られる。
離れ離れになってしまった家族を思いながらも、ダイヤモンドを採掘する日々が続く。
最愛の息子がRUFの少年兵にされてることなど知るよしもない。

そんなある日、ソロモンは大きなダイヤモンドを見つける。
めったに採掘されることがないというピンク・ダイヤモンド。
人知れず地中に埋めたはずのダイヤモンドの存在が、実直な漁師だったソロモンを一人の男に引き合わせる。
ダイヤの密売人ダニー・アーチャー(レオナルド・ディカプリオ)にとって、そのピンク・ダイヤを手に入れることが人生の転機になるはずだった。

ピンク・ダイヤモンドをめぐって、人がいろいろな思惑で動き出す。
それぞれの真実を、願いを、ピンク・ダイヤモンドが叶えてくれるはずだった。

自然の恵みであるダイヤモンドが採掘され
美しく磨かれ
私たちの前に現れるとき
ほとんどの場合、それは幸せの象徴として現れる。
婚約指輪だったり
愛しい人への贈り物だったり
時には、いつもがんばっている自分へのご褒美だったりするかもしれない。

ダイヤモンドの輝きに胸をときめかせても
その原石が、どこでどのような形で採掘され
どのような経過をたどってここまでたどり着いたのか、
1度として考えたことはなかった。

「紛争ダイヤ」という
幸せとは似ても似つかない呼ばれ方をしているダイヤは
もしかしたら、私の耳にポッチリとかなり控えめに輝いてるダイヤのかけらにまぎれているかもしれない。

アフリカという広い大陸で
貴重な資源が国民を潤すどころか
戦争の道具に変わり、そして先進国がそれを煽って
アフリカの人々はいつも苦しんでいる。

ダイヤモンドの永遠の輝きに
人は何を求めるのか。
それはとても簡単で単純で、誰にでも手が届きそうなものなのに
なかなか手にすることが出来ない。

離れ離れになった家族を探し歩き
少年兵になった息子に、銃を突きつけられる父親の哀しい姿は見たくない。
命が消えかかるそのときに、
やっと自分が見つめる世界の美しさに気がつくような生き方はしたくない。

映画は、息をつく間もないような銃撃戦が続く。
内戦で傷つけあう人々と、その影に隠れてアフリカの資源を食いつぶそうとする先進国の姿が浮かび上がる。
2時間半という長さは、興味がそれるととたんに体のあちこちが痛くなりだすのだが、
この悲惨な事実の前では、その長さを感じる余裕もなかった。