あざみ野荘つれづれgooブログ

おもに、サッカー関連のコメントを掲載していきたいです。
’78年のW杯アルゼンチン大会以来のサッカーファンです。

無駄なことのたいせつさ

2008-04-20 23:05:58 | 日記
 最近、身近でショックを受けた小さな事件があった。その場面に遭遇したわけではなく、それをやったひとに悪気があったわけでもないだろうと思うその行為は、簡単に言うと”植物殺し”とも言える行為だ。ピンクの可憐な花を咲かせていたガーデンシクラメンの葉っぱと花が全て刈り取られていた。まだいくつも蕾が残っていたアネモネが跡形も無く引き抜かれていた。花が終わったフリージアや水仙や、これから花を咲かそうとしているアマリリスやグラジオラスの球根が無惨に全て引き抜かれていた。それらは、花が終わったものも、残しておいたら来年もきれいな花を咲かせる植物のいのちである。それらを平然と、こころに何の良心の呵責も感じずに、引き抜いて捨てる、その神経にあきれる。古い言い方かもしれないけれど、植物のいのちでも、粗末にすると”バチガアタル”、よいことはおきないと思う。花が終わったあと、植物は、葉っぱからの栄養で球根を太らせる。だから、葉っぱは枯れるまで残しておくほうがいいのだ。花が終わったらもう用済み、無価値と、それらをばっさり刈り取り、球根を残らず掘り上げて放置する。は~、その心性が怖い。1mmの無駄も我慢できないみたいな、そのひとにとって無価値らしい花の無い植物が、芋を太らせる時間を待つという我慢ができない、そういう無駄を生活からきれいさっぱり排除しようとして、植物のいのちの上げる悲鳴に気付かない。なんで?
 
 植物を育てることは、子育てに似ている。手をかけ過ぎてもだめだし、かけなさ過ぎてもだめで、どちらかと言うと、水は欠かさずに、ほどよく放っておくのがよくて、また、種や球根から育てるには、花を咲かせるまでや、花が終わったあとの花という結果だけを求めるひとには無駄に思える時間がとても大事なのに。彼女も(高齢の女性です)も花を愛でる心を持っているのは知っている。でも植物も子どもも、そういう無駄を排除しようとするところでは育たない。私は、引き抜かれ、刈られた植物たちに、「ゴメンネ」と言いながら、それらをもう一度植えた。根付きますようにと祈りながら。