あざみ野荘つれづれgooブログ

おもに、サッカー関連のコメントを掲載していきたいです。
’78年のW杯アルゼンチン大会以来のサッカーファンです。

男の子の育て方

2005-11-28 15:26:43 | 教育
 前回の投稿の続きで、子育てに関するお勧めの本を二冊挙げておきます。
 「子どもに変化を起こす簡単な習慣」(バーバラ・コロローソ著/PHP研究所)、
「男の子って、どうしてこうなの?」(ステーィブン・ビダルフ著/草思社)
です。

 最初の、「子どもに変化を・・・」の方は、ベストセラーになった「子どもが育つ魔法の言葉」(ドロシー・ロー・ノルト/レイチェル・ハリス共著)に似た本ですが、項目毎に細かく分かれていて、ひとつひとつのアドバイスも古臭くなく且つ明快で実用書の趣があります。
 ”9 ヘアスタイルは子どもに選ばせる”という項での筆者のアドバイスは、こんな感じです。以下に少し引用してみます。
 
 以前、うちの学区で保健教育主事を務めていたドン・ショーによると、子どもが思春期になるまえに、たいていの決断を本人にさせておけば(ただし、生命にかかわらず、道徳に反さず、不健康でもない場合に限る)、ティーンエイジャーになってから深刻な反抗をするようにはまずならない、ということでした。
 自分自身の決断に対して、反抗するのはむずかしいからです。
息子のジョーが十一歳の時、まさにその言葉どおりのできごとがありました。ある日彼はわたしのところにやって来て、二本線だけ残して頭の片側を剃りたいんだ、と言ったのです。
 お母さんの趣味じゃないわ、と答えたものの、とにかく生命にはかかわらないし、道徳には反してもいないし、どのみちまた生えてくるのですから、結局はまかせました。(71頁)

 
 この決断の結果、彼女は身内の集まりなどで、息子があんな髪型になったのは彼女が出張しすぎたためだと言われたり、「十一歳でこんなまねをさせてるんじゃ、十六歳になったらどうなっちゃうのよ?」と言われたりすることになりますが、
息子さんのほうは、その年さらに風変わりな髪型を七つも八つも試みた後、中学一年になった頃には普通の髪型に戻っていったそうです。そして、彼女はこの項の最後を「―小さな問題で子どもに選択させ、そこで失敗を経験させておけば、後になって重大な失敗をすることはめったにないはずだとわたしは考えています。子どもはささいな失敗を糧にして学び、成長していくからです。」(72頁から73頁)という言葉で結んでいます。
 私たちは、このような状況に際して、彼女のように周囲の批判にも動ぜず、本人に選択させて、その結果を経験させるべく辛抱強く見守り続けるような態度を取れるでしょうか。”言うは易し行うは難し”で、なかなかの覚悟がいることだとは思いますが・・。
 
 ここまで、紹介して、中には単なる放任主義じゃないかと誤解される方もいるかと思いますので、もうひとつのアドバイスを紹介しておきます。 ”子どもが伸びるしつけの四ステップ"の項で、「罰には決してできないやり方で、子どもが学ぶのをはげます」しつけの四ステップとして、

 a まず、子どもがやってしまったことをはっきりさせる
 b 次に、子どもを問題の「当事者」にする
 c 子どもが自分で問題を解決するための選択肢を与えてやる
d 子どもの尊厳を傷つけない 



 を挙げて、息子のジョーが、博物館の校外見学に行ったときにビーバーの餌いれのビンを割ってしまったときのことを例に挙げています。
 このとき、先生は彼に、「ジョー、君は重大な問題を起こした、だが自分で解決できるはずだよ」とはげますように言い聞かせたのです。彼は博物館に手紙を書き、ビーバーの餌入れを弁償しました。
 そして、著者は「息子は罰せられず、しつけられたのです」とコメントしています。もちろん、子どもが体験する自然な結果が、「生命にかかわったり、道徳に反していたり、不健康なものであるなら、子どもを心配する賢明な親として、口を出さなければなりません。」と付け加えるのも忘れていません。
他にも、”44 子ども同士が殴りあいをしているときは”などの項もありますので、興味のある方は読んでみてください。

 
 次に,「男の子って、どうしてこうなの?」の方ですが、著者のビダルフさんは、この本の”はじめに”の項でこう言っています。

 少年たちがいまおかれている状況と、彼らが必要としているものについて書くにあたって、わたしは女性の地位を向上させるためにいたるところでなされている努力をないがしろするつもりはまったくない。しかし、新聞を広げてみれば、少年達もまた傷ついていることはだれの目にもあきらかである。今後、よりよい社会をつくっていくには、男性も女性もともにより健康で幸せになれるように努力していかなければならない。もし、世の中の男性にもっとよくなってほしいなら、男の子たちを責めるのではなく、もっと理解してやる必要があるだろう。 (同書3頁)


 著者がこの本の最初にでこう断らざるを得なかったのは、多くのフェミニストたちやフェミニズム運動が主張してきた、そして今でも主張している考え方と衝突する考え方―”男女間の性差は存在する”という考え方についての理解を求めるためである。(私もこの点については、旧来のフェミニストたちの「男女の間の性差はすべて後天的なものである」とする主張は硬直的すぎると思う)まず、小学校の高学年で最も顕著になる男の子と女の子の発達の速度の差からも明らかな、男女の脳の構造に見られる性差(男の子の右脳と左脳のつながりが少ない、右脳の連結が多い―このことによって、自分の感情を言語で表現するのを苦手としたり、数学が得意だったりという特徴が見られる。また、この時期に女の子と比べて劣等感を抱きやすいことなどにも注意を促している)

 ここまで、書いて思い出すのは、町田市で起きた少年による同級生の少女の殺人事件である。
 この事件は、これからの調べで事件を起こした少年の心理や精神状態などが明らかになっていくと思うが、私には、殺人という部分をのぞいてこの事件を見ると、少女の取った行動も、そして、少年がその言動によって傷ついたであろうことも理解できる。少女たちの「おたがいにささやきあい、少年たちをあざけっている」(171頁)態度に、少女たちの思う以上に少年たちが傷つき劣等感にさいなまれているということに対して、当の少女たちが少しでも気づいていたら、あのような事件は起こらなかったのではという気がするのだ。

 また、この本では、少年や少女たちにとっての。「役割モデル]の重要さを説いている。彼らや彼女たちの憧れの対象でもあり、さらに彼らに対して、肯定的な男性の(女性の)イメージを与えてくれる同性の年長者―「お手本になる男性(女性)」の必要性が説かれている。
 このことは、前回の投稿記事で紹介した本「未熟なオトナと不遜なコドモ」の中でも述べられている。著者は「模範として目立つ大人はほとんどいない」と嘆きながら、こう言っている。それは、退行して子どものような「思春期気分のオトナ」ではない「本当の大人」「年長者による真の指導が若者にとって不可欠」であると

 私たちの周囲を見渡して、彼らにとってモデルとなるような真の大人が学校やスポーツクラブなどの指導者のなかに多く存在することを祈らずにいられないが、もし、彼らが、本も全く読まず、テレビしか見ないような環境にあるとすれば、彼らは、出来の悪い役割モデルしか見いだせないだろうことは確かである。テレビの中のそれらの出来の悪い役割モデルのご託宣を後生大事に聞くしかない状況は、とても貧しくばかばかしい状況であることに気付いてほしいと思う。細木数子、明石屋さんま・・出来の悪い役割モデルについてはもう少し書いてみたいところですが、今日はこの辺で。

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