あざみ野荘つれづれgooブログ

おもに、サッカー関連のコメントを掲載していきたいです。
’78年のW杯アルゼンチン大会以来のサッカーファンです。

クイズ番組に見る学力の低下あるいは教師の指導力の低下

2005-11-27 00:26:14 | 教育
 子どもたちがクイズ番組をよく見るので(ヘキサゴンあたりを)、一緒に見ているとすぐにあることに気付く。一般的に若いタレントほどものを知らないということに。どの辺りにボーダーラインがあるのかを調べたわけではないが、そういう番組で正答率一位とか二位とかになるのは、いつも一定の年配のメンバーである。先日見た番組では、あるアイドルグループのメンバーが7×8=45と答えて、皆を絶句させていた。私は、一生アイドルをやっていくわけにもいかないだろう彼女の行く末を案じてしまった。まあ、仕事が忙しくて学校に行く暇もなかったのかもしれないし、計算機があるから別にいいではないかと言われるかもしれないけど。(九九は小学二年生で習うんですけどね)皆さんはどう思われるでしょうか。
 芸能界でも生き残っていく人や俳優さんで成功する人にはそんなにおバカなひとはいない。俳優で成功するにしても、まず漢字が読めないとセリフを覚えられないし、役の設定を理解し、その感情を表現するのにはある程度の知性は絶対に必要だ。知性の欠けたうすっぺらい演技しかできない者はいつの間にか消えていく。主役を張っている俳優さんや女優さんたちの豊かな感情表現はある程度の常識や知性の裏づけがないと絶対に出てこないものだと思う。

 で、私が学力の低下の原因を考える時に、まず考えるのは、教師の指導力の低下ですが、わが子の担任の例をとってみると、ふたりとも担任が新採用の先生の時にクラスが荒れた、荒れている(新採用の先生が担任している下の子のクラスは今荒れています)ことなどを見ると教師の指導力も年年歳歳落ちてきているのではないかと危惧してしまう。
 中堅どころの今の兄のクラスの担任の先生は、授業もおもしろく且つわかりやすく、学級経営も見事で、生徒達にも大人気の親から見ても申し分のない先生なのですが、弟のクラスの先生は、授業もわかりにくく、宿題を出すのにも四苦八苦して、学級通信も形式的なものがたまに出るだけで、授業中騒ぐ生徒達にひとりではなすすべもないという、親から見ても「はあ~・・・」という先生で、兄のクラスの先生とは天と地ほども差がある。そういう状況を見るに付け、これは単に個人の能力の問題だろうか、それとも世代的な社会構造的な問題なのだろうかと考え込んでしまう。兄のクラスが一昨年学級崩壊と呼ばれる状況になった時の担任の先生も(この件についてはdaruさんのブログのコメント欄での長いコメントのやりとりをしました)魅力ある授業や子どもたちにとって魅力ある人間性を持っていたかというとそのどちらにも欠けていたように思う。
 親としては、新任の先生が経験不足なのは仕方ないとしても、やはり担任を持つからには、ある一定のレベルには達していてほしいし、せめて、授業をしっかりとできる、あるいは、人間的に魅力があるかのどちらかでも備えていてくれと思う。(現在の弟の担任は残念ながらどちらも×です。)私たちは、子どもたちの将来を考えると、このめぐりあわせを単に運が悪かったですますことはできない。本当に山あり谷ありで、よい先生とそうでない先生との差がありすぎる。そして、前にも書いたように、子どもたちが出会った”そうでもない先生たち”の特徴が世代的なものでないかということを危惧してしまうのです。

 学校の先生というのは聖職であると言われてきたわけですが、人間の一生に影響を与える仕事であることを考えると、やはり、”聖職”と言われるような覚悟を持って就く仕事には変わりないと思う。
 現在の、弟のクラスの問題で開かれた会で、ある保護者が担任に向かって「先生はどうして教師になったのですか?」という質問をした。答えは「尊敬する先生がいて、その先生のような教師になりたくて・・・」というようなよくある答えでしたが、これから教師を目指すひとには、自分は教師としての適性が本当にあるのかということをもっと真剣に見極めてから教師を目指してほしいと思う。単に安定しているからとか、他の就職と同じ次元で安易に目指してほしくない。経験で補えない適性というのはやっぱりある。そしてそういうことを子どもたちは敏感に察知するのである。給料のためだけの教師になってほしくない。
 
 公立校の先生には、多様な学力や家庭環境の生徒たちに対応できる柔軟性が必要だと思う。そして、その能力は、もし彼らが小学校高学年から塾通いをして、エリートや裕福な家庭の子どもたちばかりを集めた有名私立校を卒業して教師になったのであれば、彼等に公立校の学級を経営していくための経験値は絶対的に不足しているのも無理はないし、自らの多くの落ちこぼしを産む授業を改善しようとせず、「授業がわからなければ塾に行けばよいではないか」と自らの責任に目をつぶるしかない「給料のためだけに働いている」と言われてもしょうがないような教師なってしまうのではないだろうかという気がする。


 自分の子どもの頃のことを考えると、そんなにすばらしい先生(兄の先生のような民主的で生徒に人気のある先生)にはめぐりあわなかったが、教えるということについては、(特に小学校では)皆一定のレベルを保っていたし、ひとつのことを教えるのにも、それに付帯した知識やことわざなども折に触れて教えてくれていて、そういった教えなどが今でも心に残っていたりする。今の先生には、一部の先生をのぞくと、そういう先生がいなくなってしまった感じをうける。どこかに知の断絶があって、代々受け継がれるべき知識や価値観が途切れてしまった感じ。

 そういう現代の状況を考えるのに示唆的な本をひとつ挙げておきます。「未熟なオトナと不遜なコドモ」「きょうだい主義社会」への処方箋(という副題が付いています。)(ロバート・ブライ著)(図書館で借りた本なので、手元にないため出版社はわかりません。)

 ここで、ちょっとその一節を紹介してみます。

 われわれの社会の三分の一は、こうした新しい”きょうだい主義者”の性質を身につけているだろう。残りもその方向へと向かっている。われわれ全員がそこにたどり着く時には、耳を貸す価値があるのは同年代の人間だけになっているので、公立学校はまったく姿を消し、過去の対象把握方法もなくなっているかもしれない。
 未開状態への、そしてファシズムが好む退行状態への堕落を食い止めるものは、きょうだい主義社会にはほとんどない。
   (同書6頁~7頁)


 そして、現代を「思春期の孤児の社会」であると、そして、「思春期気分の大人によって営まれる文化」は「子どもたちにひどい仕打ちをする」と。この状況はまさに現代の私たちの状況の説明ではないですか?
 


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