あざみ野荘つれづれgooブログ

おもに、サッカー関連のコメントを掲載していきたいです。
’78年のW杯アルゼンチン大会以来のサッカーファンです。

「サッカーとは、汗と自己犠牲のスポーツである。そして・・・」ジーコ

2005-07-08 00:46:15 | サッカー
 Number631号の木崎伸也氏の記事「中田英寿 エゴイストの革命。」のなかにジーコがコンフェデのブラジル戦前の会見で言った言葉、

 「サッカーとは、汗と自己犠牲のスポーツである。そして、それを楽しまなければいけない。私は常にそれを心に抱いてきた」
 
 が、引用されている。この言葉を見て私は、この記事の内容については取りあえず置いといて、この言葉を他でも聞いたなと思った。それは、あのヨハン・クライフの言葉だ。彼はM・サントスの著書「ヨハン・クライフ スペクタクルがフットボールを変える」の中で、そのことを繰り返し述べている。
 
 「『トータルフットボール』の概念を―『すべてのために責任を果たしたうえでの自由』と、私は要約できると思いますが―皆完璧に理解しました。それがキーポイントでした。われわれの一人一人が他のメンバーと働くうえで、協力しあうことが絶対でした。 (同書 49ページ)

 自己犠牲精神と闘争心が大きいほど、より多くの勝利を勝ち取ることができることを、選手たちは知らなければなりません。                   (同書 269ページ)

レギュラーの座を失ったからからといって怒ったりせずに、チームが個人に優先することを理解しなければなりません。
 最も大切なのは、自分がチームに貢献できなくても、チームが機能し続けることなのです。危機を乗り越え回復した時こそ、今度は失ったポジションを奪回するように目標を定め、再びはつらつとトレーニングに励むのです。チームのすべての構成員が、チームがいかなる個人主義にも優先することを理解していれば、成功への道を歩むための条件が揃ったことになります。
                                 (同書 274ページ)

 このように、クライフは、同書で彼の一貫したフットボールのフィロソフィーを述べている。そして、さらに、

 フットボールのフィロソフィーとは、彼にとっては常にひとつの言葉で表すことができる。それは「楽しむ」ことである。                     (同書 259ページ)

 とも。まさに、ふたりのフットボールのフィロソフィーは一致している。(年齢から考えて、ジーコがクライフの考え方の影響を受けたということは多いに考えられるが。)

 ジーコの選手選考を疑問視する意見は多いが、私は、彼は、彼のフットボールのフィロソフィーを重視して選手を選んでいるのだと思う。つまり、テクニックも大事だが、どれだけチームのために自己犠牲精神を発揮できるかという点が重視されての選手選考になっていると思う。そして、若手が起用されにくいのも、若手起用のマイナス点―結果を出そうと自己のアピールに必死になり、チームのためにならないひとりよがりのプレーに走ってしまう―を考えてのことだと思う。

 Numberの木崎氏の記事については、私も彼のファンではあるし、代表にとって不可欠な選手であることには異論はないし、そして彼の意識も前の二回の大会の時とは変わってきたと思うが、最終予選中、しばしば”劇薬”と評された彼の本質自体が変わったかどうかについては、まだ判断できない。しかし、日本がさらに強くなるためには、中田自身のさらなる変化が必要だという気はしている。 そして、そのためには、クラブでもよい指導者に恵まれる必要があると思うのですが。