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ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

むにゃむにゃ

2015-06-10 14:22:16 | ひとの幸福
以前の私の覚書メモを久し振りに見たよ。

これを書いてた頃はほとんど一日思索してたなぁ・・・

懐かしい・・なぁ。

『権利』という言葉は紀元前中国の荀子という思想家から来たものらしい。

その人、荀子は人間の本性を「悪」、利己的存在と考えたので、

人間が限度のない欲望を満たそうとすれば、

奪い合いや殺し合いが生じて社会は混乱する、から、

社会の秩序を保つのには権利とか義務という考えが必要だ、となったようだ。

考えれば、それ、権利、義務観念は必要悪ということだねぇ。


孔子に「70にして心の欲するところに従って矩(のり)をこえず」っていうのがあるけど、

なんでも自分の思う通り、やりたいようにやっていても、

規則や法律を破るようなことにはならないよ、ってことなんだろうけど、

そういう在りようになると、

法律書に権利や義務が書かれてあろうとなかろうと

全然関係ない、ということだ。

そういう在りように“なる”には法律が要るのかと考えると・・・

要らない、という気がするんだけれど、

人によっては要る場合もあるだろうね・・・


どうなんだろうねぇ・・・・


「~してもらっていいかな?」

2015-06-10 13:41:38 | 言葉
「~してもらっていいかな」

この言葉遣いを娘からたくさん聞くことがあって、

そのとき、なんだか居心地悪く、

そういう中で一度だけシンプルに「~して」と言われた時は

とても自然に感じた。

そういう言葉遣いをされて嬉しかった。


石垣から戻って近くのスーパーに行ったとき、

日曜日だったのでレジ係は普段見ない高校生?のアルバイトだった。

割と重いものを買ったので、そこにある段ボールを持って行き、

「これ(店の清算済みカゴじゃなく)に入れてもらっていいかな」と私は言ったのだった!


その言葉を聞いたアルバイトの女の子はきっと

居心地悪くも良くもなかったろうと思う。

なんとも思わなかったんじゃないかと思う。

私は何故「これに入れてもらっていいかな」と口走ったのか・・・

なじみのない高校生らしき女の子だったから・・・・・と思う。

いつもの人なら、「入れるね」と言って勝手に入れる私だ。

そう、高校生らしき彼女に対して遠慮があった私だった。


娘から「~してもらっていいかな」の言葉を投げかけられて、

遠慮なんてしてほしくないのに・・・

遠慮されるなんて、寂しい・・・

・・・そういう心があった。

けれどまぁ、娘が遠慮してその言葉遣いをした、とは言えないし、わからない。

最近はそういう言葉遣いをテレビでもよく聞くし、

職場でもそういうふうに言っているんだろうし・・・

そういえば、娘はダンナにもそういう言葉遣いをしていたからなぁ・・・


娘の言葉遣いに居心地悪さを感じたのは他の誰でもない私だ。

“私が”居心地悪さを感じただけで、

そういう言葉を聞く彼女のダンナも高校生バイトの女の子も

なんとも思ってなかったろうし、

最近の日本では「~してもらっていいかな」は

特に考えもせずに当たり前に使っている言葉遣いになったんだろうと思う・・・・・

そういうのについていけない私は年寄りということなのかなぁ・・・