ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

経済活動の意味

2012-06-03 19:58:48 | 本を読んで
「せいめいのはなし」の中の内田樹さんと福岡伸一さんとの対談で、

人間の成熟を促すための装置が経済活動なんじゃないか・・・

物を「交換をする主体」となりうるためには、

無数の人間的条件をクリアーされなければならない、だからこそ交換が始まった・・

こういうことを内田さんが言っていた(書いてあった)。

これも面白い。

成熟するためにという意識的な願望で、

大昔の人間が交換を始めたわけじゃないのかなとは思うけど。

結果として、人間が未熟だと交換できないという羽目に陥る、ということはあったかもしれない。

人間的に向上したら交換がスムーズに進んだ。

だから余計向上したいと思うようになった。

そういう循環になった・・・鶏が先か卵が先か・・???

ここを書いて思った。

結果論としてそれは人間を向上させるものとなったと思う。

向上したいと思うこともあるかもしれないけど、

日常そんなことは頭に浮かばないのが普通だと思う。

向上したいと思うから向上するんじゃなくて、

実践することで向上する、のかと思う。

実践、何らかの場で何かを人と共に実践する事でしかひとは変わって行かない。

経済活動だけじゃなく、生活の場でも何でも、

他者との場が人間的条件をクリアーする装置と言えると思う。

初めて・・・!?

2012-06-03 15:37:08 | 本を読んで
「動的平衡2」を又読み直してる。

1章を読んでて 、あれ、こんな文章あったかな?って思った。

読んだ記憶がまるでない。本当にいい加減な自分だよ。

でも先生の「せいめいのはなし」にもあったけど、

「見たいものしか見ていない」という言葉通り、

意識の働きってそうなんだと思う。

知ってるものしか見ない。

関心があるところしか見ない。見えない。

見たこともない人と道路ですれ違っても見ない。

何か洋服とか関心があれば別だけど。

まぁ、読みたいところだけ読んでいたわけで。

でも、そうして読み終えた自分は読む前と変化してる。

身体の分子が入れ替わるのと同じ作用なんだろう。

同じ私なんだけど部分的に新しいのと入れ替わってる。

それで、最初に読んだ時には(素通りしてしまった箇所)が、

(読みたい箇所)になっていた。

そこにある言葉とその時の自分の意識とが、

何か目に見えない現象を起こしたんだろう。

一回目はその言葉とその時の自分の意識はなんの反応もなかったんだと思う。

だから記憶がない。

本は変わらないから、その違いがよくわかるよ。

ムカデ  ヒト

2012-06-03 14:55:31 | ひとの幸福
ムカデとことこ・・・というタイトルのブログだけど、

私ヒトだが、考えないで歩いている。

えーっと、今左足を前に出したな、次は右足を前に出そう、

手はどうやって振ろうか、

次はどの位の高さまで脚をあげようか、

あ、道が右に回っている、

あそこで身体の向きを少し変えないといけないな、

・・・なんて考えることなく、歩いている。

考えないで歩くとは、ようするに「自然に歩く」ということだ。

足で歩くのは自然に歩いているのだけど、

(腰痛の時は自然にという感じじゃないなぁ)

何をするにも自然に、流れるように、軽やかに、

ぎこちなく、ということなしに、自然に・・やりたい、

自然に生きていきたいという意味なんだけど。

・・・でも、自然も恐い。

地震・津波・台風・大雨・土砂崩れ・・・・

水 という自然も、いろんな要素が全部繋がって、

そういう被害をもたらすことになる。


ヒトの意識という自然も、いろんな要素が全部繋がって、

いろんな被害が起こる。


自然の地震があって、多くの人がいろいろなことを思い、考え、したろうと思う。

その事故は起きたけど、それによって人は多くを学んでいるように見える。

ヒトという自然はいろいろな不自然な現象を起こしているけど、

それによって人は多くを学んでいるように見える。


赤ちゃん間違い事件

2012-06-03 13:15:34 | ひとの幸福
かなり昔の話だけど、

産院で産まれたての赤ちゃんが、

間違われて、実の親でない人の子どもとされて、

そのまま何年も育てられた、というのがあった。

それが何かでわかり、親も子も苦悩の日々が続いた・・という。

自分の子ども・・だとして、育ててきた。

自分の子ども・・だとして、愛情を注いだ。

結果的に後でわかったことだけど、

血を分けた子供“だから”愛して育てた、んじゃなくて、

血を分けた子供となっていた(意識の状態)から愛して育てた・・が本当のところだ。


心・意識がそう“なっている”それが全てなのかと思う。

        
私に二人の娘があり、一人は石垣島、一人は東京に住んでいる。

(多分今もいると思う、いるのではなかろうか(^^)だね やっぱり)

この娘たちとは日常的には会わない。

例えば・・・

娘が死んでも、何らかの理由でその連絡が私にはなく、

誰かが別の携帯を使って「今度携帯変えたよ・・・」と

娘の振りをして、携帯メールのやりとりをする・・

それに私は気付かず、娘はそこに元気でいると思っている。

何かの理由で会うこともなく、

月日が過ぎ、ある日、私は交通事故で即死した・・

私は娘が生きていると思って生きていて、

そしてそのまま死んだ・・。

もし娘が死んだということを知っていたら、私は悲しんだだろうし、

悲しみが癒えるのに時間もかかったかもしれない。

けれど、死んだと 思っていない ので、

生きていると 思って いるので、

悲しみを経験しない。

あの世に行ったら既に娘が先に来ていた なんてね(^^)


娘が生きているとか、死んでいるとかの現象、事柄、事実と

認識・思いは別ものだということがこの例でもわかる。


そう心が思いこんでいることで、喜んだり悲しんだりしている。

そう心がなっていることで、喜んだり悲しんだりしている。

キアヌ・リーブスが出てたマトリックスという映画もそんな奴みたいだ。

関係ないけどスピードという映画の彼はかっこよかったね~

「国」

2012-06-03 11:06:53 | ひとの幸福
「日本」という国 は何処にあるか?

そう聞かれたら、世界地図の中の一部分を指して「ここ」と言う。

もし、(考えるのは自由なので・・)

政変が起きて、

他所の国がこの地域を侵略して、

日本ではなく、アポンとする・・なんて事が起きたら、

この地域は「アポン」ということになる。

こんなこと歴史的にいろんな所で幾つもあったんじゃないかな。


今、地球のこの地域を「日本」「JAPAN」と呼びましょう、

とみんなで決めているだけで、

事実はこういう地形の場が在る・・ということ。

この地域は日本だ、と まぁ、“みんなで思っている”わけで。


生まれたての赤ちゃんに「日本」はあるか・・といえば

そんなものは無い、ということになる。


昔インドに行った時に、日本から来たと言ったら

あるインド人が「それは香港か?」と言ったことがあって、

あそこの地域が「日本」だと“思っている”人が多いくらいのもんだろう。

たくさんの人が“思った”らそれは常識になる。

そして常識は変化する。


「日本」というのは言葉である、ということ。

言葉は音で、かたちあるものじゃない。

言葉は認識。

認識というかたちのないものといえる。


国境 は何処にあるのか?

そんなものは事実としては無い。

ヒトの頭の中にあるだけで。


ビートルズの♪イマジンじゃないけど。


だから、戦争とか平和とか、

人の認識が変わらなけりゃ、起こるものは起こるんだよね。

いくら戦争反対!平和がいい!と叫んでもね。