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ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

まだわからないので・・・

2012-06-28 14:20:50 | 本を読んで
「せいめいのはなし」の中の141ページ、養老先生の発言の、

「どうして脳が秩序を持ちたがるのか前から不思議に思っていました。

しつこいんだけど、どうして意識は止まった物(ここでは漢字の“物”になっている)しか扱わないんだろうか。

情報のことを問題にし始めた以来いつも思うことです。

意識は起こっている現象自体を扱わないというよりも、扱えないんですね。

ランダムでも秩序的でもいいんですが、

世界があって意識はそれをとらえる。

そのとらえ方として、止まっているもの(ここではひらがなの“もの”になっている)しか扱えないから、

動的平衡の平衡状態を拾うようになっている。

進化的にいえば、そのほうが合理的です。

平衡状態になったらすぐに意識が拾う。

でも、平衡にしてしまうと時間の問題が消えちゃうんですよね。」

そしてそれに福岡先生は「そうなんです。そこなんです。」と返している。


養老先生もしつこいんだろうけど、私もしつこいな。

いや、ここで何を云っているのか、超知りたいのでどうしてもそうなる。

「意識は起こっている現象自体を扱わないというよりも、扱えないんですね。」

・・このことは、現象としての世界・起こっている現象のとらえ方として、

意識は、それを止まっているものとして捉えている・・ということだろうか?

・・・・・

リンゴの花が咲き、それが実り、出荷され、

買われ、冷蔵庫に入れられ、酸化が進み、一部腐り、ごみ焼却場に行き・・・

あるいは食べられ、人体の一部になり・・・

というような流れているリンゴ現象のプロセスに在る一時期のリンゴ現象を、

口に入れ、意識が「腐ったリンゴ」とそれを(止まったもの)にしている、

その意識のことを「意識は起こっている現象自体を扱えない」と表現しているんだろうか・・???

起こっている現象の“その時の状態”謂わば通過地点を人は捉え、言葉にする、

それは止まっている・・・

そういうことか・・・!

目の前にある一つのリンゴをリンゴ現象、起こっている現象の1地点、

なんて思う人は日常居ないと思う。

ひとは自分を産んでくれたらしい人を「お母さん」と呼んでいる。

それはそう捉えているということだ。

お母さん自体は生物学的には常に変化し続けているけど、

意識は止まったものしか扱えないので、

いつも同じ「お母さん」という言葉を使うことになる。

いちいち「生まれて54才5ヵ月23日経ってる人であるお母さん」とか、

翌日には「54才5ヵ月24日目のお母さん」なんて意識しない。

「昨日とは別人のお母さん」なんて意識しない・・・

意識しないというより意識できない。そうと扱えない。

そう、養老先生は云っているんだろうか?

こんな話はおかしいか???

続く・・・

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