ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

ヒトが未熟で生まれてくるのは

2012-06-01 20:56:25 | ひとの幸福
産まれたての赤ちゃんは目も見えないらしいし、

話す事も立つ事も歩く事も出来ない・・・未熟状態。

目が見えるようになったときの歓びはどんなだろう?

青い空や光やお母さんの笑顔や・・

どんなに歓喜に満ちているだろう!


立つことが出来たときもどんなに嬉しいだろう!

自分で移動することが出来たら、

なんて素晴らしい、自由だ と感じるだろう!


自分の意識、思いを口に出して話せる、表現できる、

言葉を使えるようになることは

どんなにどんなに嬉しいだろう!


未熟だからこそ歓びが生まれる。

相対性の世界に人は生きるものだから、

その歓びのために

人間は未熟状態で産まれて来るのじゃないか・・

なんて思った。


哺乳類が二千何種類かあって、

観念動物である人間だけがこんなに未熟で産まれる。


顕在意識を持たない動物は、

出来ないことが出来るようになった歓びは

持ち得ないだろうと思う。

他の動物はそういうのはないのじゃないかと思う。

実際に生まれたての牛なんかが、

一生懸命立とうとして、立った

・・なんて映像を見ることはあるが、

「出来た!」なんて思って喜ぶ・・ことはないんじゃないかと思う。

事実、立った・・ただそれだけで、

それについての意識、感想などないんじゃないか。

「出来た」「出来ない」というのが認識だということが

こういうことを考える事でわかる。


意識を持つから、未熟で産まれてくる。

そんなふうに思った。


いろいろ学がある人がもしこれを読んだら、

「何を言ってるんだ、馬鹿が」と思うかも(^^)

でも、思う というのは、

何を思っても思わなくても、全く自由なので、

いいなぁ!と思う。

こういう自由も観念の無い動物は持ってないということだしね。

悩みと欲

2012-06-01 17:02:59 | 実例体験観察
近くの寺の山門に小さな黒板が掲げてあった。

「欲を持つから悩む

悩みをなくそうとするのも

欲の一つである」

・・確かこんな感じの言葉だった。

かなり前のことなんだけど、

元々楽天的な私がひと月くらいzzzzzzzzzzzzzzzzzzっずーっとぐるぐる回りみたいに・・・

頭がなってて、いわゆる悩んでたことがあった。

どうしよう 不安 絶望 どうなるんだろう!?・・・・

何をしていても、そのことが頭から放れなかった。


しようとは思わなかったが、

自殺する人の気持ちが分かった気がした。

この(思ってしまう)という意識が無くなれば、

苦しみは無くなるのだと思った。

意識が無くなるのは、

眠っている時と死んで意識が無くなるか、

そのどっちかだと思ったので、

ずっと寝る=死ぬ で死ぬのかと思った。


ひと月かふた月か、み月か、悩むことが続いた・・。

そしてある日、「もう何がどうなってもいい!」 と思った。

本当にそう思った。

想像できる最悪の状況になっても構わない! 

・・に自分がなった。


悩み慣れていない私は 

悩み疲れたんだと思う。


どうなっても、自分が出来ることをするだけだ!と思った。

出来ないことは出来ない。


そうなったら、不思議なことに、

苦しみが消えた。一挙に楽に成った。

問題は何も解決していなかったのだけど。

表現

2012-06-01 16:49:35 | 新聞を読んで
現在日本の人口が一億あるとして、ホントはもっとあるみたいだけど・・

例えば今日のある時間に、殺人があったとして、

一億人のうちの一人が人を殺した・・それを事実という・・

あとの9千9百9拾9万9千9百99人の人の

起こした現象は、新聞に載らない・・

殺人を犯さなかった人の起こした現象も、それも事実ではある・・

偏っている、といえば言える。

まぁ、表現の自由というけど、

何のための自由か、というのはあるかもしれないね。

それを報道する事を通して何を伝えたいのか・・

殺人の事細かいやり方まで堂々と一面記事にしたりして・・。


何か事件があると似たようなことをする人が出てくる。

その記事に触発されるものが出て来るのかと思う。

獣性が引き出されるんだろうな。

日光の三猿の話の「見ざる」はかなり有効だ。

見えないものに反応はしない。

「寝た子起こすな」というのもそういう意味なのか知らん。


以前に銀行のATMが建物ごと壊されたことが起き、

新聞は、どうやってそれをやったか、こと細かく説明、表現し、

テレビ局は映像で誰にでもわかるように、

ATMの壊し方を伝えていた。

子供の喧嘩に・・②

2012-06-01 11:13:44 | ひとの幸福
うちの子の振る舞いにはそれを止めようとするけど、

よその子の振る舞いにはそれをしようとしない、ということはよくある。

うちの子はうちでなんとかするもんだという所有観があるのかと思う。

ひとの子については言ってはいけないというのも同じだ。

自分のことは自分でする、という考えがある。

この(自分のこと)はどういうことを含むのか、による。

ご飯を食べる時は自分の手や口で食べる。それはある。

排尿するのも自分の脚でトイレに行く。それはある。

そういう意味での(自分のこと)は自分でするのは、

例外はあるけどその通りだ。

だが、食べるご飯の米は自分で作ったものじゃない。

トイレも自分でこしらえたものじゃない。

今、着ている洋服も自分で作ったものじゃない。

綿花を栽培もしてないし、紡いでもない。ミシンを踏んで作ってもいない。

お金を出して買ってもいない。ひとから貰ったものだ。

自分で働いて得たお金で買ったのだとしても、

自分がその場その時に働けたのは自分一人の力じゃない。

何から何まで無数の自分じゃない人が居たからだ。

無数の他人がその時その時その状況で生き、何かの行為をし、暮らしていたことによる。

自分も含め無数の人は、自分のやることを自分でしていた、とはいえるのかもしれない。

「自分のことは自分でやる」とは、

「自分のことは無数の人でやること」ということなんじゃないか。

自分=無数の人という方程式が成立する・・・

(自分のこと)と顕在意識では思ってるけど、

実際は全部に繋がっている自分のこと なんだろう。

生命の「動的平衡」という仕組みもそういうことなのかと思う。

福岡先生も云うように自分もひとも淀みでしかない。全部繋がって在る。

・・となると、そういう知識がいずれ全てのひとの知恵になり、

所有観というものは消えてなくなる運命にある・・・!?

子供の喧嘩に・・①

2012-06-01 10:22:43 | ひとの幸福
「子供の喧嘩に親が口出すもんじゃない」という言葉がある。

なかなかな言葉だと思う。

子供は玩具の取り合いをする。これは喧嘩とは言えないかもしれないけど。

子が玩具を取ろうとすると家族が「仲良く遊ぶんだよ」と言う。

止めようとするというのは介入だと思う。自然な動的平衡を乱す。

人が使っている玩具を取り上げるのは良くないという価値付けがあるから、

それを止めさせようと介入したくなるわけだ。

けれど、子供はそんな善悪の観念はない。

だから、大人が教えるべきだという筋書きになるんだろうけど、

これについてはいろいろ書いてきたけど、

“しつける・教える”のは、

子ども自身が何かの体験をして、

どう感じ、どう思い、こうしたら、

こういう状態に“なった”という貴重な体験を奪う。

プロセスを経験せず、正しいと言われる解答だけ教え込まれると、

自覚して、納得して、自分の意志で行動する、

という結果に繋がりにくい。

シツケをしないから、教え込まないから、

こんなふうにひどくなったと思う人が多いみたいだけど、

実際は反対のことが起こっていると思う。

けれど、自分の子供の行為は止めようとするけど、

ひとの子の同じ行為は止めようとしない。

何故か・・?



自由な人にと・・

2012-06-01 10:04:08 | 実例体験観察
子供を育てていた頃、

常識なんかに囚われない自由な人になるようにと、

すごく願った。

願ったけれども どうもそう育ったという感じはない。

願ってはいたけど、自分がどうしたら子供がそうなるのかわからない、と感じていた。


そんなんなら願ったって何の役にも立たないな、

と思ったことを覚えている。