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ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

大スペクタクルドラマ

2012-03-15 18:38:45 | ひとの幸福
無抵抗⑤(3/11)を少し書き直したんだけど、

出来れば、読み直してからこれを読んでもらいたいです。


一つの悪循環というサイクルの進化の螺旋階段が、

一つの良循環というサイクルの進化の螺旋階段に変化するのは、

ある程度の人数の人たちの境地が真理に適ったものになった時に、

一気に変化するようになるのかと思う。

人の意識が集まった集合意識という、この世で言うところの「常識」が

そんなふうにどんどん理に適ったものに変わって行くという、

大スペクタクルドラマがいつの日かこの地球に展開される!!

燎原の火のように。

・・楽しいね~♪ こういうこと考えてるのは。

そう言えば、子供が生まれた時、

「燎原の火」の「燎」という字を使いたかったんだけど、

役所で受理されなかったよ。

もしかして、その子はこの名が付いていたら、

かなり違う人格の持ち主になっていたかもしれない??


気持ちの重さ

2012-03-15 16:54:00 | ひとの幸福
あそこにあるお菓子が食べたいな、と思っても

あそこまで行くのはカクカクシカジカと長い説明を受けそうになると、

いいや、食べなくても・・みたいになる。

食べたい が 食べる に進まないこともある。

やりたい が やる になる場合とならない場合がある。

そうするくらいならこのままでいいや、と思ってる。

食べたい気持ち の重さ と、

それの実現のための労作をすることについての思い の重さ と、

その二つを天秤にかけると、

その時々で違う結果になる。


やりたいことはやるのが良い とは言えないことがわかる。

子供の頃の

2012-03-15 16:15:50 | ひとの幸福
小学生の3、4年生の頃だと思うけど、

自分に意識がある!!

自分の 意識 というものの存在に本当にびっくりした。

私が見ているもの、私が見て思っているもの、

「私のおかあちゃん」(当時そう呼んでいた) というのも、

私が(思う世界)のもので、

他の人には 私にとって「私のおかあちゃん」(その人)は全く知らない人だったり、

別の人なんだぁ!!

だって、隣のおばさんは「おかあちゃん」て呼ばないもの。

「私のおかあちゃん」を知らない人にとっては、

おかあちゃんを見てもなんとも思わない。そこらの石ころを見るのと一緒なんだ!!!

というようなことに本当にびっくりして。

学校で勉強する 世界 はあるんだろうけど、

それと私や他の人の世界とはまるきり別なんだぁ!!!!!

地球上にいる何億という人のその数だけ

世界があるんだぁ!!!!

・・・小学生の時の思い出。

このブログにそれを書いた事もあるけど、

これって、平行宇宙というのと同じなのかと思った。

一人一人まるきり別の時空間に生きてる。

これに小学生の私は本当にびっくりしたんだなと思う。

今の小学生もこんなこと思ってる子供もいるだろうな。

小学生見たって、どの子がそんなこと思ってるなんてわからないけどね。

ひとの世界は本当にわからない。

こうかな~、こういう感じかな~、っていうのは思うことがあるけど、

こうだ!なんて言い切ることは絶対出来ないね~


一日

2012-03-15 11:42:54 | ひとの幸福
どんな人生が楽しいかっていえば、

こころ豊かな時間が多いことかなと思う。

一日24時間(一応)のうち16時間起きているとして、

楽しんだり、穏やかだったり、感動したり、心静かだったり、

面白かったり、嬉しかったり、ほのぼのしたり、淡々としたり、

やる気満々だったり、満足したり、落ち着いていたり・・・そういう時間が長いほど、

豊かな一日といえそうに思う。

イライラしたり、腹が立ったり、やきもきしたり、こせこせしたり、

嫉妬したり、ひがんだり、蔑んだり、冷笑したり、焦ったり、

軽蔑したり、悩んだり、苦しんだり、責めたり、

落ち着かなかったり、うつうつとしたり、後悔したり、

・・・そういう気持ちで居る時間が長いほど、

あまり豊かな一日とは云えない気がする。


何かをした“から”楽しかった、楽しくなかった・・とは言い切れない。

椎茸を食べるという物理的な出来事をしたので、

楽しかった・楽しくなかった・どっちでもなかった、

・・こんなふうにいろいろある。

さっき書いたみたいに状況によってもホント違う。

ひとくくりでどうこう言えないと思う。

こんな状況だから大変だとは言い切れない。

そういう状況をどう捉えてどう行為するかで、

一日は違う一日になる。

なんせ一人一人異なる時空間に生きてるんだからね~

椎茸を食べる

2012-03-15 10:47:34 | ひとの幸福
椎茸が苦手という状態の人にとって、それを食べるのは嫌なことかもしれない。

大変な、苦手な、嫌な、とかいう出来事になる。

椎茸を食べるという出来事 は、

その時その時全部異なる。

人や場合によって嬉しい出来事であったり、嫌な出来事であったりする。

椎茸を食べる事って、目に見える一つの物理的出来事だけど、

それをどう感じてるかで人や場合によっては別の出来事になる。

椎茸一つどうでもいいんだけど・・・例えばの話で。


付き合いだして間もない好きな人が一生懸命作ってくれた料理に

椎茸が入っていたら、

普段は苦手で食べない人でも微妙においしく食べるかもしれない。

椎茸を食べる という出来事 といっても同じ出来事は無い。

ひとは一人一人その時その時異なる宇宙に生きている。

一人一人異なる時空間世界に生きてる。

棘抜き

2012-03-15 09:38:15 | 日々の暮らし・思い出
近所のお婆さんが亡くなった。

89歳。亡くなった義母と一緒らしい。

以前に棘が刺さったので抜いてくれないかと言って来た人だ。

そんなふうに言って貰えた事が凄く嬉しかった。その時。

道で出会った時には本当に可愛らしい笑顔で挨拶してくれた。

この限界集落の地で、謂わばよそ者の私をなんの屈託もなく見てくれた。

・・・これは私の勝手な解釈なんだけど。

あの笑顔は忘れられない。

なんか泣けてくるよ~


カーネーション

2012-03-14 16:05:02 | テレビを見て
今朝の72歳の糸子さん(主人公)はまたまた面白かった。

自分のブランドを立ち上げることになった。

娘たちが年だからやめとけと言う。

(ブランドを立ち上げることがどんなに大変か知っているので)

けど、大変だからこそ面白い。

面白いこそ人生。

大変じゃないことはだいたいおもろくない。

身銭切ってやる面白さみたいなことも言ってた。

ワクワクドキドキ、ワクドキの面白さ。

やっぱり安全でないことが面白いともいえる。

なんでだろ?

今、小学3年生の算数の問題をやっても多分あまり面白くないだろう。

中学1年くらいのなら面白いかもしれない。

今、多分ほとんどわからないだろうから。

ワクドキの面白さは自分が変化する面白さかもしれない。


気になる ③

2012-03-14 14:15:14 | 量子力学と心
(気になる)のはやはり、

自分の心に何か不自然なものがある。

その時の自分の気持ちを観察してみると、

自分が発した言葉の出所が(そうなったら困る、そーならないように)といったような

不安から、発していることがわかった。

この(わかった)主体はもう一人の自分だ。

(ムカデ山とこ子)という感情や肉体を持ち、動き回っている自分ではなく、

それを観ている自分。

それは肉体を持ってない自分。


相手のグチに対して、グチの内容に賛成と思われてはならない・・

・・みたいな心の動きがあったのは、

相手に(グチなんか言ってないで、もっと前向きになってほしい)

ということを望んでいたムカデ山とこ子という私だったから。


それを望むなら、その考え方がその実現に役立つかどうかを観ているのが、

もう一人の“肉体の無い自分”なんじゃないか・・・


そういうもう一人の自分が在るから、

(そういう考え方はその願いの実現に役立たないよ)というメッセージが、

“気になる”サインになって、

とこ子に送られるんじゃないだろうか。


(グチなんか言ってないで)という思いは、

(グチを言うのはよくない)という考えがあるから。

そういう考えをずーっと持ち続けている・・

そういう考えに関心を持ち続けている・・

それが、

相手がグチなんか言わない前向きな人になるのを邪魔している。

量子メカニズムの量子ゼノン効果でそうなる。

ピグマリオン効果でそうなる。

何度もしつこいなぁ。わたし。

ついでにもう一つ。

うーん、これは湯川秀樹が言う物質から精神への路が開けたという例ではあるまいか。


ひとが変わる

2012-03-14 13:38:28 | ひとの幸福
小さな頃、ままごと遊びなんかに熱中していたなぁ、と今思うのは、

今、ままごと遊びに熱中出来ないから。

以前傷害事件を起こした人が、

あんな馬鹿なことをしたんだなぁと今思うのは、

今はひとを傷つけるなんて考えられなくなっているから。

昔の自分を客観的に観られるのは自分そのものが変わっているから。

「気づき」とか「目が覚めた」とかの表現が云っているのは

過去の境地と現在の境地が変化したということ。

ひとが変わったということ。

日本語には「あの人は人が変わったようになった」という表現がある。

それほど大層なことじゃなくても、

椎茸が苦手だったのが美味しく感じられるようになったのは

ひとが変わったということ。

ひとが変わることで行為が変わって来る。

同じ椎茸を食べるという行為でも、

ひと(境地)が変わらないで、椎茸を食べようとするのは努力が要るけど、

ひとが変われば努力なんか要らない。

それを食べたくて食べるようになる。

大変な行為から嬉しい行為になる。


不二

2012-03-14 11:11:10 | 言葉
富士山の事を不二山とも云う。

不二 って「二つと無いこと」

二つに見えて実は一つという意味もあるそう。

「善悪不二といへるとても」というのが何処かの文章にあるみたい。

善悪は善と悪という二つに見えるけど、実は一つなんだよ・・・

と云っているわけなのか。ふーん。なるほど。

富士山のことを不二山という・・なんてことがあるのが凄いなぁ。

命名

2012-03-14 10:20:35 | 言葉
生まれた子供に名前をつけることを「命名」という。

名前をつけることに命という字を使うのはどうしてなのかなぁって思ってた。

私の(わからないもの入れ)に入ってた。

名前をつけなくったって、もう生まれている者は生まれている。

命はある。

でも名づけられずに名前を呼ばれない子供は、

なんだっけかなぁ?・・・

正常に成長できないとか聞いたことがあるような気がする。

名づけることで命を吹き込む。そんな感じなんだろうか。

名前を知らなかった花を「鷺草」と言うんだよなんて教わると、

う~ん、なるほど、鷺に似てる。

その花が名前を聞く前より余計に綺麗な花に見える。

向日葵、薔薇、菊、カーネーション、マーガレット、コスモス、

チューリップ、桜・・・どの花もその名と実体がぴったりする感じがある。

昔、自分の子供に「悪魔」と出生届をした人がいて、

結局それは受理されないことになったと記憶してるけど、

やはりそれは避けて賢明だったと思う。

いくら名前を付ける権利があるからと言って、

悪魔さんじゃ、可哀想だ。

ずっと呼んでると、ぴったりした感じになってしまいそう。

デーモンなんとかという芸能人がいるけど、

悪魔とデーモンでは日本人的にはやはり違う。

無抵抗 ⑥

2012-03-13 21:15:22 | ひとの幸福
攻撃→抵抗→攻撃→抵抗→・・・の循環にあるとき、

攻撃→無抵抗 となったら、この次→何が生まれるか?

無抵抗 のわかりやすいいい例だと思うのは、

ここで何度も書いた井の頭公園の露出狂のエピソードだ。(ブログ11/2 )

白昼の性器出し男は私から抗議も蔑視も無視もされずに、

ただ見られていた。

そうしたら、すぐにズボンを上げて、去っていった。

自分から積極的に次の行為へと移った。

命令も意見も忠告も注意も警報も訓告も非難も批判も裁判も要らなかった。


・・すると悪循環から抜け出せる。

そういう対応ばっかりになると良い循環になる。

この世に白昼性器出し男は存在しなくなる。


相手から謂われも無いのに攻撃を受けた時、

どんな場合でも、どんな行為もそうだけど、瞬時の対応というのは、

境地からの行為だ。

殴られて、瞬時に殴り返すのも考えてやってるわけじゃない。

謂わば衝動だ。抑制のきかない行為だ。

その時の心の在りよう・心の状態がそのまま出る。

悪いことしていないのに殴られるのは絶対おかしい、

相手が悪い、

悪いやつはぶん殴って当然・・そんなのがあるのかな。

なんで??と思って、

瞬時に(このひとに以前何か悪いことしたかな?)なんてのが浮かぶかも。

やられたらやりかえすのは当然・・それがある人もいるかも。

そんなのが無いと、ただ呆然とするかな・・

びっくり仰天という感じかな。


この井の頭公園での私の例では、

白昼に性器を出すのは良くないことだ という見方もないし、

そもそも白昼に大人が人前で性器を出す という事を、

見たことも聞いたこともなかったんだと思う。

若い私はその事がどういうことなのか、全く意味がわからなかった。

だから、そんなふうに対応するしか出来なかった。

けれど、今、その意味がわかる。

それをわかっている自分が瞬時に無抵抗という対応が出来るようになるのは、

どうしてなんだろう・・・

どういう心理のプロセスでなるんだろうか・・・

やはりそれは、人の行為はどんな行為でも愛を表わしているということを、

心底わかっているということなんじゃないかと思う。

非難などされるものは一つも無いということが心底わかっているという、

存在に“なる”ということなのかと思う。



日野原重明さん

2012-03-13 14:03:24 | テレビを見て
今、徹子の部屋を見ている。今日は100歳の日野原重明さん。

前にも聞いたことがあったんだけれど、この言葉。

「10年後のスケジュールが決まっている」

前に聞いた時は(そんなぁ!生きているかどうかもわからないのに)と思った。

けど、今日の私はそんなふうに思わなかった。

それが面白い。

以前の私という状態と今の境地は違うとこなんだなと思った。

彼は10年後の自分を、立てた予定を予定通り行動する人として扱っている。

ピグマリオン効果の効果あり!と思った。

実際そうなるかは今の時点ではわからないことだけど、

そうなるに決まってるよ と淡々と思ってるみたいな感じ。

引き寄せの法則でそうなるかもしれない。

10年後の自分の意識という量子システムを

今の自分の意識という量子がそう観測してる。


こんなこと書いて明後日日野原さん死んじゃったりして。

アハハハハ!








賭けボウリング大会

2012-03-13 13:59:05 | テレビを見て
何日か前のテレビニュースで、

どこそこの市の職員が職員の親睦ボウリング大会で、

どのチームが一番になるか、とかを賭けて楽しんだらしい。

そのお詫びの会見をしていた!?

えーっ!なんで??と驚いた。

いいじゃん、そういうことしたって。と思った。

仕事中に皆で抜け出してそうしたんだろうか。まさか。

公金で賭けたんだろうか。まさか。

その賭けるお金が税金から出てる給料を使うからなんだろうか。

そんなことを言ったら、役所勤めの人は宝くじも買えない。

競艇も競輪も競馬もスロットもパチンコも楽しめない。

仲間と賭けマージャンも出来ない。

この私の感覚は間違っているんだろうか?

私なんか夫と話して、

あの芸能人はもう死んだか、まだ生きてるか、とかの話で、

二人の記憶が違うと、すぐに、

「生きてるよ、賭ける?」とかすぐ言ってしまう。

お詫び会見をしないと、いけないんだろうか。


愛という状態

2012-03-13 13:46:30 | ひとの幸福
人の行為はどんな行為でも愛を表わしている・・・!?

ひとを傷付けることが愛を現しているというのか!?

ひとを殺すことが愛を現しているというのか!!!???

そう思ってしまうよね~

けど、そういうことなのかと思う。


嫉妬で人を殺す・・・

人を好きで独り占めしたくて、そうさせない人を殺してしまう・・

その人の心には(愛されたい・愛したい)がある。

(愛されたい)となってしまう元がある。

それをストレートな表現で発揮できなくて、そのエネルギーが暴走する。


秋葉原無差別殺人を起こした人も、

その人の心には(愛したい・愛されたい)があった。今もある。

それがなかったら、あんな行為行動は出来ない。

幾ら無視されてもロボットは傷つかないし、無視した人間たちを攻撃しない。

その元に愛という心が無いから。

それ以前の状況の中で彼は愛されてないと思ってしまっていたんだろうし、

愛する対象を見つけられなかったんだろうし、

(異性に限らず、どんな物でも、事でも)

状況の捉え方の選択がいいこと行かなかったんだろう。

状況自体は彼一人で創れるものじゃない。

彼が間違ってなかったとは言ってないんだよ。

彼のした行為は多くの人を傷つけた。

自分や他者を観察できるようには成長してなかった。

愛というエネルギーが捩れて発揮されてしまった。

事件前の彼のいろんな行為の奥にあるものを

見つけてあげる人が彼の周りに一人でもいたら、

彼はあんなことはしなかったと思う。

彼の罪は私たちの罪だ。

罪だと知らない私たちの罪だ。


愛という状態 って意志でも行為でもなく、

心がそういうものだと云うことなんだと思う。

人間の心は愛で出来ている。

愛情とは違う。愛情はそれの表現。

殺人とか他者を傷つける行為はそれの捩れた表現。

・・そう思う。