この本からの引用です・・・子供と財産は仏からの預かりもの・・・
勉強が嫌いな子供もいます。ほとけ様は
「この子は勉強が嫌いな子供なんだ。この子を幸せにしてやってくれ」
と願って、その子を親に預けられたのです。
なにも「この子を勉強好きな子供に改造してくれ」
と頼んでおられるのではありません。
生まれつき障害を持った子供のことも、
仏は障害を取り除いてやってくれと人間に預けたのではなく、
「障害を持ったまんまのその子をそのままで幸せにしてやってくれ」
と言って預けた・・・そうな。
途中で障害を持つようになった場合は仏はなんというのだろう?
・・・もちろん、その障害を持ったままで幸せにしてやってくれ
と、望んでおられるのだろうなぁ。
昔よく聞いた、「雨なら雨で」と晴れではない天候を
ひとは受け容れる。割とたやすく。
自然のしわざには人は最初から願望を放棄している状態なのかもしれないねぇ。
願望をもってもすぐ手放せるんだろうなぁ。
隣の家の障害を持った子供に人は同情は寄せるけれども、
無理な願望を抱かない。
やっぱり゛我が子”は預かりものじゃなく、
断固として預かりものじゃない!私が産んだんだっ!
俺の子だっ!になるんだねぇ。
スピノザが願望の放棄は幸福そのものと言ったと記憶してるけど、
「放せば豊か」と似てるねぇ・・・