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ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

介護百人一首 

2015-04-29 13:58:39 | 本を読んで

「あのころの君の笑顔を見たいからひょっとこも踊るピエロにもなる」

「笑えない母を何とか今日こそはどじょうすくいを毎晩おどる」

「脳トレに交換日記始めた日夫の誤字見て涙がにじむ」


NHKハートプロジェクトという奴の介護百人一首というのを夫が頼んで

小さな冊子が届いた。

介護にまつわる句が並んでいる。

読んだその晩は何故か、涙が出て止まらなかった。

今は、読んでも涙は出ない。面白いもんだ、私の心。

上に記したのは涙が出た奴じゃないけど、

私をこの世に発生させてくれた母とのことを思い出した句。

重い脳梗塞で倒れ、そのまま寝たきりの7年を過ごし一昨年亡くなった母。

脳梗塞による失語症、半身まひ、感情失禁、視野狭窄…

他にも20位病名があったみたいだった母。

喋れず、動けず、口から食べれず・・・

そんな母に私もよく踊った。母の所に行く度に踊った。

私の得意なでたらめ踊り。

すると母は笑った。なに、馬鹿なことしてるの・・みたいな笑いの表情を見せて。

何か表現してほしかったんだろうな、わたし。

母の思いを感じたかったんだろうな。

なんでもいいから。


上に引用したもう一つの句は夫が元気だった頃は

字が上手で誤字なんか書かなかったのに、

こんな字に、こんな文を書くようになってしまって・・・

という説明みたいなのがあった奴。

私がまだ東京に住んでた母の最期から数年前のこと、

退屈そうな母に何かしてほしくて娘二人の洋服作りを頼んだことがあった。

そのために私の家にミシンを買い、布を買い、デザインブックを買った。

出来上がったワンピースを見て驚いた。

人から料金をもらって洋裁をしてた母が作ったものだとはとても思えなかった。

母がそんなに衰えていたのかと愕然とした。

せつなくなった。

それでも娘たちは喜んでいたけれど。

でも当時の母は服を作ることが喜びでもなかったようで、

私は深く反省したのだった。

余計な事ばかりしてたな・・・と今では思うよ。















タラの木グループあらわる

2015-04-29 09:56:10 | 日々の暮らし・思い出
昨日、よく通るバイパスへの道のいつも歩く側ではなく、

反対側を歩いていたら、すぐ傍の山の斜面にタラの木が!!!

なんと30本以上がグループになって生えていた!!!!!

なかには、うんと低い、まだ地面からちょこっとしか出てない赤ちゃん木が幾つも。

この前食べて、タラの芽の美味しさがちょっとわかった私は狂喜乱舞。

何年も会ってない知人夫婦が今度来てくれるらしいので、

一昨日だかに15本位他の場所のタラの芽を採って冷蔵庫にしまったんだけど、

それを私たちが食べてしまってもまだまだここには在庫があるな・・・

とにんまりした私であった。

けど、山の斜面ということは斜面なのである。

そこは地面から私の腰くらいの高さまではコンクリート壁になっていて、

その上のタラの木が生えているのはかなり急こう配の斜面。

そしてタラの木は採らないで~と言うようにとげが激しくて。

そこに上がるのには何か手で掴むところがないと・・・

しかし、とげ満載のタラの木は当然掴めない。

そしてそこには掴みたい他の木が一本も生えてない・・・

さて・・・


若松英輔氏の言葉「多層的な世界を単層で語ると・・・」

2015-04-29 09:31:06 | 新聞を読んで
テレビのキャスターやコメンテーターと言われる人たちは

いろんな事件・出来事に対して

正義の旗を振りかざして簡単に咎めることが多い。

こういう風潮のことだと思うけど、若松氏はこういっている。

「本当の意味の批判をする人は

『批判対象がなければ自分の頭にこの考えは浮かばなかった』と知っている。

ですから批判から高度な対話が始まる。

でも最近は相手を封じることを「批判」と呼ぶようになってしまった」

この話の後に、山折氏が

「話を単純にし過ぎる人も多いですね。・・・

イスラム国のことも全否定して済むだろうか。・・・全否定したら後は戦争だけ。

この単純さを日々見せつけられ、

世界が単色になっていきり立っている」

と言い、その後に若松氏のこういう発言がある。

「多層的な世界を単層で語ると、私たちの世界は大きく誤ります。

日々のニュースは、ときに単層で伝えざるを得ない。

それを補う知識人までが単層的に語ると、

世界は本当の意味で暴力的になる。」

これを読んで、本当にそうだなぁと思った。


「ガンジーは語ることより沈黙が強いと気付いていました。

という若松氏の言葉があったけど、

沈黙はなぜ語ることより強いのか・・・・・?

多層的な事実を前にすれば、

起きた事を良い悪いと簡単に語りえないとわかって、

沈黙しかない・・となるんだろうか。

実際、何かを話したり、何かしてるとき、

何も言葉が返って来ず、いいも悪いもない感じで

じーっと見つめられるだけ・・そんな対応されると、

人は誰でもそのとき、内省的、内観的になるんじゃないかと思う。

暴れているイスラム国の人たちの前で何もせず、何も言わず、

みんなでただじーっと見つめている・・・

それをいつもそうする。ずーっとそうする。

そういうふうにしたら、イスラム国の人たちは

どう感じ、どう考え、どうなるのか・・・・・