ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

これって幸福ケン!?

2013-10-07 15:05:57 | 日々の暮らし・思い出
友人夫婦が来てる間、毎晩ビールやらハイボールやら、焼酎やらで晩餐。

いや、魚もチーズも野菜も食べたよ。酒ばっかりじゃありません。

いろんな話が次から次へと出てきて楽しかった。

夫婦二人だけと違って4人というのがよかった。

友人らもそうだったと思う。

適度の酒も心が解放されるのに役立ったのかなと思う。

友人夫婦がテーブルに並んで座り、私たち夫婦はその向かいに並んで座った。

私が話しているときは自分の顔はもちろん見えないし、

前を向いていたので、隣の夫の顔も見えなかった。

私が話しているとき、それを聞いている夫の顔を友人がとてもよく観察してくれていた。

二日目の晩に私が何かを話したときの夫の顔と、

三日目の晩に私が何かを話したときの夫の顔が全然違ってた、と彼女。

古い私から新しい私に移った、それが話す内容や話し方に出て、

それを聞く側は感じ取ったので、感じとったそれがすぐに顔に出る・・・

というようなことを彼女が言った。

あぁ、そうだったなぁと思い当たる節があった。

二日目の晩は偉そうな自分だった。

また、こういうこともあった。

彼女の夫のある発言のとき、それを聞いてる彼女の顔が暗かったことがあった。

それを宴が終わって彼女と二人で居るときに伝えると、

自分の顔は見えないから、彼女はびっくり。

そのときの自分の姿が観えたみたいだった。

自分や他者を検査して否定してるとき、顔は暗くなる。

観てもらっていた、そういう感じを二人ともに感じたのは本当に面白かった。

4人が4人いろいろと思うままに出して、

笑い合って聴いて、

それぞれに気づいたことがあったみたいで、

友人の旦那の方が「これって幸福ケンだったんじゃないか~!」って、

最後の方に言っていて、私もそう思ったし、他の人もそう思ったみたいだった。

とても楽しい時間だった。

遠いところ来てくれて本当にありがとう。

気持ちでやるのがいい・・・!?

2013-10-07 14:28:43 | 実例体験観察
新しい私に移った(?)私は今日、隣のお婆さんの一周忌に参加した。

亡くなった義母が寝込んでから、よく見舞いに来てくれたり、

私が庭にいて、そこで会うと必ず声をかけてくれた、

とても穏やかなお婆さんの一周忌。

ここらへんはそういう法事には女の人が出席する慣わしがある。

なので、だいたいは私が出席して来た。

この前、夫の友人の親が亡くなり、その葬式に私が出てくれと言われたとき、

夫の友人の親なのだから、その人に会った事もない私より、

夫が出る方が友人も自然に思うだろうし、喜ぶだろうに、

という思いが強く出てきて、

私は行かないと言った。

それに夫のその友人にあまりいい印象がなかったものだから、

余計行く気がしなかったのだった。

で、こんな場合に私が行くなんておかしい!と強く言い張った。(古い私)


私のその時の強さが夫にかなり影響してたのだと思うけど、

今日の法事に夫は自分が行くような風だったけれど、

(行きたくてたまらないという風ではなかったと思う)

私は行きたくない気持ちもないし、突っ張る気持ちも全然無かったので、

私が行くよ、と言って出席した。

上に書いた夫の友人の親の葬式のことでは、

(こうすることになっているから、こうしよう)というやり方より、

心からの気持ちで“やるのがいい”・・・という考えに縛られ、

慣わし通りにしようということに対して否定的な目を向けていた、

そのときの自分だったと気付いた新しい私だったので、

こんな展開になったのだけれど、

寺のお堂で坊さんの歌うようないい声のお経を聞いているとき、

さっきの私の在りようは今ひとつ明るい感じじゃなかったなと気が付いた。

ちょっとぎこちなかった。

まだ、新しい私が身についてないんだろうなぁ。

でも、そういう自分を観察できてよかったなぁ。

明るい今日からしか明るい明日は生まれない・・・だっけ?

そんなふうな山岸さんの言葉があったけど、

(この言葉、正確という自信なし)・・でもそんなニュアンス。

自分の気持ち・考えを表現するとき、どんな在りよう・境地で居るかで、

迎える明日は違ってくる。

例えば「あの人キライ」やら「これを食べたい」という言葉を発するとき、

暗い感じで言うのと明るい感じで言うのでは、

伝わるものが全然違ってくる。

暗い感じのときは「あの人キライ」という自分の気持ちを、

自分で(いけない)とか、そういう価値判断を持ったまま言っている・・と思う。

明るい感じのときは、そういう自分の気持ちについて、

(在るがままでいい)と無意識のうちに観ている・・・ということと思う。


(在るがままでいい)と無意識のうちに観ている、その境地は、

山岸さんの言う、無評価、無判断、の心の世界のことかなと思うよ。

こんなこと何度も書いたような気もするけど、

今朝のことも練習の一つでありました。

練習というからには練習だという自覚が要るな。