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ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

アダム・スミス

2012-11-10 18:21:09 | ひとの幸福
アダム・スミスといえば、「国富論」という言葉が自動的に浮かぶけど、

この人は哲学者でもあったらしい。無学な私は知らなかったけど、

「道徳感情論」という著作があって、その中で、

「観察力とは『人間の内部にいる者』で、

そのおかげで、自分の感情を外部から観察するように見ることができる。

自分の行為を検討しようとするとき、

わたしは自分を二人の人間に分ける。

検討し判断する『わたし』は、

行為を検討され判断される者としての『わたし』とは別人格である。

前者は観察者、後者は実行者で、こちらは『自分自身』と呼んでいいだろう。

この実行者の行為について、

観察者としてのわたしは何らかの見解をつくり上げる。

・・・このようにしてわたしたちは自分自身の行動の観察者となる。」

・・この文章を見つけたときは嬉しかった。

湯川博士の言葉から④で書いた観察者と実行者のことである。


湯川博士の言葉から ④

2012-11-10 18:00:25 | 量子力学と心
「・・・量子力学が単なる数学的体系でなく、

物理学的理論であるかぎり、どこかで私たちの経験世界と繋がっていなければならない。

私たちの経験する現象は巨視的である他ない。

私たちが微視的現象と称しているものも、実は何らかの方法によって巨視的現象に媒介せられ、

それによって現実の体験となる。

わたしたちは謂わば、「目に見えるもの」を通じて、「目に見えないもの」を知ろうとする。

量子的現象を取り扱う場合でも、

実験装置の主なる部分は古典論的(絶対論的)な機械に他ならない。

ただ、装置の一部に古典論では律し得ないような所があり、

そこで起こった量子論的現象が適当に拡大されて、

古典論的な部分に、目に見える変化を惹起する仕組みになっている。

『私が寒暖計によって室温を観測する』という例で考えると、

観測する側は私であり、される側は室温ということなのだが、

寒暖計も私から観測される側といえる。

寒暖計という古典論的な部分の変化によって、量子論的な対象の側の変化を推定しようとする。

観測する手段である装置の方の変化を現実には知る。」

・・これ、「存在の理法」だったか「目に見えないもの」だったか、忘れたんだけど、

湯川博士の本からの抜粋です。

本当に興味深い文章。この最後の4行で巨視的世界である人間界について考えてみると・・

「寒暖計も私から観測される側」・・この“私”は、

行為行動している何の何某という名を持つ「実行者」ではなく、

その実行者の意識を観察している「観察者」のことかと思う。

観察者から観察される側である“寒暖計”とは、

実行者の快不快というような気分のこととして考えてみる。

「量子的現象を取り扱う場合でも、実験装置の主なる部分は古典論的(絶対論的)な機械に他ならない」・・とある。

気分、機嫌というのは絶対論的かと思う。

ひとは辛い、苦しい、恐ろしい、寂しいというような気持ちの時は、

快適というより、不愉快感を感じるし、

明るく楽しい嬉しい気持ちの時は快感を感じるものだ。

それは絶対的である。辛い時や恐ろしく怯えている気持ちの時にひとはいい気分では絶対に居られない。

嬉しく楽しい気持ちの時に嫌な気分では絶対に居られない。

そういう意味で気分、機嫌というものは絶対論的と思う。

だからこそバロメーターになる。

『寒暖計という古典論的な部分の変化によって、

量子論的な対象の側の変化を推定しようとする。

観測する手段である装置の方の変化を現実には知る。』とは、

この仮説によるとどういうことか・・・というと、

絶対論的である実行者の気分というバロメーターの変化によって、

対象である相手の行為・行動の変化を推定できる、と言えるのではないかと思う。

相手を信頼できる人として捉えている・観ている・扱っている・・時には、

快適な気分でいる。・・・すると相手は信頼できる人として行為行動する。

相手に不信感を持って接している時・安心できない人として観ている時には、

快適な気分では居ない。・・・すると相手は安心できないと思わせるような行為行動をとる。

この事って「笑う門には福来る」という古臭い諺のようだ。

笑うとこうなる・・と云っている。

笑いというのは快適なものだ。


信頼できる人

2012-11-10 14:28:19 | 量子力学と心
世の中にこういうことがある・・・その人に何か相談する。

どうして他の人ではなくその人にそうするのかといえば、

その人を信頼できる人として観ているから。

その人を信頼できる人として扱っている。

ところがある日、その人が何かの事をしたらしいと聞いた。

それを聞いた人はそれきりその人には相談しなくなった。

その人を信頼できる人“として扱わなく”なった。

何か事をした、そのことの実際、実態をわかろうとせずに、

話を聞いただけで、その人は信頼できないとした・決めた。

別の人はその話を聞いたとき、あの人はそんな事をするわけがない、

本当にやったとしたら、何かのわけがあるに決まっている、と思った。

その人を信頼できる人として扱うことをやめなかった。

そうと扱うことで、事態は変わってくる。

松本サリン事件で容疑者とされた河野さんの講演会で聞いたけれども、

彼の周りの人で彼と接するまなざしが変わらない人が居たという。

彼を信頼するということがぶれなかった人がいたという。

その人が居たことで、いろいろ苦しいことも耐えられた、というようなことを彼は言っていた。

その例と違って、実際に罪となるような何かをしてしまった人でも、

周りが皆その人を信頼できる人として扱うことで、その人は信頼できる人になってゆく。


金スマ 東尾理子さん

2012-11-10 08:50:36 | テレビを見て
東尾理子さんが出ると新聞にあったので、昨夜「金スマ」を見た。

彼女が出ていた何かのテレビを見てから、理子さんていいなぁと思うようになった。

妊娠から出産前後をずーっとビデオで撮っていたよう。

最後の方でどんな子供に育てたいか?というような質問に彼女は、

自分の意志(意思?)がある子供に、という言葉を返していた。

彼女らしいなと思った。

人間は誰でも意志・意思があるものだけど、それを無いかのように暮らしている場合もあるので、

こういう発言になったのかと思った。

自分の意志・意思がある子供になるには、親や周りはどうしたらいいのか?

私も子供を産んだ時、常識に囚われない人になってほしいと願ったけれど、

どうしたらそれが実現するのかわからなかった。

そう思っただけの私だった。

理汰郎君(理子さんが産んだ子供)と接する時、

彼を意思・意志ある人“として扱う”ことによって、

彼は意思・意志ある人に“なる”のではないか。観測者効果である。

~として扱う・・ということは、彼に意思、意志が在るのだから、それを聴くということだろう。

彼のすること、言うことの表面的なことに囚われずに、

彼の意思、気持ちを受け取れる人に周りがなることかと思う。


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